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「主イエスの名によって生きる」

イザヤ9:1~6
マタイ1:18~25

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年3月12日

00:00 / 43:28

1.①私どもが誕生した時に、名前が与えられました。父、母が祈りながら付けて下さった名前です。命が与えられるということは、名前が与えられることでもあります。私どもは自分の名前と出会うことから、人生が始まります。母が、父が、顔を寄せて、何度も呼びかけます。「まさる、まさる」。赤ちゃんは段々気づくようになります。「ああ、わたしはまさるという名前なのか」。


 私が以前、伝道・牧会していた教会には幼稚園がありました。園児たちの楽しみにしていた行事の一つが、お誕生会でした。その日は、お母さんも出席します。食事会の前に、皆で、『子どもさんびか』を歌います。


「生まれる前から、神さまに、守られてきた、友だちの


 たんじょう日です、おめでとう。


 生まれて今日まで、みんなから、愛されてきた、友だちの


 たんじょう日です、おめでとう」。


 そして誕生日を迎えた園児が自己紹介します。ちょっぴり恥ずかしそうに、ちょっぴり誇らしげに。「いのかわ まさるです。3歳になりました」。


神さまから命が与えられたということは、名前が与えられたことなのだ、ということを知るのです。


 私どもが神さまから与えられた命を喜んで生きるということは、私に与えられた名前を喜んで生きるということです。皆さんは自分の名を喜んで生きていますか。自分の名と仲が悪くなっていませんか。自分の名を否定したり、消そうとしていませんか。



②聖書を読んで気づかされることがあります。聖書には実に、多くの名を持った人物が登場しまし。しかも、この名前にはこういう意味があるのだと紹介しています。それだけに、聖書は名を持って生きるということを、とても大切にしているということです。


 私どもの人生において決定的に重大なことは、名が与えられたことです。命が与えられたことは、名が与えられたことです。しかし、私どもが真実に自分の名を喜んで生きるためには、もう一つの決定的な出来事で出会うということです。それが主イエスとの出会いです。イエスという名との出会いです。主イエスと出会う、イエスという名と出会うということは、私どもが洗礼を受けるということです。これは私どもの人生において、決定的な重大な出来事です。洗礼は第二の誕生の出来事と言われます。キリストのいのちに与り、新しいいのちに生きることです。それ故、カトリック教会や聖公会では、洗礼名が与えられます。マリア、ペトロ、パウロ。しかし、私どもの教会には洗礼名はありません。しかし、私どもの教会には特別な名が与えられます。キリスト者、キリストの者。これに優る洗礼名はありません。キリスト者いのかわ まさる。いのかわ まさる、キリストの者。イエスという名と出会うことにより、私の名に新しい命が注がれます。そこでこそ、私が私の名を受け止め直し、喜んで私の名を生き、私らしく生きることが出来るのです。



2.①宗教改革者ルターは、しばしば悪魔の誘惑を受けました。悪魔を恐れました。悪魔の誘惑を受けた時、ルターが必ずしたことがあります。主イエスの名を呼ぶことです。「主イエスよ、主イエスよ」。そして、「私は主イエスの者、主イエスの名によって洗礼を受けた者だ」。主イエスの名を呼ぶと、悪魔が逃げ去って行ったというのです。それ故、ルターは、悪魔の誘惑や、様々な試練に直面している教会員に語りました。「主イエスの名を呼ぼう。私は主イエスの名によって洗礼を受けた者。主イエスの者だ。そのように語りかけたらよい」。


 ルターは主イエスの名を、このように説教しています。主イエスの名ほど、大きいものはない。豊かなものはない。私どもがどんなに言葉を連ねても、主イエスの名に込められた豊かな恵みを語り尽くすことは出来ない。主イエスの名は世界の全ての人を包み込む大きな名だからである。


 この朝、私どもが聴いた御言葉は、マタイによる福音書1章18節以下です。ここには、主イエス・キリストの誕生の出来事、クリスマスの物語が語られています。皆さんが親しんでいる御言葉の一つです。しかし、改めてこの御言葉を注意深く読みますと、主イエスが一体どのように誕生されたのかは語られていません。ここで語られていることは、ただ一つのことです。救い主としてお生まれになった男の子に、「イエス」という名を付けたということです。クリスマスの出来事は、イエスという名が命名された出来事であった。これが決定的に重大な出来事であったと語っているのです。


