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2024年5月22日

「ヤコブ物語を黙想する~お前の名はもうヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる~」

創世記32章23~33節

牧師 井ノ川勝

1.神の祝福を奪い取る

(1)創世記12~50章は、アブラハム、イサク、ヤコブの神と称される、族長物語が語られています。神に選ばれた神の民の物語です。言い換えれば、家族の物語、共同体の物語です。私どもにも起こる物語です。その中で、25章19節~36章はヤコブ物語が語られています。

聖書に登場する人物の中で、親近感を感じる人物が必ずいます。しかし、どうもこの人物は親近感を持てないと感じる人物もいます。その最たる人物がヤコブだと思います。何故でしょうか。ヤコブは兄エサウ、父イサクを騙して、神の祝福を奪い取った野心家であったからです。ヤコブは双子の兄弟の弟として生まれました。兄エサウのかかと(アケブ)を掴んで生まれて来たので、ヤコブと名付けられました。創世記25章24~26節。「かかとを掴む」という意味です。

 父イサクから神の祝福、長子の特権を受け継ぐのは、兄だけです。ヤコブは双子でありながら、弟であることから、生まれた時から神の祝福、長子の特権を受け継げない定めにありました。しかし、ヤコブは諦めなかったのです。主から与えられた命は、運命、定めによって決まるものではない。神の祝福、長子の特権を必ずや掴み取りたいという望みに生きていました。

(2)虎視眈々と狙っていた機会が遂にやって来ました。26章27~34節。兄エサウは狩人を仕事とする野の人、弟ヤコブは天幕の周りを働く人となりました。ある日のこと、エサウは狩猟からお腹を空かして帰って来ました。ヤコブはレンズ豆の煮物を作っていました。ヤコブは策士家で、レンズ豆の煮物と交換に、エサウから長子の権利を奪い取ります。それが神に選ばれた民にとって、他のどんなものよりも大切なものであることを知っていました。それに対し、エサウは長子の権利の重さを軽んじていました。

 ヤコブは更に母リベカと画策し、父イサクから神の祝福を奪い取ります。27章18~29節。父イサクは老いて目が霞んでいました。ヤコブは動物の毛皮を腕に撒き、兄エサウになりすましました。そして父イサクをだまし、神の祝福を奪い取りました。

 しかし、その結果、兄エサウの怒りを買い、家族と顔と顔とを合わせ、共に生活することが出来なくなりました。母リベカの勧めもあり、家を出る決心をしました。母リベカの兄ラバンがいるパダン・アラムへ旅立ちました。28章10~22節。その夜、ヤコブは野宿します。深い闇と寂寥感に覆われます。ヤコブは夢を見ました。天から梯子が降りて来て、大地と結びました。その梯子を神の使いが上り下りしていました。その時、神の声がありました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。ヤコブはこの神の言葉に励まされ、旅を続けました。

2.ヤコブ(掴み取る者)からイスラエル(神に掴み取られる者)へ

(1)叔父のラバンの家に辿り着いたヤコブは、そこで働きます。ラバンの次女ラケルと結婚し、長女レアとも結婚し、子どもが与えられます。家畜も増やし、財産を得ました。故郷に帰る決心を叔父ラバンに申し出ますが、ラバンの策略で、何度も取り止めになります。騙して兄エサウ、父イサクから長子の権利、神の祝福を奪い取りましたが、今度は叔父に何度も騙されます。実に20年間、叔父ラバンの許で、労働させられました。ヤコブの信仰、性格が神によって練られた期間でした。ラバンとヤコブの策士家同士の戦いでした。ヤコブは遂に、二人の妻、子ども、家畜を連れて、故郷へ帰る決心をしました。

 しかし、故郷へ帰ることは、怒りと殺意に満ちた兄エサウと和解しなければなりません。ヤコブにとって越えられない大きな川であったのです。それが32章23~33節です。ヤコブはヤボクの渡しまで辿り着きました。それを超えれば、兄エサウと再会するのです。ヤコブは兄エサウと再会するに当たり、周到な準備をしました。兄エサウに使いを送り、貢ぎ物をしました。32章5節「あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします」。兄エサウをご主人様、自らをあなたの僕と称しています。使いは兄エサウの伝言を持ち帰ります。7節「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」。これを聞いたヤコブは、非常に恐れました。兄エサウが四百人のお供を連れて、ヤコブを殺しに来ると思ったからです。そこでヤコブは連れの者、家畜を二つに分けて、攻撃に備えました。全滅を防ぐためです。

ヤコブは主に祈ります。10節「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのユルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と」。

