top of page

「あなたの使命は何ですか」

イザヤ書60:1~2
マタイによる福音書5:13~16

主日礼拝

井ノ川勝

2025年5月25日

00:00 / 00:00

1.①詩人まどみちおさんの詩に、皆さんも触れたことがあると思います。私どもが幼稚園の時に歌った「ぞうさん」という童謡も、まどみちおさんの詩です。私の好きな詩に、「ぼくがここに」があります。

「ぼくが ここに いるとき ほかの どんなものも

 ぼくに かさなって ここに いることは できない

 もしも ゾウが ここに いるならば そのゾウだけ

 マメが いるならば その一つぶの マメだけ

 しか ここに いることは できない

 

 ああ このちきゅうの うえでは こんなに だいじに

 まもられているのだ どんなものが どんなところに 

いるときにも

 その『いること』こそが なににも まして 

 すばらしいこと として」

 また、このような詩もあります。

「路傍の石ころは 石ころとしての使命をもち

 野の花は 草としての使命をもっている。

 石ころ以外の何ものも 石ころになる事はできない。

 草を除いては 他の如何なるものと雖も 草とはなり得ない」。

 私が子どもの頃、学校と家との行き帰りの道には、アスファルトで舗装されていませんでした。土の道でしたので、いろいろな形をしていた小石が転がっていました。誰からも見向きもされない、いびつな形の石ころです。砂埃にまみれた薄汚れた石ころです。せいぜい学校帰りの小学生に蹴飛ばされる石ころです。また、道端には誰からも見向きもされない小さな野の花が咲いています。

 龍安寺の石庭に置かれた立派な石なら、皆が何と素晴らしいことかと感嘆します。有名な日本家屋の床の間に飾られた生け花なら、皆が何と美しいことかと感嘆します。しかし、道に転がっている石ころ、道端に咲く野の花には、誰も立ち止まり、見向きもしません。しかし、まどみちおさんは詩に綴ります。

「路傍の石ころは 石ころとしての使命をもち

 野の花は 草としての使命をもっている」

 驚くべき言葉です。路傍の石ころ、道端の野の花に、一体どんな使命があるのだろうかと思ってしまいます。しかし、路傍の石ころ、道端の野の花にも使命があると言うのです。そして取りも直さず、路傍の石ころ、道端の野の花と、私ども一人一人を重ね合わせているのです。

「ぼくが ここに いるとき ほかの どんなものも

 ぼくに かさなって ここに いることは できない

 その『いること』こそが なににも まして

 すばらしいこと として」

 

私は今から12年前、金沢教会の伝道者として遣わされました。その時に、何度も耳にした言葉があります。「ミッション」です。何故、皆が「ミッション」「ミッション」と呼ぶのか分かりませんでした。「ミッション」という言葉は、「伝道」という意味があります。また、「外国に宣教師を遣わす伝道団体」という意味があります。一ヶ月経って、北陸学院を「ミッション」と呼んでいることが分かりました。北陸学院はアメリカの北長老教会から遣わされたトマス・ウィン宣教師、メリー・ヘッセル宣教師の伝道によって生まれた学校です。今年で140周年を迎えます。

 また、北陸学院のスクールモットーは、「あなたのミッションを実現しよう」です。「ミッション」には、「使命」という意味があります。「神さまから与えられた使命」があります。北陸学院は神さまから与えられた使命に生きる学校。北陸学院で学ぶ一人一人が、神さまから与えられた使命に生きている。北陸学院を「ミッション」と呼ぶのは、素晴らしい呼び名だと思いました。

 私がここにいるということは、神さまから与えられた使命があるからです。あなたに与えられた神さまからの使命とは何でしょうか。「使命」という言葉は、別の言葉で言い換えれば、「生きる意味」です。「私がここにいる意味」です。あなたの「生きる意味」「ここにいる意味」は何ですか。そのことを、聖書を通してあなたに語りかけている神さまの言葉を聴いて、知ってほしいのです。

 

