「あなたの喜びが私の喜び」
ヨブ記30:20~23
ローマの信徒への手紙15:1~6
主日礼拝
矢澤美佐子
2024年11月17日
1. 目に見えない世界によって
私たちは、目に見える世界で生きています。日々の生活の中で、目の前の現実に心を奪われ、目に見えない世界のことを忘れてしまうこともあるでしょう。目に見える世界は、目に見えない命の源、神様とつながることによって存在できています。そして、神様と繋がることで私たちの人生はより深い喜びに満たされていくのです。
信仰を持たない人でも、自然や宇宙の壮大さに触れることで何か大きな力を感じ、その前で畏れや謙虚さを抱くことがあるのではないでしょうか。例えば、山の頂上に立った時、目の前に広がる光景の素晴らしさに思わず息を呑み我を忘れます。単に、美しいと言う景色を超えて、無限の広がりや、大きな力を知ることができるのです。その瞬間、信仰を持たない人も、神様への畏敬の念を抱き「目に見えない存在」を感じ取っているのです。
私たちの身の回りにある「さりげないもの」によって示される深い意味や美しさ、そこから、神様の存在を知ることもできます。
例えば、道端に咲く名もない小さな花が誇ることなく咲いている姿には、何とも言えない静かな美しさがあります。私たちが、その花に目を留め心を研ぎ澄ませば、小さな花の輝きが見えて来ます。
空を赤く染める夕焼けや、夜空を照らす満月や星々。当たり前の景色ですが、心を落ち着かせて静かに観察すると、その背後にある神の御手の美しさに気づくことができます。
また、人との出会いの不思議や素晴らしさを感じることも深い意味があります。私たちの周りには、日々たくさんの人々と出会い、交わり、助け合って生きています。しかし、それぞれの出会いが持つ「奇跡的な意味」に気づくことは少ないかもしれません。しかし、どんなに小さな出会いやふとした瞬間も、そこに神の導きがあるのです。
私たちは、目に見える世界で経験を積み成長していきます。しかし、本当の成長は、目に見えない世界に目を向けることから始まります。つまり、神様に焦点を合わせることが求められます。それによって、私たちは自分の小さな世界から、より広い視野へと解き放たれます。自分の力ではなく、神様によって生かされていたと気づく時、私たちは、自分一人だけの成長ではなく、周囲の人たちと支え合い共に生きる、本当の成長へと変わり始めるのです。他の人々の幸せを願う生き方が始まり、私たちの人生は、より深い喜びに満たされていくのです。
2. 神様はいるのでしょうか
ある女子大学生の方からお電話を頂きました。お兄さんが重い病気で、あと数ヶ月の命と言うのです。苦しみのあまり、彼女も後を追いたくなると言います。私は、彼女と祈りながら一緒に歩んでいます。
彼女は問いかけます。「死んだらどうなるの?神様はいるのでしょうか?」
目に見える世界に生きながら、目に見えない世界の問いの方が遥かに深刻です。人生の中で、私たちは時より「壊れそうな自分」と向き合います。内に秘めた問いを誰にも話せず、答えを見つけられないままでいることもあります。金沢教会に通う求道中の方、高校生、学生の方の中にも、同じように感じている方がおられるかもしれません。
「神様はいるのでしょうか?」
私たちはこの問いの中で、魂の旅を、信仰の旅を生きています。信仰の旅の中で、この問いと向き合うことは決して一度きりではありません。私たちは、信仰を得てからも、人生で繰り返し問いかけ続けることになります。そうして神様との関係は深まり、私たちの人生は豊かになっていくのです。信仰は「ただ、答えを知る。ただ、知識を増やす」ことではなく、神様との関係を深めていく旅です。その中で神様の存在の大きさ、愛の大きさを知っていきます。
試練の中でこの女子大学生が、神様の存在を意識したように、私たちも「人間を超えるもの」「自らをゆだねられるもの」「死を超えて永遠に続くもの」を求めます。人は、自分に限界を感じるとき、「限界を超えるものに繋がりたい」と切に願います。そして、私たちは、何かに向かって「助けてください」と語りかけているのです。
