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「あなたは何を求めているか」

イザヤ55:1~7
ルカ11:5~13

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年10月15日

00:00 / 40:25

1.①皆さんは今、何を求めて生きているでしょうか。高校生であれば、この大学に入学したいという願いを持っています。大学に合格することを求めて学びをしています。大学生であれば、この仕事に就きたい。就職試験に合格することを求めて学びをしています。高齢になり、体が衰えて行く。病気になる。その時、私どもは健康であることを求めます。病気が癒されることを求めます。私どもはそれぞれの年代において、さまざまなものを求めて生きています。求めていたものを手にすることが出来ず、落胆することがあります。求めていたものを手にすることが出来た。一時的には満足します。しかし、また更に新しいものを求めるようになります。私どもは一生、何かを求めながら生きています。

 私どもは実に様々なものを求めて生きています。しかし、私どもが人生において、真実に求めるべきものは何なのでしょうか。これを求め、手にすることがないと、生きられないものとは何なのでしょうか。これを求め、手にすることが出来たから、私はもう死ぬことが出来るものとは何なのでしょうか。私どもの誰もが、究極的に求めるべきものとは何なのでしょうか。

 

②私ども一人一人は一回限りの人生を生きています。それは言い換えれば、私ども一人一人は神から与えられた命を生きているということです。そのような視点から、私どもの人生、命を捉えた時に、大切なことがあります。私ども一人一人は何かを求めて生きています。しかし同時に、私ども一人一人に命を与えて下さった神は、私どもの命に何を求めておられるのかということです。私どもの命は偶然に与えられたものではありません。たまたま与えられたものでもありません。神の祈りと御意志によって、与えられた大切な命です。私の命に込められた神の祈り、御意志を知る。私の命に込められた神の求め、願いを知る。これは私どもが生きる上で、とても大切なことです。

神の求めを知るためには、祈らなければなりません。

 

2.①神は私どもに何を求めておられるのでしょうか。神が私どものために遣わされた神の御子・主イエスが私どもに求めておられることがあります。それは祈ることです。主イエスは私どものために、御自分が日々祈られていた「主の祈り」を教えて下さいました。「主の祈り」の「主」はイエスのことです。「イエスの祈り」です。どのように祈ったらよいか分からなくても、「主の祈り」を祈ればよい。「主の祈り」には、神が私どもに求めておられることが、全て込められているからです。

 主イエスは「主の祈り」を教えられた後、祈ることはどういうことなのか。神の求めを知るために祈ることはどういうことなのか。それを譬えでお示しになられました。それが今日、与えられた御言葉です。その中に、印象深い御言葉があります。まだ聖書を開いたことのない方でありましても、聞いたことのある御言葉です。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

 元の言葉はもっと強い言葉です。「求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい」。求めることを途中で止めるな。諦めるな。求め続けなさいと、継続することを、主イエスは求められているのです。祈ることは願い続けることです。主イエスは願うことを否定的に見て居られません。消極的に見ておられません。むしろ、祈りの基本は願うことだと捉えられています。

 そして更に驚くべきことは、求め続け、探し続け、門をたたき続ければ、神は必ず願いを叶えて下さる。この神の約束があるから、祈ることが出来る。この神の約束を信じて、諦めずに求め続けなさいと、主イエスは語られるのです。私どもは祈ることにおいて、淡泊になりやすいのです。二度、三度祈って、願いが叶えられないと、すぐに諦めてしまいます。神は私の祈りなど聴いてくれないと、自分の方から神を見放してしまいます。

 

②主イエスが語られた譬えの中で、鍵となる御言葉があります。「しつように頼めば」です。「しきりに願えば」「したたかに願えば」「粘り強く願えば」「しつこく願えば」。いろいろな言葉で訳すことが出来ます。主イエスは祈りの急所を、この一言で言い表しておられるのです。祈ることにおいて大切なことは、何よりも、執拗に願うこと、しつこく願うことだ。執拗に祈ることによって、神の御心をさえも変えることが起きるのです。

 主イエスは「主の祈り」において、神を父よ、と呼ぼうと呼びかけられました。「父よ」。この呼びかけは、主イエスが当時用いておられた言葉で言えば、「アッバ」です。「お父ちゃん」「パパ」という、子どもが親しみを込めて父を呼ぶ呼びかけの言葉です。私どもも主イエスにあって、神を「アッバ、お父ちゃん」と呼ぶことが赦されているのです。神は遠くにいるのではない、私どもの近くにいて、私どもの呼びかけに耳を傾けて下さるのです。「アッバ、お父ちゃん」と、執拗に、しつこく神の名を、主イエスと共に呼び続けるのです。

