top of page

「あなたはわたしが選んだ器」

エレミヤ1:4~10
使徒言行録9:1~19

主日礼拝

井ノ川勝

2024年4月21日

00:00 / 40:02

1.①私どもは誰一人、自分が望み、自分の意志で決断して、この世界に生まれて来たのではありません。私ども一人一人は与えられた命を生きています。言い換えれば、私ども一人一人は神から与えられた命を生きているのです。私どもの命が神から与えられているということは、私ども一人一人の命に、神は願いと祈りを込められているということです。私の命に込められた神の願いと祈りとは何でしょうか。それを聖書の御言葉を通して知るのです。私どもの命に込められた神の願いと祈り、聖書はそれを神から与えられた使命と呼んでいます。一人一人の命には、神から与えられた使命があるのです。神の使命に応えるために、私どもは生きているのです。

 私どもの人生には必ず転換点があります。転換点に立つ時に、私どもは問いかけます。私は自らの人生に何を期待しているのか。何をしようとしているいのか。しかし同時に、神から問われるのです。神は私の人生に何を期待し、何をなそうとしておられるのか。神は私の人生にどのような使命を託しておられるのか。私に与えられた使命は何なのか。それが神の御前に立つ礼拝で、いつも問われているのです。

 

3月31日、主イエス・キリストが甦られた復活祭の礼拝を捧げました。北陸学院は先週、イースターの礼拝が捧げられました。十字架に架けられた主イエスは甦って、生きておられる。それがイースターの日に起きた出来事です。主イエスは甦られた後、何をされたのでしょうか。弟子たちに現れ、お会いになられました。そして今も、甦られた主イエスは私ども一人一人に出会って下さるのです。それは何のためなのでしょうか。私どもに与えられた使命を知らせるためであるのです。

 甦られた主イエスはペトロに現れ、12人の弟子に現れました。しかし、それだけではなく、驚くべきことに、キリスト教会の迫害者であり、敵であったパウロにも現れました。この朝、私どもが聴いた使徒言行録9章は、甦られた主イエスがパウロに出会われた場面です。キリスト教会の迫害者であったパウロが、甦られた主イエスと出会うことにより、180度方向転換をさせられ、主イエスから託された使命に生きるようになった出来事です。パウロの回心と呼ばれている出来事です。神は実に驚くべき出来事をされるお方です。甦りの主イエスがパウロに託された使命。それは何でしょうか。「あなたはわたしの名を異邦人に伝えるために、わたしが選んだ器である」。

 世界のあらゆる異邦人に、あらゆる民族に、キリストの名を伝える器となることです。もしも、パウロが回心し、キリストの名を伝える器とならなければ、キリストの福音は今日のように、世界のあらゆる民族に伝えられることはなかったのです。日本人にも伝えられることはなかったのです。それだけパウロの回心の出来事は、キリスト教会にとっても、世界にとっても、大きな出来事であったのです。使徒言行録はパウロの回心の出来事を、三度も記しています。

 

2.①パウロは、甦られた主イエスと出会う前は、サウロという名でした。熱烈なユダヤ教徒として、キリスト教会の迫害者であったのです。キリスト者を片っ端から捕まえて、牢屋にぶちこんでいました。何故、サウロはキリスト者を嫌っていたのでしょうか。十字架で死んだイエスを救い主として信じていたからです。私どもユダヤ人が待ち望んでいた救い主は、十字架であんなみすぼらしく、弱々しい死に方をしたイエスではない。王のように強い救い主が来るのだ。それ故、十字架で死んだイエスを救い主として信じるキリスト者を、受け入れることなど出来なかったのです。

 サウロは大祭司の権限を受け、エルサレムからダマスコまで逃げたキリスト者を捕らえるために、追いかけて行きました。エツサレムはイスラエルの南にある町です。ダマスコはイスラエルの北、隣の国にある町です。北の果てまで逃げたキリスト者を、サウロは執拗に追いかけて行ったのです。キリスト者を捕らえ、殺そうと意気込んで、激しい鼻息を立てて、追いかけて行ったのです。

 ダマスコに近づいた時です。突然、天から光が注がれました。サウロは地に倒れました。その時、甦られた主イエスから呼びかける声がありました。

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。

甦られた主イエスは、「サウル、サウル」と二度まで名を呼ばれました。しかも注目すべきは、この言葉です。「なぜ、わたしを迫害するのか」。サウロが迫害しているのは、キリスト者です。しかし、何故、甦られた主イエスは、「なぜ、わたしを迫害するのか」と語られるのでしょうか。キリスト者を迫害することは、主イエスを迫害することでもあります。キリスト者の痛みは、主イエスの痛みでもあります。キリスト者と主イエスとは一体であるからです。

 サウロは答えます。「主よ、あなたはどなたですか」。サウロは呼びかけるお方を、「主よ」と呼んでいます。甦られた主イエスが現れたのだと思ったのでしょう。甦られた主イエスは語られました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。

