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「あなたも神の作品」

創世記 2章4b~9節
エフェソの信徒への手紙 2章1~10節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年6月7日

00:00 / 31:06

2026.6.7. 「あなたも神の作品」

      創世記2:4b~9,エフェソ2:1~10


1.①私は以前、伊勢の教会で伝道をしていました。教会には幼稚園がありましたので、幼稚園の園長として、園児たちと交わっていました。園児たちは毎日、園庭で遊びを発見し、歓声を上げていました。園児たちの遊びの中に、どろだんご作りがありました。土に水を混ぜ、手で何度もこねて、愛情を込めて丸め、砂をまぶし、乾かして、かちかちのどろだんごを作ります。完成したかちかちのどろだんごを見て、感心します。園児たちの頭の中には科学的な計算があり、感覚的な手の働きにより、素敵な作品を作り上げます。園児たちの好きな絵本に、『ばばばあちゃん』があります。その絵本の中で、ばばばあちゃんが子どもたちに、どろだんご作りを教えています。園児たちは毎日、園庭で、素晴らしいどろだんごという作品を作っています。

 園児たちのどろだんご作りを見ていると、いつも思い起こしていた聖書の御言葉があります。神さまが土の塵で人を形造られた。神さまも愛を込めて土をこねて人を形造られた。そして人の鼻に息を吹き込まれた。人は生きる存在となりました。私ども人間は神に造られた作品です。神の形に造られました。そして神はご自分が造られた人間をご覧になられ、極めて良かったと絶賛されました。大いに喜ばれました。私どものいのちは、神の喜びから始まっているのです。

 

創世記の神の人間創造の御言葉と響き合う言葉が、新約聖書にあります。エフェソの信徒への手紙2章のこの御言葉です。

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです」。

 私たちは神の作品。キリスト・イエスにあって造られた神の作品。しかも失敗作ではありません。神の良い作品。神の傑作であるのです。

 しかし、私どもは自らを神の作品、神の傑作として、受け留めているでしょうか。自分で自分を受け入れることが出来ない。友だちと自分を比べては、友だちの素晴らしさを羨ましく思い、自分の欠点ばかりが見えて来ます。そして神さまに文句を言います。「何故、私を素晴らしい作品として造って下さらなかったのか」。イザヤ書にこういう御言葉があります。陶器が陶工に向かって、何故、こんなふうに作ったのかと不平を述べるだろうか。あなたがたは将に、陶器が陶工に向かって不平を言っているようなものだ。造られた者が造り主に向かって、文句を言っている。そのような私どもが立ち帰るべき御言葉がが、この言葉です。

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです」。

 私どもは、私どもを神の傑作として造られた神の喜び、キリストの喜びの中で、生きるのです。

 

2.①この朝、私どもが聴いたエフェソの信徒への手紙2章1~10節の御言葉は、聖書が語る福音が凝縮されています。この御言葉の恵みが分かれば、私どもは救われます。皆さんは、どの御言葉が心に響いて来たでしょうか。いろいろな御言葉が心に響いて来たと思います。まず、この御言葉は迫って来たのではないでしょうか。

「私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした」。

 以前の口語訳ではこのように訳されていました。

「生まれながらの怒りの子であった」。

「怒りの子」。どういう意味なのでしょうか。神の怒りを受けている子です。あなたがたは生まれながらに神の怒りを受けている子。過ちと罪のために、死んだも同然の者であった。誠に激しい言葉です。いくら何でも、私どもにはそれ程、悪い人間ではない、と反発してしまいます。

 カトリックの信仰に生きた作家に、高橋たか子がいました。晩年は修道的な生活を送られました。高橋たか子の作品に、『怒りの子』があります。エフェソ書のこの御言葉から採られた題名です。

 舞台は京都。主人公はごく平凡な女性です。アパートで生活をしています。そのアパートに住んでいる女性がいます。挨拶を交わす程度の関係です。しかし、主人公の女性は、この女性を生理的に受け入れられないのです。自分に嫌な言葉を言った訳ではない。自分対し、嫌な振る舞いをした訳でもない。生理的に受け入れられないのです。他のアパートの住民とは、京都弁で挨拶を交わします。しかし、この女性とだけは標準語で挨拶を交わす。距離を置いてしまうのです。朝、この女性を見かけるだけで、一日調子が狂ってしまいます。この小説の結末はこのような場面で終わっています。生理的に受け入れられないこの女性を、アパートの2階の階段から、背後から突き落としてしまうのです。

 高橋たか子が初めて描いた殺人事件の小説です。何故、このような作品を描いたのでしょうか。明らかに主人公の女性を自らと重ね合わせています。カトリックの信仰に生き、修道的な生活をしている私の中にも、生まれながらの怒りの子が宿っている。「あの人さえいなければ、もっとうまく行くのに」と、心の中で人を殺している怒りの子がいる。それはこの作品を読んでいる、あなたにも怒りの子が宿っていることを伝えているのです。

