「あなたがたは聖霊が宿る神の宮」
エゼキエル11:16~20
コリント一6:12~20
主日礼拝
井ノ川 勝
2023年4月16日
1.①「100分で名著」というテレビ番組があります。4月より「新約聖書・福音書」が採り上げられています。解説をされているのは、文学者の若松英輔さんです。カトリックの信仰に生きておられる方です。私はその番組を観ながら、電波に乗って主イエスの御言葉が日本中の各家庭に届けられていることを想像し、心が熱くなる思いをしました。
第1回目に採り上げられたのは、主イエスが山の上で語られた山上の説教、その冒頭にある8つの幸いの教えでした。若松さんは特に、最初の二つの御言葉が重要であると語られていました。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」。
意表を突く主イエスの言葉です。私どもは心の豊かさを求めて、様々な学びをし、体験を重ね、努力をしています。ところが、主イエスは語られます。「心の貧しい人々こそ幸いである」と。一体、心が貧しいとはどういうことなのでしょうか。若松さんはこう解説をしています。
「ここでいう『貧しさ』とは、金銭などの資産をもっていないということではありません。自分の不完全さということです。自分が不完全であること、あるいは自分一人では生きていけないことを真の意味で知る。そういう人は『幸い』だとイエスはいうのです。こうしたとき、私たちは自分の『弱さ』と向き合うことになる。しかし、同時に他者の存在の重みも認識するのではないでしょうか」。
「心の貧しい人」とは、「心の器が空っぽである」という意味でもあります。心の器がいろいろなもので満たされているから、私は十分だというのではないのです。心の器が空っぽだから、主よ、どうか満たして下さいと、主に祈り求めるのです。さて、問題は、私どもの空っぽになっている心の器に、何を満たすのかです。そのことによって、私どもの生き方が変わるのではないでしょうか。
②新年度を迎えまして、今朝、初めて礼拝に出席された高校生、大学生、そのご家族もおられることと思います。高校生活、大学生活を通して、様々なことを学び、知識を身に着け、学校行事、クラブ活動を通して、様々な経験をします。それらの知識、経験を自分の器の中に蓄えて、将来のために生かし、自分の人生を豊かにしようとします。しかし、問題は自分の中に蓄えた知識や経験を何のために用いるのかです。
若松さんが「新約聖書・福音書」の講義の中で、紹介された主イエスの言葉があります。
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。
主イエスはパンそのものを否定してはおられません。パンは生きて行くために必要であると捕らえています。しかし、パンだけでは私どもは豊かに生きることは出来ません。この場合のパンは、私どもが蓄える知識、経験も含まれるでしょう。しかし、それだけでは豊かに生きることは出来ない。神の口から出る一つ一つの言葉を食べて生きるのです。空っぽの心の器に、主の御言葉で満たして下さいと求めるのです。
今朝、私どもが聴いたコリントの信徒への手紙一6章の御言葉の中に、面白い言葉があります。
「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれも滅ぼされる」。
どういう意味なのでしょうか。私どもはお腹が空きますと、食物でお腹を満たします。食物でお腹が満腹します。満足します。しばしばこの場合の食物は私どものお腹を満たす欲望と重ね合わされます。欲望が私どものお腹を満たすと、私どものお腹は腹黒くなります。欲望と腹は結び付いて語られます。欲望でお腹が満たされると、いつの間にか、私どもは欲望の奴隷となってしまいます。腹だけではなく、心までも欲望に支配されてしまいます。
私どもの空っぽの心の器に、何を満たすのか。私どもが蓄えた知識も経験も、自分の欲望のために用いたなら、私どもは身を滅ぼすことになります。しかし、主イエスは語られます。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。神の口から出る一つ一つの言葉で、あなたの空っぽの心の器を満たしてもらいなさい。神の言葉によって、あなたの蓄えた知識も経験も、主のために生かしてみなさい。
2.①もう一度、この御言葉に注目してみましょう。
