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「イエスをキリストと呼ぼう」

イザヤ11:1~10
マルコ8:27~38

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年3月19日

00:00 / 43:56

1.①春は旅立ちの季節です。共に礼拝を捧げて来た若き魂が、金沢の地を離れ、新しい地で学びを始められます。その中には、教会学校の幼稚科、小学科の時から、共に礼拝を捧げて来た生徒もいます。送別の時に、しばしば、はなむけの言葉が語られます。「はなむけ」という言葉は面白い言葉です。旅立つ人の行くべき方向に、馬の鼻を向けて見送った習慣から生まれた言葉です。馬のように顔を前に向けて、真っ直ぐに走り抜いてほしいという願いを込めたのかもしれません。そこから「はなむけ」という言葉が生まれました。


 今、旅立とうする若者に、私どもは礼拝堂に馬を引っ張って来て、馬の鼻を向けることはしません。私どもにとって大切なお方は、主イエスです。今、この礼拝の真ん中に立っておられる主イエスです。主イエスの鼻、顔、まなざしです。旅立とうする若者の行くべき方向に、主イエスはどのようなまなざしを向けておられるのかが大切です。恐らく、主イエスは旅立つ若者に向かって、「はなむけの言葉」として、この御言葉を語られるのではないでしょうか。


「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。


 ここで主イエスが繰り返し語られているのは、「私どもの命」です。主イエスは私どもの命が失われることを願っておられません。私どもの命が救われることを願っておられます。あなたの命がどんなに重いか、それを誰よりも知っておられるのは、主イエスです。あなたの命は全世界よりも重いのだと語られています。驚くべき言葉です。


 私どもは様々なものを自分の手の中につかみ取りたいという欲望があります。その最たる欲望が、全世界を手に入れることです。今、世界の動きは、他国を侵略してでも自分の手の中に入れたいという欲望がぶつかり合っています。しかし、主イエスは語られます。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を失ったら、どんな代価を払って買い戻すことが出来るだろうか。


「代価を支払う」。面白い言葉です。「交換する」という意味です。交換するためには、同じ値うちを持っていなければなりません。同等の価値でないと、交換は成り立ちません。私どもの命と同等の重さ、値うちがあるものは、何でしょうか。全世界ではないと言うのです。あなたの命は全世界よりも重い、値うちがあると言われるのです。それでは、私どもの命と釣り合う重さ、値うちのあるものとは何でしょうか。主イエスはそのことを伝えるために、弟子たちに向かって、更に群衆に向かって、私どもに向かって、鼻を向けられた、顔を向けられ、まなざしを向けられて、御言葉を語られたのです。



②一昨日、CLCの書店の方が来られ、『本のひろば』という月刊誌を届けて下さいました。新しく出版された書物を紹介する月刊誌です。その最初の頁に、「本との出会い」というコーナーがあり、様々な方が本との出会いの思い出を綴っています。私も以前、書いたことがあります。今月号に、ある伝道者が本との出会いの思い出を綴っていました。自分が学んでいた大学に、歴史家の阿部謹也先生がおられた。その阿部謹也先生が書かれた本に、『自分のなかに歴史をよむ』があった。その本の中で、阿部先生自身が大学生の時、指導を受けた恩師のことを紹介していた。恩師からこう言われた。「それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すように」と言われた。素晴らしい言葉です.学問とは単なる知識を増やすことではない。少しばかり視野が広がることでもない。それをやらなければ生きて行けないテーマと出会うことです。自分自身が変えられ、自分の生き方が変えられることです。


 この書物を読んだ伝道者はこう語ります。それまで断片的に読んでいた聖書と改めて向き合ってみようと決心した。聖書を読んで行く内に、自分の中のささやかな歴史にも、神が生きて働いておられる、主イエスが生きて働いておられることを実感するようになった。この生ける神に、生ける主イエスに生かされて来たのだという実感でした。この生ける神、生ける主イエスとの出会いなくしては生きて行けないという実感でした。翌年、洗礼を受け、新たな自分の歴史が、神との出会い、主イエスとの出会いによって始まった。


 今、新しい旅立ちをする若い魂に、伝えたい言葉です。神と出会う、主イエスと出会うということは、それなくしては生きて行けないという大きな出会いなのです。主イエスがここで語られた御言葉も、私どもがそれなしには生きて行けない御言葉を語っておられるのです。



