「あなたも主イエスに祈られている」
ヨナ4:1~11
マルコ14:27~42
主日礼拝
牧師 井ノ川 勝
2024年2月18日
1.①私は大学生の時、渋谷にあります小さな教会へ導かれ、洗礼を受けました。大学生、神学生の8年間、その教会で信仰生活を送りました。ある日の礼拝後、牧師と教会員とがこういう会話をされていました。牧師がこう語りました。「家族が順番に風邪に罹って、家族皆がなかなかすっきりしないのです」。教会員は答えました。「家族というのは、いつも誰かが苦しんでいるものなのですよ」。牧師は言いました。「それはなかなか信仰的な捉え方ですね」。
私はその会話を傍らで聞いていました。礼拝後の何気ない会話です。しかし、そこに私どもの信仰にとって大切なことが語られていました。
家族というものは、いつも誰かが苦しんでいるものなのですよ。言い換えれば、家族の誰かが、家族一人一人のことを覚え、いつも苦しんで祈っている。家族のために執り成しているということです。それが家族の交わりを支えているということです。家族の誰も家族一人一人のことを苦しみ、祈らなくなったら、家族は潰れてしまうということです。
このことは家族だけでなく、あらゆる交わりにおいても言えることです。そして何よりも神の家族と呼ばれる教会の交わりにおいてこそ、当てはまるのではないでしょうか。教会もまた様々な問題を抱えています。教会に連なる教会員一人一人も、様々な苦しみ、悲しみがあります。しかし、教会はいつも誰かが、私が祈れない時に、私に代わって教会員一人一人のことを覚えて、苦しみ、祈っておられる方がいる。それ故、教会の交わりが支えられているのだと言えます。
一昨日、クリスマスに転会された教会員の父君が逝去されました。今、御遺体が和室に安置されています。明日、葬儀を行います。葬儀の度に、いつも思うことがあります。葬儀は牧師一人で行っているのではない。教会員一人一人の祈りが、葬儀に集められ、悲しみの中にある御遺族を支え、司式をする牧師を支えているのです。祈りによって成り立つ信仰の群れであることを実感いたします。
②先週の水曜日より受難節に入りました。今朝の礼拝では、主イエスの最後の一週間の歩みを綴った受難物語でも、取り分け大切な場面の御言葉を聴きました。主イエスが弟子たちと最後の晩餐をされた後の出来事です。主イエスと弟子たちは夜中、オリーブ山へ向かいました。そこで祈りを捧げるためです。その夜道でのことです。主イエスと弟子たちとの会話、とりわけ主イエスとペトロとの会話です。主イエスは突然、弟子たちの躓き、ペトロの躓きを予告されました。それに対してペトロは激しく反論しました。。そして主イエスはオリーブ山のゲツセマネで、一人祈られた。弟子たちは眠ってしまった。そのような出来事が続く場面です。
実は、説教題の予告に、「弟子の裏切りと主イエスの祈り」とお知らせをしました。教会の看板にもその題が掲げられています。随分、教科書的な題を付けたものだと反省しました。説教題は神の呼びかけ、神の招きでもあります。主イエスはここで、弟子たちの躓きを嘆いているだけなのでしょうか。弟子たちの裏切りを責めているのでしょうか。何よりも、弟子たちが躓きから立ち直り、再生することを、主イエスは祈り求めておられるのではないか。それがこれらの出来事の中心にあるのではないか。それ故、説教題を神の呼びかけ、神の招きに変えました。
「あなたも主イエスの祈りに覚えられている」。
マルコ福音書は、福音書の中で最も早く書かれました。ペトロの記憶が許になって書かれたのではないかと言われます。この福音書が書かれた頃、ペトロは最初の教会の中心的な指導者となっていました。ペトロが主イエスを裏切った出来事は、ペトロにとって都合の悪いことです。消してしまいたい出来事です。今は立派なペトロ先生も、若かった頃は、イエスさまを裏切ったのだなと、教会員皆から言われてしまったら、面目が立たない。それなのに何故、ペトロの躓き、裏切りの出来事を書き残したのでしょうか。主イエスを中心とする弟子たちの群れ。これは今日の教会の原形です。教会に連なる私どもも、ペトロと同じように主イエスを裏切ることが生じるのです。しかし、躓いたペトロと弟子たちが何故、立ち直ったのか。弟子の群が再生出来たのか。そこに主イエスの祈りがあったからです。十字架へ向かわれる主イエスの必死な祈りがあったからです。「ああ、わたしも主イエスに祈られていた」。主イエスの祈りが、主イエスの十字架上での祈りが、ペトロを立ち直らせ、弟子たちの群れを再生させたと言えます。その主イエスの祈りは今、私どもの教会にも、教会に連なる私どもにもなされているのです。
2.①主イエスは弟子たちと最後の晩餐を執られた後、弟子たちと共にオリーブ山に向かわれました。夜道を歩かれた。石に躓かないように歩かれたと思います。その道すがら、主イエスは突然、弟子たちに語られました。
「あなたがたは皆わたしにつまずく」。
