■ レントの季節 ― 救いとは過去の意味が変えられること
レントのこの季節、私たちは歩みを少しゆるめ、静かに自分の信仰を見つめる時を与えられています。忙しい日々の中で胸の奥にしまってきた記憶が、レントの時期になると、ふと浮かんでくることがあるかもしれません。
もし、あの時のことをやり直せるなら――。あの時ああしていればよかった、あの時、あの言葉を言わなければよかった、あの出来事がなければ。そのような思いを抱えながら、私たちは、生きています。
「もしやり直せるなら」「なぜあの時……」この思いは、信仰が弱いから生まれるのではなく、真剣に生きてきた証し、真剣にその時を生きた、そこから生まれる思いです。
ですからレントは、それらを神様の御前に持っていくことが赦されている時です。聖書は人間の心の叫びを隠していません。「そんなことを思ってはいけない」と語っているのではなく、「その思いを一人で抱えなくていい、私に打ち明けてみて」「私だけには、弱さを見せていい」そう語りかけられています。
レントは、整えられていない自分を、神様に打ち明ける季節です。十字架の主が血を流されているお姿は、立派な信仰者のためにあるのではなく、逃げた弟子たちのために、裏切った弟子たちのために、失敗で沈んだ私たち、罪人の私たちためにあります。主は、私たちのために、十字架にかかられました。
救いとは「過去が消えること」ではなく、「過去の意味が変えられること」です。
神の御子の犠牲によって、私たちの、あの失敗、あの出来事がなかったことになる、失敗が帳消しになるのではありません。その痛い出来事が、主の十字架の犠牲によって、新しい意味を持ち始めることです。
病院の医師が、成績優秀で人を押しのけて、出世街道を駆け上がり、表彰されたことは数えきれません。
うぬぼれていた。その先生が、60歳の時、癌を患われ、入院のベッドの上で、病の人たちの側の景色を見た時、打ち砕かれました。必死に寄り添って看病してくれるナースや、病院のスタッフ。その人たちによって救われている。その痛みがあったから、人の痛みが本当に分かるようになった。今まで、自分の力で何でもできた。けれど全ては神様から与えられたものを使わせていただいていた。努力しようと思う気持ちも、神様から与えられていた。全ては、神様からのもの。だから、この世での全ての働き、表彰されたことも、評価されたことも、神様にお返ししなければ。そう語られました。
高ぶりが打ち砕かれ、その失敗の痛みが、神様の光に照らされて、新しく変えられていくプロセスになりました。人の痛みを本当に分かろうとする信仰へと変えられた。「過去の痛みが、新しい意味を持ち始めることになりました」 過去の失敗を帳消しにしなくてもいい。過去の失敗さえも用いてくださる。
ですから、もし人生をやり直せるなら――。あの時ああしていればよかった。レントの季節に、「その思いを神様の御前に持っていく時」、十字架の上で主イエスは、仰せになってくださいます。「整わない祈りのままでよい。私のもとへ来なさい。あなたを愛している。私が、あなたを命がけで救う」レントのこの季節、自分の至らなさを神様に打ち明けることができる時です。
■ 福音の証しとしてのパウロの歩み ― 救いの条件の転換 ―
今日のガラテヤの信徒への手紙2章1節~は、パウロは自分の歩みを語っています。しかしそれは単なる自己紹介ではありません。彼が語っているのは、「福音とは何か」、「信仰とは何か」私たちは何によって生かされているのかという、最も大切なことです。
パウロは14年の時を経て、再びエルサレムに上ったと語ります。そこにはバルナバと共に、ギリシア人のテトスも連れて行きました。ギリシャ人のテトス。異邦人でしたのでテトスは、身体のしるし、割礼を受けていませんでした。それでも彼は、ユダヤ人の多いエルサレムの教会で多くの人から受け入れられました。
ここに大きな光があります。
① ここで語られているのは「救いの条件の転換」です
パウロが語るこの出来事は、「割礼という身体のしるし」「ユダヤ人としての伝統や習慣」「律法をどれだけ守れているかという信仰の証明」。これらがもはや「救いの条件ではない」ということを明らかにする出来事でした。ギリシア人であるテトスが、身体のしるし、伝統や習慣がないにもかかわらず、エルサレム教会で受け入れられたことは、救いは民族・伝統・しるしによってではなく、神の御子が十字架で命を捧げて下さった犠牲によって与えられる、という神様の側からの救いを、確認できる出来事でした。
「キリストの十字架が空しいものにならないために」パウロたちは、伝道したのです。