 ヨセフはマリアと婚約していました。結婚の日を待ち望んでいました。ところが、思いがけない噂が飛び込んで来ました。マリアが子どもを身ごもったという知らせです。ヨセフは疑いと不信を抱き、悩み、苦しみます。そして密かに離縁しようと決心しました。ところが、夢の中で天使が現れ、ヨセフに語りました。


「ヨセフ、恐れずマリアを妻として迎え入れない。マリアの胎の子は聖霊によって宿った。マリアは男の子を産む、その名をイエスと名付けなさい」。


イエスという名はヨセフが付けた名ではなく、神が命名された名です。しかし、イエスという名は、いかにも神の子らしい、それを聞いたらすぐに神の子と分かるような珍しい名ではありませんでした。ごくごく普通の名でした。ユダヤ人の男の子に、よく付けられた名でした。旧約聖書の言葉で言えばヨシュア、新約聖書の言葉で言えばイエスです。「主こそわが救い」という意味です。ユダヤ人の家に、漸く待ち望んでいた跡取り息子が生まれた。その時、両親は「主がわれわれを顧みて下さった。主が憐れみを注いで下さった」と感謝の祈りを主に捧げました。そこから生まれた名が、ヨシュア、イエス、主はわが救いという名でした。


救い主がイエスというごくごく普通の名を付けられた。ここに大切な信仰がありました。神の子は私どもと同じ人間となって、お生まれになられた。まことの神がまことの人となって下さった。



②しかし他方で、イエスという名に、特別な意味が込められていました。この福音書を書きましたマタイは、預言者イザヤの言葉を思い起こしました。今朝、聴いたイザヤ書9章のクリスマス預言のすぐ前に語られていた、同じクリスマス預言です。7章14節です。


「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。


 イエスという名と、インマヌエルという名の二つの名があるのではありません。イエスという名に、インマヌエルという意味が込められているということです。インマヌエル、それは「神、われらと共にいます」という意味です。


 救い主が私どもと同じ人間となって、お生まれになられた。私どもが経験するあらゆる苦しみ、悲しみ、痛みを共に経験して下さる救い主がお生まれになられた。その名はイエス。神、われらと共にいます、インマヌエル。神がわれわれと共に生きることを決意して下さったのです。私どもがどんなに苦しんでも、悲しんでも、もう駄目だと絶望的な状況に陥っても、神はわれわれと共に生きることを決意して下さった。そのお方こそ、その名はイエスです。



3.①日曜日の朝、私ども一人一人がこの礼拝堂に集められ、礼拝を献げています。本当に不思議だなと思います。年齢も、性格も、職業も、育って来た環境も全く異なる私どもが、何故、日曜日の朝、礼拝堂に集められたのでしょうか。ただ主イエスの名によって集められた。それ以外の理由はありません。主イエスの名によって集められたからこそ、私どもは主イエスの名によって神を呼び、主イエスの名によって祈り、主イエスの名によって讃美しているのです。それが今、私どもが捧げている礼拝です。教会学校の礼拝も全く同じです。


 主イエスの名によって集められ、主イエスの名によって洗礼を授けられ、そこに教会が生まれました。最初の教会の伝道の姿が、使徒言行録に綴られています。その3章で、このような出来事が起こりました。主イエスの弟子ペトロとヨハネが、祈りを捧げるためにエルサレム神殿に上って行きました。美しの門と呼ばれるところに、生まれつき足の不自由な男が置かれていました。人々に物乞いをするためでした。ペトロは男をじっと見つめ、「わたしたちを見なさい」と語りかけました。男は何かもらえると思って、二人を見つめました。その時、ペトロは語りかけました。


「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると男は立ち上がり、歩き出し、踊り出し、神を賛美した。ペトロとヨハネと共に、神殿の境内で神を賛美する者へと変えられました。


 ここに、教会が大切にして来た信仰があります。教会は、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と宣言する言葉が主イエスから託されていることです。自分の足で立つことの出来ない者が、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩き出し、神を賛美する者とされる。教会はただこの言葉を語るためにだけ、主によって立たせられているのです。


 ところが、ペトロのこの行為は波紋を呼びました。ペトロとヨハネは捕らえられ、法廷に立たされました。しかし、ペトロは大胆に語りました。


「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。


恐らく、この言葉こそ、伝道者ペトロが、教会が繰り返し語った説教の核心部分の言葉だと言えます。


 最初の教会の人々は、ユダヤの議員から、度々イエスの名によって語ってはならないと咎められました。しかし、イエスの名にために辱めを受ける程の者とされたことを喜び、益々イエスの名によって語るようになりました。そこに主イエスの名によって生きる教会の姿があるのです。迫害の時代も、戦争の時代も、困難な時代も、教会はひたすら主イエスの名によって喜んで生きて来たのです。「イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、ただこの一つのことだけを伝えて来たのです。



