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「あなたの命の重さを知ろう」

イザヤ43:4~5a
マタイ16:21~26

主日礼拝

井ノ川勝 牧師

2025年8月31日

00:00 / 33:25

1.①小学4年生の男の子が、こういう詩を綴っています。京都弁ですので、上手に読めるか分かりませんが。

「きのう おかあちゃんに 『もういちど おなかに はいりたいなあ』

と ゆうた。

『もう おおきなってんやさかい あかん』と いわはった。

ぼくは もういちど おかあちゃんの おなかの中へ はいって

ほねのかいだんにのって いやちょうのところを たんけんしたい」。

素敵な詩です。小学4年生の男の子のお母さんへの率直な思いが綴られて

います。ぼくの命の原点は、おかあちゃんのおなかの中。だから、もう一度、おかあちゃんのおなかの中に入って、どんなふうになっているのか、探検したいなあ。

 私どもは誰もが「命の原点」を持っています。そこに繰り返し立ち戻ることにより、自分の命の重さを知り、生きる意味が与えられる原点です。それは私どもの生きる環境が変わっても、時代がどんなに変わっても、いつも確固として、変わらずに立ち続けている「命の原点」です。だから、生きる意味を見失った時、悩み、苦しみに直面した時、悲しみの底へ突き落とされた時、確固として変わらずに立ち続けている「命の原点」に立ち戻るのです。皆さんは、そのような「命の原点」をお持ちでしょうか。

 

8月22日の金曜日、金沢市内でキリスト教保育に携わっている有志の保育者20数名が集まりまして、長土塀青少年交流センターで研修会が行われました。私が「キリスト教保育とは何か」という主題で、講演をしました。保育者の中には、赴任して初めてキリスト教幼稚園と出会った方が何人もいます。そのような保育者のために企画された研修会でした。

 今年のキリスト教保育連盟の年間聖句が、この朝、私どもが聴きましたイザヤ書43章4~5節の御言葉です。

「あなたは私の目に貴く、重んじられる。

 私はあなたを愛するゆえに、人をあなたの代わりに、

 諸国の民をあなたの命の代わりに与える。

 恐れるな、私はあなたと共にいる」。

 主なる神が語られた御言葉です。この御言葉を語りかけられた神の民は、光輝くような存在ではありませんでした。戦争に敗れ、捕らえられ、遠い異教の地で、50年に及ぶ捕囚生活をしていました。耐えがたい苦しみに直面して、身も心もぼろぼろでした。破れ果てた状態でした。何のために生きているのか、生きる意味を見失っていました。私どものような者が、この世に存在していたって、何の意味があるのだろうか。日々、呟いてばかりいました。

 しかし、そのような身も心もぼろぼろであった神の民に向かって、主なる神は語りかけました。

「あなたは私の目に貴く、重い。私はあなたを愛している。恐れるな、私はあなたと共にいる」。「あなたの命は何と貴く、重いことか」。

 主なる神が、今、私どもに語りかけている御言葉です。日々、向き合って保育をしている子どもたちに語りかけている御言葉です。同時に、日々、子どもと向き合いながら、悩み、苦しみ、身も心もぼろぼろになっている保育者に向かって語りかけている御言葉でもあります。

 主なる神は私どもに向かって語りかけるのです。ここにあなたの「命の原点」がある。それ故、私が語るこの御言葉に立ち戻りなさい。

「あなたの命は何と貴く、重いことか。私はあなたを愛している。恐れるな、私はあなたと共にいるではないか」。

 

2.①金沢教会の伝道によって生まれた若草教会の初代伝道者は、加藤常昭牧師と加藤さゆり伝道師でした。若草教会時代に、加藤常昭先生が最初に書かれた著書が、『聖書の読み方』です。北陸学院の高校、短大で語った聖書の講義をまとめたものです。今尚、版を重ねていまして、加藤先生が書かれた本の中で、最も多くの方に読まれています。その最初のところで、こう語られています。

 何故、私どもが聖書を読むのか。聖書の御言葉に触れるのか。聖書の中に、自分を発見するためだ。キリストの内に自分を見出すためだ。聖書はあなたに関係ない書物ではなく、あなたを発見する書物なのだ。そしてこう語られます。

「信仰とは、自分をほんとうにたいせつにする心です。自分を生かす心です。自分を押し殺そうとするような心ではないのです。信じなかった時には思ってもみなかったように、自分がたいせつにされていること、自分の生命の重さをずっしりと感じて生きていくこと、それが信仰です」。