 

私どもは一人の例外もなく、生まれながらの怒りの子が宿っている。過ちと罪のために、死んだも同然の者であった。「しかし」と、伝道者パウロは語ります。ここに福音の核心があります。キリスト・イエスの恵みに集中しています。

「しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かしーあなたがたが救われたのは恵みによるのですー、キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に現すためでした」。

 宗教改革者カルヴァンが、エフェソ書の講解説教をしています。それをアジア・カルヴァン学会の有志が、こつこつとフランス語から翻訳しています。私の神学校の先輩の東北学院大学の野村信先生を中心として翻訳しています。現在、2章13節までを出版しています。カルヴァンの説教の中の言葉を用いて、心惹かれる題名を付けています。1章は、『命の登録台帳』『神への保証金』。そして2章前半は、『恵みによって』。

 カルヴァンの説教は教理的で堅いという印象があります。しかし、それは誤解です。とてもイメージ豊かな言葉で綴られています。教理的であり、文学的な言葉で綴られた説教です。生まれながらに怒りの子を宿した私どもの姿を、このように表現します。

「虚しい自信でガマガエルのように膨れ上がっている」。神と向き合い、神の語りかけを聴き、応答する「神のかたち」を失った私どもは、「神の呪われた被造物で、蛆やシラミ、蚤や虫けらといった他の被造物と同列に置くことすらできないのです」。激しい言葉です。神のかたちを失った私どもは、蛆やシラミ、蚤や虫けら以下の存在であると語るのです。そのような私どもが滅びることなく、救われるためにはどうしたらよいのでしょうか。カルヴァンは「キリスト・イエスの恵み」に集中するのです。ただ「キリスト・イエスの恵みによって」。キリストの出来事に集中します。

 

3.①神のかたちを失い、生まれつき怒りの子が宿っている私どもを、神はキリスト・イエスにあって、新しく造り替えて下さり、神の良き作品として下さった。キリスト・イエスにあって、神を賛美する人間として、新しく創造して下さった。

 伝道者パウロは語ります。

「しかし、神は憐れに深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし」。そしてこの言葉を挿入して、強調します。「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」。そしてこの言葉を続けます。

「キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました」。

 過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、キリストと共に天上で座に着かせて下さった。「キリストと共に」という言葉が三度繰り返されています。

 ただキリスト・イエスの恵みによって救われることは、洗礼を受けることです。ある註解書では、4~6節の御言葉は、洗礼式に語られた御言葉ではないかと語ります。洗礼の出来事を語る御言葉です。

 私どもの教会は、洗礼式の時に、頭に水を三度垂らします。「滴礼」と呼んでいます。しかし、このような洗礼を通して、全身水の中に沈め、起き上がらせる「全身礼」が意味することと、同じ出来事が起こっています。

 私ども古い人間は、主イエス・キリストと共に十字架につけられ、死んだのです。そして主イエス・キリストが死人の中から甦られたように、私どもも新しい人間として甦らされたのです。更に、甦られた主イエス・キリストが、天に昇られ、天上の座に着かれたように、私どもも既に天上の座に着いているのです。これは驚くべき御言葉です。私どもは通常、死んでから後に、天上に引き上げられると受け留めています。しかし、この御言葉は、洗礼を受けたことにより、キリストと共に天上で座に着かせていただいたと語るのです。

 カルヴァンは説教の中で、洗礼を受けた私どもは、「天に錨を降ろす」のだと語ります。カルヴァンがよく語る言葉です。洗礼を受けた私どもは天を足場として生きるのです。自分の腹に怒りを降ろすのではない。自分の欲望に怒りを降ろすのでもない。天に錨を降ろす。それは言い換えれば、キリスト・イエスに錨を降ろして、地上を歩むということです。どんな荒波、暴風を受けても、私どものために十字架にかかり、甦られた、天に昇られたキリストに錨を降ろして歩むのです。天上のキリストに足場を据えて、地上を歩むのです。

 

先週、3名の方の葬儀を行いました。伊勢の教会で、5週続けて葬儀を行ったことはありましたが、一週間に3名の方の葬儀を行ったのは、初めての経験でした。6月2日(火)、妻の母、未信者の池田澄子さん、5日(金)、教会員の遠藤幸四郎さん、6日(土)他教会員で、北陸学院を通して交わりのあった星野俟子さん。北陸学院の院長であった番匠鉄雄先生の次女であり、北陸学院大学の学院長であった星野命先生の伴侶でした。遠藤幸四郎さんの葬儀には、200名の方が参列をされました。初めて教会に足を運ばれた方が多くいました。妻の母は今年の2月、東京から金沢の施設に入居し、教会員と交わりがなかったのですが、教会員の方々が多く出席して下さいました。星野俟子さんの葬儀にも、教会員の方々が出席して下さいました。そして共に、主を賛美しながら地上での最後の礼拝を捧げて下さいました。ああ、ここに教会の葬儀の姿があるのだと、改めて思いました。