その時、私たちに答えて下さる方がおられます。迷い、彷徨い、生きている私たちを、放っておくことができない方。私たちが苦しんでいる時に、身を切られるように苦しまれる方。私たちを「愛する子よ、私はここにいる」そう語りかけてくださる方がおられます。
そして私たちが、これまで何かに向かって祈ってきた、語りかけてきた。その相手が、天の父なる神、主なる神だったと教会で知った時の安心、慰めは、非常に大きいのです。
相談して下さった女子大学生にこう伝えました。「これまであなたがお祈して来たお相手は、主なる神様ですよ。お兄さんがたとえ死を迎えても、イエス様が、死を超えて永遠の命へ、愛の御手でお守り下さいますから。安心して下さいね。神様を信じて一緒に生きて行きましょう」とお伝えしています。
3. 神様への訴え
ここで紹介できるのは了承を得た、ほんの一部の方のお話しだけですが、ある時、医師から依頼を受け病気の方を病室にお訪ねしたことがあります。
キリスト者の若い女性で、癌を患っていらっしゃいました。抗癌剤治療のために入院をされ、髪の毛も少なくなり、かわいい毛糸の帽子をかぶっていらっしゃいました。私がお訪ねした時、苦しくて嘔吐されており、看護師が対応していました。しばらく待ってからベッドの側へ行き優しく言いました。「お辛いですね。私は、そばにいますから、ゆっくり休んでください。ゆっくり、ゆっくり」。
するとその方は、細い声で「神様がお守り下さると信じています」としっかり話され、微笑んでいらっしゃいました。私は、静かにうなずきながら微笑み返しました。
それから彼女は「この毛糸の帽子は幼なじみの友達が編んでくれたんです。大好きなおばあちゃんが煮物を持ってきてくれるのです。前は煮物があまり好きじゃなかったけれど、今は、食べられる幸せが分かって美味しくて感動しているのです」「お見舞いに来てくれる家族や友のぬくもりにも感動しているのです」と、ゆっくりと話して下さいました。
日常の中での当たり前が、彼女の目には、全て神様からの贈り物のように映っていました。彼女が、信じている神様が、世界の美しさを再発見させているようでした。神様が、与えて下さるぬくもりが、彼女に生きる力を与えていました。
私たちは、しばらく静かに過ごし、一緒に聖書を読み、讃美歌を小さな声で歌いました。身体は弱っていても、その方の笑顔は、まぶしいほどに輝き、元気を感じさせるものでした。
お祈りをして一緒にアーメンと唱和しました。私は、彼女の手を取って優しく言いました。「神様が、あなたを守って下さることを私も信じています。辛い時はいつでもお電話下さい」と電話番号をお渡ししました。
数日後、また会ってほしいと依頼がありました。あまり様子が良くないと言うのです。 私は、祈りながら病室をお訪ねいたしました。カーテンを少し開けて「いかがですか?」と、ゆっくりベッドの側へ歩み寄りました。彼女は、「はい」と答え、一瞬、微笑みましたが、すぐに暗い表情に変わりうつむいてしまいました。
しばらく沈黙が続きました。その沈黙こそが大切な時間でした。本当に話したいことを言葉にする前に、心が整理され紡ぎ出される。そんな時間です。ゆっくり待たなくてはなりません。
やがて彼女は、声をしぼるようにして言いました。
「辛いです。神様を信じて、何になるのでしょうか」。
そして、目からポロポロ涙がこぼれ落ちていました。私は、背中に手を置いて静かに頷きながら言いました。
「神様を信じて、何になるの。そんな思いになりますね」。そして、私はもう一度、天に向かって彼女の気持ちを代弁するように訴えました。
「神様を信じて、何になるの」
すると彼女は、張り詰めていた糸が切れたように「わーー」と泣き出しました。肩を震わせ、息ができないくらい「わー、わー、わー」と泣いたのです。ひとしきり泣いた後、彼女は少し落ち着き、ご自分に言い聞かせるように「うん、うん」と頷きながら、私を見つめてくださいました。
私は、静かに言いました。「ここまでよく耐えていらっしゃり、どんなに辛かったことでしょう」
その言葉に彼女の頬は赤らみ、少しだけ希望の光を見つけたように、すっきりと微笑んでいらっしゃいました。
神様の前では「立派に、相応しく」、人の前では「元気そうに振る舞い」、自分の極度の緊張感が、思いっきり泣いて、感情を素直に表したことで解かされて行き楽になった。そんな様子でした。この体験がなかったら「元気そうに振る舞っている」自分に耐えきれなくなって、心は押しつぶされてしまっていたことでしょう。
