「あなたはここで何をしているのか」
列王記上 19章1~18節
ローマの信徒への手紙 11章1~10節
「主日礼拝」
井ノ川 勝 牧師
2026年7月19日
2026.7.19. 「あなたはここで何をしているのか」
列王記上19:1~18,ローマ11:1~10
1.①夏を迎えました。今朝も礼拝に出席されている高校生、大学生は、既に夏休みに入られたことでしょう。夏休み中、様々な課題があります。大会を目指して、クラブ活動に打ち込まれる方もいるでしょう。あるいは、大学入試を目指して、勉強に励まれる方もいるでしょう。しかし、何よりも大切なことは、私は何のために生きているのだろうか。この問いを礼拝で、聖書の御言葉に聴きながら、問い続けてほしいと願っています。
夏を迎えると、いつも想い起こすことがあります。大学4年生の夏、私は卒業後、どのような道を歩むべきか悩んでいました。母教会の牧師は、私が大学3年生の時、ドイツの留学から帰国され、私どもの教会の牧師になられ、東京神学大学の専任講師になられた近藤勝彦牧師でした。毎年、夏になりますと、7月、8月の期間、旧約聖書の御言葉に集中して説教をされました。最初の採り上げたのが、「預言者エリヤ物語」でした。私はエリヤ物語の説教、取り分け、列王記上19章の説教を聴き、伝道者の道を進む献身の志が与えられました。その頃、私はノートを取りながら説教を聴いていました。大学ノートに記した説教メモが5冊になりまして、今でも手許に残っています。今でも、大学4年生の夏に聴いたエリヤ物語のこの19章の説教を、鮮明に覚えています。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください」と叫びエリヤに向かって、主は語りかけます。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。洞穴から出て来て、主の前に立ちなさい」。
近藤牧師のエリヤ物語の説教は、エレミヤ物語の説教と合わさって、後に説教集となりました。『死のただ中にある命』という題名の説教集です。その表紙は、画家レンブラントが描きました、闇の中に横たわり、苦悩するエレミヤの姿が描かれています。その絵は、洞穴の中で、苦悩するエリヤの姿と重ね合わされていると言えます。
②誰もが、自分の歩むべき道を見失うことがあります。自分が抱いていた望みが打ち砕かれ、深い絶望の淵へ突き落とされることがあります。私は何のために生きているのか。私の命は何のためにあるのか。私の命が失われても、世界は変わらないではないか。深い闇が私を覆い、生きる意味、存在する意味を見失うのです。心の奥の洞穴に閉じこもってしまうのです。
しかし、主なる神は、そのような私どもに向かって、語りかけられるのです。主の声は、かすかにささやく声です。静かな細き声です。
「あなたはここで何をしているのか」。「さあ、心の洞穴から出て来て、主の前に立ちなさい。私があなたに託す新たな使命に生きなさい」。
2.①直前の列王記上18章に描かれている預言者エリヤの姿は、誠に勇ましい姿でした。カルメル山で、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と、エリヤはたった一人で戦いました。どちらの神が生きて働かれる神なのかを、勝負しました。そしてエリヤはその戦いに勝利しました。「主こそ神、主こそ生ける神」であることが証しされました。そこに居合わせた人々は、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と賛美を捧げました。
しかし、この出来事がエリヤの命に、暗雲をもたらしました。バアルの神々、アシェラの神々を信奉していたアハブ王の妃イゼベルを激怒させました。イゼベルは並々ならぬ決意で、預言者エリヤの命を殺そうとしました。
「私が明日の今頃までに、あなたの命を、あの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が私を幾重にも罰してくださるように」。
イゼベルの殺意を知ったエリヤは、恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃れ、ユダのベエル・シェバに向かいました。カルメル山からベエル・シェバ、イスラエルの北の端から南の端です。相当な距離です。それ程、イゼベルの殺意を恐れました。しかもベエル・シェバに着くと、従者をそこに残し、エリヤはただ一人で、荒れ野の中を一日の道のりほどを歩き続けました。エリヤは疲れ果て、一本のえにしだの木の下に座り込みました。そして主に向かって叫びました。
「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから」。
「主よ、もうたくさんです」「主よ、もう十分です」。エリヤは預言者として主の使命に生きることに疲れ果てました。主の御言葉を語る預言者として、負わなければならない重荷を負って来ました。どんな試練、苦しみにもじっと耐えて来ました。しかし、もう限界が来た。預言者であるが故に、私は命を狙われなければならない。もう耐えられない。主よ、もうたくさんです。主よ、もう十分です。私はアブラハム、モーセのような優れた主の僕ではありません。主よ、私の命を取り去って下さい。
②エリヤは疲れ果て、一本のえにしだの木の下で横になって眠ってしまいました。その時、主の使いがエリヤに触れて言いました。
「起きて食べなさい」。
