「お言葉どおり、この身に成りますように」
イザヤ9:1~6
ルカ1:26~38
主日礼拝
牧師 井ノ川 勝
2023年4月23日
1.①今朝、初めて礼拝に出席された方もおられると思いますので、改めて紹介いたします。「100分で名著」というテレビ番組があります。4月より「新約聖書・福音書」が採り上げられています。解説されているのは、文学者の若松英輔さんです。カトリックの信仰に生きられている方です。テキストが出版されています。番組では採り上げられないことが、テキストでは書かれています。その中で、私の心に衝撃を与えたことが書かれていました。
「はじめに」という章で、詩人で音楽家の近藤宏一さんの言葉を紹介していました。近藤宏一さんはかつてハンセン病を患っていました。病のため視力や指の感覚を失っていました。目が不自由な方は点字で書物を読みます。指を使えない近藤さんは点字を読むことも出来ません。しかし、近藤さんは「どうしても聖書を読みたい」という内面からの強い促しに突き動かされて、舌で点字を読むという手段を取ります。点字には凹凸がありますから、やがて舌は傷ついて血まみれになります。それでも構わず読み続けます。近藤さんはその思いをこう綴っています。
「私は聖書をどうしても自分で読みたいと思った。しかしハンセンで病んだ私の手は指先の感覚がなく、点字の細かい点を探り当てる事は到底無理な事であったから、知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた。これは群馬県の栗生楽泉園(くりう・らくせんえん)の病友が始めたことで、私にも出来るに違いないという一縷の望みがあった。点字の聖書の紙面に舌先を触れて、直接神のことばを味わうのです」。
多くの方は思うでしょう。聖書の言葉は聞いても聞かなくてもよい言葉であると。しかし、近藤さんにとっては、聖書の言葉は自分の感覚が残っている舌先で味わわなければ、生きることの出来ない神の言葉であったのです。聖書の言葉は耳で聞いて理解するものではなく、舌先で味わって生きるものである。聖書の言葉が分かるとは頭で理解することではなく、舌先で味わい、私どもが生きている体で分かることです。これは近藤さんだけでなく、私ども一人一人に問われていることでもあります。主イエスが私どもにこう語られています。
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉を噛みしめて生きるのである」。
聖書の言葉は私どもが生きて行く上で欠かせない「いのちのパン」なのです。
東京神学大学の小友聡先生が、『絶望に寄り添う聖書の言葉』という本を書かれています。聖書の御言葉は絶望に取り囲まれて、闇の覆われた私どもに、光を灯す力を持っているのだと語りかけています。
②昨年のクリスマス、市民クリスマスが3年ぶりに対面で、北陸学院の栄光館で行われました。北陸学院の高校生がキリスト降誕劇を上演しました。キリスト降誕劇の一つ一つの場面が印象深い場面です。中でも、御使いガブリエルがマリアに現れた場面は、印象深い場面です。マリアが神の御子イエスを胎内に宿したことを告げた「受胎告知」と呼ばれる場面です。多くの画家が魂を込めて描いた場面です。自分たちの信仰にとって、欠くことの出来ない場面であったからです。
皆さんの中にも、教会学校で、キリスト教幼稚園、小学校で、キリスト降誕劇を行い、御使いをされた方、マリアをされた方がおられることと思います。御使いとマリアとが台詞を歌で言い表す。とても印象深い場面です。その御使いガブリアエルとマリアの台詞の元になった言葉が、この朝、私どもに与えられた御言葉です。
御使いは神から遣わされた天使で、神の言葉を届ける働きをする存在です。御使いはいろいろなことを語っていますが、その中心にある御言葉がこの言葉です。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は神の子と呼ばれる」。
マリアはこの言葉に喜び溢れたのではありませんでした。むしろ戸惑いを感じ、恐れを抱きました。何故、私が神の子を宿す女性に選ばれたのか。しかもこの神の子イエスに、マリアも属しているユダヤ人の救いが懸かっている。ユダヤ人の救いだけでなく、私ども全人類の救いが懸かっている。私はとてもそのような重大な責任を負うような存在ではない。私はふさわしい存在ではない。それがマリアの率直な思いでした。
