「いのちに向かって走れ」
詩編16:1~11
ルカ24:1~12
主日礼拝
牧師 井ノ川勝
2024年3月31日
1.①イースターの朝を迎えました。主イエス・キリストの甦りの出来事は、私どもにとって大きな喜びです。教会堂に入って来られた一人一人の顔が、いつもより喜びに溢れています。教会に向かう一人一人の足取りが、いつもより軽やかです。一人一人が交わす挨拶も、喜びに溢れています。主イエス・キリストは甦られ、生きておられる。イースターおめでとうございます。
今日は4年ぶりにイースターの祝会が行われます。4年前のイースター礼拝より、コロナの感染拡大のため、礼拝に出席される人数が制限されました。僅か10数名、洗礼式も延期となりました。教会学校も休校となりました。子どもたちの声も聞こえず、しーんと静まり返っていました。コロナという目に見えないウイルスへの不安、死への恐れが私どもを取り囲みました。講壇に立ち、招きの詞を朗読した時に、涙が流れて、声が詰まりました。最も大いなる喜びの日が悲しみのイースターとなりました。
また今も尚、能登半島にある輪島教会は元日の地震で教会堂が半壊し、今朝も避難所で数名の者でイースターの礼拝を捧げています。
コロナにしろ、大地震にしろ、様々な形で、繰り返し死の大波が私どもに襲い掛かり、命を呑み込もうとします。しかし、甦られた主イエス・キリストが私どもの先頭に立って、導いて下さるのです。死の荒波を潜り抜けさせて下さるのです。
②イースターの礼拝で聴きました御言葉は、ルカによる福音書24章です。主イエス・キリストが甦られた日に朝の出来事が語られています。ここで注目すべきことは、弟子のペトロが主イエスの墓を訪れた婦人たちの言葉を聞きました。主イエスは甦られた。墓は空っぽであった。それを聞いたペトロが、立ち上がり、墓へ向かって走り出したことです。墓へ向かって走る。これは異様なことです。滅多にしないことです。墓へ向かう時、私どもの足取りは重い足取りとなります。軽やかではありません。何故、ペトロは墓へ向かって走り出したのでしょうか。
コロナ禍、礼拝堂に集った僅かな教会員、ライブ配信の教会員、求道者に向けて語った説教の言葉を書き改めて、一冊の書物になりました。『ペトロの手紙を読もうー危機の時代の「生ける望み」』。その書物の表紙に選ばれたのは、スイスの画家ウジェーヌ・ビュルナンの「復活の朝、墓へと走るペトロとヨハネ」です。1898年の作です。私の好きな絵です。婦人たちの知らせを聞いたペトロとヨハネが、墓へ向かって走り出す場面の絵です。ペトロとヨハネの表情が的確に描かれています。「まさか」という表情と、「もしかして」という表情が合わさった顔をしています。十字架で死なれた主イエスが「まさか」甦るはずはあるまい。しかし同時に、主イエスが御言葉で語られていたように、「もしかして」甦られたのかもしれない。主イエスの甦りを疑いながらも、しかし同時に、主イエスが甦られたことを信じようとする表情を浮かべて、ペトロとヨハネは墓へ向かって走り出しているのです。
2.①週の初めの日の早朝、日曜日の朝早く、主イエスの墓へ向かった女性たちがいました。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、他の婦人たちです。皆、ガリラヤから主イエスに従って来た女性たちでした。墓に葬られた主イエスの御遺体に香料を塗るためでした。遺体の腐敗を出来るだけ遅らせるためでした。ところが、主イエスの墓の前に来ると、驚くべきことが起きていました。当時のユダヤ人の墓は洞窟のような形をしていました。洞窟の中に遺体を安置し、入口を大きな石で塞ぎました。その大きな石が脇に転がしてありました。墓の中に入っても、主イエスの御遺体は見当たりませんでした。
ここで注目していただきたいことがあります。ルカ福音書はずっと「イエス」と呼んで来ました。ところが、ここだけは、「主イエスの遺体」と丁寧に呼んでいるのです。ルカ福音書でこの箇所のみです。「主イエスの遺体」。十字架にかけられ、死なれ、墓に葬られた主イエスの御遺体。しかし、御遺体となった主イエスは甦られた。既に、この小さな言葉の中に、主イエスの甦りへの信仰が表現されています。
空っぽの主イエスの墓を前にして、婦人たちは途方に暮れました。婦人たちは主イエスが甦ったとは信じられなかった。誰かが主イエスの御遺体を盗んだのかもしれないと思ったのかもしれません。墓は私どもの人生の行く着くところ。終着駅です。私どもの死の現実を象徴するものです。死の現実を前にして、婦人たちは途方に暮れました。行き詰まってしまいました。
その時、輝く衣を着た二人の人が現れました。神の使いです。神の使いは神の御言葉を取り次ぐために遣わされた存在です。婦人たちに語りました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
この御言葉こそ、主イエスが甦られた朝に語られた神からのメッセージです。主イエス・キリストの甦りの出来事を、最も生き生きと言い表している御言葉です。主イエス・キリストは甦って、生きておられる。何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか。墓の中を捜すのか。主イエスは甦って、もはや墓の中におられない。
②神の使いは更に婦人たちに語ります。
「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