「わたしは~である」。この言い回しは、神が神であられることを現される時に語られる御言葉です。サウロも律法学者として聖書に精通していましたから、聖書の中で神が繰り返し語られた御言葉であることに心を留めていました。自分たちの民族の偉大な指導者モーセに、神が現れた場面です。神は呼ばれました。「モーセと、モーセよ」。モーセは答えました。「あなたの名は一体何か」。神は答えられました。「わたしはある、わたしはあるというものである」。

 神がモーセに語られた御言葉と、甦られた主イエスがサウロに語られた御言葉は重なり合います。モーセに現れた神は、今、甦られた主イエスとして、サウロに現れた。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。十字架に架かり、甦られた主イエスこそ、神が神であられる。サウロにとって、躓きとなった十字架に架けられたイエス。その主イエスが今、甦られて、サウロに現れた。そこに神が神であられることが現された。サウロにとっては驚きの出来事でした。

 甦られた主イエスは、更にサウロに語られます。

「立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。甦られた主イエスはサウロに、神からの使命を告げられるのです。サウロは立ち上がりました。しかし、目を開けたが、何も見えなかった。同行していた者たちがサウロの手を引いて、ダマスコまで連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ひたすら祈りながら、甦られた主イエスが現れた出来事に、心を注いでいた。

 

サウロの回心の出来事に、もう一人、重要な人物が登場しました。ダマスコ在住の、主イエスの弟子アナニヤです。アナニヤの執り成しがなければ、サウロが回心しても、キリスト教会に受け入れられなかったと言えます。

 甦られた主イエスは今度は、アナニヤに現れました。「アナニヤよ」。アナニヤは答えました。「主よ、ここにおります」。甦られた主イエスはアナニヤに使命を託されました。

「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニヤという人が入って来て、自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」。

アナニヤは主イエスの言葉を聴き、驚きます。そして主イエスに反発します。

「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」。

 甦られた主イエスは語られます。

「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。

 ここに、何故、神がサウロを選ばれたのか、サウロに与えられた使命が語られています。サウロは、わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。特に、ここで強調されていることがあります。異邦人にわたしの名を運ぶために、わたしが選んだ器である。サウロは異邦人に伝道するために、主に選ばれた器である。神の御心はユダヤ人だけでなく、異邦人にも、イエスの名を伝えることにある。そのためにサウロは選ばれた。

 アナニヤは主イエスの言葉に押し出されて、サウロを訪ね、サウロの上に手を置いて語りました。

「兄弟サウル」。キリスト者にとって敵であるサウロを、「兄弟サウル」と呼んでいます。甦られた主イエスに執り成されたからです。そして語ります。

「あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。

 その時、目からうろこのようなものが落ち、サウロが見えるようになりました。「目からうろこ」という格言は、ここから生まれました。サウロは身を起こして洗礼を受け、キリスト者となり、食事をして元気を取り戻しました。そして「イエスこそ神の子、救い主である」と伝道を始めました。

 キリスト者を迫害する者が、キリストを伝える器となる。キリスト教会を破壊する者が、キリストの群れを建てる器となる。サウロは甦られた主イエスと出会うことにより、180度人生を変えられる回心を経験しました。そしてそれはサウロだけに起こるのではなく、私どもにも起こることなのだと告げているのです。「あなたもわたしが選んだ器」である。あなたにもわたしが託した使命がある。

 

3.①新約聖書には、伝道者パウロの伝道によって生まれた異邦人の教会に宛てた手紙が多く納められています。パウロの手紙には、ダマスコで起きた甦りの主イエスとの出会い、パウロの回心の出来事を語っている御言葉がない、と言われています。しかし、果たしてそうでしょうか。中でも、コリントの信徒への手紙一15章3節以下の御言葉は、甦りの主イエスとパウロの出会いを、パウロ自らが語った御言葉であると言えます。(新約320頁)。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです」。

ここまでが教会に伝えられた信仰告白です。その後、パウロは自らの信仰告白、甦られた主イエスとの出会いの出来事を加えて語ります。8節以下です。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。

「月足らずに生まれたわたし」。未熟児として生まれたわたしです。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」。

 「サウロ」という名は親が付けた名です。同じベニミヤ民族出身で、初代のイスラエルの王サウロから付けられた名です。大きな名です。しかし、甦られた主イエスと出会ってから、「パウロ」と名乗るようになりました。「いと小さき者」という意味です。甦られた主イエスと出会い、主イエスから遣わされた者たちを、「使徒」と呼びます。主イエスの12弟子です。しかし、パウロは使徒たちの中で一番小さな者、使徒と呼ばれる値打ちのない者であると語ります。「パウロ」、いと小さき者という名こそ、自分にふさわしいと語ります。しかし、パウロは続けて語ります。

「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。

 パウロ、いと小さき者だけれども、主イエスの名を伝える神に選ばれた器として、器がすり切れるくらい主のために用いられて来た。こんなに光栄なことはない。

 

「あなたはわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。問題は、器の中に何を盛るのかです。パウロは別の手紙の中で、自らをこのように語っています。