彼女の言葉、「神様を信じて、何になるの」というのは、多くの人が抱える思いかもしれません。信じる力が弱くなり、時に神様が見えなくなり、苦しみや試練の中で疑問が湧き上がることは決して珍しくありません。その疑問を口にすることは信仰と向き合っている証拠です。神様を求めている証でもあります。
4. ヨブの訴え
今日の旧約聖書のヨブは、次から次へと襲う困難に、最初は「私は神様から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と立派で相応しいヨブでした。しかし苦しみは止まず、周囲からは、「何かあなたが悪いことをしたからだ」と迫られます。とうとうヨブは、耐えきれなくなり、感情丸出しの言葉で神に訴えます。
「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、、、あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される」。
信仰深いヨブでしたが、この時、高尚なことも知恵深いことも言えずにいるのです。信仰深く振る舞っている自分に限界が来て、心は押しつぶされそうになっていたのです。
これは多くの信仰者が、経験する葛藤です。信じているからこそ神に問わずにはいられない。その感情が、表に出てくることは決して不信仰ではなく、むしろ信仰が深くなる過程です。皆さんもヨブのように、神に対して嘆くことがあるかもしれません。それは、信仰が表面的でないことの表れですし、ただ黙って耐えているだけのことではなく、その中で神と対話し続けている証拠なのです。
神とヨブは、論争を交わし、神は、取り乱すヨブとしっかりと向き合い、受け止めて下さったのです。ヨブは、どんなに自分が慌てうろたえても、神は、しっかりと力強い御腕に包んで支えて下さっている。このことを知ります。そして、この体験がヨブの求めていた答えでした。この体験によって神様への嘆きが止み、心から安心し、全てを神に委ねることができるようになったのです。
信仰があるなら、苦しみや悲しみ、怒りの感情がわき上がることはおかしいというのではありません。信仰とは、神に問わずにいられないほど、落ちこんでいったとしても、底なしの沼にどこまでも沈んで行くというのではない。決して私たちを離さない、動かない、確かな御腕がある。帰る場所がある。このことを信じることです。そこから真の安らぎへと繋がっていきます。
病室の女性はこう話してくれました。「これまで、神様に怒ってはいけないと思っていました。先生が、一緒に怒ってくれて安心しました。神様ごめんなさいと言う気持ちです」。
私は、こうお答えしました。「悲しみや苦しみを人には見せない、心配をかけたくない、立派な信仰者でいたい、という気持ちは尊いもので素敵です。けれどどうか、ご自分の心を痛めつけないでくださいね。辛い気持ちを神様はしっかり受け止めて下さいますよ」。
すると彼女は、「やっぱり、神様に怒ってはいけない気がします。できない時、代わりに怒ってくれますか」。私は「一生懸命、神様に怒ってみますね」とお伝えしました。彼女は、とても安心した様子で微笑んでいらっしゃいました。
私は、これまで様々な人の悲しみ、怒りに寄り添ってお祈りをして参りました。特に「許せない」怒りの感情は、キリスト者にとって本当に辛いものです。頭では理解していても、感情がついていかないのです。心がついていかない。
そんな時、悲痛な叫びを誰かが受け止め、神様へと執り成しの祈りをしてくれる人がいれば、心の荷物はずいぶんと軽くなります。寄り添ってくれる人がいるから、「また神様を、信じてみよう」そう思えるのです。
代わりに祈ってくれる人がいれば、明日へと向かう勇気になります。
私たちは、試練の苦しみの中で涙をこらえ泣き顔を人には見せない、という時があるかもしれません。弱さを見せず、以前と変わらない態度で仕事に打ち込む姿勢は、「立派」と讃えられることもあります。しかし、生身の人間であることを、どうぞ忘れないでください。神様は、悲しみに心が痛むように、私たちをお造りになられました。悲しみや苦しみの涙は、決して「弱さ」ではなく、むしろ「自分らしさ」、「あなたらしさ」を表すものです。
