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「あなたがたを孤児とはしない」

イザヤ42:1~9
ヨハネ14:1~19

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年8月13日

00:00 / 32:21

1.①今、話題となっているアニメ映画に、宮崎駿監督が制作された「君たちはどう生きるか」があります。皆さんの中にも御覧になられた方がいるかもしれません。今回の作品はその内容を一切宣伝も広告もしないということでも、話題を呼んでいます。分かっていることは、作品の題名は吉野源三郎の本の題名から採られたということです。そのため、5年前に注目を浴びて復刊された吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が再び読まれるようになっています。この本は1937年(昭和12年)に発刊された書物です。日本が太平洋戦争に向かって行く時代に書かれました。あさって8月15日は敗戦記念日を迎えます。敗戦後78年を迎えます。

 主人公はコペル君、旧制中学2年生です。コペルという名前はあだ名です。天動説に代わって地動説を唱えたコペルニクスから採られたあだ名です。これまで地球が中心となって天体が動いていると考えられていた。ところが、実は地球も天体の一つだと分かった。そこから物事を180度転換して考えるコペルニスク的転換という言葉が生まれるようになりました。

 コペル君が経験する学校生活での様々な疑問、問題を、今、世界が直面している社会的問題と重ね合わせて、おじさんがノートを通して助言して行きます。そこでの大切な視点は、自分を中心にして物事を考えるのではなく、他のものを中心に置いて物事を考えなさいということです。将に、コペルニスク的転換を図るということです。その時、今まで見えて来なかったものが見えて来るのです。物事を見つめる視点、物事を解決する視点が与えられるのです。

 「君たちはどう生きるか」。この問いかけは時代が分かっても、若者に、あらゆる年代の人に問いかけられている普遍的な人生の主題です。「君たちはどう生きるか」、「君たちはいかなる道を生きているのか」。生きることは、道を生きることであるからです。私どもは自らの生き方を通して、どのように応えるのでしょうか。私ども一人一人に問いかけられています。

 

②先週、長く共に礼拝生活を送って来られた教会員の北川美智子さんが逝去され、葬儀が行われました。葬儀を通して、美智子さんが歩まれて来た人生の道、信仰の道を振り返りました。美智子さんが生きて来た道の中心は何であったのか。何が美智子さんの歩んで来た道を導いて来られたのか。改めて心に留めました。美智子さんは北陸学院高校で聖書と出会い、讃美歌と出会い、そして何よりもキリストと出会いました。金沢教会へと導かれ、1956年(昭和31年)のクリスマスに洗礼を受けられました。17歳の時です。それから84歳で逝去されるまで、一筋の心をもって、主イエス・キリストと共に道を歩んで来られたのです。自分を中心において物事を考え、判断するのではなく、イエスさまだったらどう考えられるのだろう、イエスさまだったらどう決断されるのだろう、主イエス・キリストを中心において物事を考え、判断されて、道を歩んで来られたのです。

一昨日の8月11日、北川美智子さんの葬儀が行われました。火葬の時に朗読した御言葉が、この朝、私どもに与えられたヨハネ福音書14章の御言葉でした。

 

2.①この御言葉は、主イエスが十字架の死を目前として、弟子たちに向かって語られた遺言説教の冒頭の御言葉です。弟子たちは主イエスと片時も離れることなく、共に道を歩んで来ました。ところが、主イエスただお一人が、別の道を歩もうとされる。弟子たちは心騒がせました。心が騒ぐ。子こりが千々に乱れることです。心が千々に乱れ、分裂して、焦点が定まらない。それ故、不安と恐れに満たされてしまうのです。私どもも様々に場面で、心が千々に乱れることがあります。その最たる時は、死と向き合う時です。自らの死と向き合う。家族の死と向き合う。友の死と向き合う。私どもの心は揺れ動き、心が千々に乱れ、焦点が定まらなくなります。どうしたらよいのか分からなくなります。