弟子たちは驚いたと思います。今、共に主の晩餐に与ったばかりではないですか。食事を通して、一つの群れであることを確認したばかりではないですか。何故、主イエスは突然、弟子たちの躓きを語られたのでしょうか。主イエスは続けてこう語られました。
「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」。
これは旧約聖書ゼカリヤ書の御言葉です。13章7節です。旧約1493頁。
「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、
わたしの同僚であった男に立ち向かえと、
万軍の主は言われる。
羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。
わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。
激しい言葉です。剣が振りかざされ、わたしの羊飼いを撃つ。羊飼いが撃たれれば、羊の群れは散らされる。剣とは誰よりも神の剣です。神の剣が振りかざされる時が来る。主イエスはゼカリヤが預言した御言葉こそ、今、ここで、私どもに起こるのだと受け留めたのです。羊飼い主イエスに神の剣が振りかざされる。人間の目から見れば、権力者の剣が振りかざされるように見えるかもしれない。しかし、何よりも神の剣が羊飼い主イエスに振りかざされる。その出来事こそ、十字架に架けられる時なのだと受け留められたのです。羊飼い主イエスが剣で撃たれると、主イエスに従っていた羊である弟子たちは皆、散らされてしまう。主イエスを中心とする弟子の群れが、崩れ去るのです。主の群れが崩壊する危機を迎えるのです。
今朝も、能登半島地震で、被災された輪島教会の新藤牧師と教会員数名が避難所で、礼拝を捧げておられます。1月下旬に、石川地区の教師会が金沢南部教会で行われました。新藤牧師はいつもの倍の時間を掛けて、出席されました。皆で再会を喜びました。新藤牧師は教師会で、教会の現状を報告されました。震災から一ヶ月、今、教会員の中でも、一人また一人と、二次避難をされたり、県内、県外の親族の家に身を寄せられる方が増えている。輪島を離れる方が増えている。輪島教会という主の群れが、震災という剣に撃たれ、羊の羊が散らばって行く。主の群れがどんどん小さくなる。羊の数が減って行く。果たして、再び、主の群れとして召集されるのだろうか。将来のことを考えると恐れと不安に満たされると語られました。本当にそうだなと思いました。
しかし、その恐れと不安は、私どもの教会、主の群れも抱えている問題です。神の剣を振りかざされて、羊飼いが撃たれる、主の群れが撃たれる。羊たちは皆散らばってしまう。主の群れが一撃で崩れ去ってしまう。主の群れの脆さです。そのような恐れと不安を、いつも私ども主の群れは抱えているのではないでしょうか。
②主イエスの思いがけない弟子たちの躓きの予告に、衝撃を受けた弟子たちの中で、ペトロは猛然と反発します。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。
私は他の弟子とは違う。他の弟子は羊飼いが撃たれたら、躓いて、散ってしまう。しかし、私だけは絶対に躓きません。ペトロは主イエスに対する自らの決意を表明しました。私の決意は絶対に揺るがないと豪語しました。
しかし、そのようなペトロに向かって、主イエスは語られました。
「はっきり言っておく」。元の言葉は、「アーメン」です。「真実である」という意味です。主イエスが真実を語られる時に、必ず冒頭で、「アーメン」と語られます。日本語ではなかなか訳し難い言葉です。主イエスは一体、どんな真実を語られたのでしょうか。
「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。
ペトロ、あなたは他の弟子とは自分は異なって、主イエスに従う私の決意は絶対に揺るがないと表明された。私だけは決して躓かないと決意表明をされた。しかし、ペトロよ。あなたこそ、他の弟子よりも真っ先に躓くであろう。今日、今夜、鶏が鳴く前に、三度もわたしを知らないと言うだろう。三度というのは、完全に主イエスを知らないと否認することです。ペトロよ、あなたの決意は脆くも崩れ去る。わたしから散って行く羊となる。
しかし、ペトロは前よりも力を込めて言い張りました。
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。
神の剣を振りかざされて、羊飼いである主イエスは殺されてしまうかもしれない。しかし、たとえ主イエスが殺されることがあっても、私だけは最後まで主イエスに従って行く。主イエスと共に死ぬことさえも厭わない。殉教の死に直面しても、私は主イエスを知らないなどと決して申しません。ペトロは以前にも増して、自らの決意は揺るがないことを表明しました。他の弟子たちもペトロと同じように、主イエスへ従う自分たちの決意は揺るがないのだと表明しました。弟子の一人一人が、自分だけはペトロのように揺るがない決意に立つことを言い表しました。
