「キリストの死は誰のためなのか」
詩編88:2~19
マタイ27:57~66
主日礼拝
井ノ川 勝
2023年6月18日
1.①私は金沢教会に赴任する前、伊勢の山田教会で30年間、伝道・牧会をしていました。そこで与えられた恵みを一つ一つ数えることが出来ます。しかし、それ以上に、伝道・牧会の数え切れない失敗、挫折、後悔を、今でも想い起こします。中でも忘れることの出来ないことがあります。
心の病を抱えた女性が津から伊勢まで1時間かけて通われ、熱心に求道生活をされました。やがて洗礼を受けられました。主から与えられた喜びの内に、教会生活を始められました。ところが数年後、様々な出来事があり、礼拝に姿が見られなくなりました。手紙や電話を通して、心の状態が良くないことを伝えて来られました。久しぶりに祈祷会に姿を現されました。祈祷会では、旧約聖書の雅歌の学びをしていました。聖書の中では珍しく男女の愛を綴った御言葉です。恋愛歌です。何故、このような恋愛歌が聖書に納められているのか、不思議に思うような御言葉です。男女の愛を通して、神さまと私どもの愛を言い表しているのです。私どもキリスト教会の信仰で言えば、主イエスと私どもの愛を表していると言えます。
ところが、雅歌の御言葉を聞かれたこの方は、寂しそうな後ろ姿で帰って行かれました。今でもその後ろ姿が甦って来ます。その数週間後、自ら命を絶ちました。恐らく、最後にもう一度、御言葉に触れたい。御言葉から慰めを受けたいと切望されていたのでしょう。しかし、私が解き明かした御言葉は、その方の心に響かなかった。病んだ心を慰める言葉とはならなかったのです。雅歌が語る神の愛、雅歌が指し示すキリストの愛は、死に打ち勝つ愛なのだ。あなたのそのような神の愛、キリストの愛に捕まえられているのだ。聖書の御言葉は死と向き合う現実の中で生まれた御言葉であるからこそ、私どもを生かすいのちの言葉となる。何故、このことをもっと強く、確信をもって語らなかったのか。今でも後悔しています。そして改めて思いました。私どもが聖書の御言葉に触れる。それは一期一会の出来事であると。私どもは日々、死と向き合いながら生きています。いつ死を迎えるか分かりません。従って、私どもが御言葉に触れる時、いつも、これが人生最後に味わう御言葉になるかもしれない。そのような思いをもって、私どもは御言葉を語り、御言葉に聴き、御言葉に触れるのです。
②聖書は誠に、大部の書物です。これを読みこなすことは、大変なことです。しかし実は、聖書の方から私どもに語りかけているのです。これこそが、あなたへのメッセージであると語りかけているのです。そのメッセージとは何でしょうか。聖書の福音をぎゅうっと凝縮した文章が、この朝、私どもが御一緒に唱えた「使徒信条」です。全てのキリスト教会の土台にある信仰告白です。その中心にあるのが、主イエス・キリストへの信仰です。主イエス・キリストは一体何者であるのか。主イエス・キリストは私どものために、何をなされたのか、が語られています。皆さんはいつもどのような思いで、主イエス・キリストの項目を唱えておられるでしょうか。私はいつも不思議な思いで唱えています。
ここには、主イエスが地上の生涯を通じ、豊かな御言葉を語られたとか、素晴らしい御業を行われたことは、一切語られていません。ただ一つ集中して語られていることは、主イエスは死なれたということです。
「主イエス・キリストは、十字架につけられ、死にて、葬られ、陰府に降り」。
主イエスは十字架につけられて、死なれたことが、4つの言葉で丁寧に語られ、強調されています。将に、主イエスは十字架で死なれるために、お生まれになられたことが強調されています。神が人となられて何をされたのか。十字架で死なれるためであった。私どもが信じている救い主は、十字架で死なれた救い主であった。他の宗教、信仰では、このようなことは語らないでしょう。私ども信じている神は死なない。私どもは信じている救い主は、十字架につけられて死ぬような救い主ではない。恐らく、そのように語るでしょう。ところが、聖書は、使徒信条は、主イエスは十字架につけられ、死なれた救い主であることを強調するのです。しかも、主イエスは何故、十字架につけられ、死なれたのでしょうか。それは私どものため、あなたのためであったのです。
2.①「使徒信条」は告白します。主イエスは「死にて葬られ」。主イエスが十字架で死なれたことと、葬られたこととが一つになって語られています。
ある方は語ります。「ここで主イエスと私どもとは一つにされる」。一体どういうことでしょうか。「使徒信条」はこれまで、主イエスの地上の歩みを、こう語って来ました。
「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」。