見ると、頭のところに石焼きのパン菓子と、水の入った水差しがありました。エリヤは逃げ惑い、彷徨い歩いて、何日も食べ物を口にしていませんでした。主が備えられた命のパンと命の水です。エリヤは食べて飲み、もう一度横になりました。すると、主の使いがもう一度、エリヤに触れて言いました。
「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」。
エリヤは起きて食べ、飲みました。主が備えられたパンと水で、力を与えられました。そしてエリヤは40日40夜歩き続け、神の山ホレブに着きました。
逃げ惑い、彷徨い歩いたエリヤの旅の目的地は、神の山ホレブだったのです。主は神の山ホレブに、エリヤを導かれたのです。神の山ホレブは、かつてエジプトから逃亡し、挫折したモーセに、主が現れた神の山です。主がモーセに新たな使命を与えられた山です。その同じ神の山ホレブに、挫折し、逃亡したエリヤを主は導かれたのです。40日40夜歩き続けて、神の山ホレブに到着した。エジプトを脱出した神の民が40年間、荒れ野の旅を、主に導かれて歩き続けました。その旅の始めに、モーセと神の民は神の山ホレブで、40日40夜滞在し、荒れ野の旅を導く「十戒」を主から授かりました。明らかに、神の民の荒れ野の旅と、エリヤの旅を重ね合わせています。いずれも試練と困難の旅でしたが、主が導かれた旅です。主が共におられる旅です。主なる神と出会わせるために、神の山ホレブへと導かれた旅でした。
3.①エリヤは神の山ホレブに到着すると、そこにあった洞穴に入りました。そこで夜を過ごしました。しかしまた、洞穴に閉じこもり、主の前に立てないエリヤの預言者としての召命のぐらつき、不安を現してもいます。その時、主の言葉が臨みました。元の言葉は、「見よ、その時、主の言葉が臨んだ」。主が新たな御業を行われる時に、必ず用いられる言葉が、「見よ」です。小さな言葉ですが、とても重要な言葉です。主は洞穴に閉じこもっているエリヤに語られました。
「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
主が私どもに、いつも問いかける根源的な問いです。「あなたはここで何をしているのか」。
エリヤは答えました。
「私は万軍の神、主に非常に熱心に仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を壊し、預言者たちを剣にかけて殺しました。ただ私だけが一人残ったのですが、彼らはこの私の命までも取ろうと狙っているのです」。
他の預言者は皆、殺されました。私一人だけが残りました。私の命も取り去ろうと狙われているのです。注目すべきは、「私一人だけが残った」という言葉です。私一人だけが残っても何も出来ないでしょう。そういう思いが込められています。しかし、主は語られます。
「出て来て、この山中で主の前に立ちなさい」。
洞穴から出て来なさい。自分の穴の中に閉じこもらずに、そこから出て来て、主の前に立ちなさい。主は洞穴の中に閉じこもるエリヤを、主の前に呼び出されます。たった一人だけ残っても、あなたは主の前に立って生きよ、と語られます。
②「主が通り過ぎて行かれると」。この御言葉も、「見よ、その時、主が通り過ぎて行かれると」です。見よ、主が生きておられる。たった一人だけ残っても、主は生きておられるではないか。
見よ、主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があった。しかし、火の中にも主はおられなかった。それでは主は一体、どこにおられるのか。
火の後に、かすかにささやく声があった。以前の訳では、「静かな細き声」でした。主はかすかにささやく声、静かな細き声と共におられる。主は語りかけられる神であられる。主は御言葉と共におられる。
エリヤは主のかすかにささやく声、静かな細き声を聴き、外套で顔を覆い、洞穴から出て来て、洞穴の入り口に立ちました。主の前に立ちました。主は再び語られました。
「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
主は再び、同じ問いかけをされました。「あなたはここで何をしているのか」。
エリヤは再び同じ答えをされました。
「私は万軍の神、主に非常に熱心に仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を壊し、預言者たちを剣にかけて殺しました。ただ私だけが一人残ったのですが、彼らはこの私の命までも取ろうと狙っているのです」。
私一人だけが残りました。私一人が残っても、何も出来ないではありませんか。私一人だけが残る意味など、何もないではありませんか。しかし、主はエリヤに新たな使命を授けます。
「来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かいなさい。私はイスラエルに7千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけしなかった者である」。
主は語られます。エリヤよ、あなた一人だけが残った。そこに意味がある。あなたの背後には、バアルに膝をかがめない7千人が残っている。
ここから「残りの者の信仰」が生まれました。主は生き残ったたった一人を通して、新しい御業を行われる。私一人しか残らなかったのではない。主はただ一人を残された。残されたたった一人を通して、新しい生ける大いなる御業を行われるのです。
4.①「私はバアルに膝をかがめない7千人を残した」。エリヤ物語の「残りの者の信仰」に注目したのは、伝道者パウロです。ローマの信徒への手紙11章で、「残りの者の信仰」を語ります。パウロは語ります。
