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「あけぼのの光が我らを訪れ」

マラキ書3:19~24
ルカによる福音書1:67~80

主日礼拝

井ノ川勝

2024年12月15日

00:00 / 35:55

1.①クリスマスは、「あなたがたのために救い主イエスがお生まれになった」という「喜びの知らせ」が、主の天使から告げられた出来事です。他の誰でもない。この私のために救い主イエスがお生まれになった。世界の全ての人のために救い主イエスはお生まれになった。この「喜びの知らせ」を今日、ここで聴くことが、クリスマスの出来事です。

 主の天使から真っ先に、「喜びの知らせ」を告げられたのは、ナザレの村で平凡な日常生活を送っていた、結婚前のマリアでした。しかし、実は、「喜びの知らせ」を最初に告げられたのは、老人ザカリヤとエリサベト夫婦であったのです。ルカによる福音書はクリスマス物語を、若きおとめマリアから始めていません。年老いたザカリヤとエリサベトから始めています。これは注目すべきことです。クリスマスの出来事、主イエスの誕生がどのような出来事であったのかを示していると言えます。

 待降節を迎えまして、毎日のように、長老、執事と共に、礼拝に出席出来ない高齢の教会員、病気の教会員を、病院、施設、自宅へと訪ねています。一人一人に、一体どのようなクリスマスの喜びの知らせを届けるのでしょうか。私どもにとってクリスマスは、自分の年を数える時でもあります。年を取れば取る程、後何回、地上でクリスマスを迎えることが出来るのかを数えます。特に病と向き合っている者にとって、もしかしたら、今年が最後のクリスマスになるのではないかと心に刻むことがあります。年老いて行きますと、私の身にもはや神の御業が現れることはないという諦めに満ちてしまいます。私はもはや主の御用のために働くことは出来ないと、悲しい思いに包まれてしまいます。残されたこれからの日々に、何か期待できる望みなどなるのだろうか、と失望が満ち溢れます。老人ザカリヤとエリサベトも、そのような思いで日々生活をしていたのかもしれません。

 

ところが、驚くべき出来事が、老人ザカリヤとエリサベトに起きたのです。年老いた身に、神の御業が現れたのです。その時、ザカリヤの口から生まれた賛美が、「ザカリヤの賛歌」です。クリスマスの季節に歌われる歌となりました。ザカリヤはこのような言葉で、クリスマスの出来事、救い主イエスの誕生の出来事を歌いました。

「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。

 「あけぼのの光が我らの訪れ」。日々死と向き合っている老人ザカリヤの歌は、夜の歌ではなく、夜明けの歌を歌っているのです。

 私どもは年を重ね、老いて行きますと、人生の夕暮れを迎えたと受け留めます。人生の最後には死が待っている。死が訪れたら、死の闇に呑み込まれて、私の人生は終わりを迎える。しかし、老人ザカリヤは人生の流れに逆らって、夜明けの歌を歌います。「あけぼのの光が我らを訪れ」。救い主イエスが私どものところにも来て下さったからです

 

2.①老人ザカリヤの夜明けの歌は、一体どのようにして生まれたのでしょうか。ザカリヤは祭司でした。神の民イスラエルを代表して、主の御前で祈る役目に生きていました。しかし、数多いる祭司の中でも、身分の低い祭司でした。ある日、くじに当たり、神殿で礼拝の準備をし、祈りを捧げる当番になりました。祭司として最後の大きな務めです。つつがなく主の御用を果たし、務めを終えたいと願っていました。

 ところが、そこに主の天使が現れました。恐れおののくザカリヤに向かって、天使は告げました。

「恐れるな、ザカリヤ。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」。

ザカリヤとエリサベトは老人です。もはや子どもを産むことの出来ない体です。しかし、そのような老いた体に主から与えられた命が宿る。神の御業が現れる。ザカリヤは驚きと恐れをもって、御言葉を聴いたことでしょう。しかも、エリサベトが宿したヨハネは、やがて来られる救い主イエスの道備えする大切な務めを担っている。そのために、神の民を主に立ち帰らせる役目を果たすのです。