これは主イエスだけが辿られた地上の歩みです。私どもの誰も、経験出来ない地上の歩みです。ところが、主イエスは死にて葬られ。これは私どもの誰もが経験することです。私どももやがて死んで、墓に葬られます。しかし、主イエスも私どもに先立って死んで、墓に葬られました。死んで葬られることにおいて、主イエスと私どもとは一つにされるのです。
死は誠に孤独です。愛する母であっても、愛する妻であっても、愛するわが子であっても、私が代わって死ぬことは出来ません。一緒に死ぬことも出来ません。一緒に葬られることも出来ないのです。しかし、主イエスが私どもに先立って死んで葬られたことによって、死は孤独ではなくなりました。私どもの家族が死んで葬られる時、私どもが死んで葬られる時、主イエスも私どもと一つになって下さる。主イエスは私どものために死んで葬られたからです。私どもがひとりぼっちで死んで葬られることはなくなったのです。死んで葬られるという最も厳しい出来事においても、主イエスは私どもと共におられるのです。
私どもの教会は、11月の第一主日礼拝を、逝去者記念礼拝として捧げています。共に礼拝を捧げ、逝去された信仰の先達、仲間、家族を覚えて、ご遺族と共に礼拝を捧げています。そして礼拝後、野田山の教会墓地で、墓前礼拝を捧げます。実に多くの信仰の先達、仲間、家族が、教会の墓に葬られています。また、その年に逝去された教会員の納骨を行います。それを見ながら、やがて私どもも死んで、教会の墓に葬られるのだ、との思いを強くします。そして私どもが死んで葬られることにおいて、主イエスは私どもと一つになられたのだ、との思いを新たにいたします。
②この朝、私どもに与えられた御言葉は、主イエスの埋葬の場面です。新約聖書には、主イエスの地上の歩みを綴った4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書です。その4つの全ての福音書が、主イエスの十字架の場面と、主イエスの埋葬の場面とを書き留めています。十字架の場面だけでなく、主イエスの埋葬の場面も、私どもの信仰にとって、とても大切な出来事であったと受け留めたからです。
主イエスが十字架につけられ、死なれたのは、金曜日の午後3時でした。ユダヤでは日没とともに、新しい一日が始まります。金曜日の日没は、土曜日、安息日の始まりでした。ユダヤの律法に、このような戒めがありました。「木にかけられた者は、神に呪われたものである。従って、死体を木にかけたままで夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。あなたの神、主が与えられた大地まで汚れてしまうからである」。
主イエスは十字架で神から見捨てられ、神から呪われた死を遂げられました。一体誰が、神に呪われた死体を十字架から取り下ろし、墓に葬ることをするでしょうか。誰もしたくない仕事です。もし誰も主イエスの死体を十字架から取り下ろさなければ、十字架の上で野ざらしのままでした。野鳥に食いちぎられるだけです。
しかし、ここで驚くべきことが起こりました。ユダヤの議員で、アリマタヤ出身のヨセフが、裁判官であったピラトの下へ行き、主イエスの遺体を引き取りたいと申し出たのです。日没まで時間はありませんでした。一刻も早く、主イエスの御遺体を葬らなければなりませんでした。決断を迫られることでした。もしアリマタヤのヨセフが勇気を出して、ピラトに申し出なければ、主イエスのご遺体は十字架でさらしものにされたままでした。私はヨセフの手を取って、「アリマタヤのヨセフさん、どうもありがとう」と感謝したい思いです。
ヨセフは主イエスのご遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、自分のために用意していた新しい墓に納め、墓の入口を大きな石で塞ぎました。ユダヤのお墓は、岩をくり抜いた洞窟に遺体を置き、入口を大きな石で塞ぐ墓でした。ヨセフはとても丁寧に、主イエスの御遺体を扱い、墓に葬りました。しかも自分のために用意した、まだ誰も葬ったことのない、新しい墓でした。その新しい墓に、十字架で神から見捨てられ、神の呪いを受けて死なれた主イエスの御遺体を安置しました。新しい自分の墓が神の呪いで覆われてしまう。自分もまた死んで、主イエスの御遺体に並べられて、葬られる。自分もまた神の呪いを受けて葬られる。ユダヤの仲間は皆、そのように忠告したことでしょう。しかし、ヨセフはそのような恐れに生きていませんでした。