 

3.①今年も10月半ばを迎え、教会ではクリスマスに向かって準備を始め、祈りを捧げています。クリスマスに読まれる本の一冊に、『サンタクロースっているんでしょうか?』があります。実話が基になって生まれた本です。「あたしの友だちは、サンタさんなんていないと言っています。サンタクロースって、本当にいるんでしょうか?」。ニューヨークに住んでいた8歳の少女バージニアの質問に、ある新聞社が社説を通して、愛情深い、味わい深い返事を書きました。今から120年以上も前の1897年のことです。

「バージニア、お答えします。サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちは、間違っています。きっと、その子の心には、今流行の、何でも疑ってかかる、疑り根性というものが、染み込んでいるのでしょう。疑り屋は、目に見えるものしか信じません。疑り屋は、心の狭い人たちです。心が狭いために、よく分からないことが、たくさんあるのです。それなのに、自分の分からないことは、みんな嘘だと決めているのです。

 この世の中に、愛や、人への思いやりや、まごころがあるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです。あなたにも、分かっているでしょう。世界に満ち溢れている愛やまごころこそ、あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものなのだということを。もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなにくらく、寂しいことでしょう!あなたのようなかわいらしい子どものいない世界が、考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像も出来ません。

 サンタクロースがいなければ、人生の苦しみを和らげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスもなくなってしまうでしょうし、私たち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手で触るもの、感じるものだけになってしまうでしょう。また、子ども時代に世界に満ち溢れている光も、消えてしまうことでしょう」。

 現代は、120年以上前よりも、更に物質主義的な世界になっています。確かなものは、目に見えるもの。目に見えない神に祈らなくても、自分の力を信頼し、仕事をすれば、何でも手に入れることが出来る。神に祈らなくても生きていける。私どもはそのような物質文明の中を生きています。物質文明に陰りが生じています。

 主イエスは、「アッバ、お父ちゃん」と呼べる神を示して下さいました。私どもの世界は目に見えるもので成り立っているのではない。目に見えない父なる神が、この世界を導いておられる。それ故、祈ることにおいて、父なる神が共におられることを信じ、仰ぎ見、信頼して、執拗に祈ろうと、私どもに呼びかけるのです。

 

②主イエスがここで語られた祈ることの短い譬えは、明晰であり、何ら解説を加えなくともよく分かる譬えです。しかし、何度も味わって見ると、なかなか深い譬えであることが分かります。この譬えは、こういう言葉から始まっています。「あなたがたのうちにだれか友達がいて」。この譬えは、私ども一人一人にも起こることなのだと言って、主イエスは譬えを語られたのです。

 真夜中に旅人がやって来ました。一日中、旅を続け、疲れ果て、お腹を空かせていました。ところが自分の家には何も出すものがありません。そこで、近所の友だちの家に行き、「友よ、パンを三つ貸して下さい」と頼んだのです。ところが、友だちは既に戸を閉め、眠りに就いていた。子どもも漸く寝かし就けたところであった。今日のように、スイッチを押せば、すぐに明かりが着くわけではない。明かりを着けるのも容易ではない。寝かし就けた子どもも起きてしまうかもしれない。「面倒をかけないでほしい。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」。それが友だちの答えです。友だちだからという理由では、起き上がってパンを分けて与えることはない。

 それでは一体どうしたら、友は起き上がってパンを分けてくれるだろうか。主イエスは語られます。真夜中であろうと、友の家の戸を叩き続けるという非常識な行為を恐れず、粘り強く執拗に頼めば、友は起き上がりパンを分けてくれるだろう。何故、そんな非常識な行為をしてまで、執拗に頼むのか。旅人の命が懸かっているからです。パンを口にしなければ、命が危ないからです。明日の朝まで待てないのです。祈りというものは必死の祈りであり、命が懸かったことなのです。