そこでこそ人間同士が支え合い、共に歩むことができるように神様は導いてくださっています。神様は、必ず、寄り添い、慰め、支えてくれる人を用意して下さっています。何より、十字架の上で命を捧げてくださった主イエス・キリストが、究極の寄り添いを示して、永遠に変わらない愛で守り続けてくださいます。私たちは、決して一人ではありません。
誰にだって弱くなる時、悲しむ時があります。私も、試練の中で祈って参りましたが、神様に向かって言葉を失い、ただ、ひざまずくしかできない時もあります。「神様、どうか何も聞かないでください。ただ側にいて、『しっかり』とだけ言ってください。『しっかり』」そのような祈りの時もあります。
私たちは、強い信仰を求められる時もありますが、同時に弱さを正直に、神様に差し出す時もあります。神様は、私たちが最も弱い時にこそ最も近くで支えて下さっています。
病室の女性は、その後も、時々私を呼んで下さいました。とても寒い日でした。彼女は「こんな寒い日に、ありがとうございます」。本当に嬉しそうに言って下さいました。私は、「外は寒いけれど、あなたと会えて嬉しい。」正直な気持ちをお伝えしました。二人の心の中は、あたたかな明りが灯っていました。あなたの喜びが、私の喜び。私たちは、支え合うことにより悲しみから喜びへと動き始めるのです。
今、困難に遭い、悩み、苦しみの中で彷徨っていらっしゃる方。神様は、誰のまわりにも、支えてくれる人を必ず用意して下さっています。最初は、1ミリずつでもいいですから心を開いてみてください。神様の御言葉を、1ミリずつ心に入れ、1ミリずつ変わって行く。そうイメージすることで、新しい自分に出会うことができます。どんな小さな一歩でも、やがて大きな変化を生み出していきます。そうして、主イエスと共に、信仰の友とともに、まわりを見わたせば、野原に咲いている花のように、嬉しいことや喜びがたくさんほころんでいると気づくことでしょう。新しい明日へと少しずつ進んで行きましょう。大切なものが必ず見えてきます。
5. 一人で救われるのではない。欠けた者としてお互いが必要になった。
今日の新約聖書はこう語られます。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」
「キリストも御自分の満足はお求めにはなりませんでした。」
私たちは皆、どこかに欠けた部分があります。愛することや生きる力が足りない時もあります。聖書は教えています。「自分一人だけで、完全になろうとしてはいけない。」私たちは皆、欠けた者同士です。その欠けた部分をお互いが補い合い、お互いを必要とし合うことで、かけがえのない存在になったのです。
「教会の兄弟姉妹を必要とすることを、あなたは喜んでいい。喜んでいい」と神はおっしゃるのです。
パウロが、この手紙を宛てたローマの教会で問題が起こっていました。
熱心に神を信じてきたユダヤ人キリスト者たちは、自分たちの強い信仰は、他の人々とは違う特別なものだ、と主張しました。「私たちは律法を守り、長年一生懸命に信じてきた。これだけのことをやって来た。だからこそ認められ、自分たちこそ神の御心を知っている」と言ったのです。
一方で信仰が弱く、不安を抱く人もいました。「自分の信仰は本当に正しいの?本当に救われるの?」と悩み、弱さを感じながらも、キリストは、その弱さの中にこそ働いてくださると信じていました。
ここで言われている強い人も弱い人も、信仰はあるのです。では、何が問題なのでしょうか?お互いが裁きあっているとパウロは言うのです。
強い人も弱い人も、自分の枠で信仰を捉えていたのです。それぞれが、「信仰とはこういうもの、信仰者はこうでなければならない」と考えていました。その点が問題ですよとパウロは言うのです。
実は、私たちは、自分自身の枠組みで信仰を捉えています。そして、自分の信仰を測りにして、「信仰とはこうあるべき」という自分の枠に当てはまる話しをも求めてしまいます。
しかし、信仰とはなんでしょう?信じて救われるとはどういうことでしょうか?