 心騒がせる弟子たちに向かって、しかし、主イエスは語られました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

心を騒がせる時、千々に乱れる時にこそ、神に、わたし主イエスに心を向けなさいと語られます。神に、主イエスに焦点を定めなさいと語られます。

 先週8月9日、北川美智子さんは御自宅で、家族に見守られながら、静かに息を引き取られました。一週間前の8月3日、美智子さんを訪問しました。ベッドに横になられた美智子さんは死と向き合っておられました。「美智子さんのお好きな讃美歌を歌いますね。愛唱讃美歌はどれですか」。「いっぱいあって、一つを選べないわ。どの讃美歌も好き」。その時、一緒に歌った讃美歌が、「いつくしみ深き、友なるイエスは」でした。慈しみ深き、友なるイエスが、死と向き合いベッドで横になっている美智子さんと共にいて下さる。生ける主イエスに焦点を定めて、共に讃美歌を歌いました。その時、見えて来る主イエスのお姿があります。「またお会いしましょうね」と言って、別れました。まさか、それが最後になるとは思っても見ませんでした。

 

②主イエスはただ一人どこへ向かわれるのでしょうか。十字架の道を歩むことを決意されました。それは弟子であっても歩むことの出来ない険しい過酷な道です。一体何故、主イエスはただ一人、十字架の道を歩まれる決意をされたのでしょうか。主イエスは語られました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。

 主イエスは私どものために、死を超えて、父の家に住む所を備えるために、ただ一人十字架の道を歩むことを決意されたのです。

 私どもが生きることは、道を歩むことです。しかし、私どもが歩む道は、死で行き止まりです。どんなに充実した人生の道を歩んで来ても、死の大きな壁が私どもの道を塞ぐのです。死の壁を乗り越えることは出来ないのです。しかし、主イエス・キリストは死の壁を突き抜けて、私どものために父の家に住む所を備えるために、ただ一人十字架の道を歩む決意をされたのです。死の壁を突き抜けて、命の道を開通させるために、十字架の道を歩む決意をされたのです。

 ここで主イエスが語られる「住む所」という言葉は興味深い言葉です。「留まる所」という意味です。これはヨハネ福音書が愛用する言葉です。例えば、この後15章で、主イエスは語られました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。主イエスは繰り返し語られました。「わたしにつながっていなさい」。言い換えれば、「わたしにとどまっていなさい」。そうすれば、あなたは豊かな実を結ぶ道を生きることが出来る。キリスト教学校の卒業式の記念の聖書、讃美歌に、よく書かれる御言葉でもあります。

 しかし、私どもが主イエスに留まるのは、生きている間のことではない。死を超えて、私どもが留まる所を父の家に備えるために、主イエスは十字架の道を歩まれる。私どもが死に直面したら、肉体から魂が抜けて、留まる所がなく、さまよっている霊となるのではありません。あなたがたのために、父の家に留まる所を備えると主イエスは語られる。

 

3.①しかし、弟子のトマスが主イエスに問いかけました。

「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。

 弟子たちが何故、心騒がしているのか。道が見えないからです。主イエスが進まれる道。そして、そのことによって備えられる父の家に留まる家への道が見えないのです。主イエスが開拓される死を突き抜けたいのちの道が見えないのです。自分たちの進むべき道が見えないのです。トマスの無理解は私どもの無理解でもあります。しかし、この時、語られた主イエスの御言葉は、多くの人々の心に刻まれる御言葉となりました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。

 ここで重要なことは、主イエスが道を示されたのではありません。主イエス御自身が道であることです。そしてその道こそ、真理の道であり、命の道である。父の許へ繋がる道であるのです。主イエスを信じることは、主イエスと共に道を歩くことです。しかし同時に、主イエスを信じることは、道であるキリストを生きることでもあります。私はしばしば語ります。私どもの信仰は、キリストの教えを学ぶキリスト教ではなくて、キリストの道を生きるキリスト道であると。頭で理解するだけの信仰ではなく、体で生活する信仰であるのです。それは主イエスのこの御言葉から生まれたものです。