主イエスの葬りは、ヨセフたった一人でなされました。そこには主イエスの弟子もいなかった。主イエスに従って来たユダヤ人の誰もいませんでした。十字架につけられた主イエスを遠くから見守っていたマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母の3人の女性は、墓に近づくことも出来なかったことでしょう。誠に寂しい葬りでした。ヨセフは何故、主イエスの御遺体を十字架から取り下ろし、自分の新しい墓に葬ったのでしょうか。
3.①その理由はただ一つ。「この人もイエスの弟子であった」と記されています。主イエスの隠れた弟子であったということです。ヨセフはユダヤの議員です。主イエスを十字架に引き渡す判決を下した議員の一人です。そのヨセフが何故、主イエスの隠れた弟子となったのでしょうか。主イエスは十字架の上で、大きな声で叫ばれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
十字架の下にいたユダヤ人も、ローマ人も、主イエスは神から見捨てられ、神に呪われて、絶望の叫びを上げて、死んだのだ、と受け留めました。やはり主イエスは、われわれが期待していた救い主ではなかったのだ、と受け留めました。しかし、ヨセフだけは異なった思いで受け留めた。主イエスは私どもに代わって、十字架で神から見捨てられ、神に呪われて死んで下さったのだと。十字架の主イエスこそ、真の神の子、救い主の姿を見た。それ故、主イエスの埋葬の場面だけに登場するヨセフにとって、主イエスの葬りは、ヨセフの主イエスへの信仰の告白でもあったのです。
私もやがて死ぬ。自分が用意した墓に葬られる。しかし、私はひとりぼっちの死を死ぬのではない。ひとりぼっちで墓に葬られるのではない。主イエスと一つになって死に、主イエスと共に、主イエスの御遺体と並べられて葬られるのだと。
先週、ある説教者の説教を読んでいましたら、このような言葉が心に迫って来ました。
「国民を守ると宣言している国家が、私ども国民のために犠牲となって死ぬだろうか。国民の命を守ると宣言している国家の指導者が、私ども国民に代わって死んでくれるだろうか。私どもに代わって、私どものために犠牲となって死んで下さったのは、ただ一人。十字架で死なれた主イエス以外にはおられない」。
ヨセフの同僚、ユダヤの議員の仲間は驚いたことでしょう。十字架で神から見捨てられ、神に呪われた主イエスの遺体を、あなたの新しい墓に葬ったら、あなたの墓は呪いで覆われる。死の臭い、滅びの臭いで溢れる。そんな墓に、あなたも葬られたくはないでしょう。
しかし、主イエスが十字架で死なれ、葬られたことにより、私どもの死の意味、墓の意味が決定的に変わりました。私どもは死んで葬られ、暗黒の中で眠るのではない。死の臭い、滅びの臭いに覆われて眠るのではない。主イエスと一つになって死んで葬られる。それ故、私どもの死も、私どもの葬りの墓も、キリストのいのちの香りに覆われるのです。
②この朝、聴いた旧約聖書の御言葉は、詩編88編です。旧約924頁。この詩編は暗黒の詩編と呼ばれています。何の光も、望みも見られない絶望の叫びの詩編です。このような言葉で結ばれています。
「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」。
詩人は神に向かって叫んでいます。
「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます。穴に下る者のうちに数えられ、力を失った者とされ、汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。あなたは地の底の穴にわたしを置かれます。影に閉ざされた所、暗黒の地に」。
更に、詩人は暗黒の中で、叫び声を上げます。
「苦悩に目は衰え、来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び、あなたに向かって手を広げています。あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がって、あなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが、語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が、忘却の地で恵みの御業が、告げ知らされたりするでしょうか」。
私は繰り返し、この詩編を口ずさみながら、はっと思いました。詩編88編の暗黒の叫びは、十字架の主イエスの叫びと重なり合うのだと。主イエスが十字架で神から見捨てられ、暗黒の地に、ただ一人立たれ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、墓に葬られたことにより、私どもはもはや神から見捨てられて死ぬことはなくなった。神から呪われて葬られることはなくなったのです。人間の目から見れば、どんなに悲惨な死であったとしても、主イエスと一つになって、主イエスと共に死に、葬られるのです。それだからこそ、私どもは葬儀においても、墓の前でも、神をほめたたえるのです。