「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」。
バアルの膝をかがめない7千人が、現に今も、キリストの十字架の恵みによって選ばれ、残っているではないか。その残りの者たちこそ、教会に生きる者たちだと語るのです。
私ども日本の教会に生きる者からすれば、7千人という数は莫大な数のように思えます。しかし、主のまなざしから見れば、一握りの僅かな存在です。しかし、たとえ一握りに僅かな存在であっても、主によって残りの者がいるのです。バアルの膝を屈めない者たちが残っているのです。この世界に、この日本に、主に選ばれた者たちが残っている。それこそが主の教会に生きる私どもです。バアルに膝を屈めない残りの者が僅かでも存在している。そこに主の教会が存在する意味があるのです。そして主の教会、主の小さな群れは、バアルに膝を屈めるこの世界、日本の救いのために、ひらすら執り成しに生きる使命を負っているのです。
②今から17年前の2009年、プロテスタント教会の宣教師が日本にキリストの福音を伝えてから150年を迎え、プロテスタント日本伝道150周年の記念の礼拝が各地で捧げられました。
1959年、プロテスタント日本伝道100周年の年、信濃町教会の福田正俊牧師が、そのことを記念して礼拝で説教をされています。11月1日宗教改革記念礼拝での説教「バアルに膝をかがめぬ7千人」です。
私どもがプロテスタント日本伝道100周年、宣教100周年をお祝いする意味は何か。この世の団体が創立100周年をお祝いすることとは全く意味が異なる。安易におめでたいと祝うことは出来ない。そのような問いかけから説教を始めています。
福田牧師は東京神学大学で教会史の先生でもありました。特に、宗教改革が専門でした。カルヴァンはジュウネーブの改革のために、全てを捧げました。カルヴァンの最後の言葉は、「主よ、いつまでか」であった。
教会はこの世と深く係わっているけれども、なおこの世にあって、「主よ、いつまでか」と問う、終末的な団体である。一切を尽くした上で、なお、「主よ、いつまでか」と問わなければならない。教会は、この世は根本的には終わりがあるのだということを知っている。教会は、この世に属さず、神自身に属しているということ、神の国の出店であることを知っている。そして教会は、この世に倣わずに逆にこの世を創り変えねばならない使命が主から託されている。
そして福田牧師はエリヤ物語、パウロのローマ書11章の「残りの者の信仰」に生きる教会を語ります。神は、バアルに膝をかがめない私の民を残したと言われた。しかし、主の教会はいつも破れに満ちていた。罪人の教会であった。真の教会らしきものを見出さなかった。しかし、破れに満ちた主の教会が、何故、歴史の中で立ち続けて来たのか。私はバアルに膝をかがまない主の民を残した、と言われる「神の真実」にあった。エリヤはイスラエルの中で深い孤独を感じ、意気阻喪しようとしていた。しかしエリヤの周囲には、神の真実によって保たれている、真の神の民がある。エリヤは孤独ではない。神の真実によって保たれた、この世に膝を屈しない神の民がある。
私どもが真心をこめて宣教百年を感謝すべきは、私どもの国と私どもの教会とに今日まで与えられてきた、この神の真実に対してなのである。この神の真実によって保たれた、バアルに膝を屈しなかった民についてなのである。これだけに感謝すべきなのである。
同時に、太平洋戦争中、教会もバアルに膝をかがめた罪があったことを、悔い改めなければならない。過去に対する悔い改めなくして宣教百年を記念することは出来ない。
そして説教の最後で、福田牧師はこのように語られます。
「教会がもし国民全体に対する宣教とならないなら、また言葉と行為による証しを私どもが惜しむなら、教会は終わり、消滅であろう。何の精神的運動も起こらず、愛もなく、情熱も湧かないなら、神は無用の教会として扱いたもうであろう。しかし私どもは、バアルに膝をかがめぬ7千人でなければならぬ。そうありたいと思う。今日私どもに必要なことは、神の真実を意味する聖書をただ所有することではなく、実際に自分の眼と耳とによって聖書から神の力を汲み取ることである。人生観ではなく、聖書からくる力が必要である。聖書を真剣に読むとき実際その力がくる。日本伝道の秘訣は、本当に神の真を訴えることである。人間の智慧ではない。神の真実に対し己を捧げなければならない。もう一度宗教改革者の言葉を借りるならば、『私は自分の心を屠られたもののごとく、主に捧げる』。ただ一つ必要なのは、愛によって働く信仰である。神の名において人を愛することである。バアルに膝をかがめぬとは、全人格の信仰である。共に信仰と行為とを捧げて本当の『記念』をしたく思う」。
「あなたはここで何をしているのか」。主なる神は今、礼拝で、私ども一人一人に問いかけておられます。そして私どもに語りかけます。「あなたの洞穴から出て来て、主の前に立ちなさい。バアルに膝をかがめぬ私の民として、新たな使命に生きなさい」。
お祈りいたします。
「自分の穴の中に閉じこもってしまう私どもに、主は語られます。あなたはここで何をしているのか。穴から出て来て、主の前に立って生きよ。どうか、主の召しに応える者として下さい。バアルに膝まずかない、残された主の民として生かして下さい。一握りの主の民・教会がこの世界のために、この日本の救いのために、執り成しに生きることが出来ますように。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
