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「あなたは、わたしに従いなさい」

出エジプト記4:10~16
ヨハネ21:15~23

主日礼拝

井ノ川勝

2024年8月4日

00:00 / 31:55

1.①私どもは人生において、何度か重要な選択、選び取ることをします。大学を選ぶ、職業を選ぶことも、その一つです。北陸学院の高校、大学の入学式に、院長、校長が必ず述べる言葉があります。それは番匠鐵雄先生から受け継がれた伝統となっています。入学式に出席された新入生の誰の心にも残っている言葉です。元々は主イエスが語られた御言葉です。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。

この主イエスの御言葉を、このように言い換えるのです。

「あなたがたが北陸学院を選んだのではない。神があなたがたを選び、北陸学院へ導かれたのである」。

誰もが驚きをもって聴く言葉です。私が北陸学院を選んだから、入学式に出席していると思っている。しかし、そうではなくて、神があなたがたを選んだから、あなたがたは入学式に出席していると言うのです。

 恐らく、他の学校の入学式ではこのように語ることでしょう。「あなたがたは日夜、勉学に努力し、この学校に入学する栄冠を手にしたのである」。

 私どもの多くは自らの人生はこう考えます。自分の力によって、私はこの道を選び取り、この道を生きている。しかし、聖書はそのようには人生を捕らえないです。神があなたがたを選び、あなたがたをこの道を歩ませている。旧約聖書の箴言に、このような御言葉があります。

「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導く者は主である」。

 

先週、信仰の歩みを共にしていた井波紀久子さんが84歳で逝去され、前夜祈祷会と葬儀が行われました。今朝の礼拝には御遺族の方々が出席されています。青年時代の井波さんの関心は、誰もがそうであるように、人生の道をいかに生きるかでありました。そのためには、人生の道を導く師と仰ぐ教えが必要であると感じていました。父君は近郷の師・鈴木大拙の信奉者でした。父君の勧めで、仏教を建学の精神とする高校に入学されました。宗教の時間に、親鸞の『嘆異抄』を学んだ。親鸞の教えに強く心が惹かれました。そして親鸞の教えに従って、人生の道を真っ直ぐに生きる決心をしました。そのような井波さんが何故、教会に導かれたのでしょうか。人間関係、子育てに悩み、中学時代の友人に相談をしました。その友人が金沢教会の教会員でした。聖書の御言葉があなたの悩みを解決する道しるべとなるかもしれない。友人の勧めで、金沢教会の礼拝に出席するようになりました。

 礼拝で聖書の御言葉に触れます。しかし、御言葉が学びに終わり、自分の生き方を変えるものとはならなかった。礼拝に出席し続けている内に、御言葉が迫って来て、心を捕らえるようになった。青年時代、親鸞の教えを心の支えにして来た者にとって、かくまで簡単にキリスト信仰に変わることは、「転向」を意味すると述べています。自分の生き方を変える、人生の道を変える大きな転向でした。父に相談したら、「自分の心に素直に生きればよい」と言われた。洗礼へ向かって重く背中を押されました。主が私を選び、主の道を生きる者として下さったと受け留め、礼拝に出席してkら10ヶ月後のクリスマスに洗礼を受けられました。

 その後、信仰の道を歩む中で、二度の手術入院をされた。教会の信仰の仲間が礼拝のテープを持って来て下さった。ある日の礼拝の後、外国の地に旅立つ若い夫妻のために牧師が祈りを捧げた。その祈りの言葉が病気で落ち込んでいた井波さんを慰めました。「in his foot」。主イエスの御足の跡を。主イエスの御足の跡を踏み従いて。主の道には思い掛けない苦しみも試練も訪れる。しかし、たとえどのような困難の中にあっても、主イエスが私どもに先立ち歩んで下さっておられる。道に足跡を遺しておられる。その主イエスの御足の跡を、主イエスに導かれて一歩一歩歩んで行く。それが主の道、信仰の道であると身をもって経験しました。

