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「あなたの涙はどこへ向かうのか」

エレミヤ31:15~17
マタイ2:16~18

主日礼拝

牧師 井ノ川勝

2023年12月24日

00:00 / 35:21

1.①今年4月のイースター、復活祭に、礼拝に出席出来なかった教会員を訪問しました。既に自らの病を受け留めていまして、このように語られました。「私の最後の願いは、クリスマスまで命が支えられること。もう一度、クリスマスをお祝いしたい」。この教会員は8月に逝去されました。今、私どもが捧げているクリスマス礼拝に出席したいという願いは叶いませんでした。クリスマス礼拝は、私どもにとって信仰生活の目標となるものです。後一回、クリスマス礼拝を捧げたい。もう一回、クリスマス礼拝を家族、友人、信仰の仲間と共に捧げたい。教会ではこの一年の間、5名の教会員とその御家族が亡くなられ、葬儀を行いました。一人の方の葬儀を行い、涙が乾かない中で、もう一人の方の葬儀を行い、新たな涙を流して来ました。この一年間、家族、友人、信仰の仲間を喪い、私どもの涙が乾くことはありませんでした。

 更に、ウクライナ、ガザでは毎日、多くの市民の命が失われ、子どもも、女性も、老人も、壮年も多くの涙を流して来ました。わが子を失った母、父の叫び、涙がありました。今でもその涙が乾くことはありません。私どもが流す涙はどこへ向かうのでしょうか。

 

②クリスマスは、神の御子が私どものために与えられた喜びの出来事です。世界中の多くの人々が、御子イエス・キリストの御誕生をお祝いしています。ところが、一番初めのクリスマスの直後、悲しい出来事が起こりました。クリスマスは悲しみの出来事となりました。ユダヤの国のヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺せという、誠に惨い命令を下したからです。ベツレヘムで起きた幼児虐殺の出来事です。一体何故、ヘロデ王はこのような惨い命令を下したのでしょうか。それは、ベツレヘムで救い主が誕生したという知らせを聞いたからです。救い主イエスの誕生に、誰よりも敏感に反応したのは、ヘロデ王でありました。自らの王座が救い主に取って代わられるのではないかと恐れたからです。そこでまだ幼児の内に、その命を絶とうと考えたのです。

 ベツレヘム、そこは救い主が誕生された町です。同時に、多くの幼児が殺され、母の叫びがこだまし、涙が流された町でもあります。わが子を失った母の嘆き、悲しみの町の象徴となりました。

 

2.①マタイは、わが子を失った母の嘆き、悲しみの出来事に触れた時、預言者エレミヤの言葉を想い起こしました。エレミヤ書31章15節(旧約1235頁)の御言葉です。

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがいないから」。

ラマとはベツレヘムの別名です。ラケルは、創世記に登場するイスラエルの民の祖先となりました族長アブラハム、イサク、ヤコブ、その三代目のヤコブの妻です。ヤコブとの間に、ヨセフ、ベニヤミンの二人の子が与えられました。創世記35章16節以下(旧約60頁)に、このような出来事が起こりました。ラケルが二人目の子どもを身ごもり、ベツレヘムへ向かって旅をしていました。その旅の途中で、ラケルは産気づき、しかも難産でした。自らの命と引き換えに、わが子を出産しなければなりませんでした。わが子と対面することを楽しみにしていたラケルには、辛いことでした。わが子をこの手で抱くことも出来ない。わが子の成長を見守ることも出来ない。母としての楽しみを味わえない。

ラケルは最後の息を引き取ろうとする時、わが子に「ベン・オニ」と名付けようとしました。「わたしの苦しみの子」という意味です。わが子が生涯、母の苦しみを背負って生きることを望みました。しかし、父ヤコブはわが子が生涯、母の苦しみを背負って生きることは、余りにも不憫に思いました。そこで、「ベニヤミン」と名付けました。「わたしの幸いの子」という意味です。わが子が生涯、幸いの方向に向かって歩むことを望みました。ラケルは死んで、ベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られました。

ラケルはわが子を喪った悲しみの母の象徴となりました。ラケルが葬られたベツレヘムは、わが子を喪った母の悲しみを象徴する町となりました。

 

②このラケルの悲しみを、預言者エレミヤは想い起こし、この御言葉を語ったのでしょうか。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩の満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子のゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから」。