「わたしは道であり、真理であり、命である」。

北陸学院高校の3年生の時、洗礼を受けられた北川美智子は、生涯、キリストの道をキリストと共に生きたのです。

 

②日本に3度来られ、日本の教会を愛したスイス人の神学者に、ルードルフ・ボーレンがいました。2度目に来日された時に、名古屋まで足を延ばして下さり、牧師のために講演をして下さいました。昼食、夕食を一緒にしたのですが、うどんを箸で器用に食べていました。ボーレン先生の著書は、畏友である加藤常昭先生によって幾つも訳されています。その中で、多くの人々に最もよく読まれた本は、『天水桶の深みにて~こころ病む者と共に生きて~』です。ボーレン先生が大学で神学生に、自死をした者の家族に向かって、どのような魂への配慮をしたらよいかを講義している時に、奥さまが自死をされました。ボーレン先生は自分で自分を責め、心病んでしまいました。長い間、立ち直ることが出来ませんでした。そのようなボーレン先生が何故、立ち直ることが出来たのか。自らの体験を通して、書かれた書物がこの本なのです。

 原書の題名は、『暗い穴蔵にうずくまり』です。外界から切り離された暗い穴蔵の中で、一人孤独にうずくまる。閉塞状況に陥る。しかし、その穴蔵は貯水槽であって、地面からじわじわと湧き水が染み込んで来る。私どもが生きている世界で今、一人孤独で、暗い穴蔵にうずくまっている方が多くいます。しかし、そこにも命の水が流れ、命の光が射すように、願わずにはいられません。日本語訳は『天水桶の深みにて』と訳されました。江戸時代に用いられた雨水を受ける桶です。たとえ閉塞状況に陥っても、雨水が届かないような深い穴蔵でうずくまっても、そこにも天から雨水が届けられる。

 妻を自死で失い、自らも心病んでしまったボーレン先生は、いかにして立ち直ることが出来たのでしょうか。ボーレン先生は宗教改革の時代に作成された『ハイデルベルク信仰問答』の中で、取り分け問53、聖霊への信仰が語られている言葉を何度も暗唱し、心病んだ心と体に刻み込みました。こういう言葉です。

「聖霊が、この私にも与えられており、まことの信仰を通じて、キリストと、そのすべての恵みのみわざに与らせてくださり、私を慰め、しかも、永遠に至るまで、私の傍らに留まってくださる」。

 以前、加藤常昭先生が金沢教会の伝道礼拝で説教の奉仕をされ、教会修養会で、『ハイデルベルク信仰問答』問53の説き明かしをして下さったことがあります。それが金沢教会伝道説教集『あなたは何を求めていますか』に収録されています。

 妻を自死で失い、自らも心病んだボーレン先生を立ち直らせた言葉、その元になった言葉を、主イエスはこの遺言説教で、弟子たちに向かって語られているのです。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたは霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きることになる」。

 主イエスはただ一人十字架の道を歩まれ、弟子たちから去って、父の許へ行かれます。しかし、主イエスは約束されます。父は別の弁護者を遣わして下さる。永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。「別の弁護者」こそが、聖霊です。私の傍らに立って、弁護して下さる神。「助け主」「慰め主」とも言い換えることが出来ます。私どもの傍らに立って、執り成して下さる神です。それ故、私はあなたがたをみなしごにはしない。孤児にはしない。独りぼっちのままにしない。孤独のままにはしないのです。聖霊がおられるところ、そこに主イエス・キリストも共に生きておられるからです。

 この主イエスの御言葉から生まれた信仰問答の言葉が、ボーレン先生を立ち直られました。「聖霊がこの私にも与えられており、まことの信仰を通じて、キリストと、そのすべての恵みのみわざに与らせて下さり、私を慰め、しかも永遠に至るまで、私の傍らに留まって下さる」。

