「あなたは人を赦せるのか」
詩編51編 3~19節
マタイによる福音書 6章7~15節
「主日礼拝」
井ノ川 勝 牧師
2026年8月16日
2026.8.16. 「あなたは人を赦せるか」
詩編51:3~19,マタイ6:7~15
1.①昨日8月15日は、日本が敗戦を迎えてから81年目の記念の日でした。各地で祈りが捧げられました。第二次世界大戦において犠牲となった方々を悼む祈り。私ども人類が犯した罪を悔い改める祈り。二度と過ちは繰り返すまいと誓う祈り。平和を願う祈り。様々な思いを込めて、祈りが捧げられました。
敗戦記念の翌日の主の日の朝、今朝も、世界中の教会に様々な民族が呼び集められ、主の御前でひざまずき、主イエスが教えられた「主の祈り」を捧げています。それぞれの民族の言葉で、主の祈りが祈られています。世界中に今、主の祈りが駆け巡っているのです。その中で、今朝、私どもが特に心に留める祈りは、この祈りです。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を、赦しましたように」。
皆さんは、今朝、どのような思いで、この祈りを祈られたでしょうか。今、世界の様々な民族が、この祈りをどのような思いで祈られているでしょうか。
②金沢教会は毎年秋に、教会修養会を行っています。「主の祈り」を主題として学んだことがありました。その席上で、ある教会員が感想を述べました。
「私は『主の祈り』のこの言葉になると、口をつぐんでしまいます。私にはどうしても赦せない方がいるのです。そのような私がこの祈りを祈ることはふさわしくありません」。
このような思いは、この方だけではなく、私どもの全ての者が抱く思いです。何故、主イエスは「私たちの負い目をお赦しください」と、そこで終止符を打たなかったのか。何故、主イエスはこの言葉を続けられたのか。「私たちも自分の負い目のある人を、赦しましたように」。
私たちには負い目のある人を赦せない現実があります。そのような私どもが、私たちの負い目をお赦しください、とはとてもとても祈ることなど出来ない。口をつぐんでしまいます。
先の世界大戦で経験した戦争の悲劇は、昨日まで友好関係にあった人々が、敵と味方に二分され、敵を徹底的に憎み、殺し合うことにあります。敵に大切な家族が殺されたならば、敵を赦すことなど出来ません。その憎しみは一生残ります。主の日の朝、世界の中の民族が、「主の祈り」を祈ることは、私どもの憎しみ、赦せない思いに逆らってまで、主イエスが祈りなさいと口移しして下さった、この祈りを祈るのです。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を、赦しましたように」。
この祈りを祈ることは葛藤があります。闘いがあります。しかし、主イエスはそれを十分ご承知で、この祈りを私どもの唇に授けられたのです。
2.①今、水曜日の聖書黙想・祈祷会で、創世記の黙想をしています。私ども人間の物語です。その4章に、妬みのため、弟アベルを殺したカインの物語があります。人類最初の殺人事件は兄弟殺しという衝撃的な出来事でした。その事件から、一つの歌が生まれ、流行歌となりました。
「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには77倍」。
復讐の歌です。やられたら7倍、77倍にしてやり返せという復讐の歌です。しかし、今、世界に満ち溢れている歌は、この復讐の歌です。復讐に歯止めがかからないと、双方が滅びるのです。恐ろしいことです。
このような人間の罪の恐ろしさを知っておられる主イエスは、自らの身を挺し、自らは歯止めとなって、私どもの唇に授けられた祈りが、この「主の祈り」です。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも負い目のある人を、赦しましたように」。
主イエスが真っ先に祈られた祈りです。世界の真ん中に憎しみ、憎しみが立つのではなく、赦しが立たないと、世界は救われないのです。滅びへとまっしぐらに向かうだけなのです。
牧師の有志が説教を学ぶために、説教塾という交わりがあります。私が伊勢の教会にいた時、毎年、名古屋で説教セミナーを3泊4日で行っていました。寝食を共にして説教の学びに集中します。指導していた加藤常昭先生から、教室だけでなく、食事の場でも、指導を受けました。食事の時、牧師が食前の感謝の祈りをします。その時、加藤先生はこう言われました。「君たちは、食前の祈りに、罪の赦しを祈らないの。ドイツの家庭では、食前に必ずこのように祈る。「主よ、無くてならぬものを今日もお与えください。日ごとのパンと罪の赦しを」。