 しかし、ザカリヤは天使の約束を信じることが出来ませんでした。疑いました。

「何よって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。

人間の老いて行く現実を見たら、老いた体に主から与えられた命を宿す。神の御業が現れる。そんなことどうしても信じることは出来ない。老人のザカリヤは神の御業が自分たちに現れるはずはないと、諦めてしまっているのです。私どもの目から見れば、ザカリヤの方が筋が通っているように思えるのです。

 私が天使とザカリヤの対話の中で、心惹かれる御言葉は、天使のこの言葉です。「時が来れば実現するわたしの言葉」。素敵な言葉だと思います。「わたしの言葉は時が満ちれば実現する」。「神の御言葉は神の時が来れば、必ず実現する」。次週のクリスマス礼拝で、長い長い求道生活を経て、洗礼を受けられる方がいます。その傍らで、神の御言葉は時満ちれば、必ず実現すると、ずっと信じて祈り続けておられた伴侶がいました。「神の御言葉は神の時が来れば、必ず実現する」。この神の御言葉は将にそうなのだと、受け留めました。

 

しかし、ザカリヤは神の約束を信じていないのです。

「時が来れば実現するわたしの言葉を、あなたは信じなかった」。たとえ年老いた妻エリサベトであっても、主から与えられた命は宿る。神の御業は現れる。それ故、ザカリヤは妻が出産するまでの10か月間、言葉を話すことが出来なくなりました。沈黙の中で過ごさなければならなくなりました。祭司の務めは、神の民を代表して、神に向かって祈ることです。神の願いを代弁して祈りを捧げるのです。従って、声が出ない。言葉が出て来ないということは、厳しいことです。

しかし、祈りとは自分たちの願いを声に出して神に訴えることよりも、主の御前で沈黙して、神の言葉を聴くことにあります。ザカリヤは10か月間、沈黙して、ひたすら神の言葉を聞き続けたのです。そして驚くべきことが、目の前で起こった。神の言葉は時が来れば必ず実現することを、目の当たりにしたのです。年老いた妻の体に、主から与えられた命が宿りました。神の御業が現れました。ザカリヤは沈黙の中で、神の御業が確かであることを見ながら、味わったのです。老いて行く現実の中で、諦めが打ち砕かれ、神は老人である私どもに新しい御業を起こそうとしていることに驚き、畏れを感じました。

 やがてエリサベトは月が満ちて、男の子を出産しました。誕生から8日目、子どもの命名の日がやって来ました。親類の者たちが集まりました。名前は代々、父方の名前を継承することが習わしでした。父の名を取ってザカリヤと名付けようとしました。しかし、母エリサベトは天使に告げられた通り、言いました。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」。親類の者たちは驚いて、言葉の出ない父ザカリヤに手振りで尋ねました。「この子に何と名を付けたいか」。ザカリヤは木の板を持って来て、字を書きました。「この子の名はヨハネ」。

 すると、たちまちザカリヤの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました。私はこの表現がとても好きです。10か月の沈黙の期間、ひたすら妻のお腹の中に神の御業を見ながら、神の言葉を聴き続けた。遂に10か月の沈黙を破り、口が開かれ、舌がほどけた時、真っ先に出て来た言葉は、神を賛美する言葉であった。それが「ザカリヤの賛歌」であったのです。

 

3.①「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」。真っ先に口から出て来た賛美です。「ほめたたえよ」。ラテン語で「ベネディクトゥス」と言います。この言葉から神を賛美する歌がたくさん生まれました。修道士の名、修道会の名前にもなりました。おとめマリアの賛歌は、「わたしの魂は主をあがめ」。「マグニフィカート」。ソプラノです。老人ザカリヤの賛歌は、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」。バスです。おとめも老人も共に、主をあがめ、主をほめたたえる賛美を共鳴しています。

 「ザカリヤ」という名前は、「神は覚えておられる」「神は忘れない」という意味です。ザカリヤは身分の低い祭司です。しかも死を間近にした老人です。たとえ私が神を忘れ、神を覚えていなくても、神は私を覚え、私を忘れることはない。その信仰のリズムが「ザカリヤの賛歌」の基調音となっています。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。