 預言者エレミヤが生きた時代は、誠に厳しい時代でした。自分たちの国、南王国ユダは戦争によって滅ぼされました。都エルサレムは陥落し、自分たちが大切にしていた神を礼拝するエルサレム神殿も破壊されました。若者たちは捕虜となって遠い異郷の地バビロンに連れて行かれることになりました。その若者たちの集結を命じられた町が、ラマ、ベツレヘムであったのです。捕虜として連れて行かれるわが子と母たちは最後の別れをしました。もう二度と会うこともない。母たちは涙を流して、わが子を見送りました。預言者エレミヤは、わが子を喪ったラケルの涙と重ね合わせました。ベツレヘムの町に再び、わが子を喪った母たちの嘆き、涙が流されました。

 何故、わが子が喪われなければならないのか。何故、このような悲しみを身に負わなければならないのか。何故、神は助けて下さらないのか。何故、何故、何故、という叫びがこだまします。私どもが生きている世界は、わが子を喪った母ラケルを生み出し続けています。ウクライナで、ガザで、世界の至るところで。そこに私どもの罪があります。

 預言者エレミヤは、わが子を喪った母たちに向かって、哀歌、哀しみの歌を歌いました。私どもが生きている世界は、様々な歌が響き渡っています。しかし、いつの時代も通奏低音で響いている歌こそ哀歌、悲しみの歌です。哀歌2章18節以下の御言葉です。旧約1288頁。

「おとめシオンの城壁よ、主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。

 立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ、あなたの幼子らのために」。

 あなたの嘆きも、悲痛な叫びも、他の誰でもない、主に向かって注ぎ出せ。あなたの涙を主に向かって、昼も夜も川のように涙を流せ。何故、何故、何故と、主に全てを注ぎだし、ぶつけなさい。主こそがあなたの涙の意味を知り、あなたの涙を受け留めて下さるからです。

 

3.①このような悲しみの象徴である母ラケルの悲痛な叫びを聴き、涙を御覧になられた天の父なる神が、愛する御子をこの世にお遣わしになられたのです。それが御子イエス・キリストの誕生の出来事、クリスマスの出来事でした。ところが、救い主イエスの誕生直後、ヘロデ王の命令により、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子が一人残らず殺されるという悲劇が起こりました。クリスマスの出来事が起こらなければ、これらの幼児は犠牲とならずに済んだのにと、私どもは思ってしまいます。権力者ヘロデ王は救い主イエスを受け入れることは出来ませんでした。それは私どもにもある罪です。私以外の存在が私の家の主人となっては困るからです。救い主が来られた時、宿屋には宿る場所がなかった。馬小屋の飼い葉桶しか宿る場所はなかった。それは救い主を喜んで受け入れない私どもの心を表しています。救い主イエスが来られたことにより、私どもの世界が抱えていた闇、私どもの罪が顕わになったのです。それがヘロデ王の幼児虐殺という出来事で明らかにされたのです。

 クリスマス。地上では、神の愛する独り子が私どもに与えられた出来事です。同時に、わが子を喪った母たちの嘆きがこだまし、涙が流された、悲惨な出来事が起こりました。天上では、父なる神が愛する独り子を地上に遣わす決断をされた出来事です。それは、父なる神が愛する独り子を十字架に遣わす決断をされた出来事です。愛する独り子を十字架に遣わさなければ、私どもの頑なな心が打ち砕かれ、悔い改めて、主に立ち帰ることをしないからです。悔い改めて、主に立ち帰らなければ、滅んでしまうからです。天上では父なる神が愛する独り子を喪った悲しみ、自らの腸引き裂く程の痛みがあった。それ故に、愛するわが子を喪った母たちの嘆き、涙を、父なる神こそが知っておられるのです。

 

②預言者エレミヤは、わが子と喪った母たちの嘆き、涙を、悲しみ母ラケルの嘆き、涙と重ね合わせて、こう語りました。もう一度この御言葉に立ち返りましょう。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」。

 わが子を喪った母たちの悲しみは、どんな慰めの言葉も拒む程の悲しみです。誰も慰めの言葉を語ることなど出来ません。ところが、預言者エレミヤはその直後に、こう語るのです。

「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。

 一転して、泣き止むがよい。目から涙を拭いなさいと語ります。何故、わが子を喪った、涙を拭えない悲しみの現実の中で、泣き止むがよい、目から涙を拭いなさいと語られるのでしょうか。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある。何故、そのようなことが言えるのでしょうか。あなたの息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの息子たちは自分の国に帰って来るからです。

 しかし、遠い異郷の地バビロンでの捕囚状態から解放され、故郷に帰って来たのは、70年後でした。母たちは既に亡くなり、息子と再会することは叶わなかったのです。息子をこの腕で抱きしめることは叶わなかったのです。それなのに何故、預言者エレミヤは、あなたの息子たちは帰って来る、あなたの未来には希望がある、と語るのでしょうか。たとえ母たちの存命中ではなくても、息子たちは捕囚の地で死んで行くのではない。必ず祖国の土を踏めるのだ、故郷に帰れるのだと約束しているとも言えます。