 アメリカの神学者が教会の葬儀を記した『歌いつつ共に行進して』があります。主イエス・キリストが甦られたことにより、葬儀の意味も、葬儀の仕方も全く変わりました。それまでは死者の葬りは夜に行われた。しかし、主イエス・キリストが甦られたことにより、昼に行われるようになった。しかも、主イエス・キリストの甦りの印として、白い服を纏って棺を担ぎ、葬りをするようになった。棺が向かう場所は、死の闇に向かうのではなく、甦りのいのちに向かうからである。棺を担ぐ行進は、主を賛美するいのちの行進となった。

 先週、私どもは繰り返し棺を囲みながら、生きる時の死ぬ時も、私どもの主イエス・キリストを賛美しました。火葬場でも、棺を囲みながら、主を賛美しました。ここに共に歩む教会のいのちの交わりがあります。

 今日の御言葉で繰り返されている言葉があります。「キリスト・イエスにあって」、「キリストと共に」、そして「歩む」です。「キリストと共に歩む」。そこに私どもの信仰がある。それは同時に、「キリストにある者たちと共に歩む」ことです。そこに教会の交わりがあるのです。

 三名の方の葬りをしながら、心に刻んだことがあります。一人一人が異なった人生の歩みをして来ました。しかし、共通していることがあります。ただキリストの恵みによって生を受け、キリストの恵みによって生かされ、キリストの恵みによって死を迎えられた。全ては、キリストの恵みによる。そこに私どもの生きることも、死ぬこともあるのです。

 

4.①伊勢の幼稚園では、年長組の園児たちが窯元に行き、卒業制作として器を作ります。園児たちは純粋な心で素晴らしい作品を作ります。先生も作って下さいと言われ器を作るのですが、うまく作ろうという邪心が働いて、良い作品が作れません。

 昨日の星野俟子さんの葬儀で触れた御言葉があります。神がキリスト・イエスにあって私どもを神の作品として造って下さった。私どもは土の器です。誠に脆く、すぐにひびが入ってしまう。誰にも打ち明けられない、拭っても拭えない罪の汚れがこびりついています。四方から苦しみが襲いかかったら、粉々に砕け散ってしまいます。土の器に神の怒りが盛られたら、粉々に砕け散ります。しかし、神は私ども土の器に、主イエスの甦りのいのちを注いで下さった。生きる時も死ぬ時も、主イエスの甦りのいのちを宿す者として下さった。それ故、私どもは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びない土の器、神の作品とされているのです。


「キリストの恵み」に集中して、カルヴァンはエフェソ書2章の御言葉の説教をこのように語りました。先週、3名の方の死と向き合うことは厳しいことでした。そのような中で、カルヴァンの説教に慰められていました。

「神は私たちが神を求めているかなど問わない。神は私たちに何か奉仕ができるかを問わない。神は私たちに何か『良い備え』があるかなど問わない。私たちの考えも欲望もすべて、神の正義に逆らう忌まわしい敵だから。では何を問われるのか。何に心動かされて私たちを助けてくださるのか。私たちの内にある底知れぬ惨めさと、かくもひどい混乱をご覧になられ、神は深い憐れみを注ぎ給う」。

 そしてこう語ります。

「神が命の教えを地獄の底まで届かせ、そこに沈んでいた私たちを甦らせようと望まれるのは驚嘆すべきことです。私たちの悲惨が大きいだけに、それに応じて、神もまた測りがたいほどの憐れみの富を私たちに及ぼしてくださったということです。だからパウロは『私たちを愛してくださった神の大いなる慈愛』と付け加えているのです。神には私たちを魅了して止まぬ恵みがあったからです。その恵みには私たちの感覚をはるかに超えて大きく、それを味わおうと努めてみても、私たちにはその百分の一も味わえないほどなのです」。

 神の測りがたい大いなる恵みは、キリストが私どものために十字架で死んで下さったこと、私どものために死を打ち破り、甦られたこと、私どものために天に昇られ、天の座に着かれたこと、これらの出来事を通して現れました。私どもはそのキリストの恵みを、生きる時も死ぬ時も賛美しながら、共に歩んで行くのです。

 

 お祈りいたします。

「生まれつき怒りの子を宿し、滅ぶべき存在であった私どもです。しかし、ただキリストの恵みによって、キリストに結ばれて救われた私どもです。私どもの歩みに襲い懸かる荒波、暴風に遭遇しても、キリストに錨を降ろして、キリストにある者たちと共に歩ませて下さい。喜びの時も悲しみの時も、主を賛美しながら共に歩む主の群れとして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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