②しかし、ここでパウロが語りたいのは、伝統そのものを否定しているのではありません。彼自身もユダヤ人として生きてきましたし、状況によってはユダヤ人に配慮する行動も取っています。
問題はここです。「身体のしるし、伝統、習慣」それをしなければ救われない、それをしているから相応しい、だから救われる、という理解が、福音を濁らせてしまうこと。それを警戒していました。
つまり、身体のしるし、伝統や習慣は、「大切にしていくこと」ではあっても、「しなければならないこと」として裁き合うことではない。この違いはとても大きいのです。
③これは初代教会における非常に深い葛藤でした
当時のユダヤ人キリスト者にとって、身体のしるし、伝統、習慣、は小さなことではありませんでした。
それは「神様の民である証し」「祖先から受け継いだ信仰」「神様との契約のしるし」だったのです。ですから、それが「救いの条件ではない」と理解することは、信仰の土台が揺さぶられる出来事でした。身体のしるし、伝統、習慣を重んじてこなかったテトス。しかし、テトスはイスラエルの教会に受け入れられたことは、単なる「寛容」、「多めに見てくれている」、「優しさ」の問題ではなく、正しい信仰が、民族の枠を越えて広がっている、決定的な出来事だったのです。
この出来事は、とても慰めに満ちています。
私たちも「過去の傷」「失敗」「後悔」「信仰の不足」を抱えながら神様の御前に立ちます。しかし、聖書は語ります。あなたが整っているから、神様は、受け入れてくださるのではない。
洗礼を認めてくださったのではない。神の御子が、罪ある私たちの身代わりとなって、命を捧げて、犠牲となってくださったから、神の御子が死んでくださったから、私たちは、神様に受け入れていただいているのです。私たちの力ではない。相応しさではない。主の犠牲によって、そして、神様の御力によって、私たちの信仰生活は、整えられていくのですね。
全て、神様の御力です。
テトスがイスラエルで受け入れられた出来事は、まさにこの信仰の順序を示していました。
■ ペトロとの出会いに見る福音の歩み ― 苦い過去と主の赦し ―
ここで、私たちはもう一つの大切な事実に目を向けたいと思います。 それは、ガラテヤの信徒への手紙1章でパウロが語っていることです。パウロは、1章で、自分がエルサレムで会ったのは、ペトロとヤコブだけだったと語ります。これから広く伝道へと旅立とうとする時、会っておいた人は、この二人だけだったのです。この二人に、会っておけばこれからの伝道が保証される。それほどの権威者だったわけではありません。
主イエスが「私は十字架につけられる」と語られた時、ペトロは堂々と主イエスを叱ります。すると逆に、「あなたは何も分かっていない」と叱られます。苦い思い出です。また「私はどんなことがあってもあなたを見捨てません」と言った時には、「あなたは私を知らないと言うだろう」と予告されてしまいます。悔しい。そしてその通りになるのです。情けない。苦い思い出。悔しい。情けない。ペトロの間違い、叱られたこと、裏切ったこと、逃げたこと。それらはすべて語り継がれ、書き残されていきました。当時、その記録が集会や礼拝で読まれるたびに、ペトロは、過去の痛みの傷がうずきます。「もうやめてほしい」そんなふうに思った時もあったでしょう。
自分にとって、不都合な真実です。けれど、この話を聞いて多くの人が救われていったのです。この話を聞いて、私もまさに罪人だ、ペトロと同じだ、と気づかされ救われたのです。「主の十字架を無駄にしない」そういう伝道をし続けたのです。主の十字架の犠牲の大きさが語られるなら、とペトロは、自分の苦い思い出によって、主の十字架を証ししていったのです。「主の十字架を無駄にしない」伝道です。
2章11~は、ペトロは、ここでも大きな失敗をします。異邦人と食事をしている。分け隔てなく、罪ある人とも、神様をまだ知らない人とも食事を共にする。そのような信仰に生きていた。しかし、昔の伝統をも、重んじながら、キリスト者として生きている人たち、有力な人たちが現れた時、うしろめたい気持ちになったのです。そんな気持ちにならなくてもいいはずです。けれど、新しくキリスト者となった新入りの罪人たち。その人たちと食事を共にしている姿を見られたくない、と思ったんです。福音によって解き放たれているはずです。しかし、そこから席を外し、離れたのです。その姿を見て、パウロは、信仰の先輩であるペトロでも叱りました。2:14「福音の真理によってまっすぐに歩んでいない」。あなたのその行いによって、福音を曇らせ、他の人たちをも、曲げられた信仰へと引きずりこんでいる。そんなことをしてはならない。
