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「あなたの命は折られず」

イザヤ書42:1~4
マタイによる福音書12:9~21

主日礼拝

井ノ川勝

2024年8月25日

00:00 / 32:40

1.①ホスピスの医師に、小澤竹俊さんという方がおられます。これまで多くの末期癌の患者と接して来られました。多くの患者の死に直面して来られました。そこで死とは何か、生きるとは何かを常に問い続けて来られました。その体験を基にして幾つも本を書かれています。その中に、中学生のユキとはるかを主人公とした物語があります。『折れない心を育てるいのちの授業』。今、最も中学生に伝えたいことを記したものです。

 中学生、高校生時代は、心折れるような出来事に日々直面します。心折れてしまうと、命まで折れてしまいます。自分の心の奥に塞ぎ込んでしまって、立ち上がることも出来ない。生きる力も萎えてしまいます。再生することが出来なくなります。そのような中学生に向かって、「折れない心を育てるいのちの授業」を始めるのです。ホスピスの医師として、こうも呼びかけています。「今日が人生の最後の日だと思って生きなさい」。末期癌の患者だけでなく、私ども一人一人が、今日が人生の最後の日だと思って生きなさい、と呼びかけているのです。

 

『折れない心を育てるいのちの授業』。このような本に接しますと、改めて思うことがあります。聖書こそ、「折れない心を育てるいのちの授業」であるということです。それを若者にも、全ての人々にも伝えて行かなければならない。日々、様々な出来事に直面する私どもは、心折れることがあります。しかし、たとえ心折れることがあっても、あなたの命は折られてはならない。聖書は私どもに語りかけているのです。

 今日、私どもが聴きましたマタイ福音書12章の御言葉の中に、イザヤ書42章の御言葉を引用しています。その中に、こういう御言葉がありました。

「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」。

私どもは傷ついた葦、手で触れただけで折れてしまうような葦。私どもの命は消えかかった灯心。しかし、傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心を消さないために、私どものところに来られた方がおられる。そのお方こそ、主イエスであるのです。

 先週、私が以前、伝道していた伊勢の教会の長老から連絡がありました。教会員が続けて亡くなられ、二日続けて葬儀をすることになった。教会として初めのことで、うろたえてしまっている。どうか祈ってほしい。家族のため、司式をする牧師のため、教会のために祈ってほしい。ところが、昨日の朝、教会員であった母が亡くなりました、と家族から連絡がありました。どうか祈ってほしいと、切実な思いを伝えて来ました。大切な教会員の命が亡くなり、一週間に3名の葬儀を続けてしなければならない。これは誠に厳しいことです。

 死は私どもの心を挫きます。命を挫きます。私どもの心も命もへし折ってしまいます。厳しいことです。しかし、そこで聖書は私どもに語りかけるのです。主イエスの声を聴くのです。「あなたの命は折られない」。

 

2.①今日の聖書の場面は、安息日、礼拝の只中で起きた出来事です。丁度今、私どもが捧げている礼拝の中で起きた出来事です。主イエスもまた、いつものように、安息日、会堂にお入りになられ、礼拝を捧げておられました。会衆の中に、片手の萎えた人がいました。この方は石を刻む石工であったのではないかと言われています。職人にとって大切な右手が萎えてしまった。自分の生きがいであり、生計の拠り所が致命傷を受けてしまった。これは心折れる出来事、命折れる出来事でした。心も体も折れるような痛みを抱えて、神の御前に立ったのです。礼拝は、一人一人が様々な痛みを抱えながら、神の御前に立っています。人に打ち明けられない痛みを抱えて、神の御前に立っています。その礼拝の真ん中に、主イエスも立って下さるのです。

 ところが、礼拝の只中で、一つの事件が起こりました。礼拝を捧げている中に、ファリサイ派の人々がいました。律法を重んじる人々です。誰よりも自分たちの信仰を誇り、自分たちこそが礼拝を支えているのだ、と確信していた人々でした。

 礼拝の最中でも、ファリサイ派の人々は主イエスを訴える口実を探し求めていました。主イエスを殺すきっかけを狙っていました。神の御心をひたすら尋ね求める礼拝が、主イエスを訴える口実を探し求める場となっている。恐ろしいことです。彼らは主イエスに問いかけました。

「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。

主イエスへの誘導尋問です。「安息日に病気を治すのは、律法では許されていませんよね。律法に詳しいあなたなら、そのことはご存じでしょう」。そのような思いが込められた問いかけです。

 ファリサイ派の人々は律法学者として、律法を通して神の義、神の義しさを明らかにし、人を裁く権威が与えられていました。このマタイ福音書は、「義」という言葉を重んじています。今日の箇所にも、「正義」という言葉が二度用いられています。神の義、神の義しさとは何かが、今日の御言葉でも大きな主題となっています。