2.①何故、マリアは神の子イエスを宿す女性として、神から選ばれたのでしょうか。マリアは他の女性と比べて信仰深かったとか、知性溢れる女性であったとか、美しかったとか、そのようなことは一切、聖書には書かれていません。カトリック教会では、マリアは神の子を宿した神の母として、特別な存在として崇められています。しかし、聖書にはマリアは特別な女性であったとは書かれていません。ガリラヤのナザレで生活していた、ごく普通の田舎娘であったのです。ドイツの地方の教会に行くと、マリアは結婚前の家の手伝いをする女性、井戸から水を汲んで来たり、田畑を耕したりするたくましい女性として絵に描かれたり、石碑に刻まれたりしているとのことです。
しかし、神はこのようなごく普通の田舎娘を、神の子イエスを宿す女性として選ばれたのです。無きに等しい者を敢えて選ばれる神の憐れみとしか言いようがありません。これは旧約、新約聖書に一貫して語られている神の憐れみの選びなのです。
神はマリアを神の子イエスを宿す女性として選ばれた。しかし、マリアは戸惑い、恐れて神の選びを受け入れることが出来ませんでした。神の子イエスを宿すことにより、平凡な人生が思いがけない困難な道へと導かれる恐れと不安がありました。そのようなマリアの恐れ、不安を受け止めて、御使いガブリエルは繰り返し、このような言葉を語られています。
「主があなたと共におられる」。「恐れることはない」。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。
あなた一人が神の子イエスを宿す責任と使命を負うのではない。神があなたを選ばれた以上、神が全力であなたを助ける。主がどんな時にもあなたと共にいて下さる。聖霊があなたに降り、あなたをどんな時にも包んで下さる。神の子イエスを宿したあなたの恐れも、不安も、苦しみも、聖霊が包み込んで下さる。
誠に、神は大胆なことをされる神です。神が私ども全人類を救う決断をされた時、ごく普通の田舎娘の胎内に、大切な神の子のいのちを授けるという道を取られたのです。権力、武力のある王の娘ではなく、何の権力も、武力もない、無防備な田舎娘に大切な神の子のいのちを預けられたのです。神の冒険とも言える誠に驚くべき出来事です。神の御子イエスは処女マリアに宿ることにより、真の人となられて生まれて来られたのです。私ども全人類を救う神の救いの御業はここから始まったのです。誰もが顧みなかったガリラヤのナザレという田舎で、人知れずに静かに始まりました。まことの神がまことの人となられた。神の救いの出来事が、マリアを通して起こったのです。
②御使いガブリエルとマリアの対話の中で、最も注目すべき言葉は最後のやり取りの言葉です。御使いは語ります。
「神にできないことは何一つない」。
マリアは答えます。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
神がマリアを招いている言葉です。わたしはあなたを用いて、救いの御業を行う。どうかわたしの救いの計画に、あなたも応じてほしい。わたしの招きに、どうか応えてほしい。それが最後のやり取りの言葉です。御使いガブリエルとマリアの対話の最高潮の言葉です。
「神にできないことは何一つない」。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
「神にできないことは何一つない」。元の言葉はこのように訳すことが出来ます。
「神においては、その語られたすべての言葉が、不可能になることはない」。
神が語られた言葉には力がある。阻もうとするどんな力にも打ち勝ち、可能として下さる。ここで強調されているのは、神の言葉の絶大さです。その言葉を受けて、マリアは応えるのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
言い換えればこういう言葉です。
「わたしは主のはしためです。あなたの言葉がわたしにおいて真実となりますように」。
神の子を宿すという神の約束の言葉が、わたしにおいて真実となりますように。マリアの信仰告白です。マリアの恐れ、不安が取り去られた訳ではありません。恐れと不安はそのままある。いや、むしろどんどん大きくなって行く。それを自分で抑えることなど出来ない。しかし、マリアは主の御言葉に全てを懸けたのです。主の御言葉にこそ、どんな力にも打ち勝つ力がある。その主の言葉を信頼し、委ねたのです。主のはしため、主の僕は、ひたすら主の言葉を信じて、主の言葉に従い、主の言葉に委ねるのです。それがマリアのこの信仰告白の言葉です。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