3.①ある説教者がこの箇所で説教しています。「決意」という題の説教です。それが今日の御言葉の主題であることを、説教題で表しました。成る程と思う説教題です。しかし、その説教は、ペトロの決意、弟子たちの決意を語ったのではありません。ペトロの決意、弟子たちの決意は脆くも崩れ去るのです。ペトロの決意、弟子たちの決意では、主の群れは神の剣に撃たれると、散らされて行くのです。主の群れは崩れ去るのです。それではこの説教者は一体、誰の「決意」を語られたのでしょうか。主イエスの決意です。それが次の場面、オリーブ山のゲツセマネで、主イエスが夜を徹して祈られた場面です。その説教者は語ります。まことの神がまことの人となって、自らの決意を立てられた。その主イエスの決意こそが、散らされた弟子たちの群れを再び呼び集め、再生させる唯一の力となるのです。
真夜中です。しんと静まり返ったオリーブ山、ゲツセマネです。そこは主イエスの祈り場としていた所です。弟子たちと共に祈祷会を行った場所です。この日は、弟子たちの中で、特に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴われました。しかし、この時の主イエスの様子はいつもと違っていました。主イエスはひどく恐れて、悶え始められた。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と、自分の心の内をあからさまに打ち明けられました。それ故、3名の弟子に向かって、「ここを離れず、目を覚まして、共に祈ってほしい」と語られました。神の剣が振りかざされる時、十字架の時が迫っていたからです。
主イエスは地面にひれ伏し、この苦しみの時がわたしから過ぎ去るように祈られました。この時の主イエスの祈りは、この一句に集中した祈りでした。
「アッバ、父よ」。「アッバ」。子どもが親しみを込めて呼ぶ時の呼びかけです。「おとうちゃん」「ぱぱ」。赤ちゃんが最初に発音する言葉から生まれたとも言われています。「アブ、アブ」。それを主イエスは天の父なる神に向かって呼びかけました。それを最初にされたのは主イエスです。「アッバ、父よ」。主イエスは私どもに向かって、どんな時でも、どんな状況であっても、もう駄目だと絶望的な状況であっても、こう呼びなさいと語られた。「アッバ、父よ」。主イエスが「アッバ、父よ」と呼びかけている言葉が書き留められているのは、このゲツセマネの祈りのこの場面だけです。それだけに注目すべき祈りです。毎日祈られていた主イエスの祈りは、この祈りに集中していたのです。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
「この杯」とは、十字架で振りかざされる神の剣の怒りが満ちた杯です。神の怒りの杯を吞んだら、滅びるのです。わたしの願いを言えば、十字架の道は避けたい。神の怒りの杯を吞むことを避けたい。他の道があれば、その道を選びたい。しかし、十字架の道を進む以外に道がないのであれば、神の怒りの杯を吞む以外の道がないのであれば。わたしはその道を進みます。わたしの願いではなく、あなたの御心がなりますように。
主イエスはここで自分の決意ではなく、神の決意は何かを祈り求めておられる。自分の決意が立つことではなく、神の決意が立つことを必死に祈り求めておられる。神の決意が貫かれることこそ、神の剣で撃たれ、散ってしまう弟子たちの主の群れを、再び召集し、再生させる道であることを求めておられる。主の群れの再生こそが、世界に生きる私ども一人一人の救いへの道であるからです。
②主イエスは神の剣が振りかざされる十字架の時を目前として、祈りながらゼカリヤ書の御言葉と共に、もう一つの御言葉を想い起こされたに違いありません。その御言葉こそ、イザヤ書53章、「主の僕の歌」「苦難の僕の歌」です。主イエスが日々口ずさまれていた歌、御言葉です。やがて現れる救い主は、私どもに代わって神の剣に撃たれ、私どもに代わって苦しみを負われる救い主である。特に、イザヤ書53章5~6節の御言葉です。旧約1150頁。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」。
私どもの撃たれた傷、背き、咎、苦しみを身代わりとなって負うて下さる苦難の僕、主の僕こそ、十字架の道を歩まれる羊飼い主イエスです。それは主イエスにとっては神の審きの道、神の怒りの道、滅びの道です。しかし、躓いた弟子たちを再生させる唯一の道です。世界に生きる私どもの救いの道であるのです。