(2)ヤコブは三度に亘って、兄エサウに貢ぎ物を送ります。32章20b節「エサウに出会ったら、これと同じことを述べ、『あなたさまの僕ヤコブも後から参ります』と言いなさい。ヤコブは、贈り物を先に行かせ兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」。直訳するとこうなります。「わたしの顔の前に行く贈り物で、彼の顔を覆い、その後、わたしは彼の顔を見よう。恐らく彼はわたしの顔を上げてくれるであろう」。「顔」という言葉が繰り返されます。ヤコブの顔を前には、兄エサウの顔が迫って来ます。どこを向いてもエサウの顔が付き纏うのです。私どもには顔を合わせたくない人がいる。顔を思い出しただけで、心も体も痛む人がいます。

 そのような兄エサウとの再会のために、超えなければならない渡しが、ヤボクの渡しでした。32章23~33節。ヤコブは夜の間に、二人の妻、二人の側女、十一人の子供を渡らせました。兄エサウの攻撃を免れるためです。ヤコブ独りが残りました。その時、何者かがヤコブに格闘を挑み、夜明けまで続きました。神との格闘です。神の使いはヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ちました。ヤコブは腿の関節がはずれました。神の使いは語ります。「もう去らせてくれ。世が明けてしまうから」。ヤコブは答えます。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」。神の使いは尋ねます。「お前の名は何というのか」。「ヤコブです」。神の使いは言います。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。ヤコブは尋ねます。「どうか、あなたのお名前を教えてください」。神の使いは答えます。「どうして、わたしの名を尋ねるのか」。神はヤコブを祝福しました。ヤコブは語ります。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」。その場所は「ペヌエル」(神の顔)と名付けられた。

3.わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている

(1)ヤコブと神の使いとの戦いはどちらが勝ったのでしょうか。ヤコブは神の使いと戦い、「祝福してくださらなければ離しません」としがみつき、神の祝福を勝ち取りました。将に、ヤコブ、掴み取る者としての名を現しました。しかし、神の使いはヤコブの腿の関節をはずしました。ヤコブは足を引きずって歩かなければならなくなりました。神が与えた「肉体のとげ」(コリント二12・7)でした。兄エサウ、父イサクを騙して掴み取ったヤコブの高慢な罪を打ち砕く、肉体のとげでした。神の使いは語りました。「お前の名はもうヤコブではなく、これからイスラエルと呼ばれる」。「ヤコブ」(掴み取る者)から「イスラエル」(主が支配される)の名の転換です。ヤコブは主に掴まれ、腿の関節を外され、足を引きずり、肉体のとげが与えられた。それは主があなたを支配されることを現すものでした。実は、主が勝利されたのです。それが「イエスラエル」(主は支配される)で現されたのです。

ヤコブは足を引きずりながら、ヤボクの渡しを渡りました。その時、太陽がヤコブの上に昇りました。神の御顔の光が注がれる中で、足を引きずりながらヤボクの渡しを渡りました。顔を合わせたくない兄エサウと顔を合わせるためには、神と顔と顔とを合わせて、格闘しなければならなかったのです。「わたしは顔と顔とを合わせ神を見たのに、なお生きている」。

(2)33章1節以下。ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えました。ヤコブを攻撃するために来たと思いました。そこでヤコブは二人の妻、二人の側女、子供たちを二組に分けました。ヤコブは兄エサウの許に着くまで、七度地にひれ伏しました。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣きました。10節。ヤコブは語ります。「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」。どういう意味でしょうか。神の御顔の光の中でこそ、敵対していた兄エサウの顔を見ることが出来るということです。和解はどんなに人間の策略では解決しない。神との格闘、高慢という自分のとげが打ち砕かれ、神の御手に掴み取られ、神の御顔の光の中でこそ、顔と顔とを合わせる和解が成り立つ。そのために神の御子イエス・キリストが十字架に立たなければならなかったのです。エフェソ2章14~18節。

4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月22日の祈り 詩編22・23 

「主よ、われらの神よ、在天の全能の父よ、われらはあなたの子としてみまえにあります。あなたはこの時代のすべての困窮、すべての罪、すべての死の中にあって、子らを守ろうとしていてくださいます。われらはあなたを賛美します。あなたは困難な時代のただなかにあっても多くの平安を与え、多くの助けを期待することを得させてくださいます。そして苦しみの時にも、なお苦悩の闇の中にとどまることなく、立ち上がり、あなたを賛美したいと思います。み国が来るからです。み国がすでにここにあるからです。み国はわれらを慰め、助けてくれるのです。み国は世界を導き、み心が天に行なわれるごとく、地にも行なわれるようになるのです。アーメン」。

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