更に、こうも言えます。「息子たちは自分の国に帰って来る」。この息子たちの中心にいる息子こそ、父なる神の愛する息子。父なる神の愛する息子イエス・キリストが、私どものところに帰って来る。そこにこそ、あなたの未来に希望がある。

マタイによる福音書は、救い主イエスの誕生の出来事は、「神われらと共にいます」、インマヌエルの神が来られたのだと、強調しました。クリスマスは、父なる神が愛する独り子イエス・キリストを私どもにお与えになることにより、私どもがどんなに悲嘆に暮れても、悲しみの打ち砕かれても、神が私どもとどこまでも、とことん共に生きて下さることを告げる出来事であったのです。

 

4.①黒柳徹子さんが、『窓ぎわのトットちゃん』の続編を書かれました。42年ぶりに筆を執る決心をされたのは、ウクライナとロシアとの間に戦争が起きたからです。続編は戦争時代のトットちゃんから描かれています。戦争を知らない若い世代に読んでほしいとの願いを込めたからです。東京大空襲の数日後、ママはトットちゃん、4歳の弟、1歳にならない妹の4人で、見ず知らずの青森の八戸へ疎開しました。疎開生活を始めるに当たり、ママはキリストの墓があると言い伝えられているところへ立ち寄りたいと言い出した。母と父は東京の洗足教会の教会員であった。トットちゃんも幼児の時から教会学校へ通っていた。空襲の日々で教会の礼拝に出席出来ずにいた。トットちゃんはキリストのお墓が日本にあるなど、日曜学校では聞いたことはなかったので不思議に思った。でも、ママはキリストのお墓の前で、祈りを捧げていた。戦争になって、トットちゃんの弟が死んで、パパが兵隊に取られ、愛犬のロッキーが軍用犬に取られ、想い出のたくさん詰まった東京の家を後にした。どんなに辛いことがあっても、弱音を吐くことも、泣くことも出来なかったママは、穏やかな顔をして祈っていた。

でも、夜、ママは密かに涙を流していたのかもしれない。日本はどうなって行くのだろう。パパは出征してどうしているのだろう。見ず知らずの地での疎開生活はどうなるのだろう。幼いわが子を育てながら、どう生活をしたらよいのだろう。いっぱい、いっぱい不安と心配がある。しかし、私どもの主イエスにあって、神はどんなことがあっても、われわれと共に生きて下さる。インマヌエルの神でいて下さる。そのことを信じて、ママは疎開の生活を始めたかったに違いない。

 

②私どもが生きている世界にまなざしを注ぐと、至るところに、わが子を喪った悲しみの母ラケルの嘆き、涙があります。私どもの世界が生み出した悲しみの出来事です。罪の現実です。そこで私どもは改めて神に問いかけます。父なる神の愛する独り子イエス・キリストが、この世に来られたにもかかわらず、世界は変わっていないではないか。クリスマスの出来事が起きたにもかかわらず、世界はちっとも変わっていないではないか。何故、わが子を喪った悲しみの母ラケルの嘆き、涙が止むことがないのか。

 しかし、たとえ私どもの目から見れば、悲惨な現実であっても、救い主イエス・キリストにあって、神はどんな時にも、とことん、われわれと共に生きて下さっておられる。それは確かな神の現実なのです。そのために神から霊のまなざしを与えられて、神がわれわれと共に生きて下さっておられる神の現実を見つめて生きるのです。

 水曜日の祈祷会で、ヨハネの黙示録の御言葉を黙想しています。ローマ帝国の迫害の時代、キリストを信じる者が日々捕らえられ、殺されて行く。共に礼拝を捧げていた家族、友人、信仰の仲間を喪う中で、涙に濡れながらも主を礼拝して行く。ヨハネの黙示録の最後の21章で、このような約束が語られています。

 私どもの救い主イエス・キリストは、約束されました。「然り、わたしはすぐに来る」。わたしは終わりの日、再び来る。終わりの日、天から新しいエルサレム、神の都が降って来て、私どもを天の幕屋に招き入れて下さる。わたしはあなたがたの目の涙をことごとく拭う。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。神は永遠にあなたがたと共に住んで下さる。死を超えて、神はわれわれと共に生きて下さる。インマヌエルの神でいて下さる。