マリアからお生まれになった主イエスは、故郷ガリラヤで伝道を始められました。最初の弟子はガリラヤ湖の漁師であったシモン・ペトロでした。ルカ福音書5章で描かれている場面です。主イエスはシモンに語られました。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。シモンは答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。
人間の知識、経験からすれば、夜通し漁をし、一匹も魚が捕れなかった。昼間に網を降ろしても、魚が捕れるはずがない。しかし、人間の知識、経験に逆らって、「しかし、お言葉ですから」と、主イエスの言葉に懸ける、主の言葉に信頼し委ねてみる。その時、人間の想像を遙かに超える出来事が起こった。網が破れる程の魚が掛かった。更に、シモンが人間を採る漁師として召され、主にイエスに従う者とされる出来事が起こった。主イエスの言葉がシモンを回心させ、主イエスに従わせる出来事を起こした。
「しかし、お言葉ですから」。「しかし、あなたのお言葉のとおりに」。シモンのこの言葉こそ、マリアのこの信仰告白の言葉と響き合っています。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
3.①マリアは神の子イエスを宿す器として用いられました。これはマリアだけに起こった特別な出来事です。私どもはマリアの受胎告知の出来事に距離を置いていないでしょうか。自分とは掛け離れた出来事であると捕らえていないでしょうか。しかし、実は私どももマリアとなるのです。一体どういうことなのでしょうか。このルカ福音書を書いたルカは、伝道者パウロと共に、異邦人伝道に命を懸けた伝道者でした。伝道旅行をしながら、パウロにマリアの受胎告知の出来事を語り伝えたのではないでしょうか。パウロは最初、キリスト者を迫害するユダヤ教徒でしたが、甦られた主イエス・キリストに捕らえられ、キリストを伝える伝道者として召し出されました。そのパウロがこう語るのです。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
キリストがわたしに宿り、キリストがわたしの内に生きておられるのだと、パウロは語るのです。驚くべきことです。パウロもマリアとなったのです。私どもは洗礼を受けることにより、キリストを宿す器となるのです。パウロは土の器の中にキリストのいのちを宿すとも語りました。欠けだらけの土の器です。ひびが入った土の器です。汚れた土の器です。しかし、そのような土の器の中に、キリストが宿り、キリストが私どもの内に生きて下さるのです。
先週も、礼拝に出席出来ない高齢の教会員、病気の教会員のイースター訪問をしました。コロナのため、オンラインの画面越しで、窓越しでの対面でした。一人一人が以前訪問した時に比べ、見た目では老いています。体が細くなっています。小さくなっています。しかし、この方にもキリストが宿り、キリストがこの方の内に生きておられることを、霊もまなざしで見ることが出来ました。
キリストが私どもに宿り、私どもの内に生きておられる。私どももキリストを宿すマリアとされる。これは私ども一人一人に起こっている。しかし同時に、教会そのものがキリストを宿すマリアとされている。パウロの言葉で言えば、教会はキリストを宿すキリストの体とされているということです。キリストを宿すということは、キリストの言葉を宿すことでもあります。キリストの言葉を宿す器とされている。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とマリアの信仰告白に、私どもの声を合わせることです。「わたしは主のはしため。あなたの言葉が私どもにおいて真実となりますように」と教会全体が声を合わせることです。キリストの言葉を宿す器である私どもは、キリストの言葉の道具として用いられるのです。
本日礼拝後、教会総会が行われます。長老を選び、執事を選び、新しい年度の教会形成の方針を立て、伝道計画を立て、予算を立てて行きます。私どもの教会の新しい年度の歩みを導く信仰こそ、マリアの信仰告白なのです。
「わたしは主のはしため。あなたの言葉が私どもにおいて真実となりますように」。「わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身に成りますように」。