2.①今朝、私どもが聴いたマルコ福音書の御言葉は、マルコ福音書の丁度真ん中にあります。しかし、それだけではなく、主イエスの地上の歩みにおいて、一つの峠でもあります。山道を一歩一歩登って来て、漸く峠に辿り着く。自分が歩いて来た道のりが見える。今まで見えなかった景色が見えるようになります。峠に辿り着きますと、前方に、更に高い山が聳え立っているのが見えます。私どもが目指している山が見えて来ます。


 何故、この御言葉が主イエスの地上の歩みの峠なのでしょうか。ここで主イエスは弟子たちに向かって、初めて自らの旅が十字架を目指していることを告げられたからです。


 主イエスは弟子たちを連れて、フィリポ・カイサリア地方に向かわれました。主イエスが伝道をされて来たガリラヤの北の端にある町です。私もそこを訪ねたことがありますが、自然豊かな場所です。この地方で最も高いヘルモン山の雪解け水が溢れ、やがてヨルダン川に注がれ、人々を生かす水となります。私が訪れた時、ラビたちの子ども、律法学者の子どもがキャンプをしていました。主イエスも水と緑豊かな地で、弟子たちの教育、修養会をするために、この地を選ばれたのかもしれません。


 しかし、同時に、フィリポ・カイサリアという町は、その名前のごとく、権力者が支配する町でもありました。ローマ皇帝の寵愛を受けたヘロデ王の別荘があった場所でもあります。自分こそがメシア、政治的な王であることを誇っていた王でした。そのような場所を、主イエスが敢えて選ばれたのかもしれません。


 主イエスはこのフィリポ・カイサリア地方で、弟子たちに向かって問われました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。主イエスが弟子たちに向かって、「わたしは何者か」とあからさまに問われたのは、初めてのことでした。弟子たちは口々に答えます。「洗礼者ヨハネだ」と言う者もいます。「エリヤだ」と言う者もいます。「預言者の一人だ」と言う者もいます。そこで主イエスは再び問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。他の人がわたしのことをどう言おうが、それは構わない。大切なことは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。主イエスは弟子たち一人一人に向かって問われました。


 私どもが聖書と向き合った時、様々な疑問が生まれます。これはどうしてですか。これは何故ですか。様々な問いかけが生まれます。信仰とは神に問いかけて生きることでもあります。しかし、それ以上に大切なことは、聖書から問いかけられることです。主イエスから問いかけられることです。主イエスに問いかけられ、それにどう答えて生きるのかが問われているのです。その中心にある主イエスの問いかけが、この問いです。「あなたは、わたしを何者だと言うのか」。


 弟子を代表して、ペトロが答えました。「あなたは、メシアです」。「メシア」は旧約聖書の言葉、ヘブライ語です。新約聖書の言葉、ギリシャ語で言えば、「キリスト」です。日本語で言えば「救い主」です。「あなたはキリストです」。ここで初めて、主イエスに向かって、キリスト告白が生まれました。それ以来、教会に生きる私どもの信仰の礎となりました。「あなたこそキリストです」。「主イエスこそキリスト、私どもの救い主です」。


 ローマ皇帝や、ヘロデ王が、「われこそがメシア、政治的な王である」と誇る地で、「主イエスこそキリスト」と告白して生きる。それは信仰の闘いを伴う、信仰の告白でもありました。「あなたこそキリストです」と告白して生きることは、私どもの信仰を形造り、生き方を形造ることでもあります。「主イエスは誰なのか」を明確にすることは、「わたしは誰なのか」が明確にされることでもあります。私どもと真剣に向き合い、問いかける主イエスの問いかけに答えて生きることが、それなしには生きて行けないわたしの命を、わたしを形造ることであるのです。



②「メシア」という言葉は、政治的に厳しい日々を送っていたユダヤ人たちが、政治的な解放、民族の独立をもたらすために現れると期待していた政治的なメシアという意味が込められていました。それ故、ユダヤ人たちは「メシア」という言葉に、様々な思いを込めていました。もしかしたらペトロも、政治的な解放者、民族の独立をもたらすメシアという意味で、「あなたこそメシアです」と告白したのかもしれません。ペトロの信仰告白に対して、主イエスはどのように答えられたのでしょうか。