この御言葉も、主イエスが甦られた信仰とは何かを、明晰に語っています。主イエスがガリラヤで語られた御言葉を想い起こしなさい。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と語られたではないか。
この御言葉は、9章22節で、主イエスが弟子たちに向かって語られた受難預言です。婦人たちも一緒に聴いた御言葉です。「人の子」というのは、終わりの日に現れる救い主。主イエスは自らを「人の子」と呼びました。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」。「必ず~することになっている」。神の御業として必ず行われることを表す時に用いられる表現です。それこそが、十字架で死に、甦らされるという神の御業です。それが今、起こったのだと神の使いは告げたのです。
ここで注目すべき御言葉は、「思い出す」「想い起こす」です。ルカ福音書が大切にしている御言葉です。神の使いの言葉を聞き、婦人たちも主イエスの言葉を「思い出し」ました。「思い出す」「想い起こす」という言葉が、二度繰り返されています。この言葉は大切な場面で用いられています。
主イエスが十字架にかけられる前夜、ペトロは主イエスを三度知らないと否認しました。その時、鶏が鳴いた。その時、主イエスはペトロを振り向いて、見つめられた。ペトロは主イエスの言葉を思い出しました。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ペトロは主イエスの言葉を想い起こし、外に出て、激しく泣きました。ペトロの挫折の場面でも、主イエスの言葉を思い出し、想い起こしが語られていました。
更に、主イエスが十字架につけられた時、両側に二人の犯罪人も十字架につけられました。一人の犯罪人が死の極みで主イエスに語りかけました。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください」。
これは祈りの言葉でもあります。「主よ、わたしを思い出して下さい」。この祈りは詩編の中で繰り返される祈りでもあります。「主よ、わたしを思い出して下さい。わたしを忘れないで下さい。わたしに目を留めて下さい」。主が忘れない、主が思い出して下さる。そこに救いがあるからです。ここでは、私どもが思い出すのではなく、主が思い出して下さることが祈られています。
ペトロが三度、主イエスを知らないと否んだ時、主イエスは振り向いて、ペトロを見つめられました。その時、ペトロは主イエスの言葉を思い出した。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしをシラにと言うだろう」。しかし同時に、ペトロに振り向かれた主イエスのまなざしの中に、「わたしはあなたが裏切っても忘れることはない。わたしはあなたをいつも思い出して祈っている」という祈りのまなざしを見たのではないでしょうか。
マリアが神の御子イエスを宿した時、主に向かって、「わたしの魂は主をあがめ」と歌を歌いました。「マリア賛歌」です。その中でマリアはこう歌いました。
「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」。
主は無きに等しいこの私にも目を留めて下さった。目を留めるということは、忘れない、いつも想い起こして下さるということです。神はいつも私どもを忘れることなく、想い起こして下さる。この神の愛の想い起こしがあるから、私どもも主の御言葉を想い起こすことが出来るのです。
私どもは大切なことをすぐに忘れてしまう。肝心要なことを忘れてしまう。決定的なことを忘れることは命に関わることです。忘却も罪です。しかし、神が忘れずに想い起こして下さるから、私どもも主の御言葉を想い起こすのです。主の御言葉を想い起こす時、そこで生きておられる神と出会うのです。甦って生きておられる主イエスと出会うのです。
3.①主イエスの墓を訪ねた婦人たちは、神の使いに出会い、神の御言葉を聴きました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか』」。
婦人たちは主イエスの御言葉を思い出し、墓から急いで帰って、使徒たち、主イエスの弟子たちにこの神の御言葉を知らせました。ところが、主イエスの弟子たちには、この話が「たわ言」のように思われました。「たわ言」というのは、「中身のない、空っぽの話」という意味です。聞くに価しない話という意味です。婦人たちが思い出した主イエスの言葉。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」。
実は、弟子たちは主イエスからこの御言葉を一度だけではなく、三度も聞いているのです。三度ということは、繰り返し聞いていたということです。いつも主イエスと共に生活し、主イエスのお側近くにおり、主イエスから最も近い場所で、顔と顔とを合わせて御言葉を聞いていた弟子たちです。その弟子たちが、主イエスが最も力を込めて語られた御言葉を忘れているのです。主イエスが存在を懸けて語られた御言葉を、聴き漏らしているのです。婦人たちが思い出した主イエスの言葉を聞いた時、中身のない空っぽの話としてしか聞こえて来なかったのです。主イエスがわたしは十字架につけられた後、三日目に復活すると語られたにもかかわらず、主イエスの甦りは中身のない空っぽの話としか受け止められないのです。