 この神の確かな約束を信じて、私どもは天に向かって涙を流しながら、主から授けられた歌を共に歌いながら、地上の旅路を歩んで行くのです。

 

5.①今年、日本におけるルター研究の第一人者であった徳善義和先生が逝去されました。東京神学大学の隣に、ルーテル神学大学がありますが、その教授をされていました。私が神学生時代、徳善先生のルターの講義を受けました。徳善先生はルターに関する本を沢山執筆、翻訳されていますが、私が最も愛読しているのは、FEBC、キリスト教ラジオ放送で語られた「ルターの生涯と信仰」、それを本にしたものです。その中に、「ルター家のクリスマス」という章があります。ルターは女子修道院から脱出したカタリーナと結婚し、プロテスタント教会の最初の伝道者の家庭を築きました。6人の子どもが与えられました。ルターは沢山の讃美歌を作詞しましたが、その一つにクリスマスの讃美歌があります。元々は、子どもたちがよく知っているなぞなぞ歌「海の向こうから私は来ました。沢山の宝物を持って来ました。されさて、これは何でしょう」のメロディーを用いて、クリスマスの讃美歌に替えたものです。それが讃美歌21の246です。「天のかなたから、はるばる来ました。うれしい知らせを、伝えるためです」。天使と子どもたちに別れて歌う歌です。ルター家のクリスマスに、いつも家族皆で歌っていた歌でした。

 ところが、1542年9月、長女のマグダレーナが13歳で亡くなりました。わが子を喪ったルターも、母カタリーナも涙が乾くことがありませんでした。この年のクリスマス、10年近く歌い続けて来た「天のかなたから、はるばる来ました」を、いつものように家族皆で歌うことが出来ませんでした。しかし、クリスマスが訪れた時、ルターはいつも歌って来たクリスマスの讃美歌の他に、新しいクリスマスの讃美歌を作詞しました。目は涙に濡れながらも、それでもなお、おいでになるキリストを迎え、キリストの十字架と死と復活に与って、いのちの勝利を賛美し、歌い上げる讃美歌を作詞しました。

このような歌声で始まります。「天からみ使いの群れが来て、そして羊飼いたちに現れます。可愛い赤ちゃんが飼葉桶に寝かされていると伝えます」。第二節で、「主イエス・キリスト、救い主が皆のためにお生まれです」と歌った後、第三節で、「これはほんとに嬉しいこと。神様が私たちと同じになって、肉と血をもってお生まれです。これこそ私のほんとの兄弟」。イエス・キリストが私たちのほんとうの兄弟として、泣いている私たちのところに来て共に泣き、喜んでいる私たちのところに来て共に喜んで下さる。そのような思いが込められた一節です。

そして第4節「罪でも、死でも何が出来よう。まことの神が私の味方。悪魔も黄泉もしたいまま。それでも、み子が私の味方」。死の手に連れ去られたわが娘を思いながら、しかし、御子主イエス・キリストが私の味方であられる、神が私の味方であられるなら、誰が私に敵対することが出来ようかという信仰の思いを込めて歌っています。続いて第5節「み子はあなたを見捨てない。この方にのみ信頼を。たとい試練が襲っても、この方のみ委ねよう」。この試練もまた悪魔の攻撃ではなくて、神が私たちのために備えて下さった試練であるとの思いが込められています。そして最後の第6節「終わりの勝利はあなたのもの。神の子らとされたのだから。とこしえまでも神に感謝し、いつでも耐え忍んで喜ぼう」。

愛するわが子を喪う悲しみの中で、天に向かって涙を流しながら、救い主イエス・キリストが来て下さった確かな喜びを、家族皆で歌いました。

 

②世界のあらゆる民族に、生ける主イエス・キリストを伝えた伝道者パウロが、クリスマスの出来事をこの一句で言い表しました。コリントの信徒への手紙一10章13節の御言葉です。312頁。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。

 クリスマスは、試練の中にある私どものために、「逃れの道」である主イエス・キリストが与えられ、備えられた出来事です。

 

 お祈りいたします。

「主よ、私どもの涙を顧みて下さい。私どもの嘆きを聴いて下さい。耐えられない悲惨な出来事に直面している私どもに目を留めて下さい。主よ、あなたは私どもを見捨てられません。愛する独り子イエス・キリストをお送り下さいました。私どもの悲しみも、嘆きも、涙も、罪も、主イエス・キリストによって担われています。神はわれらと共に生きて下さいます。それ故、私どもは天に向かって涙を流しながら、主が授けて下さった歌を共に歌い、神の国を目指し、地上の旅を歩んで行きます。主よ、ふさわしき道を備えて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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