「わたしたちは、土の器の中に宝を納めています」。

私はひびだらけの土の器。地面に落としたら、粉々に砕け散る土の器に過ぎない。しかし、土の器の中に、宝を宿している。宝とは何か。私どものために十字架で命を注ぎ、甦られた主イエスのいのちである。私は甦りの主イエスのいのちを宿した土の器である。それ故、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。ただひたすら主イエスのために、身をすり減らして、主に用いられている。そこに私の喜びがある。

 瀬戸内海に長島愛生園という、ハンセン病患者の療養施設があります。国の誤った政策で、隔離して療養する政策を採りました。一度、療養施設に入ると二度と出られない。家族とも会えない。自分の将来の希望も絶たれてしまう。厳しい偏見と差別により、本人も家族も苦しみました。自分で命を絶たれた方も多くいました。長島愛生園には教会があります。教会の礼拝で語られる御言葉を通して、甦られた主イエスとお会いし、洗礼を受けた方も多くいました。その中に、「うつわの歌」という詩を書かれた方がいました。

「私はうつわ 愛をうけるための。

 うつわはまるで腐れ木だ、いつこわれるか わからない。

 でも愛はいのちの水 大いなる泉のものだから。

 あとからあとから湧き出でて つきることもない。

 愛は降りつづる 時には春雨のように

 時には夕立のように どの日もやむことはない。

 うつわはじきに溢れてしまう そしてまわりにこぼれて行く

 こぼれてどこへ行くのだろう。そんなこと、私は知らない。

 私はうつわ 愛をうけるための。

 私はただのうつわ、いつもうけるだけ」。

 この方が「回心」という文章を書かれています。ハンセン病という診断を受けた時、生きていくことは無意味であると思えた。私が存在する意味などないと思った。もはや死ぬことしかないと思った。しかし、愛生園の礼拝で語られる御言葉を通し、甦られた主イエスが私と出会って下さった。私が生きているのではなく、生かされているのだと思うようになった。そして神が私にも使命を与えて下さっておられるのだと思うようになった。ハンセン病治療のために、私が用いられるのだと思うようになった。そのために私は神の器として、甦られた主イエスの愛といのちを注がれて、生かされているのだと思うようになった。

 

4.①金沢教会の教会員の最高齢者は、吉田真知子さんです。今週の4月25日、96歳を迎えられます。4月、教会の礼拝に出席できない高齢の教会員、病気の教会員のイースター訪問をしています。吉田真知子さんは新しい施設に移られ、訪問を願い出たのですが、施設での訪問は出来ない。しかし、外出は出来ますということでした。4月10日の祈祷会の午後、4年ぶりに教会に来ることが出来ました。桜がきれいな時でした。集まることの出来た教会員と、共に讃美歌を歌い、祈りを捧げました。

 北陸学院短大の保育科の一回生であるとの誇りを持たれ、今でも信仰の背筋が真っ直ぐでした。3歳の時に、石動(いするぎ)教会の附属幼稚園に入園し、最初に幼稚園の先生が教えて下さったのが、「神は愛なり」という御言葉であった。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を、わたしを愛してくださった」。それ故、神さまの愛に応えて生きて行かなければならないと心に決めた。それは保育者としてキリスト教保育に携わり、子どもたちと向き合うことが、主から与えられた私の使命だと思った。あなたはイエスの名を伝えるために、わたしが選んだ器。神の愛、キリストのいのちを注がれた保育者の器として、生涯、子どもと向き合い、神さまの愛、キリストの愛を存在と言葉を通して伝えて来た。神に選ばれた器としての使命は、96歳を迎える今でも失われていないと、驚きと感謝をもって感じることが出来ました。

 

サウロの回心の場面で注目すべきは、教会に連なって生きる信仰者に対して、様々な名で呼ばれていることです。「主の弟子」「この道に従う者」「主の聖なる者」「主の名を呼び求める者」「主が選んだ器」。一つ一つの呼び名に、大切な信仰が込められています。中でも注目したいのは、「この道に従う者」です。元の言葉は「この道の者」。すなわち、キリストの道に生きる者です。この呼び名が使徒言行録で8回も用いられています。最初の教会が大切にした呼び名です。

 教会に生きる者たちの日々の生活、言動を見て、教会の外の人々が付けた呼び名です。あなたがたはキリストの道に生きている者だね。一人でキリストの道を生きるのではありません。信仰の仲間と共に、祈り合い助け合いながら、キリストの道を歩んで行くのです。あなたは、わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。それは私どもの日々の生活、言動を通して、キリストの道を祈り合い、助け合いながら、主の群れして共に歩むことなのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、あなたは真に思い掛けない仕方で、私どもと出会って下さいます。教会の迫害者、敵をイエスの名を伝える器として召して下さる驚くべきお方です。甦られた主イエスは今、私ども一人一人に出会い、神の器として、新たな使命を与えて下さるのです。主よ、土の器である私どもを主の御用のために用いて下さい。主の愛に応える器として用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

bottom of page