「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれも滅ぼされます」。
古より教会が数え上げる罪の中に、暴飲、暴食、大食漢の罪があります。なぜ、食べ過ぎが罪なのでしょうか。体を壊す原因となるからです。体も神が与えて下さったからです。聖書は大切なのは心であって、体を低く捕らえようとはしません。心も体も神が与えて下さった大切なものです。そして心と体は一つとなって、私どもを形造っています。それ故、心も体も主のものです。心だけではなく、体も痛めつけてはいけないのです。
先週、主イエス・キリストが甦られたイースターを迎えました。主イエスは霊的に甦られたのではなく、体をもって甦られました。心と体をもって、甦られた主イエスは弟子たちと、食事の交わりをされました。ここにもキリスト教信仰が、心と共に、体を大切にする要因があります。
先週、病院、施設におられる教会員を訪問しました。イースターの祝福を運び、告げるためです。コロナ禍で、直接、顔を合わせられた教会員もいれば、窓越しでお会いした教会員もいました。オンラインの画面でお会いした教会員もいました。以前お会いした時と比べ、お体が細くなられた方もいました。お顔が痩せられた方もいました。病を負われ、病と向き合っている方、家族を亡くされ、涙が渇かない方もいました。イースターの讃美歌を共に歌い、祈りを捧げました。私どもの体は老いて、衰えて行きます。死に直面し ます。しかし、主イエス・キリストは死に打ち勝ち、甦られて、あなたと共に生きておられることは、確かなことです。心だけではなく、老いて衰えて行く体をも、甦られた主イエスのいのちの御手で支えて下さるのです。
今日の御言葉は、伝道者パウロがギリシャ半島にあるコリントの町の教会の信徒に宛てた手紙です。パウロの伝道によって生まれた教会です。しかし、教会員の中にも、ギリシャ哲学の影響を受けている方が多くいました。肉体と魂とを分けて捕らえる人間理解です。私どもの魂は汚れた肉体に閉じ込められている。しかし、死によって汚れた肉体から解放されて、私どもの魂は永遠に生きる。私が以前、伝道していた伊勢は、伊勢神宮があり、市民のほとんどが神道で葬儀をいたします。亡くなった体を亡骸と呼びます。魂は汚れた体から解き放たれて、祖霊となって神宮の森に宿り、子孫を永遠に見守る。体は滅びても、魂は滅びない。それが神道の葬儀です。
しかし、私ども教会は亡くなった教会員の体が、教会に運ばれて来た時に、亡骸とは受け止めません。死んだ体を汚れた体とは受け止めません。心も体も主のものだからです。死に打ち勝たれた、甦られた主イエス・キリストのいのちの御手の中にあると信じるからです。
②今日の御言葉の中で、皆さんの心に刻んでいただきたい御言葉は、この言葉です。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。
私どもの金沢教会は宗教改革によって誕生したプロテスタント教会です。宗教改革時代に、聖書の御言葉を主題別に問答形式でまとめた小冊子が生まれました。その代表的なものに、『ハイデルベルク信仰問答』があります。その問1の問答が重要ですが、問1の問答は、今日の御言葉から生まれたものです。
「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。
皆さんにとっての慰めとは何でしょうか。ここで問いかけているのは、生きている時だけの慰めではありません。死ぬ時の慰めでもあります。私どもが所有している慰めは、死に直面しますと、力を失います。死に太刀打ち出来ません。生きている時も、死ぬ時も、変わらない慰めなどあるのでしょうか。ただ一つあると言うのです。それは何でしょうか。答はこう答えています。
「わたしが、身も魂も、生きている時も死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることであります」。
ここで強調されていることは、「身も魂も」です。魂だけでなく、身も体もです。私どもは生きている時も死ぬ時も、身も魂も、わたしのものではなく、私どもの真実な救い主イエス・キリストのものなのです。なぜ、そう言えるのでしょうか。答は続きます。