 ファリサイ派の人々は、律法によって人を裁く義を語りました。裁判官が判決を下す時、棒を折ったそうです。「あなたは有罪である」。それは将に、命を砕く動作でもありました。しかし、主イエスは福音によって人を生かす義を語られました。あなたの命は砕かれず、生かされる。それこそが、ファリサイ派の人々の問いかけに対して、主イエスが語られた譬えでした。安息日、穴に落ちた一匹の羊の譬えです。その日の礼拝の真ん中に立つ御言葉となりました。

 

私が大学生の時、経済学者である大塚久雄先生の説教集『意味喪失の時代に生きる』が出版され、とても心惹かれました。国際基督教大学のチャペルで、大学生に向かって語られた説教です。その中に、説教集の題名となった説教があります。その中で、大岡越前の守の裁きの話を取り上げています。これは大塚先生がしばしば好んで取り上げる話です。皆さんもよく知っている話です。

 二人の母親がいずれも、この子はわが子であると主張し合っています。そこで大岡越前の守が、二人の母親に、子どもの両手を双方から引っ張らせ、自分の方に引き寄せた方が母親であると言います、子どもは両手を引っ張られるので、痛くて悲鳴を上げます。その子どもの鳴き声に思わず手を離した片方の女性こそが、本当の母親であると裁きを下します。

 実は、これと同じ話が聖書にもあります。列王記下3章のソロモン王の裁きです。ソロモン王の裁きは紀元前1000年頃の話ですから、こちらの方が起源としては古いものです。

 大塚先生は何故、大岡越前の守の裁きを取り上げたのか。このような裁きは現代では行えないのだと言われます。一人の子どもの命の重さに、母親の心情が現れる裁きは、現代ではもはや成り立たない。現代は法に従う合理的な判断でないと、普遍性を持たなくなる。しかし、法を免れれば罪はなしという抜け道も生まれることになる。

 大塚先生が問いかけたいのは、現代の合理的な世界観というものは、私ども人間の命の重さを数字に置き換えてしまう恐れがある。それは私どもが生きる意味を奪い取る危険性がある。そこで「意味喪失の時代に生きる」という題を付けているのです。

 大塚先生がこの説教で説き明かされた御言葉は、失われた一匹の羊をどこまでも捜し求める羊飼いの譬えです。一匹の羊の重さを追い求めた羊飼いの話です。現代社会は1匹を切り捨てて、99匹を選び取る。しかし、聖書が語る福音は、99匹を残してまで1匹の羊を追い求める。そこに意味喪失の時代に生きる私どもに、生きる意味を与える福音があると語るのです。

 

3.①主イエスも、ここで安息日、穴に落ちた一匹の羊の命の重さを譬え用いて語っておられます。安息日、礼拝の只中で、ファリサイ派から問われた問いに応えるためです。彼らは礼拝を捧げている片手の萎えた人を見ながら、主イエスに問いました。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。主イエスは応えられました。

「あなたがたのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。

 安息日は神を礼拝する日。それ故、働いてはならないという律法に規定がありました。安息日に羊が穴に落ちてしまった。しかも一匹しかいない大切な羊が穴に落ちてしまった。羊は声を上げて助けてと鳴いている。今日は安息日だから、明日まで待っていない。明日、助けて上げようと飼い主は言うだろうか。夜の間に、狼に襲われて命が危険に晒されるかもしれない。明日、命の保証はないのです。況してや、安息日に、穴に落ちたのが、わが子であったらどうだろうか。泣き叫ぶわが子に向かって、今日は安息日だから助けることは出来ない。明日まで待ちなさいと親は言うだろうか。親はどんな犠牲を払ってでも、わが子を助けるだろう。それ故、安息日に善いことをするのは許されている。

 「善いこと」とは、私どもの命を重んじることです。「許されている」は、「義しい」という意味です。安息日に、私ども人間の命を重んじること、人を生かすことは義しいこと、義に叶っている。何故ならば、律法に込められた神の思いは、神が造られた人間の命を重んじ、人を生かすことにあるからです。

 ある方は言うかもしれません。片手の萎えた人は、命が切迫していないではないか。安息日が終わってからでも、十分、癒す時間があるではないか。しかし、果たしてそうなのでしょうか。片手が萎えている痛みは、心にも体にも響いているものです。命を脅かしているものです。救いは命に関わるものです。明日にまで延ばせるものではありません。今日、ここで、この礼拝で、神が生きて働いておられることが現されることを、誰もが待ち望んでいるものです。

 主イエスは礼拝の只中で語られました。「手を伸ばしなさい」。「あなたの命は神に向かって真っ直ぐに伸びよ」。片手の手の萎えた人の手は真っ直ぐになり、神に向かって真っ直ぐに神を賛美しました。

 ファリサイ派の人々は、安息日の中心に、律法の規定を置き、それに叶わない者を裁く義しさを主張しました。しかし、主イエスは安息日の中心に立つのは生ける神であることを示されました。神の義しさは人を生かす義しさであることを強調されました。安息日は神に造られた人間が救われて、神を喜んでほめたたえる日であるからです。そこに神の喜びもあるからです。

 