②私どもは主イエスによって、天におられる神を、「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになりました。「アッバ」とは、「おとうちゃん」です。子どもが親しみを込めて呼ぶ名です。「アッバ、おとうちゃん」と親しみを込めて、どんな時にも、どんな場所でも、どんな姿勢であっても、天におられる神を呼ぶことが、主イエスにおいて出来るようにされたのです。素晴らしいことです。


 しかし同時に、私どもは「イエスさま、イエスさま」と、主イエスの名を、親しみを込めて呼べるようにされました。古のキリスト者がこのような言葉で、主イエスの名を呼んでいます。


「ああ、キリスト・イエスよ、すべてが闇に閉ざされるとき、そして、自分が弱く、寄る辺なく思えるとき、どうか、感じさせてください、あなたのご臨在を、あなたの愛、あなたの強さを」。


「愛するイエスよ、わたしがどこへ行こうとも、あなたの香りが広がるよう、わたしを助けてください。わたしの存在のすみずみにあなたが染みわたり、わたしをあなたのものとし、わたしのいのちが、ただあなただけを輝かせるものとなりますように」。


 水野源三という詩人がいました。小学生の時に赤痢に罹り、脳性小児麻痺を併発し、体の自由を奪われました。意思表示は瞬きだけとなりました。しかし、その瞬きを通して、主イエスの名によって生かされている喜びを、詩で綴りました。「不安」と題する詩があります。


「何も聞こえない、夜


 何も見えない、夜、闇


 主よ、呼んでください、呼んでください、私の名を」。


 病人にとって夜は長く、夜の闇の中に、自分の存在が、命が吞み込まれてしまうのではないかという不安に包まれます。何も聞こえない夜、何も見えない夜の闇の中で、水野源三さんは必死に、主の名を呼びます。「イエスさま、イエスさま」。そして祈ります。「主よ、呼んでください。呼んでください。私の名を」。


 今、私どもは受難節の歩みを続けています。主のご受難、十字架の主のご受難を覚えながら、私どもの信仰の姿勢を整えています。金曜日の朝、主イエスは十字架につけられました。昼の12時、全地は暗くなり、闇で覆われました。闇の只中で、主イエスは十字架の上で叫ばれました。「わが神よ、わが神よ」。ひたすら主の名を呼び続けたのです。主の名を呼ぶことを諦めずに、止めなかったのです。それ故、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの十字架の叫びは、絶望の叫びではありません。闇の只中で、十字架の上で、「わが神よ、わが神よ」と諦めることばく、絶望することなく、主の名を呼び続けた。闇の中でも、主は必ず答えて下さると信じて呼び続けたのです。それは、闇の中にうずくまっている私ども全てが、闇の只中であっても、主の名を呼び、主も私の名を呼ぶ道を拓かれるためでした。


 夜の闇の中で、水野源三さんが呼びかける。「主よ、呼んでください。呼んでください。私の名を」。闇の中で、「イエスさま、イエスさま」と呼ぶ源三さんの声と、「源三よ、源三よ」と呼ぶ主の声とがこだましているのです。



4.①先週の金曜日、東京神学大学の卒業式が行われました。12名の卒業生が伝道者となって、主から全国の諸教会へ遣わされました。私はオンラインで、自分の卒業式以来39年ぶりに出席しました。芳賀学長が学長として最後の卒業生に向かって説教をされました。芳賀学長は教会で伝道、牧会しながら、神学校の教師をしていた頃の、伝道者の過ち、罪を語られました。教会の礼拝に、他教会の女性がいつも一番後ろの席で礼拝を捧げられていた。礼拝が終わると、すぐに帰られてしまう。一度もお話をしたことがなかった。ところが、ある日、町でその女性とばったり出会った。女性は一言語られた。「私は入院することになりました」。芳賀先生は「お祈りしています」と答えることしか出来なかった。神学校での仕事に追われ、病院の名前を聞き、お見舞いに行く余裕がなかった。数ヶ月して、その女性が所属していた教会の牧師からお手紙を頂いた。その女性はホスピスに入院されていて、亡くなられました。そこで初めて、この女性が末期癌であったことを知った。何故、神学校の仕事を中断し、女性を訪ね、御言葉を語り、祈りを捧げなかったのだろうかと、今でも悔いが残っている。伝道者は誰もこのような悔い、過ち、罪を抱えている。