「主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり、わたしを悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいますので」。
そして、このような言葉で結ばれます。
「したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、して下さるのであります」。
『ハイデルベルク信仰問答』問1の問答の一つ一つの言葉が、今日の御言葉から生まれていることが分かります。
3.①伝道者パウロは、コリントの教会の信徒一人一人に向かって語りかけています。「あなたがたは知らないのですか」。実に、パウロはこの言葉を三度も繰り返しています。「あなたがたは知らないのですか」。「あなたがたに起こっている、このことだけは知っておいてほしい」。それは何なのでしょうか。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。
驚くべきことが私どもの体に起きているのです。私どもの体は聖霊が宿っている神殿である。神殿とは神を礼拝する場所です。以前の口語訳聖書では「聖霊が宿っている神の宮」と訳されていました。私どもは聖霊が宿ることにより、神の宮とされているのです。聖霊とは神の霊です。キリストの霊です。キリストを甦らせた神の霊です。その神の霊が私どもに宿って、私どもを生き、私どもを生かしているのです。私どもは誰もが自分の力で生きていると思っています。私が判断し、決断して生きていると思っています。しかし、実は、神から送られた聖霊が私どもに宿り、私どもを生き、私どもを生かしている。死を超えて生きて下さるのです。
イースターで訪問した一人一人の教会員。老いて、衰えている体の教会員、病を負うている教会員、死と向き合っている教会員。しかし、一人一人の体に、聖霊が宿り、その方を生き、その方を生かしているのだと、対面しながら、この御言葉を心に刻みました。
一体なぜ、私どもの体は聖霊が宿っている神の宮であると、大胆にも言うことが出来るのでしょうか。
「あなたがたは、主イエスによって代価を払って買い取られた」からです。
今朝、初めて礼拝に出席された方がいます。金沢教会の礼拝堂には、十字架がありません。しかし、目に見える形で十字架がなくても、十字架の信仰に生きています。なぜ、教会は十字架を重んじるのでしょうか。なぜ、主イエスは十字架につけられたのでしょうか。十字架で一体何が起こったのでしょうか。私どもは自分の命は私のものだと信じて生きています。自分の能力、力を信じて生きています。神など信じなくても、頼らなくても、自分の力だけで生きて行けると思っています。しかし、いつの間にか、様々な力が私どもを支配するようになります。自分の思い通りに生きることが出来なくなります。病が私ども支配する。老いが私どもを支配する。欲望が私どもを支配する。死が私どもを支配する。悪魔が私どもを支配する。私の命は私のものだと思っていたのに、自由に生きられない。不自由な、窮屈な生き方になってしまっています。
しかし、主イエスが私どものために、御自分のいのちを代価として支払うことにより、私どもを買い戻して下さった。あなたはわたしのものだと保証して下さった。私どもを縮込ませるあらゆる力から解き放って下さった。私どもの命は、主イエス・キリストのいのちと同じ重さを持っている。それが十字架で起きた出来事であったのです。私どものための十字架であったのです。
②「あなたがたは知らないのですか。あなたがたの体は、聖霊が宿っている神の宮です」。
伝道者パウロは他の手紙ではこう語っていました。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
昨年、私が神学生時代、神学校の学長でありました大木英夫先生が逝去されました。大木英夫先生からは神学書や説教を通して、様々なことを学びました。中でも、「キリストへの道」という講演は、大木先生の信仰の原点が語られています。大木先生をキリストへの道に導いた伝道者・賀川豊彦生誕百周年記念伝道会で語られた講演です。