2.①この朝、主イエスは私ども一人一人に向かって語りかけます。

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。

キリスト教学校で、この御言葉をスクールモットーにしている学校もあります。地の塩、世の光として生きることこそ、主イエスが私どもに託された使命であると受け止めたからです。それでは、主イエスがこの言葉に込められた思いとはどのようなものなのでしょうか。「地の塩」「世の光」とは、どのような意味なのでしょうか。何故、「塩」と「光」なのでしょうか。

 「塩」は私どもが生きて行く上で、欠かせないものです。水と同様、塩は生きるために、無くてはならぬものです。しかし、塩が自己主張したら、辛くて口に出来ません。私どもの体に良くありません。塩は他の素材を引き立たせるために、隠し味に徹します。あんこの甘さを引き立たせるために、隠し味に徹します。そして塩は他の素材を腐らせないための、防腐剤の役目があります。細菌が繁殖しないように、殺菌する役目があります。

 塩が塩気を失ったら、塩としての役目を失い、不要なものとして、外に投げ捨てられるだけです。塩味を失った人間は捨てられると言うのです。主イエスのこの言葉は誠に厳しい言葉です。

 塩に対して、光はどうでしょうか。光もまた、私どもが生きる上で欠かせないものです。それ故、神が世界を創造された時に、真っ先に「光あれ」と、光を創造されました。当時の光はろうそくの光、灯です。光は家の中の他のものを照らします。そのために、燭台の上に置きます。升の下に置いたら、周りを照らすことは出来ません。光としての役目を果たせません。

 塩は自らを隠し、周りのものを引き立たせる役目を持ちます。それに対し、光は自らを隠くしたら、周りを照らすことは出来ません。自らを隠さないで、周りを照らすのです。自らの存在を通して、周りを照らすのです。

 塩も光も、周りを生かす、照らすためにあります。しかし、塩は自らを隠くします、光は自らの存在を隠しません。主イエスがここで、対照的な塩と光を譬えに用いていることは、興味深いことです。

 

ここで改めて、主イエスのこの御言葉に注目したいと思います。

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。

主イエスはここで、「あなたがたは地の塩になるのだ。世の光になるのだ」とは語られていません。「あなたがたは既に地の塩である。世の光である」と語られています。驚くべきことです。私は「地の塩である。世の光である」と呼ばれるような存在ではないと、誰もが尻込みしてしまいます。しかし、主イエスは私ども一人一人に向かって語られます。

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。あなたがたその使命に生きるのだ。この地が腐らないために、塩の役目に生きるのだ。この世に光を放つ光の役目に生きるのだ」。

 

3.①ある伝道者がこの御言葉を説教した時に、「キリストの理想」という題を付けました。キリストは私どもに向かって、理想を語っておられる。キリストは私どもが生きる地上、この世に対して、絶望しておられない。諦めておられない。私どもに向かって、理想を抱いて生きようと勧めておられる。いつの時代も、「理想と現実」ということが語られます。どんなに崇高な理想を抱いても、厳しい現実が呑み込んでしまいます。それ故、理想を抱いて生きることはこの世の厳しさが分かっていない。現実主義に生きなければ、この世の問題は解決しないと言われます。今日の時代、若者が理想を抱いて生きることが難しい時代だと言われます。しかし、若者が理想を抱いて生きられない世界というのは、やはり問題だと言わざるを得ません。

 羽仁もと子さんという教育者がいました。自由学園の創立者です。友の会という婦人のための全国組織の設立者でもあります。『婦人の友』という月刊誌は今でも発行されています。自由学園では毎日、礼拝が行われています。そこで生徒に向かって語りました。

 私どもの心の中には、「やってみよう」という動力があう。ところがすぐに、「どうせやっても無駄さ」というもう一つの動力が生まれる。「どうせやっても無駄さ」というばい菌が私どもの心を蝕む。「やってみよう」という理想に燃える志が、「どうせやっても無駄さ」という現実主義的諦めに呑み込まれてしまう。誰の心の中にも起こることです。