叱られたペトロは、その言葉に素直に聞き従い、行いを改めるのです。
■ パウロ自身の過去と福音の証し
そういうパウロも同じでした。
彼にも大きな、大きな失敗がありました。教会を迫害していたのです。その事実は聖書にしっかり刻まれ、繰り返し読まれ、人々に知られていきました。どんな思いだったでしょう。しかし彼は語り続けます。仲間が救われるなら、新しい人が救われるなら――。そしてその言葉は、今、私たちにも届いています。だからパウロは遣わされる時、こう語り続けました。「こんな私が救われた。神様は偉大なお方だ」これこそが最大の保証でした。
パウロは、新しい地へ行くとき、立派な誰かの推薦状も持ちませんでした。権威ある人の後ろ盾もありません。だた、大きな間違いをした私。大失敗した私。そんな私を、主は救ってくださった。そのことを自分自身を紹介する証しとして、新しい地でも、前進していきました。自分の立派さを証し、伝道したのではなく、どのように主に救われたか、「キリストの十字架を空しくしない」その言葉をもって、伝道したのです。
■ 貧しい人を忘れないという約束
弟子たちは約束をしています。2:10「貧しい人たちのことを忘れないようにしよう。」
貧しさは、目に見えるものだけではありません。愛されていない貧しさ。声をかけられない孤独。悲しみの中にいる人。自分は生きていてはいけないと思っている人。
震災で、涙を流しながら語られた方がいます。家族を亡くした方です。時々、なんのために生きているのは分からなくなるよ。お父さん、お母さん、何もいらない。家もいらない。みんながいてくれたら、ただそれでいい。
教会は、そのような人が受け入れら、復活の力が与えられていく所です。私たちの中に力が残っているから、力を振り絞って、立つのではありません。過去の苦しみを抱えたまま、過去の悲しみを抱えたまま、もう私たちの中に力が残っていなくても、神様に抱きしめられ、もたれかかりながら、神様の御力によって立ち上がっていきます。
■ 罪人が救われるという福音の中心-十字架を空しいものにしない歩み-
パウロは、1章、2章と、「こんな罪人を主は、救ってくださった」それを自己紹介として、「キリストの十字架を無駄にすることのない」言葉によって福音を前進させていきました。
私たちは教会に人を誘う時、求道中の方から、こんな言葉を聞くことがあります。「キリスト教は嫌だ」「教会に行くと、罪人と言われるのは、ちょっと」。皆さんも、そんな経験があるかもしれません。私は、親戚の方によく言われました。そして、この間も、まさにそのことで悩んでおられる方に悩みをお聞きしました。
私はこうお答えしています。「教会は、私たちを責めるための場所ではないのです。私たちの罪から、救ってくださる神様に出会う場所なのです」。私たちは、静かに自分の心を見つめた時、自分の言葉、行い。人を傷つけた記憶が一つもない、と言える人は一人もいません。私たちは罪人です。けれど、それが絶望で終わるのではありません。それは、救いの第一歩です。
「神の御子が命をお捧げくださった」 罪人だと言われるのが嫌だ、と感じる人にも、求道中の方にも、このことを、私たちは、中心に語り続けていかなければなりません。今日の聖書の箇所は、まさにその中心を、まっすぐに、力強く語っています。そして、何度でも、もう一度申し上げたい。「キリストの十字架が空しいものにならないように」。このために、伝道者たちは戦ってきました。自分の力、相応しさではない。「キリストの十字架が、いらなかったかのように」福音を濁らせてはいけない。パウロがそうでした。宗教改革者たちもそうでした。彼らの言葉の土台には、いつもこの思いがありました。
「キリストの十字架が、いらなかったかのように福音を濁らせてはいけない」
「キリストの十字架を空しいものにしてはならない」「キリストの十字架の死を無駄にしてはならない」
それはまるで、人間の決意の言葉のように聞こえるかもしれません。戦場で仲間を失った者が、「仲間の死を無駄にしてはならない、恩師の死を無駄にしてはならない」と叫ぶような、勢いに満ちた言葉のように聞こえるかもしれません。けれども、福音は違います。ここには、全ての人間の誇りも、力も、自負も、決意も、すべてを打ち砕く響きがあります。
■ キリストの真実によって義とされる