それは、自分が救われるに相応しい信仰があるかどうか、「自分の手の中にはない」ということです。神に委ねられているということです。ただただ、主イエス・キリストが、罪を犯した人にも、強い人にも、弱い人にも、全ての人が救われるようにと、全ての人のために命をお捧げになり、救ってくださる。
終わりの日に、主イエスは執りなして下さるのです。主イエス・キリストは、私たちを裁く、裁き主でありながら、私たちを、命をかけて救う救い主として、愛と赦しの引き裂かれる痛みの間で、父なる神に執りなして下さるのです。ここにおられるお一人お一人のために、神に執りなして下さるのです。
「天の神様。私は、この人を深く愛しているのです。この地上で、失敗を繰り返し、神様を軽んじて、罪を犯した時もあったかもしれません。けれど私は、この人を愛しています。私が、この人の罪を、全て身代わりに負い、十字架で命を捧げたのです。それゆえに、父なる神よ、私が、この人のために命を捧げた、その愛に応えて、死を超えて、神の国へと救ってください」
ここにおられるお一人お一人を、変わることのない無限の愛で執りなして下さるのです。その愛は、時を超えて、私たちがどんなに迷い、失敗しても決して揺らぐことがないのです。
「誇る者は主を誇れ」とパウロは言います。私たちは自分の信仰を誇るのではありません。不信な者をもお救いになる主を誇るのです。自分の信仰も、主の前で打ち砕かれ、このような私を救ってくださる主を誇るのです。
キリストの犠牲によって、今、私たちは、立っています。
終わりの日、この世が崩れ去っても私たちは立ち続けます。この世に土台を置かないものの上に立っているからです。自分の枠の中で築いた信仰に土台を置いているなら、それは、終わりの日に耐えることはできません。滅び去ってしまいます。
そうではなく、主イエス・キリストの十字架と復活の上に立つのです。この土台こそ、永遠に揺るがないものであり、終わりの日にも、イエス・キリストは生きておられるからこそ、私たちも立ち続けることができるのです。
今日の新約聖書で、ユダヤ人キリスト者たちは、自分は、一生懸命に信じてきた。自分は、これだけのことをやって来た。彼らは、律法を守り熱心に信じ行って来たのです。かつて、「こんな自分が、救われることができるなんて、相応しくない私を救ってくださった」それが喜びであり、神の御前にひれふし、感謝を捧げていたはずなのに。しかし、次第にその心は変わっていったのです。
神の正しさを押しのけて、主イエスの十字架を必要ないものとし、自分の力で、自分の正しさで、赦しを得、神の国へ入ることができると考えるようになったのです。神をも押しのける正しさで、やはり結局、主イエス・キリストを十字架に付けているのです。
どうしても、すべての人は、主イエス・キリストの十字架と復活によってしか救われないのです。私たちが救われる唯一の道は、「正しいのは主イエス・キリスト。唯一、このお方だけ」。私たちの正しさではなく、キリストの正しさ、キリストの犠牲と愛によってこそ、私たちは救われるのです。
福音書には、神に仕えているはずの祭司長たち、律法学者たちが、自分の信仰によって、自分の正しさによって、主イエスを目障りだと殺す場面が描かれています。ユダは、主イエスを裏切り、わすかなお金で売り渡しました。主イエスは、屈辱を強く感じておられたでしょう。
名誉な死、あの人は立派だったという死に方があります。人々を助けるために懸命に働き、そのために命を縮めた。立派だった。周囲から尊敬され、感謝され、人々を高揚させるでしょう。
しかし、神の御子は、わずかなお金で自分の弟子から裏切られ、十字架の上でののしられ、鞭打たれ、血を流し、神の御子の命は踏みにじられ、尊敬されず、感謝もされず死んでいかれたのです。
私たちを救う神の御子イエス・キリストは、人間の目には、どれほどの価値で見られていたことでしょうか。わずかな金額で売られ、神の御子の命の価値は踏みにじられていたのです。それでもなお、神の御子は、踏みにじられる命の中で、私たちに向かって、「あなたは、決して滅んではならない、決して、死んではならない、あなたは永遠に生きるんだ」と、揺るがない愛を貫いて、身代わりに死んで下さったのです。私たちの罪のためです。キリストの死には、私たちを愛することを、どんなことがあっても決して止めないという、揺るがない決意が込められているのです。