 加藤先生がその書物の最初に触れている御言葉が、主イエスが語られたこの御言葉です。この朝、私どもが聴いたもう一つの御言葉です。

「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」。

 

主イエスはどんな場面で、この御言葉を語られたのでしょうか。主イエスのご生涯において、分岐点となった場面でした。主イエスが弟子たちに向かって初めて、私は十字架の道を歩む救い主であると打ち明けられました。それを聞いたペトロは激しく動揺しました。ペトロは主イエスを脇へお連れして、いさめました。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。

ペトロが期待していた救い主の姿とは、全く異なっていたからです。主イエスが都エルサレムへ行ったら、王のような存在として崇められると期待していたからです。十字架につけられ、皆から嘲られる救い主であるなど、もってのほかだと思いました。それ故、ペトロは主イエスを叱りつけたのです。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。

激しい言葉です。弟子が師匠を叱りつけるなど考えられないことです。それだけ、この時の主イエスの言葉は全く受け入れられなかったのです。しかし、それに対して語られた主イエスの言葉は更に優って、激しい言葉でした。

「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」。

 ペトロに向かって、「あなたはサタンだ。引き下がれ」と語りかけるのです。一番弟子のペトロです。面と向かって、「あなたはサタン、悪魔だ」と語りかけるのです。「あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っているからだ」。

 主イエスが進まれる十字架の道を妨げる。それは主イエスが成し遂げようとされる救いの道の邪魔をすることです。それは神の御心を語らず、人間の思いを語っているに過ぎない。十字架の道を邪魔をすることこそ、サタンの仕業だと言われるのです。

 

3.①この時、主イエスが弟子たちに語られた御言葉が、とても重要な御言葉です。主イエスが語られた御言葉の中でも、中心にある御言葉です。私どもへの招きの言葉です。

「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」。

 主イエスに従いたい者は、自分の十字架を背負って、主イエスに従いなさい。主イエスの十字架を、あなたも負いなさいとは語られません。主イエスの十字架、十字架で死ぬことは、主イエスしか負うことが出来ません。しかし、私どもはそれぞれ、自分の十字架を負って、主イエスに従えばよいのです。私どもは様々な苦しみに直面します。何故、私だけがこんな苦しみを背負わなければならないのかと呟きます。しかし、その苦しみを主から託された苦しみとして受け止め、主イエスに従って行くのです。

 自分の命を救おうと思う者は、命を失う。しかし、主イエスのために命を失う者は、本当の命を得る。不思議な言葉です。一体、どういう意味なのでしょうか。主イエスを通して、自分の命の重さ、命の値打ちを計り直してもらうのです。主イエスにおいてこそ、自分の命の重さ、命の値打ちを、本当に知ることが出来るのです。

 

それ故、主イエスはこの後、この御言葉を語られたのです。

「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」。

 私どもはそれぞれ、自分の生涯を通して、手に入れたいものがあります。これさえ手に入れれば、私の人生は大丈夫だ、安心だ。そういうものを手に入れたくて、必死に努力をします。その最たるものは、全世界です。私どもの欲望の究極のものです。全世界を手に入れたら、もうそれ以上のものは何もあり得ません。大満足です。

 ところが、主イエスは語られます。

「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」。

 全世界よりも重いもの、値打ちがあるものがある。それは何か。あなたの命です。あなたの命は全世界よりも重く、価が高いのです。驚くべき言葉です。私どもが思い悩む時、しばしば思うことがあります。私の命が失われても、世界は痛くも、悲しみもしない。しかし、主イエスは語られます。あなたの命はこの世界から失われてはならない。あなたの命は世界よりも重いからだ。

 小学生の高学年、中学生の時、理科室で様々な実験をしました。天秤で様々なものを測りました。天秤には二つのお皿があります。一つのお皿に測りたいものを載せます。もう一つのお皿に分銅(ふんどう)を載せます。天秤が釣り合った時に、測りたいものの重さが分かります。

 私どもの命の重さを測るために、一つのお皿に私の命が載っています。私どもの命の重さと釣り合うもう一つのお皿には、誰の命が載っているのでしょうか。主イエスの命です。神の子の命です。あなたの命と釣り合う命は、私しかいないではないか、と主イエスは語られるのです。驚くべきことです。

私どもの命が、主イエスの命と釣り合う重さ、値打ちを持っている。そのことを明らかにするために、主イエスは十字架の道を、どうしても歩まなければならなかったのです。

 主イエスの十字架こそ、命の天秤です。あなたの命と主イエスの命が釣り合うことを示す命の天秤です。命の天秤である十字架で、主イエスが私どもにこの御言葉を語りかけておられるのです。