「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、弟子たちに教え始め、はっきりとお話になられた。


 ここで注目してほしいことがあります。ペトロは「あなたはメシアです」と答えられた。それを受けて主イエスは、「メシアは、キリストは」とは語っておられない。「人の子は」と語っておられます。主イエス御自身が自らを「メシア、キリスト」と呼ばれたことはありません。「人の子」と呼ばれた。「人の子」は、旧約聖書のダニエル書にありますように、終わりの日に現れる救い主という意味です。何故、主イエスは御自分を「メシア、キリスト」と呼ぶのを避けたのでしょうか。やはりユダヤ人たちの中に、様々なメシア理解、キリスト理解があったからです。それと重なり合うことを避けられたと思います。それ故、「人の子」という言葉を用いられた。ここで主イエスははっきりと、わたしは何者なのかを明らかにされました。わたしはどのような救い主なのかを明らかにされました。


「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。


 主イエスはここで、わたしは政治的な解放をもたらすメシア、民族の独立をもたらす支配的な王ではなく、十字架に向かうメシア、どこまでも低きに降られ、仕えられるキリストであることをはっきりと告げられました。



3.①この時、ペトロは主イエスを脇へお連れして、いさめ始めました。主イエスが十字架へ向かわれることを拒もうとされました。しかし、主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って語られました。


「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。


 厳しい言葉です。十字架の道を歩まれる主イエスを阻むことは、サタンの仕業だと断言されるのです。それは神のことを思わず、人間の思いだと言うのです。ペトロにすれば、自分のしていることこそ神の思いだとの確信があったことでしょう。しかし、主イエスから見れば、それはサタンの業、神の思いを軽んじていることだと言われるのです。私どもの日々の信仰的な決断もまた問われます。神のことを思っての決断なのか。人間のことを思っての決断なのか。サタンの仕業になっていないか。主イエスは絶えず問いかけておられます。


 主イエスはペトロに語られた。「引き下がれ」。これは私から離れよという意味ではありません。私の後ろに廻りなさいという意味です。十字架へ向かうわたしの前に立つな。わたしの後ろに廻りなさい。あなたが立つべき場所は、わたしの後ろだ。その時、弟子たちだけでなく、群衆をも呼び寄せて語られた言葉が、この言葉でした。


「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。


 「わたしの後に従う」という言葉が、「引き下がれ」「後ろに廻れ」という言葉と同じ言葉です。この御言葉から、加藤常昭牧師の「主イエスの背を見つめて」という説教が生まれました。主イエスに従うということは、主イエスの背を見つめながら歩むことです。主イエスの背に負われた十字架の傷、それが何故、私のための傷であったのかを問いながら歩むようになります。それは自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従う歩みとなります。そして説教の冒頭で紹介した主イエスの言葉が続くのです。


「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払いようか」。


 主イエスのために自分の命を捨てる。自分の命を献げることは、自分が真実に生かされる道であるのです。何故ならば、主イエスは私のために、十字架でいのちを献げて下さったからです。あの主イエスの十字架の出来事は、私どもに語りかけているのです。あなたの命は全世界よりも重く、値うちがある。あなたの命は、十字架であなたのためにいのちを献げられた主イエスのいのち、神の御子のいのちと釣り合う重さ、値うちがある。驚くべき出来事が十字架で起こったのです。



②最近、出版された本に、『なぜ君は笑顔でいられたの?~福本峻平、神と人とに愛されたその生涯~』があります。福本峻平さんが33歳で逝去された後、出版されました。福本さんは先天性大脳白質形成不全症という稀少難病に15歳の時に罹りました。全身の筋力が次第に麻痺し、体の自由が利かなくなる過酷な病です。福本さんは聖学院中学校に入学し、礼拝レポートの課題のため、常盤台バプテスト教会の教会学校に出席するようになりました。聖学院高校へ進学しましたが、高校卒業時には車椅子の生活となりました。しかし、15歳で発病した高校生の時、洗礼を受けられ、青山学院大学に入学され、先生や友人、キリスト教学生会の仲間に支えられながら、学びを続けられました。大学卒業後は、教会事務職員となり、地上の生の限りは、主から託された「命を使う」歩みを喜んで貫かれました。


 主イエスに従うことは、主のために喜んで命を使うこと。主イエスが私のために、十字架でいのちを献げて下さった御子のいのちに、私の命が生かされているからです。御子のいのちと釣り合う同じ重さと値うちを持った命を、主のため使うこと喜びとしました。「なぜ君は笑顔でいられたの」。本の題名である問いかけは、そこに秘密がありました。福本さんが作詞した讃美歌があります。