 主はその民を訪れ解放し、我らのために救いの角を、

 僕ダビデの家から起こされた。

 昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに」。

「ザカリヤの賛歌」も「マリア賛歌」と同じように、旧約聖書の御言葉が土台となっています。神の民の祈りの歴史が結集した祈り、賛歌です。悲しみの時も、苦しみの時も、何故、こんなことが起こるのかと問う時も、涙を流しながら、ひたすら主に祈り続けて来た一つ一つの祈りが一つになった賛歌です。

「マリア賛歌」でも歌われた「訪れる」という言葉があります。「目を留めて下さる」「顧みて下さる」「顔を向けて下さる」。それだけではない、「訪れて下さる」。苦難の時も、主は私たちを忘れることなく、顔を向けて下さり、顧みて、私どもの所にまで、身を低くして、訪れて下さった。主への疑い、不信の鎖に縛られている私どもを、罪の鎖から解き放つために、身を低くして、訪れて下さった。それがヨハネの誕生、主イエスの誕生です。

更に、注目すべきは、この言葉です。72節。

「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」。

「主の憐れみ」。これも「マリア賛歌」で歌われた大切な言葉です。神の民は主と結んだ契約を忘れてしまう。主に背中を向け、他のものに心惹かれてしまう。しかし、主は神の民と結んだ契約を忘れることはない。主は憐れみの神だから。主の憐れみの故に、主を裏切り続ける神の民を顧み、身を低くして訪れて下さる。低きに降って下さる。

 

「ザカリヤの賛歌」で、何と言っても、心惹かれる中心となる旋律は、説教の冒頭でも触れた結びの言葉です。

「これは我らの神の憐れみの心による。

 この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。

「我らの神の憐れみの心」が現れた。それはヨハネの誕生、何よりも主イエスの誕生の出来事です。この「神の憐れみの心」は、神が心痛める深い同情という意味です。神が自らの腸を引き千切る程、心を痛め、同情し、憐れんで下さる。神の心痛める憐れみの心はどこへ注がれるのか。暗闇と死の陰に座している者たちです。

 待降節を迎え、いろいろな方が教会を訪ねて来られます。若い方もいれば、高齢の方もいます。皆、心病んでいる。暗闇の中にうずくまって、必死にもがいている。とても神がおられるとは思えない闇の現実、死の陰の現実の中で、しかし、神に救いを求めて、呻いています。人間の目から見れば、光が届かないような暗黒と死の陰にも、主よ、どうか神の心痛める憐れみの光を注いで下さいと、共に祈りを捧げました。クリスマスコンサートに誘い、祈祷会に誘いました。一度だけではなく、何度も何度も主の御前で悲しみ、痛み、主に向かって嘆いてほしいと願いました。

 神の腸引き千切る程の、心痛め、同情し、憐れむ心。それはどこで現れたのか。ナインという村で、最愛のわが子を失い、涙を流すやもめに注がれた主イエスの憐れみです。主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、棺に手を触れられた。主イエス御自身、自らの腸を引き千切る程の痛みをもって、最愛の息子を亡くした母を憐れみ、手を触れて下さる。

 

4.①そのような神の痛みを伴う憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗黒と死の陰に座している者たちを照らし」。

「あけぼのの光が我らを訪れ」。夜明け前の光です。夜明け前が一層闇が深まります。世界を、私どもを深い闇で覆うのです。完全に闇に支配されてしまう。もう夜明けは来ないのではないかと思ってします。しかし、その時、東の空から、一筋の朝の光が射し込む。闇は大手を振るって一筋の光を覆おうとします。しかし、一筋の光は闇で覆われることはない。深い闇の中で一筋の光を放つのです。そして必ず、夜が明け、朝が来ることを告げるのです。それが「あけぼのの光」です。救い主イエスの誕生は、あけぼのの光が我らを訪れたのです。