それを聞いて、はっとしました。私どもは日ごとのパンなくしには生きられません。それと同時に、罪の赦しなくして生きることは出来ません。主イエスが教えられた「主の祈り」の、日ごとのパンを求める祈りと、罪の赦しを求める祈りが、食前の祈りとして、無くてならぬ祈りとして、一つになって伝えられているのです。
しかも、主イエスが私どもに教えられた「主の祈り」は、「私たちの負い目をお赦しください」で結ばれるのではありません。その後に、この祈りが続きます。「私たちも自分の負い目のある人を、赦しましたように」。何故なのでしょうか。私たちの負い目が神に赦されることと、私どもが人の負い目を赦すことは、一つのことであることを強調しているのです。それは切り離せないことなのです。
それ故、主イエスは「主の祈り」の後、再び、この御言葉を語られるのです。
「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにはならない」。
この祈りが私どもの日々の生活において、重要かを強調されるのです。
②「人を赦す」ということ、これ程難しいことはありません。不可能なことです。しかし、主イエスはそれをご承知の上で、赦しを祈りなさいと、この祈りを唇に授けるのです。私どもは自分の物語を書き記すと、あの人も赦せない、この人も赦せないという物語になります。しかし、主イエスが私どもの手に、自らの手を添えて下さるのです。私どもの物語を赦しの物語に書き換えて下さるのです。それが「主の祈り」なのです。
マタイ福音書5~7章は、主イエスが山の上で、弟子たちに語られた「山上の説教」と言われています。主イエスに従う弟子として、日々の生活を生きる命の糧となる御言葉を語られました。「山上の説教」の真ん中にあるのが、「主の祈り」です。「山上の説教」の心臓部です。「主の祈り」は新約聖書の二個所に記されています。一つはルカ福音書11章、もう一つがマタイ福音書6章です。ところが、ルカ福音書の「主の祈り」は、「私たちの罪をお赦しください」という祈りです。それに対し、マタイ福音書6章の「主の祈り」は、「私たちの負い目をお赦しください」となっています。「罪」が「負い目」と言われています。こちらの言葉の方が古い言葉ではないかと言われています。
「罪」は「負い目」であると言うことは、相手がいるということです。人と人との関係が健やかではない。ひびが入っている。破れているということです。自分で何とかしようとしても、修復出来ないでいることです。あの人に対して負い目があると、あの人の前に立てなくなります。顔を背けたくなります。向き合うことを避けてしまいます。私どもの誰もが抱えている負い目です。幼稚園の子どもたちも抱えている負い目です。
絵本作家にヨシタケ・シンスケさんがおられます。私が初めてヨシタケ・シンスケさんの絵本に出会ったのは、孫がお母さんからヨシタケ・シンスケさんの絵本を読んでもらっていたからです。『いいたいことがあります』という絵本でした。小さな女の子がお母さんに、お父さんに、大人に、「言いたいことがあります」と問いかける絵本でした。娘が言いました。「ヨシタケ・シンスケさんの絵本は、大人が読んでもはっとさせられるんだ」。ヨシタケ・シンスケさんの絵本に、『ころべばいいのに』があります。やはり小さな女の子が主人公です。
「わたしには、きらいなひとがいる」。「どうしてあんなことを言うんだろう。自分がされたらイヤなことを、どうして人にできるんだろう」。「みんな、ころべばいいのに」。
誰にでも心当たりのある思いです。幼稚園の園児が朝、登園して真っ先にぶらんこに乗ろうとしたら、先に友だちがぶらんこに乗っていた。「代わって」と言っても、なかなか代わってくれない。心の中でつぶやきます「ころべばいいのに」。北陸学院の高校3年生が、希望する大学の推薦を得るために、勉強を積み重ねています。友人も一所懸命に勉強し、ほとんど同じ成績です。どちらかが推薦に合格し、どちらかが不合格になる。心の中でつぶやきます。「ころべばいいのに」。野球部のレギュラーを目指し、一所懸命に練習を重ねた。友人もレギュラーを目指し、練習している。心の中でつぶやきます。「ころべばいいのに」。
私どもの誰にでもある負い目です。