 主イエスは誰よりも、厳しい現実と向き合って生きられました。厳しい現実から目を逸らして、この言葉を語っておられるのではありません。厳しい現実に目を留めながら、しかし、あなたがたはこの理想に生きよと勧められるのです。私どもから生まれる理想ではありません。キリストが与えて下さった理想です。理想があるところには希望があります。明るさがあります。その希望と明るさは、厳しい現実の闇には決して呑み込まれないという、したたかさあります。歯を食いしばり、暗い顔をして現実主義に生きるのではなく、キリストの理想に希望と明るさをもって生きようと、勧めておられるのです。それが主イエスのこの御言葉です。

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。

 

主イエスは山の上で、弟子たちに、私どもにまなざしを注いで、この御言葉を語られました。同時に、見上げていたものがあります。御自分が歩まれる十字架の道です。それ故、この御言葉は主イエスの十字架の出来事と深く結び付いた御言葉であるのです。

 主イエスは十字架での死を通して、自らが地の塩であることを明らかにされました。この地が腐らないように、地の塩として、御自分のいのちと血を大地に注がれました。主イエスは十字架の死と、甦りを通して、「私こそ世の光である」ことを明らかにされました。御自分のいのちを注がれて、闇が支配する世に光を放たれました。

 私どもが地の塩、世の光であるのは、主イエスと結び付いてこそ起こることなのです。それ故、繰り返し主イエスのいのちの御言葉を味わいながら、私どもの存在と言葉を、塩で味付けされた存在にしていただくのです。繰り返し主のいのちの御言葉を噛み締めながら、キリストの光を証しする存在にしていただくのです。地に塩味を効かせた存在、世にキリストの光を証しする存在として用いていただくのです。あなたがたがいなければ、この地は腐ってしまうのだ。あなたがたがいなければ、この世は闇で支配されてしまうのだ。あなたがたの存在、言葉が欠かせないのだ、と主イエスは語られるのです。ここに主イエスから与えられた私どもの使命があるのです。

 それだけに、私どもの存在と言葉が塩味を失い、こんなものは食べられないと言われて、吐き出す存在、言葉とならないように、キリストの塩で味付けられた存在、言葉となる訓練が日々必要です。

 

4.①主イエスは私どもに語られました。

「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」。

「あなたがたの立派な行い」と言われると、たじろいでしまいます。私どもはとても立派な行いなど出来ないからです。口語訳聖書では「よい行い」と訳されていました。元の言葉は「美しい行い」という意味です。私どもの言葉を聞き、振る舞いを見て、何と美しいことかと感じさせる。一体、この美しさはどこから生まれたのかと尋ねるようになる。そうすると美しさが生まれた場所が分かる。天におられる神を、「アッバ、父よ」「私の父よ」「私どもの父よ」と呼ぶことから生まれたことが分かる。このように呼ぶことが出来るようにして下さったのが、天におられる父の許から遣わされた神の御子イエスです。

 私どもが神の御子イエスと結ばれることにより、主イエスと共に、天におられる神を、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子どもにしていただく。そこに美しい行いがある。地の塩、世の光として生きる私どもの姿がある。それを見た人々が一緒になって、「アッバ、父よ」と呼ぶようになるのです。地の塩、世の光として生きることは、悲壮感を漂わせて生きることではない。どんな状況に置かれても、主イエスと共に、「アッバ、父よ」と呼びながら生きることなのです。

 

主イエスは私どもに向かって、このようにも語られました。

「山の上にある町は、隠れることができない」。

不思議な言葉です。主イエスは何故、このような言葉を語られたのでしょうか。しかし、この御言葉こそ、地の塩、世の光を証しする言葉として、歴史の中で生きた意味を持つ言葉となりました。