 ボーレン先生がこの書物の中で、自らの体験を通して、こう語られています。

「キリスト者の魂は、いかなる穴も持ってはならないと言うのは間違いである。自分の魂のなかに、どれほど大きな、どれほど多くの穴があろうが、それは問題にはならない。どれほど多くの苦い水が、その穴のなかに集まろうが、それも問題にはならないのである。むしろ大切なのは、穴だらけの魂を抱くままにイエス・キリストものになっているということである。そうなれば、私の魂のなかの苦いもの、重苦しいものも、すべて私のものではなく、イエス・キリストに属する事柄なのである。穴だらけの私の魂にも、聖霊が注がれており、永遠に留まって、慰めて下さるのである」。

 

4.①聖霊が注がれ、聖霊を宿している私どもは、聖霊の器、聖霊の道具となって、主のために用いられるのです。聖霊は傍らに立ち、慰め、執り成す神です。私どもも聖霊の器、聖霊の道具として、悲しむ者の傍らに立ち、主の慰めを運び、執り成しの祈りを捧げるのです。8月は訪問月間です。教会に連なる私ども一人一人が聖霊の器、聖霊の道具となって、礼拝に出席出来ない高齢、病床の方、悲しみの中にある方、教会から離れている方を覚えて、訪ねたり、手紙を書いたり、電話をかけたり、祈りをしたりして、執り成しの交わりに生きるのです。教会は苦しみを共にし、慰めを共にする慰めの共同体だからです。

 ボーレン先生が立ち直った後、「神が慰めてくださる!」という説教をされました。その中でこう語られました。

「私にとってのすばらしい経験は、妻の死に際して、この私を撃った出来事のなかで、自分はひとりではないということを感じ取ったということであります。私は、重い苦しみのなかで、神の慰めを体験しました。そこで、私はまたこう言うこともできます。牧師、また教授としての自分の生涯において、私どもが信じるイエス・キリストの教会が、ひとつの現実であり、ひとつの力であるということを、これほど強く体験することは今までありませんでした。ある方は、ひとつの詩編の言葉を自分が聞き取り、私を訪ね、それを更に私に伝えてくれました。ひとことの言葉であります。それが私を凍える思いから解き放ったのであります。多くの人びとが書き、また語ってくださいました。私と人びとのために祈ってくださったことを。それが実際になされたことだということを、ほとんどからだで感じ取ることができました。神は、教会のなかで、教会を通じて、私を慰めてくださったのであります」。

 

②ボーレン先生は、ある牧師が教会員の葬儀の時に語られた説教を集め、葬儀説教集をまとめられたことがあります。一人一人の教会員の死は異なり、その葬儀で語られた説教も異なります。

 深い悲しみの時には、ひっきりなしに、失ったものにばかり心が行きます。従って、どんなにいろいろな言葉を連ねて嘆き、訴えるとしても、悲しみはいつも一本調子です。どんなに向きを変えても、あるのは同じ悲しみばかりです。それ故に、悲しみの時には、根本においてはただ一つの慰めがあればよいのです。この牧師は葬儀説教で、いつもただ一つの慰めを語っていました。ただ一つの慰めとは何か。「神は生きておられる、わたしたちは生きる時も死ぬ時も、神の御手の内にあり、主イエス・キリストのものとされ、聖霊により永遠に孤児とはしないと保証されているからです」。

 

 お祈りいたします。

「大切な命を失い、心を騒がせる私どもです。心が千々に乱れ、心病んでしまう私どもです。主よ、私どもの傍らに立って下さい。慰め主よ、聖霊を注いで下さい。私どもを執り成して下さい。私どもを孤児とはしないで下さい。私どもを悲しみの中から立ち上がらせて下さい。私どもも聖霊の器、聖霊の道具として用いて下さい。あなたの慰めを悲しんでいる人々に運ばせて下さい。私どもの交わりを共に苦しみ、共に慰める慰めの共同体として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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