3.①しかし、主イエスはこの祈りを通して、人と人との負い目だけを語っておられません。誰よりも、神と私どもとの関係、負い目を語っておられます。私どもに命を与え、私どもの命を生かして下さる父なる神です。しかし、私どもは父なる神と向き合おうとしない。父なる神と向き合わなくても、自分の力だけで生きることが出来ると思っています。父なる神は日々御言葉を語りかけて下さる。しかし、私どもは御言葉を聞かなくても生きられると思っています。私どもは御言葉を聞いても、御言葉通りに生きられない。私どもは日々、父なる神に対して負い目を負っています。負い目は負債、借金です。私どもは膨大な負債を神に対して負っています。背中に目に見えない負債のリュックサックを背負って、潰されそうになっています。それに気づいていないだけです。良い行いをして、神さまへの負債を返そうとするのだけれども、益々負債が増えるばかりです。神が私どもの負債を取り除いて下さらなければ、私どもは健やかに生きられないのです。
今、東京神学大学から夏期伝道実習の神学生が遣わされ、御言葉の奉仕をしていただいています。そういうこともあり、私も神学生時代のことを様々なに想い起こしています。私が神学生の頃、旧約聖書神学を教えておられた船水衛司先生がおられました。晩年、ヨブ記の研究に没頭されました。人間は何故、苦しむのか。苦難の問題と向き合いました。船水先生が亡くなられた後、御遺族の手によって、説教・講演集が出版されました。題名は『苦難からの解放ではなく』。その中のある説教で、こういうことを語られています。エレミヤ書31章31節以下の御言葉です。神が「新しい契約」を結ぶと約束された御言葉です。
古い契約、十戒は石の板に記され、神の民全体に責任が問われた。新しい契約は一人一人の心の板に霊の文字が記されるので、「個人個人が神さまの前に、一対一で責任が問われる。しかしいくら神の言葉が心に記されようと、個人の責任が重く追及されようと、それでも人間というものは仕方のないもので、そのみ言葉に背く。これが人間の現実です。そういう者をなお、神さまがご自分の民として新しく契約を与えたもう。それが可能な根拠はたった一つしかないはずです。それは罪の赦しです」。
「この頃、赦し、この『赦』の字が当用漢字にないものですから、学生たちは許可の『許』の字を書くのです。私はペーパーに罪の許し、と許可の許を書いてくると、なにか身の置きどころのないような、うろたえを覚えるのです。どうも近頃の神学生は罪を犯すことを許されている、許可されているというふうにとっているのではないかしらと思うと、不安で不安でたまらないのです。この赦罪の方は、絶対に赦されないことを神の理不尽な恩寵によって、にもかかわらず赦す、という意味なのですから。これは間違ってもらっては困るのです。しかも新しい契約が成り立つ徹底的な根拠は罪の赦しです」。
私どもが市役所に様々な申請書を提出します。不備があれば許可されません。しかし、全ての書類を満たしていれば、許可されます。私どもの側が条件を果たしさえすれば、許可されます。しかし、神の赦しは決定的に違います。神の赦しは、恩赦の赦しです。私どもが神に対して、全ての条件を満たしたとしても、完璧な行いを果たしたとしても、私どもの罪、負い目は赦されません。ただ神の一方的な恵みによってのみ赦されます。それが神の御子が十字架に立たれて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という主イエスの執り成しの祈り、赦しの祈りに現れたのです。
②ドイツのある牧師が第二次世界大戦下、ヒトラー率いるナチスが支配していた時代に、ナチに抵抗し、ひたすら「主の祈り」の説教を行いました。その説教集の題名は『世界を包む祈り』です。特に、罪の赦しを求める祈りを説き明かした説教です。
主イエスが十字架に立たれ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、赦しをひたすら祈られた。それは主イエスの罪の祈りで、世界を包み込もうとした。人間の罪の現実を包み込もうとした。しかし、人間の罪は激しく、主イエスの罪の赦しの祈りに抵抗した。攻撃した。おれたちには罪の赦しなど必要ないと突き返し、引き裂いた。主イエスの包み込む祈りは引き裂かれた。主イエスは十字架で血だらけにならなければならなかった。肉を引き裂かれなければならなかった。命がぼろぼろにならなければならなかった。しかし、にもかからわらず、主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と罪の赦しの祈りで、世界を包み込もうとした。人間の罪の現実を包み込もうとした。そうでないと私ども人間は、自らの罪、負債の重さに押し潰され、滅びるしかなかったからです。