 高校の世界史の教科書で習うことがあります。17世紀、イギリスのピューリタン、清教徒と呼ばれる人々が、メイフラワー号に乗って、新大陸を目指して航海をしました。主イエスから与えられた理想を、新大陸で実現するためでした。未知の大陸を開拓して行きます。それを描いたのが、テレビドラマにもなりましたが、「大草原の小さな家」です。新しい町を造る時に、町の中心に、丘の上に教会を造りました。教会は同時に学校になりました。「山の上にある教会、学校は隠れることがない」。教会、学校からこの町に生きる人々に光を放ち、地の塩として生きる存在を造り出しました。

 このピューリタンの信仰を受け継いだ宣教師が、日本に遣わされ、各地で伝道をしました。ウィン宣教師も、メリー・ヘッセル宣教師もそうでした。

宣教師が日本に遣わされて行ったことは、教会を建てることと、学校を建てることでした。しかも女子のための学校、幼児のための幼稚園を建てることでした。北陸学院は飛梅という丘の上にある学校です。金沢教会は現在は柿木畠にありますが、最初は日本銀行の前、大和デパートの隣りにありました。宣教師はメインロード、人々が行き交う場所に教会を建てました。「山の上にある教会、学校は隠れることはない」。教会も、学校も建物を意味するのではありません。神さまに呼び集められた私どもの交わりを現すものです。主イエスに呼び集められた私どもの交わりは隠れることができない。私どもの礼拝の交わりを通して、闇が支配するこの世にキリストの光を放つのです。この地が腐らないように、塩に味付けられた存在、言葉を遣わすのです。「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子を造り出して行くのです。私ども一人一人が、地の塩、世の光とされて遣わされて行くのです。ここに金沢教会、北陸学院に託された神からに使命があるのです。

 

5.①今年は戦後80年の記念の年です。山の上にある教会、キリスト教学校は、いつも平和な中を歩んで来たのではありません。嵐と暴風の中を歩んで来ました。第二次世界大戦下、ドイツの小さな村にあった教会の物語です。ヒットラーに抵抗し、皇帝賛歌を歌わず、「主こそ神」「アッバ、父よ」と呼び続けた小さな教会がありました。その教会の牧師は教会員と最後の礼拝を捧げ、ナチスに捕らえられてしまいます。実際あった出来事を、小さな物語として綴りました。日本語では『嵐の中の教会』と訳されています。元の題名は『山の上にある村』です。主イエスのこの御言葉から付けられた題名です。「あなたがたは地の塩である。世の光である。山の上にある町、教会は隠れることがない」。

 様々な試練の嵐の中で、しかし、山の上にある教会は隠れることなく、この町のために執り成しの祈りを捧げ、光を放って行く使命に生きるのです。

 

阪田寛夫さんという作家がいました。「さっちゃん」という童謡の詩を書かれた方です。『こどもさんびか』にも、「ロケットに乗って、地球を見たら」「兄弟げんかをしない日は」の詩を書かれています。主イエスのこの御言葉から生まれた詩を書かれています。曲を付けてミュージカルの歌となりました。「塩・ロウソク・シャボン」です。

「ロウソクは身をすりへらして ひたすらまわりを 明るくしてくれる

 誰もほめてくれるわけじゃないのに それでもロウソク 身をすりへらし

 さいごまでロウソクを やめません ああこれが 新しいつながり

 塩 ロウソク シャボンになりたい

 それが 私の喜び それが 私の喜び

 

 塩もまた身をすりへらして まわりのいのちを よみがえらせるため

 誰もほめてくれるわけじゃないのに ましろい結晶 おしげなく棄て

 とけてあともなく 消えていく ああこれが 新しいつながり

 塩 ロウソク シャボンになりたい

 それが 私の喜び それが 私の喜び」

 

お祈りいたします。

「主イエスが十字架で、私どものために、いのちを注がれました。それ故に、私どもは地の塩、世の光とされました。地が腐らないために、世が闇で支配されないために、私どもの存在と言葉を通して、キリストの塩味として、キリストの光として用いて下さるのです。主から託された使命に生きる者として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

石川県金沢市柿木畠5番2号

TEL 076-221-5396 FAX 076-263-3951

© 日本基督教団 金沢教会

bottom of page