主イエスの安息日の礼拝での出来事を、マタイ福音書はイザヤ書42章1節~4節の御言葉と重ね合わせました。「主の僕の歌」と呼ばれ、礼拝の中で歌われて来ました。

「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしは霊を授ける」。

やがて来られる主の僕、救い主を見よ。

この「主の僕の歌」には、「義」という言葉が繰り返されて歌われています。「彼は異邦人に正義を知らせる」。「正義を勝利に導くまで」。この主の僕の使命は、義を知らせることにありました。人を生かす義を知らせることです。

人を生かす義。それこそが、傷ついた葦を折ることなく、消えゆく灯心を消すことはないということです。私どもの命は少しの力を加えただけでも、折れてしまう葦のような存在。消えゆく灯心のような命。しかし、傷ついた葦を折ることなく、消えゆく灯心を消すことなく、あなたの命は折られずと、人を生かす義をもたらす救い主・主の僕。そのお方こそが主イエスであられる。それが安息日、礼拝の中で、片手の萎えた人の癒しにおいて起こったのです。

 「人間は考える葦である」。この言葉を語ったのは、フランスの思想家パスカルです。『パンセ』(瞑想録)で語った言葉です。この言葉の聖書的典拠として挙げられるのが、イザヤ書42章のこの御言葉です。

「彼は傷ついた葦を折らず」。

パスカルは18歳の時から、様々な病を負い、心身共に痛みとの闘いの日々でした。いつも死と向き合って生きていました。39歳の若さで亡くなりました。しかし、数学者として、物理学者として、キリスト教信仰の思想家として、多くの著作を残されました。

 パスカルが亡くなった後、服の内側に縫い込んであった紙を、姉が発見しました。パスカルの第二の回心を綴った言葉でした。

「アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神。哲学者、知者の神ではない」。

哲学者、知者は、自分が中心に立って、神は本当におられるのか、神の存在を証明しようとします。しかし、どんなに人間の知性を働かせても、神が本当におられるのか、神の存在証明など出来ない。聖書は私どもに語りかける。神自らアブラハムに現れ、ヤコブに現れ、イサクに現れ、そして今、主イエスにおいて、私どもに現れて下さる。パスカルも、主イエスにおいて生ける神とお会いしたのです。傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心を消すことのない主イエス・キリストとお会いしたのです。生きる時も死ぬ時も、生ける主イエス・キリストの御手の中にあることを確信したのです。

 

4.①安息日、礼拝の中で起きた、片手の萎えた人を癒すという小さな出来事でした。しかし、この小さな出来事が、ファリサイ派の人々にとっては、自らの義しさをへし折られる出来事となりました。主イエスをいかにして殺そうかという殺意が、礼拝の中で芽生えた出来事となりました。それはやがて主イエスを十字架につけて殺すという大きな出来事に発展して行きました。神から遣わされた主の僕・主イエスは、十字架において、傷ついた折られた葦となられました。くすぶる灯心が消されました。命折られる出来事を身に負われました。そのことを通して、人を生かす神の義を貫かれました。主イエスこそ、傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことなく、私どもの命が死によっても折られることのない主の僕・救い主であることを明らかにされたのです。

 

パスカルの著作を一人で訳された方に、田辺保さんがおられます。『パスカルの信仰~パスカルとわたし~』という随筆集を書かれています。パスカルと自らを重ね合わせて、思索し、信仰し、歩んで来られたことが伝わって来る随筆集です。パスカルの心身の痛みを自らの心身の痛みとして共有しています。75歳の時、進行性胃癌が発見され、手術を受けながら、痛みと闘いながら綴った本です。

太平洋戦争が終わって2年、田辺保さんは15歳であった。家は貧しく、父と母は仲が悪く、8歳の妹は病弱でした。闇に覆われた日々を送っていた。その妹が持病の心臓病で危篤となった時、夜中、酸素ボンベを探し廻ります。漸く貸してくれるという人を捜し当てて、重い酸素ボンベを担いで、真っ暗な夜道を一人中学生が歩く。妹の死が近づいている、深い闇が妹の命も、私どもの命も呑み込んでしまうことを恐れながら、夜道を一人中学生が歩く。どんなに心細かったことか。

 田辺保さんはその後も、命を呑み込む深い闇の暗さを積み重ねながら、この暗さをもっと深く知っていた人とて、パスカルに出会います。そしてパスカルを通して、生ける主イエス・キリストと出会います。主イエスを証しするこの御言葉と出会いました。

「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった」。「光は暗きに照る」。

死の闇に打ち勝たれた真の光・主イエスこそ、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すことなく、私どもの命を折ることなく、闇は命の光を呑み込むことはない。この信仰に、パスカルも生かされ、田辺保さんも生かされ、そして今、私どもも生かされているのです。

 

 お祈りいたします。

「様々な力が私どもの命を圧迫します。深い闇が私どもの命を呑み込もうとしています。しかし、主イエスは傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことなく、私どもの命を折られることはありません。あなたの命は神に向かって真っ直ぐに伸びると語りかけておられます。主よ、どのような時も、あなたに向かって真っ直ぐに心を向けさせて下さい。私どもの命の主に、私どもの命を預けて歩ませて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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