②今、地上の権力者は激しい覇権争いを繰り広げています。武力により他国を支配しようとしています。しかし、そのような中にあって、神の御支配が神の御子イエスによって始まったことを、御使いガブリエルは告げています。「御子の支配は終わることがない」。この御言葉は教会の大切な信仰を言い表す言葉となりました。御子キリストはマリアの胎内に宿る程に、小さくなられ、低きに降られた。そのようにして神の御支配を始めて下さったのです。神の御支配の下にあることを告げられたのです。
4.①山梨の勝沼教会で伝道されている伝道者に、船戸良隆牧師がおられます。80代後半の伝道者です。若き頃、日本キリスト教海外医療協力会の総主事をされ、東南アジア諸国で伝道されて来られました。43年ぶりに、80歳を超えてから伝道者として勝沼教会に遣わされました。勝沼教会の会堂建築のために、一昨年『我が国籍は天に在り~志の信仰に生きる~』という題の説教集を出版されました。その中に、2020年と2021年のコロナ禍、二年続けて東京神学大学の卒業礼拝で語られた説教があります。伝道者パウロが語ったフィリピの信徒への手紙2章13節の御言葉を説き明かした説教です。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。
文語訳聖書ではこう訳されていました。
「神は御心を成さんために汝らの衷にはたらき、汝等をして志望(こころざし)をたて、業を行はしめ給へばなり」。
伝道者船戸牧師の中心にある御言葉です。志の信仰です。自分の内から沸き起こった志ではなく、神が与えて下さった志です。そのため、神は御心を成さんために汝らの衷にはたらき、汝等をして志望(こころざし)をたて、業を行はしめ給へばなり。
志とはどのようなものか。船戸牧師は恩師・北森嘉蔵先生の言葉を紹介されます。
「ある時、渡り鳥が群れをなして北へ北へと飛んでおりました。ところがどうしたことか、そのうち一羽が群れからずっと遅れてしまいました。しかし、その遅れた一羽は、なおも、はるか離れた群れを追って懸命に北へ北へと飛び続けます。が、しばらく飛んで行くうちに精魂尽き果てたのでしょうか、ついにばったりと地に落ちてしまいました。幾日か過ぎました。その落ちた鳥の内臓にはウジが湧いてきました。ウジは内蔵を引き裂いて辺り一面に広がりました。ところがよく見ると、何とその一面に広がっていると思われたウジが、一筋になって北へ北へと懸命に這っているのです」。
何とも凄まじい話です。志とはこのようなものです。体は終果てても、望み、祈りはその方向へ進んで行く。東京神学大学の創立者・植村正久牧師は「信仰とは志なり」と語りました。信仰とは「いちず」であり、「ひたすら」であるということです。一途に、ひたすらに主の言葉に聴き従うことです。「わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身に成りますように」と祈り求めることです。
船戸牧師は最後に、神学生に向かってこう呼びかけます。
「私たちは時に、現在の自分が神の御計画、神の志、神の摂理の中にあるのだということを信じられなくなります。皆さんは志を立て、神学校に入学し、今、また志を持って教会に赴任されようとしています。しかし、教会に赴任し、10年、20年、いや生涯をかけて伝道に励んでも、『いわゆる』伝道の成果が上がらない、一人の受洗者も出ない、それどころか、高齢の方々が亡くなり、教会に集う方々が次第に少なくなっていくという現実に直面することがあるでしょう。眠れぬ夜が過ぎ、涙で枕を濡らす時もあるのです。しかしその時に思い出してください。自分の志ではなく、『神の志』があるということを。そこにこそ、伝道者が神によって『生かされて生きる』道があるのだということを」。
「神にできないことは何一つない」。「神においては、その語られたすべての言葉が、不可能になることはない」。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。「あなたの言葉がわたしにおいて真実となりますように」。ここに、神の子が人となってマリアに宿ることにより、神が全人類を救おうとされた神の志があります。そしてその神の志に生かされ生きる信仰があります。
お祈りいたします。
「マリアが恐れと戸惑いの中で、神の子イエスを宿した器と用いられたように、私どももキリストを宿す器として用いて下さい。私どもの中から湧き上がる志ではなく、神から託された志に生きさせて下さい。キリストを宿す私ども教会の歩みを、マリアの信仰によって導いて下さい。わたしは主のはしため、あなたの言葉がわたしどもにおいて真実となりますように。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。