  富山新庄教会の初代牧師に亀谷凌雲(かめがい りょううん)牧師がいました。先祖は代々、親鸞の教えを受け継ぐ浄土真宗のお寺の住職でした。住職の跡取り息子でした。しかし、仏教の僧侶からキリストを伝える伝道者に回心し、転向をしました。そして檀家のいる故郷の町で開拓伝道をされました。亀谷凌雲牧師が書かれた本に、『仏教からキリストへ』があります。これは名著です。注目してほしいのは、「仏教からキリスト教へ」ではなく、「仏教からキリストへ」であることです。ここに亀谷凌雲牧師の信仰の要、要諦がありました。私どもの信仰はキリストの教えを学ぶことに留まるのではありません。キリストに導かれて、キリストの道を共に歩んで行くのです。私どもの生き方を変える人生の道なのです。

 

2.①主イエスの一番弟子はペトロでした。しかし、主イエスが十字架につけられると、主イエスを見捨てて、故郷に逃げ去ってしまいました。ペトロは挫折した弟子です。しかし、甦られた主イエスは挫折したペトロを追いかけて行きました。ペトロをもう一度、伝道者として立ち直らせるためです。甦られた主イエスは他の弟子ではなく、ペトロ一人と対面し、問いかけました。それが今日の御言葉の場面です。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛するか」。

挫折したペトロに問いかけた主イエスの御言葉です。主イエスを三度も知らないと否んだペトロへの問いかけです。ここで注目すべきは、「あなたはわたしを信じるか」ではなく、「あなたはわたしを愛するか」と問いかけていることです。主の弟子として主の道を歩んで行く上で、何よりも大切なことは、主イエスを愛することであると、主イエスは問われています。

 日本のプロテスタント教会の先頭に立つ伝道者に、植村正久牧師がいます。富士見町教会の初代の牧師、東京神学大学の初代の校長でした。今日の御言葉は植村牧師が愛した御言葉でした。植村牧師は自分とペトロを重ね合わせていたところがあります。植村牧師が強調したことは、「主イエスを愛する志に生きる」ことでした。「主イエスを愛する志に生きる」ことが、日本のプロテスタント教会を形造って来ました。主イエスを信じて生きることは、何よりも主イエスを愛して生きることです。今年の4月、金沢教会の伝道によって生まれた若草教会の初代牧師であった加藤常昭牧師が逝去されました。私ども伝道者の説教の教師でもありました。加藤牧師が存在を懸けて語り続けた福音も、主イエスを愛する志に生きること、この一事でした。

 「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか」。しかも主イエスは三度もペトロに問いかけました。ペトロは主イエスが三度も問いかけたので、心痛め悲しくなりました。「主イエスなど知らない」と三度否んだことを思い起こしたからです。ペトロは何故、三度も主イエスを否んだのでしょうか。主イエスと同じように捕らえられ、十字架につけられてしまうことを恐れました。死を恐れました。三度、主イエスを知らないと否み、死を恐れるペトロに向かって、甦られた主イエスは、「あなたはわたしを愛するか」と三度問われました。死の恐れに打ち勝つもの、死に打ち勝つもの。それは愛しかないからです。主イエスの愛しかないからです。

 

「あなたはわたしを愛するか」。主イエスの問いかけに対し、ペトロは答えました。

「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。しかもペトロが三度も同じ答えをしています。不思議な答えです。以前のペヨロだったら、「はい、わたしは他の弟子たち以上に、あなたを愛しています」と胸を張って答えたことでしょう。しかし、挫折したペトロはそうは答えませんでした。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

 私が主イエスを愛する愛など、私の内に確かなものなど何一つない。主イエスが裏切った私を尚も愛して下さる主イエスの愛の中にこそ、私が主イエスを愛する愛の根っこがあるのです。井波紀久子さんの心を捕らえた讃美歌があります。愛唱讃美歌となりました。信仰の道を導く歌となりました。54年度版讃美歌332です。私ども罪人に注がれた主イエスの十字架の愛を歌った讃美歌です。