 日本の女性伝道者の先駆けとなった伝道者に、植村環牧師がいます。父は日本を代表する伝道者・植村正久牧師です。植村環には、次々と暗黒と死の闇が押し寄せて来ました。長老であった夫を喪い、アメリカに留学中であった妹を喪い、息子を4歳で喪い、父・植村正久牧師が急逝した。母・季野は環に言いました。一人の伝道者を失ったのだから、あなたが伝道者に献身しなさい。植村環は7歳の娘を母に託し、単身、スコットランドに留学しました。35歳の時です。帰国後、自宅で開拓伝道を始め、柏木教会となりました。1969年、柏木教会のクリスマス礼拝での説教をしました。「朝(あしたの)の光、上より」。「ザカリヤの賛歌」を説き明かした説教です。文語訳聖書では、「あけぼのの光、我らを訪れ」を「朝(あした)の光、上より」と訳しています。私は植村環牧師のクリスマス説教を通じて、文語訳のこの言葉を知りました。心惹かれる訳です。「朝(あした)の光、上より」。朝の光は、天より、主より来る。

 この説教の中で、植村環牧師は母・季野の病床で歌った句を紹介しています。

「くだかけの あしたの告げを待ちわぶる 病ふの窓のしののめうれし」。

「とこしへの しののめ、ほのと見えそめて 夜半のたたかひあとかたもなし」。

「くだかけ」は鶏です。「しののめ」は夜明けに東の空にたなびく雲です。

病人にとって夜は長く、孤独な闘いを強いられます。夜の深い闇に呑み込まれてしまうのではないかという恐れをいだきます。朝を待ち望みます。鶏の朝を告げる声を聞き、窓から見えるしののめを見て、朝が来たとの喜びを抱きます。しかし、この句は自然界の朝を詠んでいるのではありません。とこしえのしののめと歌っているように、永遠の朝を待ち望んでいるのです。死の闇を超えた、永遠のいのちの朝を待ち望んでいるのです。

 

「朝(あした)の光、上より」。「あけぼのの光、高い所から我らを訪れ」。天高くにおられる神が、人となられ、幼子となって、低きに降られ、我らを訪れて下さった。この朝(あした)の光、あけぼのの光は、暗闇の中に輝き、暗闇に勝利した光です。死の暗闇に打ち勝った光です。そして永遠の朝を約束する光です。「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。真の光・主イエス・キリストは永遠の朝が来ることを告げる明けの明星です。

 私どもの命の流れは朝から夕です。しかし、真の光イエス・キリストが私どもにもたらした命の流れはそうではありません。夕から朝へです。私どもの命の終わりは、夜の闇、死の闇ではありません。真の光・主イエス・キリストによって、永遠の朝の到来を告げるのです。永遠の朝の光の中で、死の眠りから目覚め、甦らされるのです。

 死の闇と向き合う私どもです。深い闇と向き合う私どもです。しかし、私どもの口にも、主によって「ザカリヤの賛歌」が授けられたのです。ザカリヤと共に夜明けの歌を歌うのです。

「我らの神の憐れみの心によって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰の座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。

 最後に、この「ザカリヤの賛歌」と響き合う祈りに、共に祈りを合わせたいと願います。

「わたしの光よ、来て、わたしの闇を照らしてください。

 わたしの命よ、来て、わたしを死から生き返らせてください。

 わたしの癒し主よ、来て、わたしの傷を癒してください。

 神の愛の炎よ、来て、わたしの罪のとげを焼き尽くし

 あなたの愛の炎でわたしの心を燃やしてください。

 わたしの主よ、来て、わたしの心の王座につき、

わたしの心を治めてください。

あなただけがわたしの王、わたしの主です」。

 

 お祈りいたします。

「暗闇と死の陰に座している私どもの所に、神の心痛める憐れみが、あけぼのの光となって来て下さいました。どんなに深い闇であっても、絶望のどん底に突き落とす死の闇であっても、あけぼのの光・主イエスは打ち勝ち、闇の中に輝くとこしえの光となって下さるのです。あけぼのの光に照らされて、主に向かって涙を流し、嘆き、祈り、賛美を歌わせて下さい。私どもの賛美の交わりの中に、苦しんでいる者、悲しんでいる者たちを招いて下さい。

この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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