「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさった。死霊が起き上がって、あなたに感謝を捧げた。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが、語られた。闇の中で驚くべき御業が、忘却の地で恵みの御業が、告げ知らされた」。
暗黒の地が主イエスの死と葬りにより、祝福と変えられた。
4.①説教の中で、度々紹介する書物があります。最相葉月(さいしょう・はずき)さんが編集された『証しー日本のキリスト者』です。135名のキリスト者の証しの言葉が綴られています。現代、日本において、何故、神を信じるのか。キリスト者として生きるのか。キリスト者でない最相葉月さんが編集されました。その中に、大学の女性研究者の証しがあります。激しい証しです。
この女性の息子さんはダウン症で生まれました。ダウン症だと分かった時、キリスト者の叔母からこう言われました。「神さまが授けてくれた子どもだから大事に育てなさい」。夫の転勤で、山梨に引っ越しをし、甲府の教会に息子さんを連れて出席をするようになりました。その後、息子さんが形質細胞性白血病と診断された。その時、真っ先に考えたことは、この子にはもう春は来ないかもしれない、桜が咲く頃まで生きられないかもしれない。次に考えたのがお墓でした。この子が亡くなったら、お墓はどうなるのだろう。牧師に相談に行った。そうしたら牧師はこう言われた。「息子さん、洗礼を受けられたらどうですか」。お葬式のことだけを考えていたので、ああ、洗礼を受けてもいいんだ、知的障害があっても、洗礼を受けられるんだと思った。イースターの日、外出許可をもらい、牧師と役員二人で、洗礼式を挙げていただいた。その後、パンとぶどう酒の聖餐に与った。息子は言った。「ああ、生き返った!」。
息子は日曜日になると、「おれの病気が治るように教会で祈ってきてよ」。「教会に行ってこいよ」と言った。息子は37歳で逝去した。10日後、東京オリンピックの聖化ランナーに決まったとの連絡があった。
息子さんを火葬にして連れ帰って、次の日に動けなくなった。精神科病院に入院した。牧師や教会の方から、「息子さんは天国で楽しく暮らしているとか、空の上からみんなを見てくれているとか」慰めてくれる。しかし、私にはそんな慰めは絵空事にしか聞こえない。当たり散らすようなメールを牧師に書いた。また怒りに任せて短歌を詠んだ。
「命より、大切なもの、あるなんて、わたしの前で言ってみろ、イエス」。
富士山が見える教会墓地に、息子さんの名前が刻まれている。墓碑に「神を喜ぶ」と刻まれている。何故、墓碑に「神を喜ぶ」と刻んだのか、私には分からない。今度、教会に行ったら聞いてみよう。
息子さんの死に直面し、安価な慰めなど受け容れられない。神に反発し、牧師に反発しながらも、帰る場所は教会。恐らく、この方も、主イエスが十字架でわたしたちのために死に、葬られた。その出来事の意味をひたすら問い続けているのではないだろうか。
②私どもはしばしば死への憧れを持ちます。死んだら今の苦しみから逃れられる。楽になれる。死への誘惑に駆られます。しかし、神から見捨てられた死がどんなにか恐ろしいものか。主イエスはただ一人、十字架の上で身をもって味わい尽くされたのです。死への誘惑に打ち勝つ愛が、ここにあります。私どもが経験するどんな死も、葬りも、主イエス・キリストが私どもと一つになり、共にいて下さるいのちの源が、十字架で死なれ、葬られた主イエス・キリストにあるのです。それ故、私どもは葬儀にあっても、墓地の前であっても、神を喜ぶ、神をほめたたえることが出来るのです。
お祈りいたします。
「死の大波が私どもの命を呑み込みます。暗黒の闇が私どもの命を覆います。しかし、真実に暗黒の闇に立たれたのは、十字架の主イエスのみです。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかと、神から見捨てられ、神に呪われた死を味わわれたのは、十字架の主イエス、ただ一人です。それだからこそ、十字架の主イエスに執り成され、私どもは主と共に生き、主と共に死に、主と共に葬られるのです。どんな闇に覆われても、主イエスと共に神を喜び、神をほめたたえる賛美を、私どもの唇に授けて下さい。
今、涙を流している者、悲しんでいる者、絶望の中にある者を、主よ、どうか御手をもって捕らえて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。