「主はいのちを与えませり、主は血しおを流しませり、

 その死によりてぞ、われは生きぬ、われ何をなして、主にむくいし」。

「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」。甦りの主イエスは三度も、ペトロに問われました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロは三度答えました。その度に、主イエスは三度もこの言葉を繰り返されました。「わたしの羊を養いなさい」。わたしの羊とは、主の羊の群れである教会を意味しています。主イエスへの愛によって、挫折したペトロを主の羊の群れ・教会を牧する伝道者として立ち上がらせようとしているのです。主イエス愛することは、主の羊の群れである教会を愛することと一つのことだからです。

 主イエスは最後に、ペトロに語られました。「わたしに従いなさい」。ペトロにとって忘れられない主イエスの言葉です。ガリラヤの漁師であったペトロは、「わたしに従いなさい。あなたは今から後、人間をとる漁師となる」という主イエスの召しを受けて、主イエスの弟子になりました。そして今、挫折したペトロに向かって、甦られた主イエスは新たに召し出します。「わたしに従いなさい」。主イエスを愛することは、主イエスの召しを受けて、主イエスに従って生きることであるのです。

 

3.①しかし、この時、甦られた主イエスはペトロに向かって、とても厳しいことも語られています。

「はっきり言っておく」。主イエスが重要なことを語られる時に、必ず冒頭で語られる言葉です。元の言葉は「アーメン、アーメン」という言葉が二度も用いられています。

「あなたは、若いときには、自分の帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかい、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。

 ペトロの殉教の死を予告する言葉です。「殉教」という言葉は、主イエスを愛する証しという言葉から生まれました。主イエスを愛することは、主イエスのために死ぬことでもあるからです。

 私が伊勢で伝道していた時、私ども伝道者の説教の師匠である加藤常昭先生が、加藤先生の師匠であるボーレン先生を連れて、名古屋の教会に来られました。そこで説教セミナーが行われました。その時撮った写真が牧師室に飾られています。ボーレン先生の講演の後、若い伝道者が質問をしました。「私の説教がどうも会衆に届かない。手応えを感じない。一体どうしたらよいですか」。ボーレン先生は答えました。それは私どもが予想していた答えと全く違っていました。「あなたは殉教の覚悟をして、会衆に向かって御言葉を語りなさい」。会場が一瞬静まりかえりました。この言葉はその後の説教塾に継承された伝説的な言葉となりました。

 伝道者は何よりも主イエスを愛して生きます。それは同時に、主の羊の群れである教会を愛して生きることでもあります。伝道者は主の日の礼拝で、会衆に向かって御言葉を語ります。説教壇で殉教の覚悟が問われているというのです。主イエスが私どものために十字架で死んで、愛して下さったように、伝道者も会衆のために死ぬ覚悟をもって愛し、御言葉を語らないと、御言葉は会衆に届かない。

 

この厳しい言葉を主イエスが語られた時、ペトロは主イエスを真っ直ぐに見つめることが出来ませんでした。ペトロは振り向いた。振り向いて、誰を見たのでしょうか。主イエスの愛しておられた弟子です。最後の晩餐の席で、主イエスの胸に寄りかかっていた主イエスの愛弟子です。ペトロよりも、主イエスの近くにいた愛弟子です。ペトロは主イエスの愛弟子を見つめ、尋ねました。「主よ、この人はどうなのでしょうか」。「この人も、私と同じように殉教の死を遂げるのですか」。ペトロは主イエスの愛弟子の運命が気になったのです。何故、ペトロは振り向いて、主イエスの愛弟子のことが気になったのでしょうか。