大木先生は東京陸軍幼年学校の最上級生の時、16歳の夏に敗戦を迎えました。ひたすらお国のため、天皇のために生き、死ぬために生きて来た。ところが、突然、敗戦を経験した。これから何のために生きて行けばよいのか、生きる目標を失った。心の中にぽっかりと穴が開いた。虚脱、空洞、虚無。それが敗戦直後の青年たちの状態でした。失意と虚脱状態で、故郷の会津に帰った。敗戦の年の晩秋の夜、会津の喜多方教会で賀川豊彦牧師の伝道集会が行われた。初めて教会に足を踏み入れた。賀川先生は、神の存在と神の愛を、力を込めて語られた。丁度、母親の胎内の赤ちゃんが母親の中にいて母親を知らないように、人間は神の中にいて神を知らないという譬えが心に残った。キリストの十字架の愛を「贖罪愛」と言う奇妙な言葉を初めて聞いた。礼拝後、キリストの弟子になろうとする者は前の方に進み出るようにと呼びかけられ、前に出た。そこで生まれて初めて握手をした。賀川先生から握手をされた。賀川先生のあの強い握手をもって、わたしは教会の外から教会の内へと引き込まれて行った。
賀川先生が語った「贖罪愛」が分かったのは、ずっと後のことだった。それは「身代わりの愛」。戦争を通し、他者を犠牲にして生き延びようとする現人神を経験した。しかし、神が人間となり、自己を犠牲にして、他を生かす神の愛、それこそが十字架のキリストの身代わりの愛であることを、全身で味わった。洗礼へと導かれ、伝道者へと献身した。
大木先生は独特の譬えで語ります。タクシーというのは不思議なものです。人が乗ると行く先が決まり、仕事ができる。人が乗らなければ、運転手はまことに空しい一日を過ごす。乗客が乗っていないタクシーは「空車」であり、人を乗せると「実車」と呼ばれる。車体も同じ、エンジンも同じ、走りも同じ、しかし、「実車」と「空車」は天と地の違いがある。タクシーは拾われなければならない。本当の「主」に拾われねばならない。タクシーは、客を乗せると、客が「主」になります。その「主」である客が、行くべきところを指し示します。
「あなたがたは聖霊が宿る神の宮」、「あなたがたはキリストを甦られた霊が宿る神の宮」、「あなたがたはキリストが宿る神の宮」。聖霊が、キリストが私どもに宿り、私どもを生き、私どもを生かし、私どもを死を超えて生かして下さるのです。それ故、伝道者パウロは語ります。
「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。
4.①今、私どもが礼拝を捧げている礼拝堂は、十字架もなければ、何の飾りも像もない、真に殺風景な礼拝堂です。隣のカトリック教会の礼拝堂は、正面に十字架のキリスト像があります。マリア像もあります。ステンドグラスがあります。真に厳かな雰囲気がいたします。それに対して、金沢教会の礼拝堂は、真に体育館のような殺風景な空間です。このようなプロテスタント教会の礼拝堂を「聖なる空虚」と呼びました。空しい聖なる空間です。しかし、私どもの礼拝堂は主の日の朝を待っているのです。主イエス・キリストが甦られた主の日の朝です。主の日の朝、甦られた主イエス・キリストが、私どもを礼拝へと招いて下さるのです。そして主に呼び集められた私どもが、心を一つにして、声を合わせて、「主イエス・キリストは甦られ、生きておられる。ハレルヤ」と讃美する。主への讃美で満ち溢れる。聖なる空虚である礼拝堂が、主への讃美で満ち溢れるのです。ここに、甦られた主イエス・キリストが生きておられるからです。この礼拝こそが、主への讃美こそが、私どもの体をもって神の栄光を現すことなのです。愛する家族、教会員の棺を前にして捧げる葬儀も主への礼拝ですから、同じです。生きている私どもも、死を迎えた者も、同じ主のものとして、甦られた主をほめたたえるのです。
今日の御言葉は、同じコリントの信徒への手紙一14章24節以下の御言葉を指し示しています。
「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」。
お祈りいたします。
「死の恐れ、不安の中にある私どもです。しかし、主よ、あなたは御自分のいのちの代価を払ってまで、私どもを買い戻し、主のものとして下さいました。私どもは聖霊が宿る神の宮とされています。聖霊が私どもに宿り、聖霊が私どもを生き、聖霊が私どもを生かし、聖霊が死を超えて私どもを生かして下さるのです。私どもの体をもって、礼拝を通し、主への讃美をもいって、ここに甦られた主イエス・キリストが生きておられることを証しすることができますように。今日、初めて礼拝に出席された方が、主への讃美に声を合わせることができますように。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。