 この譬えの鍵となる言葉は、先程も申し上げたように、「しつように頼めば」です。この言葉は面白い言葉なのです。「恥を知らずに」という意味もあります。真夜中に、寝静まった友だちの家の戸を叩き、パンを貸してほしいと執拗に頼む。将に、恥知らずな行為です。友だちだからと言っても許されない恥知らずな行為です。ところが、恥知らずはもう一人いるのです。それがこの譬えの秀逸さです。寝静まった友です。真夜中、寝静まった友の家を叩き続け、執拗に頼み続ける。それが恥知らずな行為であることは、男も重々承知です。旅人の命が懸かっているから必死です。そのような必死な執拗な頼みに、寝静まった友が起き上がり、パンを貸さなければ、友もまた恥知らずとなります。主イエスはこの譬えで語られます。そのような必死な執拗な頼みに、寝静まった友は起き上がり、パンを貸してくれるに違いない。必ず執拗な頼みに応えてくれるであろう。そのことを確信しながら、この譬えを語っているのです。私どもにそのことを求めていると言えます。

 

3.①しかし、もう一人、起き上がってパンを貸してくれる、この友と重ね合わせている方がいます。それが「アッバ、お父ちゃん」と呼ばれる父なる神です。私どもは早朝であろうと、真昼であろうと、真夜中であろうと、父なる神を呼びます。命が懸かっているからです。必死な祈りです。「アッバ、父よ、助けて下さい。何とかして下さい」。執拗に、諦めずに、粘り強く、何度も何度も願い、頼みます。父なる神が助けて下さらなければ、私どもは滅んでしまうからです。私どもの執拗な祈りに対して、父なる神は、「もう寝静まった。面倒をかけないでくれ」とは申しません。そんな恥知らずな応答はなさいません。恥知らずな私どもの祈り、願いに対し、父なる神は起き上がり、命のパンを与えて下さるのです。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるからです。このような父なる神が、私どもの恥知らずな執拗な祈りを聴いて下さる。それ故、主イエスは語られるのです。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

 主イエスのこの御言葉はよく知られた御言葉です。よく知られているだけに、誤解されて来た御言葉でもあります。皆さんはどのように受け留めて来られたでしょうか。私どもが祈り願うことを、何でも神は叶えて下さる。私どもがコインを入れると、必ず景品が出て来る器械のような神ではないのです。欲しいものがあれば、何でも安価で手に入れることの出来る、バーゲンセールのような神ではないのです。

 主イエスはここで、とても面白いことを語られています。主イエスは子に対する父の思いをよく知っておられます。共感されています。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。「お父ちゃん、焼き魚が食べたいよう」と言う子どもに、「はい、蛇をどうぞ」と差し出す父はいない。「お父ちゃん、卵焼きが食べたいよ」と言う子どもに、「はい、さそりをどうぞ」と差し出す父はいない。蛇もさそりも最も嫌う生き物です。それを子どもに差し出す父はいない。

 主イエスは語られます。「このように、あなたがたは悪い者でありながら、自分の子供には良い物を与えることを知っている」。

 父は自分の子どもが求めているもの以上のものを知っている。子どもが求めているもの、欲しいものを、次から次へと父が子どもに与えたら、子どもは我が儘な子どもになってしまいます。父は今、子どもにとって何を求めるべきものか、何が必要なのかを良く知っている。況してや、父なる神はそれ以上の存在であるのです。私どもが今、何を求めるべきかを良く知っておられる。

 

②ここで注目すべき言葉があります。「あなたがたは悪い者でありながらも」です。子どものことをよく知っている父であっても、「悪い者」であると言うのです。どう言うことでしょうか。父であっても、欠けがあるということです。何に欠けているのでしょうか。主イエスが11章で、「主の祈り」、祈ることの譬えを語られる直前で、語られた譬えが10章にあります。憐れみ深いサマリア人の譬えです。この譬えもよく知られた譬えです。主イエスが「わたしの隣人はだれですか」という問いかけに応えた譬えです。

 道端に、追い剥ぎに襲われたユダヤ人が倒れていた。そこに同じユダヤ人で、礼拝で神に仕える務めをする祭司とレビ人が通った。二人とも、見て見ぬふりをして通り過ぎた。そこにユダヤ人と嫌煙の中にあるサマリア人が取りかかった。サマリア人は憐れに思い、腸引き裂かれる程の痛みを感じ、ユダヤ人を介抱し、宿屋まで運び、宿賃を置いていった。主イエスは語られました。「誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人となったと思うか」。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

 11章の祈りの譬えに登場する男も、自分のパンを求めたのではなく、お腹を空かせている旅人のパン、隣人のパンを必死に求めたのです。愛のパンです。一切れのパンをもって、旅人の隣人になろうとしたのです。