「今こそ主、求めよ 今こそ主、求めよ


 主イエスの 御救い 今こそ主、求めよ」。


「今こそ主、求めよ」という言葉が繰り返されています。福本さんの私どもへの祈りです。「今こそ主、求めよ」は、「今こそ主を呼ぼう」と言い換えることが出来ます。「今こそ主イエスを、キリストと呼ぼう、私の救い主と呼ぼう」。私どもが主イエスをキリストと呼ぶ時、私どもは主イエス・キリストによって、喜びの時も悲しみの時も、健やかであっても病んでいても、生きる時も死ぬ時も、キリストの者とされているのです。



4.①私どもは今、受難節の歩みをしています。主イエスの御受難を覚える時を過ごしています。受難節の40日を経て、主イエス・キリストが死人の中から甦られた復活祭を迎えることになります。私はイースターを迎えようとするこの季節に、思い起こすことがあります。私が洗礼を受けた母教会は渋谷区富ヶ谷にあります。イースター礼拝に、母親と中学1年生の娘さんが洗礼を受けられました。父親も礼拝に出席されていましたが、その時は一緒に洗礼を受けられませんでした。その母親が教会の会報に、洗礼を受けてという文章を書かれました。印象深かったのは、その受洗の記の中で、29歳で肺結核で逝去された八木重吉の詩を引用されたことです。自分の思うは、八木重吉のこの詩と重なり合うと綴られていました。「解決」という題の詩です。


「基督が解決しておいてくれたのです


 ただ彼の中へはいればいい


 彼につれられてゆけばいい



 何の疑いもなく


 こんな者でも


 たしかに救って下さると信ずれば


 ただあり難し


 生きる張合いがしぜんとわいてくる」


 この母親には息子さんがいました。しかし、親の過失で、幼くして命を亡くしました。親として後悔と、自責の念と、罪悪感にさいなまれて苦しい日々を歩んで来ました。自分たちの手ではどうすることも出来ない後悔、自責の念、罪悪感です。しかし、主イエス・キリストが十字架で、私どもが負えない後悔も、自責の念も、罪悪感も負うて下さった。キリストがあの十字架の上で解決して下さった。ただキリストの中へ入ればいい、キリストに連れられて行けばいい。


 実は私が持っている『定本 八木重吉詩集』では、「解決」という詩の前に、「称名」、名を称えるという詩があります。この二つの詩が響き合っているのです。


「わからなくなった時は


 耶蘇の名を呼びつづけます


 私はいつもあなたの名を呼んでいたい」


 私どもの人生には分からないことがいっぱいある。しかし、その時、主イエスの名を呼び続ける。主イエスよ、あなたは私どものキリストですね。救い主ですね。


 洗礼を受けられた母親は、八木重吉の「解決」の詩を引用された後、主イエスのこの言葉を綴っていました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。


 主イエスの後に従う。それは自分の十字架を背負って従うことです。この方の後悔、自責の念、罪悪感は生涯なくなることはない。それに苦しむ。しかし、主イエス・キリストの十字架に背負われて、自分の十字架を背負って、主イエスに従って行く決意をされ、洗礼を受けられたのです。



②この朝、主イエスは私どもに向かって語りかけておられます。


「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。


 私どもが金沢教会で信仰の歩みを行う時、主イエスから私ども金沢教会に託された自分たちの十字架を背負って、主イエスに従うことが求められています。負いきれない自分たちの十字架です。しかし、主イエス・キリストが負えない重荷はない。主イエス・キリストの十字架に背負われて、私ども金沢教会に託された自分たちの十字架を皆で背負って、喜んで主イエスに従って行くのです。



 お祈りいたします。


「主イエスが今朝も、私どもに呼びかけています。わたしに従いなさい。いろいろな理由を付けて拒む私どもです。自分の思いを主イエスの前に優先させてしまう私どもです。主イエスの後ろに廻り、主イエスの背を見つめながら歩ませて下さい。主イエスが負われた十字架の傷が私どものためであったことを知らせて下さい。主イエスが私どもの後悔も、自責の念も、罪悪感も、罪も、全て十字架で負われた重さを受け止めさせて下さい。私どものために十字架で、御自分のいのちを献げられた主イエスのいのちの重さを味わわせて下さい。私どもも主のために、自分の命を使う喜びに生きさせて下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。


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