主イエスが必死に神の決意を祈り求めている時に、あれ程、自分決意は揺らがないと豪語していたペトロも、他の弟子も、目を覚まして、主イエスと共に祈ることが出来ず、皆、眠りこけてしまいました。弟子たちが最も目を覚まして祈らなければならない肝心な時に、眠りこけてしまったのです。
4.①主イエスがオリーブ山へ向かう夜道で、弟子たちの躓きを予告されました。「あなたがたは皆、わたしに躓く」。ペトロも、他の弟子も、主イエスの余りにも衝撃的な言葉に、かっかして、もう一つ大切な言葉を語られたことをすっかり忘れていました。私どもの聴かなければならない御言葉を読み過ごしてしまうことがあります。聴かなければならない説教の言葉を聴き漏らしてしまうことがあります。ペトロや他の弟子が聴き漏らした主イエスの言葉とは、どんな言葉なのでしょうか。
「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。
この御言葉はマルコ福音書にとって、とても大切な御言葉です。主イエスが甦られた朝、主イエスの墓を訪ねた女性たちに、白い衣を着た若者、主の御使いも語った言葉です。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。
ここで重要な言葉は、「先に行く」です。元の言葉は一語です。主イエスは甦って、先に行かれる。神の剣に打たれ、躓き、挫折し、散らされたペトロ、他の弟子たちは故郷ガリラヤへ逃げ去る。しかし、そこに甦られた主イエスが先に行って、挫折し、逃げ去った弟子たちを迎えて下さる。挫折した弟子たちを再び立たせて下さる。甦った主イエスが先に立って、再生した新しい主の群れを築き上げて下さる。主イエスのこの決意、神のこの決意があるからこそ、散らされた輪島教会の主の群れも、再び故郷ガリラヤである輪島に、呼び集められることを信じて、御言葉を語り続けますと、新藤牧師は語られました。それは私ども主の群れも同じです。私どもの決意、牧師の決意が主の群れを立たせるのではない。主イエスの決意、神の決意が主の群れを立たせる。そのために、主イエスは夜を徹して、まどろむことなく、主の群れに連なる私どもを覚えて、祈り続けておられるのです。
②ある彫刻家が、ゲツセマネでの主イエスの祈りの場面を彫り刻みました。必衰になって祈られる主イエスの胸に、弟子が寄りかかって眠っています。この彫像の題名は、「一人は目覚めていなければならない」。この彫像を見ながら、ある説教者がこのような黙想の文章を綴っています。
「弟子が平安な、安心した顔つきで眠っている間、キリストは限りなく深く見抜きたもう目をもって世の中を見つめられ、そしてこの目は、この世のすべての悲嘆を包んでおられます。キリストは、われわれのきわめてひそやかな目配せの中に、人生の汚れと恥辱を見抜かれます。責めさいなまれた者の呻き、不安に包まれた者を呻きを聞かれます。キリストは、動物界の悲惨さ、すなわち弱肉強食のさまを見ておられます。キリストは、光が射し込んでいるのどかな田園の森の谷間で、人の目からは隠されているいと小さきものの世界の中にある苦悩をも見ておられます。
一人は目覚めていなくてはならないし、一人はすべてのことを見ていなくてはならない。われわれが眠っている間、あるいは夢見るようなに、自分たちの行く手のあらゆることに不安のままに歩いている間も、一人は目覚めていなければならない。その方はすべてを自分の胸に受け取らねばなりません。ゴルゴタの丘の上では、すべてが集結し、山のような重さとなって、ただ一人の方の胸の上にのしかかりました。そしてその心は、決して堅い石ではなく、柔らかい心でした。その心は愛を持っていました。それ故に、この重荷はその心の上に留まっただけでなく、その心の中にまで入り込んで行き、その心を満たし、突き破ってしまいました。真に、その方は、われわれの病を負われ、われわれの痛みをその身に引き受けられました。その方はまさしく、本当はわれわれが立たなくてはならない場所に立ちたもうたのです」。
今日も、ただ一人目覚めて、まどろむことなく、主の群れのために、世界のために、私どものために祈られている十字架の主イエス・キリストがおられる。そこに私どもの救いがあるのです。あなたも主イエスにいつも祈られているのです。
お祈りいたします。
「主よ、私の決意ではなく、主の決意に立たせて下さい。私の真実ではなく、主の真実に立たせて下さい。主に躓き、主を裏切る私どもが、主イエスのまどろむことのない祈りの中で、立ち直らせて下さい。私どもが歩む不安な将来も、甦られ、先回りして迎えて下さる主イエス・キリストの懐に迎えて下さい。先立ち歩まれる主イエス・キリストが、私どもの歩みべきいのちの道を開拓して下さい。死で行き止まりだと思った私どもの道に、主イエス・キリストが先立ち歩み、いのちの道を拓いて下さったことを確信させて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。