 今、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナの人々が、激しい戦闘状態にあります。憎しみ合い、殺し合っています。主イエスが求められた、「行って、あなたも同じように隣人になりなさい」。これがどんなに難しく、困難なことかを日々味わっています。しかし、隣人は遠いところにいるのではなく、私どもの身近にいる存在でもあります。その典型が、夫と妻、親と子どもです。しかし、私ども身近な存在だけに、当然のように隣人と思っています。しかし、主イエスが求められたのは、「わたしの隣人は誰か」を問うのではなく、「あなたも隣人になりなさい」ということです。私ども夫は身近な存在だけに、妻の苦悩を見過ごしています。子どもの心の叫びを聴き漏らしています。私は夫であるから、親であるから、妻のこと、子どものことは何でも分かっていると過信しているところがあります。私どもは妻の前を、子どもの前を、あのユダヤ人のように、見過ごし、通り過ぎているのです。自分の内に、妻のため、子どものために、憐れみを感じ、腸を引き裂く程の愛があるのかどうか問われます。自分の内にサマリア人のような憐れみ、愛などないことを痛感させられます。主イエスが語られた憐れみ深いサマリア人の譬えに触れた時に、誰もが感じる率直な思いです。

 主イエスが語られた「あなたがたは悪い者でありながらも」。「あなたがたの愛は欠けがある」ということです。わが子に対しても、父として愛に欠けがあるのです。それ故、私どもは何よりも求めなければならないのです。「アッバ、父よ。愛なき私どもに、愛を注いで下さい。あなたの愛がなければ、私どもはわが妻、わが子すらも愛せないのです。あなたの愛によって、わが妻、わが子の隣人にならせて下さい」。

 私どもは愛なくして生きられない。それ故、私どもが求めるべきものは、愛なのです。父なる神の愛なのです。

 

4.①主イエスは語られた。愛に欠けのある父であっても、わが子が今、何を求めるべきかを知っている。わが子が今、受けるべき良い物を知っている。ましてや、天の父はなおさらではないか。私どもが今、何を求めるべきかを知っておられる。それは「聖霊」だと言われるのです。聖霊は神から送られる霊です。傍らに共にいて執り成して下さる霊です。私どもが神の愛を求め、隣人となって生きることが出来るように、聖霊を送り、私どもの傍らにいて執り成して下さるのです。

 主イエスは15章で、二つの大切な譬えを語られました。一つは、99匹の羊を残してまで、迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求める羊飼い。見つけたら、喜んで羊を担ぎ、家に帰り、友だちや近所の人を呼び集めて言います。「見失った羊を見つけました。一緒に喜んで下さい」。どこまでも迷い出た羊を探し求める羊飼いこそ、主イエスのお姿なのです。

 もう一つは、父と共にいることに煩わしさを感じ、父の許を離れ、自分の求めるもの、自分の願うことを、全て手に入れて、財産を使い果たした息子です。しかし、父は毎日、家の外に出て、息子の帰りを待ち望みます。そして遠く離れたところに息子の姿が見えると、憐れに思い、腸引きちぎれるような愛をもって、自分の方から走り寄り、首を抱き、接吻し、僕たちに言います。「さあ、最上の服を着せなさい。手に指輪をはめなさい。足に履き物を履かせなさい。さあ、宴会を開こう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。この父こそ父なる神のお姿なのです。

 私どもを必須になって、執拗に求め続け、恥知らずと言われるような愚かさをもって、愛をもって、探し続ける父なる神、主イエス・キリストがおられる。私どもが死んで、滅びることを願われないからです。

 

②最後に、星野富弘さんの「当てはずれ」という詩を紹介します。執拗に願い求める祈りと響き合う祈りが、ここにあるからです。

「あなたは私が、考えていたような方ではなかった。

 あなたは私が、想っていたほうからは来なかった。

     私が、願ったようにはしてくれなかった。

 しかしあなたは、私が望んだ何倍ものことをして下さった」。

 

 お祈りいたします。

「主よ、あなたに願っても、すぐに諦めてしまう私どもです。しかし、主は語られました。求め続けなさい。そうすれば、与えられると。執拗に頼み、恥知らずと言われる程に愚かになって、あなたに祈り続ける祈りに生きさせて下さい。私どもを愛をもって求め続けて下さる主よ、どうか私どもを愛をもって捉えて下さい。共に生きる者たちの隣人となって生きることが出来ますように。愛のパンを差し出して生きることが出来ますように。

 憎しみ合い、殺し合い、隣人となって生きるにはほど遠い私どもの世界の現実です。諦めずに、執拗に愛をもって求め続ける主よ、どうか助けて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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