もし、私たちが裏切りや屈辱を経験したならどうでしょうか。心ない言葉でそしられた時、私たちの傷は、決して簡単には癒えません。長い時間がかかります。だからこそ、身を切られるような苦しみを負った時、その苦しみを与えた相手に、同じような苦しみを負わせたくなる。不誠実をされたなら、不誠実を返したくなる。それが私たち人間です。
そのような私たち人間に対して、神は、真実なお方と言われます。一体どういうことでしょうか。
それは、たとえ私たちが不誠実であっても、神は、それを言い訳に、私たちに対して不誠実になることはできないと言うことです。私たちの罪を言い訳にして、愛することを止めるということができないのです。傷つけられても、そしられても忍耐し続けられるのです。
それだけではありません。聖書は語ります。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」(詩編69編 ) 私たちが、人からそしり受け、苦しんでいる時。その、そしりさえも、主イエス・キリストは、ご自分のこととして負って下さるのです。「これは、私と関係のないことだけれど、私も負ってあげよう」と言う程度のものではありません。
「あなたがそしられている時、すぐ隣で、私もその、そしりを共に受けている」。それは、ただの慰めの言葉ではありません。キリストが全く同じ苦しみを、自分のこととして共に負ってくださっているという深い真実なのです。
キリストは、私たちの痛みを同じように味わいながら、私たちを支えてくださっているのです。その愛は、どんなに深く、広く、私たちを包み込んでいることでしょう。
6. 支え合うことで世界は、神の国へと動き出す
パウロは「私たち一人一人が、完全を目指そう」と言ったのではありません。キリストにある完全はそうではないのです。仲間たちをどうしても必要とする者になったと言うのです。
教会全体の完成を目指して、キリストと一つになって、互いに同じ思いを抱いて、支え合おうと言ったのです。それがキリストの身体、教会です。
この箇所をマルティン・ルターは、ドイツ語で「キリストの心を心とする」と訳しました。私たちは、キリストの御前に出たら、とても謙虚になることができます。しかし、私たちは、キリストなしで人を見ると、それが難しくなってしまいます。キリストなしで人を見ると、いがみ合い、比べ合い、ねたみ合いが起こってしまうのです。ですから「キリストを通して、お互いを見よう」そうパウロは、言うのです。
十字架の前で、私たちは「自分が偉い」「自分が正しい」とは言えなくなりました。それぞれが打ち砕かれてしまいました。それぞれには欠けがあり、お互いが必要となりました。
自分だけの救い、自分だけの研鑽、自分だけを高めようとするところには、本当の一致は生まれてこないのです。ついて行けないという思いが残り、実際、ついていけない人が去ってしまうことになります。
しかし、キリストの愛によって結ばれた教会は違います。教会は、互いの救いのために支え合い、ついてこられない人がいないか助け合い、恵みを分かち合う場所です。信仰の友が喜ぶために用いられることが、私たちの喜びになりました。一人の救われた人が教会に加わること、それは私たち全員の救いです。
命をかけて私たちを救ってくださった主イエスにお応えして、私たちは、まだ成長途中で不完全な者です。そんな私たちを変わらぬ愛で支え続けてくださる主がおられます。
私たちが、互いに助け合い、支え合う、その教会の姿こそが、この世界に向かって神の国を映し出しているのです。教会は、この世界に向かって、愛と希望の光となり、暗闇を照らしていくのです。そして、そのように生きる私たちに、主は、静かに語りかけてくださいます。
「あなたたちが助け合うこの世界は、私の目にとても美しい」