今日の箇所、新共同訳聖書と、聖書協会共同訳聖書で読みますと、ここにとても大切な響きが聞こえてまいります。従来は、よく読まれてきたように、「キリストを信じる信仰によって義とされる」という理解でした。新しい訳では、「キリストの真実によって義とされる」と強く示されています。
ここで問題となる言葉は、ギリシア語の「ピスティス・クリストゥ(πίστις Χριστοῦ)」という表現です。この言葉は、確かに、「キリストを信じる信仰によって」とも読めますし、また、「キリストの信実、キリストの忠実」とも読むことができます。これまで多くの訳は「私たちがキリストを信じる信仰」と訳してきました。
しかし、近年の聖書研究によって、「キリストご自身の信実」、すなわち「キリストが十字架にいたるまで、従順であられたから」、「キリストが十字架で犠牲となってくださった」という「キリストの側の真実」によって、私たちは救われる、ということが強調されました。
■ 救いの根拠はキリストの側にある
パウロがここで語ろうとしている中心は、私たちの側の信仰の強さではありません。そうではなく、「十字架に至るまで従順に、私たちを救うために、ご自分の命の犠牲にすることを貫かれたキリスト」。このお方によって救われる。私たちの側に救いの根拠、救われる理由があるのではなく、ただただキリストの側です。キリストが、私たちのために命を犠牲にしてくださったから、神様の側の根拠によって私たち救われるのです。
ですから、今日の箇所の最後に、パウロはこう語ります。2:21「私は神の恵みを無駄にはしません」。ここに本当に言いたいことがあります。自分の力で生きるのではない。神の御力によって生きる。自分の業績、働き、力を誇るのではない。全てを、神様の栄光へとお返ししていく。静かに、感謝をもって、神様の栄光へとお返ししていきます。それが、「キリストの十字架の死を無駄にしない歩み」だとパウロは語っています。
■ 律法による義ではない
パウロは続けて言います。2:21「もし義が律法を通して得られるなら、キリストの死は無駄になってしまう」これは、とても鋭い言葉です。私たちは、善い行い。信仰の熱心さ。奉仕の実績。祈りの時間。賜物。得意なこと。それらを胸に積み上げながら、「これだけやってきた」と。思うんです。私には何かがある。神様の御前に、差し出せる何かがある。だから私は、救われる。そんな思いに、知らず知らずのうちに陥っていきます。
しかし福音は、まったく別の場所から響いてくるんです。あなたには何もない。
全て、神様から与えられているものなんだ。神様から与えられていたものを使っているだけ。努力しようとする気持ちも。善い行い。信仰の熱心さ。奉仕の実績。祈りの時間。賜物。得意なこと。何もかもなんです。
これが、「神の恵みを無駄にしてはいけない」という言葉の意味です。もし、何かの功徳によって救われるのなら、もし、私たちの善さが救いの条件になるのなら、「十字架はなくてもよかった」。「キリストは死ぬ必要はありませんでした」。そういう話しになってはならないのです。
どうしても罪があるのです。自分の中から、自分を罪から救う力は、ない。やがて死は必ずやってきます。しかし、そこから救う力は自分の中にはないのです。
宗教改革者、ジャン・カルヴァン は言いました。――説教なしに聖餐式があってはならない。
なぜでしょうか。説教において語られるのは、イエス・キリストの十字架と復活だからです。神様がどのようにして私たちを救ってくださったのか。その出来事は、もうすでに行われたことです。私たちはそこに、何一つ付け加えることもできません。だから私たちは、ただ聞くのです。聞いて、受け取るのです。聞いて、受けるしかないのです。救いを受け取るしかありません。私たちの方から、何一つ付け加えることができません。私たちは、自分自身を罪から、死から救うものは、何も持っていないのです。何もないのです。
それでもなお、私たちは義とされるのは、何故でしょうか。
律法の実行によってではなく、キリストの十字架の犠牲によって救われる。これを受け入れ、キリストによって救われる者を「義」とされるのです。
この宣言こそが、教会の命です。
もしここに、私たちの功徳や力を、一つでも付け加えるなら、その瞬間に、キリストの死は、必要のないものになってしまいます。パウロは繰り返し語ります。「キリストの死を無駄にしてはいけない」「キリストの死が空しいものにしてはいけない」福音を濁らせていけない。
パウロがペテロに言いました。2:14「福音の真理によってまっすぐにあゆみなさい」。
■ 律法は神の御心
では、律法は不要なのでしょうか。旧約聖書はもう過ぎ去ったのでしょうか。いいえ、そうではありません。律法は神の御心です。神が語られた言葉が無意味になるはずはありません。