 金沢教会も北陸学院も、米国北長老教会のトマス・ウィン宣教師の伝道によって生まれました。ウィン宣教師の信仰のルーツは、スイスのジュネーヴで宗教改革を行ったカルヴァンの信仰を受け継いでいます。カルヴァンはこの御言葉をこう説き明かしています。ペトロが何故、振り向いて、主イエスの愛弟子が気になったのか。人に対する好奇心があったからだ。カルヴァンは悪い意味で用いています。人の運命に対する好奇心の罪があったからだ。それは自分と人とを比べる癖でもあります。自分と人とを比べては、自分の足りないところ、欠点ばかりが目に付くのです。私は主イエスに従うにふさわしくない者であると、自分で自分の評価をしてしまいます。あの人こそ、主イエスに従うにふさわしい者だと、羨望の眼で見てしまいます。呼びかける主イエスを真っ直ぐに見つめるのではなく、振り向いて、周りの人のことが気になってしまいます。目をきょろきょろしてしまいます。

 「この人はどうなるのでしょうか」。ペトロの問いかけに対して、主イエスは答えられました。

「わたしの来るときまで、彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。

私の愛弟子の歩むべき道と、あなたが歩むべき道とはそれぞれ異なっている。別の運命が備えられている。あなたに何の関係があるのか。大切なことは、わたしの呼びかけに応えること。あなたは、わたしに従いなさい。

 旧約聖書に登場する最大の信仰の指導者は、モーセです。しかし、モーセも挫折し、仲間を見捨てて逃げ去った人間でした。しかし、神はそのようなモーセを信仰の指導者として召し出し、立てようとされました。その時、モーセは主の召しを拒みました。

「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。全くわたしは口が重く、舌の重いものなのです。わたしの兄弟アロンがいるではありませんか。彼は雄弁ではありませんか」。

 ペトロも主イエスに答えます。「私はとても殉教の死を遂げるにふさわしい者ではありません。あなたの愛弟子はあなたの胸に寄りかかる程、あなたに近しいではありませんか。彼こそ殉教の死を遂げるにふさわしい弟子ではありませんか」。

 主は私どもの欠点も、足りない点も全てご存じです。その上で、主は私どもに呼びかけ、召し出すのです。「他の人と比べるな。他の人と比べて優劣を付けるな。わたしは他の誰でもない、あなたを召し出した。あなたは、わたしに従いなさい。わたしの召しに真っ直ぐに応えて、従いなさい」。

 

4.①井波紀久子さんもまた、青年時代、親鸞の教えに従って真っ直ぐに人生の道を歩もうと決心されました。しかし、友人に誘われて、金沢教会の礼拝に出席し、御言葉を通して主の呼びかけ、主の招きを聴いたのです。「あなたは、わたしに従いなさい」。「in his foot」。わたしを愛し、主の御足の跡を踏み従って歩みなさい。

主イエスの十字架の愛を感じ、主の呼びかけに応えて、洗礼を受け、45年の信仰の道を真っ直ぐに歩み通されたのです。

 主は一人一人にふさわしい主の道を備えておられるのです。「あなたは、わたしに従いなさい」。他の人と比べなくてもよいのです。あなたは、わたしが備えた主の道を一筋の心で一足一足歩めばよいのだ、と語りかけられるのです。

 井波さんが自らの信仰の道を読んだ短歌があります。

「ひたすらに、わが生きことしと、愚かにも、思いゐたりし、生かされてゐて」。

 私どもは自分の力で生きている、人生の道を築いていると思っています。しかし、実は主に生かされて、主の御手に導かれて、主を愛し、主の道を歩んでいるのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、今朝もあなたは私ども一人一人に呼びかけておられます。あなたはわたしを愛するか。あなたは、わたしに従いなさい。主の呼びかけを聴いても、振り向いて、周りの人を見てしまいます。自分と人とを比べてしまいます。そのような私どもの癖、罪を御言葉によって打ち砕いて下さい。あなたは、わたしに従いなさいとの主の呼びかけに応え、真っ直ぐに主を愛し、主に従って、主の道を歩ませて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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