top of page

2024年11月27日

「ヘブライ人への手紙を黙想する24~この人たちはその信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした~」

ヘブライ人への手紙11章30節~12章3節

井ノ川勝

1.この人たちは皆、信仰を抱いて死にました

(1)ヘブライ人への手紙11章は、「信仰とは何か」という主題を、信仰に生きた人々を上げて語っています。信仰とは生活の中で生きたものであるからです。「信仰者列伝」と呼ばれています。旧約の時代に生きた信仰者を、創世記から順番に上げていました。アベル、エノク、ノア、そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、更に、モーセでした。これらの信仰者に共通する信仰が、13節に語られていました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちがよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。・・彼らは更にまさった故郷、天の故郷を熱望していたのです」。旧約の時代の信仰者が熱望していた「天の故郷」を、12章では具体的に言い換えています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。旧約の信仰者もまた、信仰の創始者であり完成者である主イエスを仰ぎ見ながら、地上の競争を忍耐強く走り抜いていたのです。

 ヘブライ人への手紙は礼拝で語られた説教であると言われています。会衆は旧約聖書に親しんでいました。説教者が上げる一人一人の信仰者が身近な存在、お手本として、生き生きと迫って来たと思います。信仰の証人の群れとして、今、地上の競争を走り続けているキリスト者に、歓声を上げて励ましている。その声を聴きながら礼拝を捧げていたと思います。

(2)「信仰者列伝」は更に続きます。「信仰によって」という言葉を冒頭に掲げ、信仰者を紹介します。本日は11章30節からです。モーセに導かれてエジプトを脱出した神の民は、愈々約束の地カナンに足を踏み入れます。しかし、そこに大きな壁がありました。約束の地には先住民が住んでいました。約束の地の入口はエリコの町でした。エリコには高い城壁がありました。それを乗り越えないと、約束の地に足を踏み入れることは出来ません。神の民は恐れを抱きました。30節「信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました」。エリコ陥落の出来事はヨシュア記6章に記されています。1節「エリコは、イスラエルの人々攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。『見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて紙の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい』」。15節「七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。『鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた』」。20節「角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した」。

2.信仰によって

(1)エリコ陥落、約束の地へ足を踏み入れる第一歩に大きな働きをしたのが、娼婦ラハブでした。ラハブなくして、約束の地への足を踏み入れることは不可能でした。ヘブライ人への手紙11章31節「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました」。ラハブはヨシュア記2章に登場します。ヨシュアが二人の斥候をエリコに遣わした時に、二人の斥候は遊女ラハブの家に入り、泊まりました。その夜、エリコの町の人々が気づき、ラハブの家に押し掛けました。ラハブは二人の斥候を窓から綱でつり降ろし、逃れさせました。ラハブの信仰が言い表されています。2章9節「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのおとで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、・・をわたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

 ラハブのことは新約聖書でも、「イエス・キリストの系図」に記されています。マタイ1章5節。ヤコブの手紙2章25節「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」。

(2)更に「信仰者列伝」は続きますが、説教者はこう語ります。22節「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを話すなら、時間が足りないでしょう」。ギデオン、バラク、サムソン、エフタは士師です。ギデオンは士師記6~8章に登場します。バラクは士師記4~5章に登場します。サムソンは士師記13~16章に登場します。エフタは士師記11~12章に登場します。ダビデはイスラエルの2代目の王、サムエルは預言者であり、祭司でした。ダビデはサクエル記上16章以下に登場します。サムエルはサムエル記上1章以下に登場します。預言者たちは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの4人の大預言者、ホセア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼファニヤ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキの12人の預言者です。

(2)33節「信仰によって、この人たちは国々を制服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣を逃れ、弱ったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」。士師、王、預言者のことです。「獅子の口をふさぎ」、怪力サムソンです。またダビデ(サムエル上17・3)、ダニエル(ダニエル6・22)です。士師記4章5~6節。「燃え盛る火を消し」、ダニエルです。ダニエル書3章23~27節。これらの士師、王、預言者たちは、「弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり」。本来は弱かった。しかし、主によって弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者として立てられた。

 35節「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」。サレプタのやもめの息子を生き返らせた預言者エリヤのことです。列王記上17章17節以下。シュネムの女の子どもを生き返らせた預言者エリシャのことです。列王記下4章30節以下。

 35b節「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」。預言者エリヤ、エリシャによって生き返らされた子どもたちも、やがて死を迎えました。「更にまさったよみがえりに達するために」。主イエス・キリストの甦りの出来事を指し示しています。主イエス・キリストの甦りの出来事によって、私どもも終わりの日の甦りを約束されている。旧約の時代を生きた信仰者たちも、主イエス・キリストの甦りの信仰に生きた。キリストの甦りの信仰によって、様々な拷問に耐えた。

 36節「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました」。預言者エレミヤです。37節「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で斬り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです」。様々な預言者が経験した苦難です。この世はいつの時代も、信仰者を受け入れません。信仰者は地の割れ目を歩くように歩きます。そこに地上にあっては旅人、寄留者の信仰があります。

3.この人たちはその信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした

(1)39節「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」11章13節以下の御言葉と対応しています。40節「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」。「約束されたもの」「更にまさったもの」とは、「天の故郷」です。しかし、更に具体的なことが明らかにされます。「わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」。どういう意味でしょうか。旧約の信仰者は、私どもキリスト者を通して、完全な状態に達するのです。「天の故郷」を熱望することは、信仰の創始者、完成者である甦られた主イエス・キリストとお会いすることを熱望することだからです。それ故、12章1節以下の御言葉が続くのです。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 11月27日の祈り 詩編25・8~9

「主よ、われらの神よ、愛しまつる在天の父よ、われらは感謝します。われらはあなたの子であることをゆるされています。あなたは悲しみの時にあっても、あなたの子を導いてくださり、見捨てられることはありません。なぜならば、主よ、われらの神よ、あなたがわれらと共にいてくださるからです。そしてわれらの状態がいかなるものであろうと、昔からそうであったように、今われらを導いてくださるのです。この時代にあってわれらを守り、どんなに苦しく、艱難にあおうとも、力と忍耐をもって耐え忍べるようにしてください。あなたがわれらを導き、助けてくださりのです。それがわれらのよろこびです。われらはいつも、このようなわれらの時代にあっても感謝します。すぐにもみ手を明らかにしてください。み力を明らかにしてください。あなたの正しいみ手は、すぐに、いっさいを変えてしまうものだからです。アーメン」。

bottom of page