律法の第一用法:「罪を抑え、社会の秩序を保つ働き」があります。私たち人間は、放っておくと自己中心に流れてしまい、怒り、欲望、暴力、欺きに傾いていきます。神の御心である、「殺してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」、律法は、それにブレーキをかけます。
律法の第二用法:「罪を明らかにし、キリストへ導く」
律法は、私たちがそれを完全に行うことができないという事実を、明らかにしてくれます。私たちが自分の力では、決して救われない。律法を完璧に守ることなどで、誰一人できない。
(ロマ3:20「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」)
神様の御前で、律法を完璧に守ったから、救ってもらえますよね、とは誰一人言えない。そのことは誰もが、分かっています。
律法の第三用法:「主の十字架の犠牲を知った者へ、新しい歩みを導く」
私たちは律法を守って救われるのではありません。しかし救われた者として、「どう神を愛するのか」「どう隣人を愛するのか」「どうこの世界で生きるのか」その方向を律法は示してくれます。律法によって、神の御心を知り、幸せへの道案内がされていくのです。
■ 罪の自覚から感謝へ
もう一度、今日、パウロが強調していることを確認します。律法は鏡のように、私たちの姿を映し出します。どれほど努力しても、どれほど心を整えても、神様の御前に完全には立てない自分の罪の姿を、律法は、知らせてくれます。(ロマ7:7「律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう」)
だからパウロは言うのです。私たちは、滅びへと、死へと定められている。
パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、自分の内面をさらけ出すように語っています。律法は聖なるものだ。正しいものだ。そう知っているのに、自分はそれに従って生きることができない。善を行おうとするのに、自分の内にはそれに逆らう力がある。心では律法を喜んでいるのに、現実にはそれを行っていない。
(ロマ7:12「律法そのものは聖なるもの」、18「善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです」、22「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、・・・罪の法則のとりこにしているのです」)
その惨めな姿を、まるで光に照らされるように見せられるのです。
そして彼は叫びます。――なんと惨めな人間なのだろう。――誰がこの死の体から私を救ってくれるのか。
(ロマ7:24「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」)
すると次の瞬間、挨拶も前置きもなく、すべてがひっくり返るのです。ただ、私たちの主イエス・キリストによって神をほめたたえるべきかな。
(ロマ7:25「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」)
本来なら、私たちが引き受けなければならなかったその死を、神の御子、イエス・キリストが、身代わりになって、十字架で死んでくださったのです。今や、キリストが私たちの死を打ち破り、罪を打ち砕き、復活してくださった。その復活のキリストが、私たちのうちに生きておられます。
信仰の体験は人それぞれでしょう。涙の中で出会った方もいるでしょう。静かな確信の中で導かれた方もいるでしょう。けれども最も大切なことは、ただ一つです。――私の死を、キリストが死んでくださった。私の死をキリストが死んでくださった。このことを信じることです。
では、この身体。今、誰が生きているのでしょうか。私たちのこの身体に、死を打ち破ってくださった、イエス・キリストが生きてくださっている。キリストが、私たちのために死んでくださったからです。この一点こそが、私たちの存在を可能にしている唯一の出来事です。
■ 主の日を待ち望む希望
やがて主が再び来てくださる日、私たちは自分の歩みではなく、ただただ、キリストの十字架にすがって立つ者でありたいと思います。そして、私たちの生涯が、キリストの十字架を空しいものにすることなく、感謝の証しとなるような生き方をしてゆきたいと思います。