「あなたは私の目に貴く、何と重いことか。私はあなたを愛している。恐れるな、私はあなたと共にいる」。

 

4.①今年の6月2日、妻の父が97歳で亡くなり、東京の妻の母教会で葬儀をしました。90歳を越えても、妻の両親は元気でした。しかし、いつも口癖のように語っていた言葉があります。「生きていても、何の楽しみもない。早く死にたい。早くお迎えが来ないかと願っている」。その言葉を聞く度に、悲しくなりました。90歳を越えた老人に、このようなことを言わせる社会になってしまったことに、心痛みました。私はその言葉を聞く度に、いつも両親が輝いていた時代のことを思い起こさせるようにしました。あの時、よい仕事をして来たではないか。一所懸命に子育てをして来たではないか。そうすると段々両親の顔が輝いて来ます。老人が、生きていても、もはや何の楽しみもない。早く死にたいと呟くのではなく、どんなに年老いても、私の命は何と重いことかと、生かされている喜びを味わうためにはどうしたらよいのか。今日の社会の大きな課題がここにあります。

 そのためにも、教会の存在は大きいのです。教会には主に生かされた喜びに生きる90歳を越えた高齢者が多くいるからです。それは私どもにとって、大きな慰めです。何故、90歳を越えた高齢者が主に生かされた喜びに生きることが出来るのか。十字架の主イエスの語りかけを聴いているからです。 主の呼びかけに応えて、自分の十字架を背負って、喜んで主に従っています。最後まで、主を私を用いて下さいと祈っています。どんなに体が衰えても、ぼろぼろになったとしても、何も出来なくなったとしても、十字架の主イエスは語りかけるのです。

「あなたの命は価高く、何と重いことか。あなたの命は私の命と釣り合う程、重く、貴い」。

 

 

十字架の道を歩まれる主イエスの言葉の意味を理解出来ず、主イエスから「サタン、引き下がれ」と叱責されたペトロでした。しかし、そのペトロが後に、甦られた主イエスと出会い、主イエスが私どものために十字架に掛けられたことを知ったペトロは、主イエスの十字架の出来事をこういう言葉で言い表しました。ペトロの手紙一1章18節(新約419頁)。

「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。

 主イエスが何故、十字架で血を流されたのか。あなたの命は御子キリストの命を代償として買い戻された。あなたの命は御子キリストの命と釣り合う命の値打ちを持っていることを明らかにするためだったのです。

 私が子どもの頃、祖母の部屋に入ると、額に掲げてある聖書の言葉が飛び込んで来ました。

「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。

そこで切れている文章でした。その後に、どういう言葉が続くのだろうか。子どもながらにいろいろと考えました。

「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」だから、「全ての人は地獄に落ちる」「神から審かれる」という言葉が続くのだろう。聖書の神さまって怖い神さまだと思いました。

 私がその後の言葉を知ったのは、それから大分経った大学1年生の時でした。キリスト教大学だったので、入学式に聖書を贈られました。大学では毎日、礼拝が捧げられました。講義にも「キリスト教概論」がありました。大学の講義に来ていた牧師に誘われ、教会の礼拝にも出席するようになりました。自分でも新約聖書を最初から読み始めました。そして遂に、ローマ人への手紙3章23節以下に、続く言葉を発見しました。私の想像と全く異なっていたことに、愕然としました。

「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。「彼らは、価なしに、神の恵みにより、義とされるのである」。

一方で、「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」があり、他方で、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、義とされるのである」。

この二つの相反する文章を結び付けているのは、ただ一つ、「キリスト・イエスのあがないによって」です。十字架の主イエス・キリストの贖いのいのちによって、私どもは義とされ、救われた。あなたもキリストの者とされたのです。

 十字架の主イエスは語られます。「私はあなたのために、私の命を献げた」。私どもはどんなに老いても、キリストの命を注がれて生かされているのです。それ故、私どもは応えます。「たとえどんなに老いても、あなたの御用にために、私どもを生かして用いて下さい」。たとえ寝たきりになっても、主イエスのため、教会のために祈るという最後の大切な業が与えられているのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、自分の命を小さく捉えてしまう私どもです。私なんかいなくても、世界は悲しまないと思ってしまう私どもです。しかし、主イエスは語られます。あなたに命は私の命と釣り合う程、重い、値高い。あなたのために、私は十字架で血を注ぎ、命を献げたのだ。主よ、この言葉を、子どもたちも、老人にも、全ての人に聴かせて下さい。自分の命の最後まで、主に生かされて、主のためにお用いください。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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