 芳賀学長が卒業式で説き明かされた御言葉は、瀕死の病の中にある会堂長ヤイロの家へ向かわれた時に、主イエスに起こった出来事でした。一刻の猶予も許されない。ところが、その途中、主イエスの周りにいる群衆に紛れ込み、12年間出血の止まらない女が、後ろから主イエスの衣に触れた途端、病が癒された。主イエスは足と止め、その女を振り返られ、語られた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。どんなに忙しい中でも、足を止め、一人の命と向き合い、「娘よ」と呼びかけ、「安心して行きなさい」と語りかけられる主イエス。私ども伝道者はこのような主イエス・キリストによって、遣われるのである。そして私ども伝道者の後悔も、過ちも、罪も、このような主イエス・キリストによって担われているのである。私自身も、芳賀学長の説教を通して、新たな召命を与えられました。



②説教の冒頭で紹介しましたが、ルターは主イエスの名ほど大きくて、豊かな名はないと語りました。主イエスの名は全世界の人々を包み込むほどの大きさを持っている。しかし、ルターは強調します。主イエスの名が大きいのは、全世界の私どもの罪を覆っているからだと語るのです。


 天使が夢でヨセフに現れ、マリアからお生まれになる救い主に「イエス」と名付けなさいと語られました。その時、更にこう語られたのです。


「この子は自分の民を罪から救うからである」。


 イエスという名はごくごく普通のユダヤ人の名です。しかし、救い主の名として、どうしてもイエスでなければならなかったのです。イエスという名には、「主こそわが救い」「ご自分の民を罪から救う」という意味が込められていたからです。


 ヘブライ人への手紙は、大祭司イエスの名を強調します。大祭司とは、私どもの先頭に立って、神の御前に進み、私どもの後悔、過ち、罪のために執り成して下さる存在です。ヘブライ人への手紙4章14節以下で、こうは語られています。


「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。


 この大祭司イエスは、ただ一度、十字架にご自身を献げて下さった。それ故、大祭司イエスは私どもの名を呼んでおられる。私どもははばかることなく、恵みの座に近づき、「イエスさま、イエスさま」と呼ぶことが出来るようになったのです。


 カール・バルトという20世紀を代表する神学者、伝道者がいました。膨大な神学書を書かれ、未完に終わりました。亡くなる一ヶ月前に、ラジオ番組「この人と音楽を聴く」に出席されました。そこで大好きなモーツァルトの音楽を話されています。様々なインタビューに答えています。そして最後に、バルトにとって信仰の核心部分を語られました


「わたしが神学者として語るべき最後のことばは、『恩寵』のような概念ではなく、一個の名前、イエス・キリストなのです」。


 バルトが何故、膨大な未完に終わった神学書を書かれたのか。神からの恩寵という概念ではない。私が神学者として、信仰者として語るべき最後の名、ただ一人の名、イエス・キリストの名である。私の手では捕らえられない大きな名、豊かな名である。これはバルトだけではなく、私どもの信仰の核心部分です。


昨日3月11日、東日本大震災から12年目を迎えました。被災された各地に、亡くなられた方の名前が刻まれた慰霊の碑が立ち、遺族の方が涙を流しながら手を合わせていました。一人一人の名前に、命があり、人生の物語があります。


昨年の11月第1主日、金沢教会の墓地で墓前祈祷会が行われました。67名の方が出席され、その時、撮影した写真が牧師室に飾られています。墓碑に刻まれた一人一人の名に、信仰と命と、主イエスの名によって導かれた信仰の物語があります。主イエスの名によって執り成された人生の物語があります。私どもが語るべき最後の名、ただ一つの名こそ、主イエス・キリストの名です。主イエス・キリストの名が、生きる時も死ぬ時も、私どもを生かすのです。主イエスの名に執り成されて、終わりの日、目覚めて、主イエスの名をとこしえに呼ぶことを待ち望みながら、眠りに就いているのです。



 お祈りいたします。


「主イエスよ、あなたの名によって、立ち上がり、歩くことが出来るようにされたのです。主イエスの名を呼び、賛美する人間へと造り変えられたのです。主イエスの名を呼ぶことから、私どもの信仰が始まりました。そして死を迎える最後の時にも、主イエスの名を呼びます。生きる時も死ぬ時も、主イエスの名によって生かして下さい。主イエスの名によって、われらの罪を執り成して下さい。主よ、われらを主イエスの名を伝える器として用いて下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。


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