4.①毎年、ある教会員が長崎で被爆された医師・永井隆さんの句と祈るマリア像を描いた色紙を受付に置かれます。北陸学院の高校生、大学生に見てもらいたいからです。長崎に原爆が投下され、浦上天主堂のマリア像が焼け残りました。廃墟に化した長崎の町を見つめながら、悲しみのマリアが執り成しの祈りを捧げています。私どもプロテスタント教会の信仰で言えば、被爆した十字架の主イエスが、私どもの悲しみ、痛み、苦しみ、私どもの神に対しても人に対しても負っている負い目を負われ、執り成し祈っておられる。私どもは主の日の朝、繰り返し繰り返し十字架の主イエスの前にひざまずき祈ります。私どもが義人だからではありません。私どもが負い目のある罪人だからです。
今朝、聴いた詩編51編は、悔い改めの詩編として、私どもの教会が礼拝の中で繰り返し捧げる祈りです。
「神よ、私を憐れんでください。あなたの慈しみによって。深い憐れみによって、私の背きの罪を拭ってください。私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました」。
十字架の前にひざまずく私どものために、十字架の主イエスは執り成します。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。十字架の主イエスと執り成しを受けた私どもは、「主の祈り」を口ずさみながら、十字架の主イエスの執り成しを受けながら、負い目を負っている友と向き合うのです。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分の負い目のある人を、赦しましたように」。
②「主の祈り」の後、主イエスが語られた御言葉、「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。
実は、この御言葉をもう一度語られる場面があります。18章です。罪を犯した兄弟に、教会はどのように向き合うのか。主イエスが語られたように、迷い出た一匹の羊が滅びることを願わない羊飼い主イエスの憐れみを、教会はどのように具体化することが出来るのか。それは教会の重要な課題です。
ペテロが問いかけました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何回まで赦すべきですか。7回までですか」。主イエスは答えられた。「七の七十倍まで赦しなさい」。赦すことに制限を設けるな。そこで主イエスは譬えを語られた。主人に一生働いても返せない1万タラントンの借金をしていた僕がいた。日本円で言えば1千億円です。しかし、主人は憐れに思って、借金を帳消しにされた。この「憐れに思い」という言葉は、「自らの腸を引き裂く」という意味です。借金を帳消しにして痛んだのは主人です。それこそが十字架の主イエスを現してします。1千億円の借金を帳消しにされた僕は、喜び勇んで主人の家を飛び出した。そこで自分に百デナリオン借金のある友に出会った。百万円の借金です。今すぐに借金を返せと首を絞めて迫った。それを聞いた主人は心痛めた。この譬えの後に、主イエスはこの御言葉を語られた。
「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようにささるであろう」。
膨大な負債を主イエスの十字架の腸引き裂く痛みにより、帳消しにされた。その主の憐れみの許に、繰り返し立ちなさい。「主の祈り」のこの祈りから出発しようと、主イエスは語られるのです。
「天におられる私たちの父よ、私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分の負い目のある人を、赦しましたように」。
お祈りいたします。
「主よ、私たちは神に対しても、人に対しても、負い目を負って生きています。私どもの負い目を十字架で負われた主イエスよ、私どもの負い目をお赦し下さい。そして十字架の主イエスの執り成しを受けて、私どもに負い目のある人を赦せる者として下さい。
やられたらやり返せという復讐の歌がこだまする世界にあって、教会こそが、主イエスの赦しの祈りを伝える主の群れとして下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