私は日曜日、夕礼拝が終わった後、深夜に観るテレビ番組があります。「舟を編む」です。数年前、本屋大賞を受賞した小説をドラマにしたものです。書店で読者と接している店員が、読者に一番読んでほしい本として選ばれました。主人公の若い女性は出版社で辞書を作る仕事に就きます。小説の作者でもあります。私どもが恩恵を受けている辞書とは、このようにして作られて行くのかと驚きの連続です。それはまた大変な作業でもあります。数え切れない言葉が沈殿した大海原に舟を漕ぎ出し、網を投げて言葉を一つ一つ捜し出し、編んで行く。私どもが普段用いている言葉、否定的な意味しかないと思っていた言葉が、実は肯定的な意味を本来持っていた。そのような言葉との出会いを通して、登場する人物の生き方が変えられて行く。言葉には人の生き方を変える力がある。そのことを再認識させられるドラマです。「辞書を引いてご覧」。その言葉が繰り返し語られます。
②墓から帰って来た婦人たちの話を聞いて、中身のない空っぽの話だと思った主イエスの弟子たち。ところが、ペトロだけが主イエスの言葉を想い起こし、立ち上がり、墓へ向かって走り出したのです。主イエスの言葉に思い当たることがあったからです。主イエスが語られた言葉を、改めて心の中で引き直してみたのです。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」。
ペトロはもう一つの主イエスの言葉を思い出したと思います。最後の晩餐の席で語られた言葉です。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
十字架につけられた主イエスは、十字架の上でも、わたしを思い出し祈られ、そして今、死を突破し、甦って生きておられ、わたしを思い出し、わたしの信仰が無くならないように祈り続けておられる。主イエスの御言葉がペトロを捕らえ、ペトロを立ち上がらせ、墓へ向かって走り出させたのです。
ペトロは立ち上がった。この「立ち上がる」という言葉は、主イエスが甦られたという言葉と同じ言葉が用いられています。主イエスを三度知らないと否認し、主イエスを裏切ったペトロ。それは死んだ人と同然に、立ち上がることが出来なくなりました。そのペトロを立ち上がらせ、しかも墓へ向かって走り出すようになる。主イエスの御言葉が生きた言葉となって、ペトロに突き刺さったからです。主イエスは甦って生きておられる。それは主イエスの御言葉が生きた言葉となって、私どもを生かすことでもあります。
ペトロは立ち上がって墓へ走り、身を屈めて墓の中を覗きました。そこには亜麻布しかなかったので、この出来事を驚きながら家に帰って来ました。主イエスが甦られたことをまだ信じてはいない。ペトロが主イエスは甦って生きておられることを信じたのは、この後のことです。甦られた主イエスが弟子たちを訪ね、主イエス自ら御言葉を語られた。主イエスの御言葉との出会いを通し、甦られた主イエスと出会ったのです。
4.①ルカ福音書を通して地上を歩まれた主イエスの物語を描いたルカは、第二部として使徒言行録を描きました。甦られた主イエスは40日間、弟子たちと交わり、御言葉を語られた。その後、天に上って行かれた。父なる神の許へ帰って行かれた。やがて主イエスが約束されたように、天から聖霊が降り、教会が誕生した。教会は全世界に向かって御言葉を語りました。教会の伝道の物語です。その中心に立ったのが、ペトロでした。ペトロは聖霊に満たされ、大胆に主の御言葉を語りました。使徒言行録3章15節(新約218頁)で、このような御言葉を語っています。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。
あなたがたは、「命の導き手」であるイエスを十字架につけて殺した。しかし、神はイエスを死者の中から復活させて下さった。あなたがたは命の導き手・甦られたキリストの証人ではないか。「命の導き手」。心惹かれる言葉です。「命のパイオニア」、「命の開拓者」、「命の先達」です。死で全てが終わった。ここで行き止まりである。墓に降り、陰府に降り、滅びの闇の中に葬られるしかないと思っていた。ところが、主イエスは十字架につけられ、殺され、墓に葬られ、陰府まで降られた。死を打ち破り、新しい命の開拓者となって下さった。新しい命の道を拓いて下さった。ギリシャ正教会はイースターの朝、高笑いして、主に賛美を捧げます。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。
日本のプロテスタント教会の第二世代の中心的指導者であった髙倉徳太郎牧師が、「命へのパイオニア」という言葉を心に留め、「命の先達イエス」に従うと呼びかけました。命の先達イエスに従おうとしない私どもの罪を語りました。ただ惰性で生きる怠惰な生き方です。この病に罹った者は、驕傲に膨れ上がるか(驕り高ぶるか)、ぐにゃりと萎れるか、そのどちらかである。善人ではあるが、確信を持たず、臆病でセンチメンタルであると語ります。ただ命の先達イエスに従うのみ。
②命の開拓者イエスが死を打ち破り、甦られ生きておられる。主イエスの甦りの出来事によって、死の意味が変わりました。墓の意味が変わりました。主イエスは甦られ、墓が空となった。そこが私どもの命の最終場所ではなくなった。主イエスは甦って、墓から出て来られ、天に通じる命の道を開拓して下さった。父なる神の御許へ通じる命の道を開拓して下さった。終わりの日、主イエスと同じように甦らされることを待ち望み、死の眠りに就いておられる。
私どもが墓へ向かう足取りは、もはや重い足取りではなくなったのです。甦りの主イエスと共に、立ち上がり、墓へ向かって走り出すのです。私どもの歩みは死へ向かう死への疾走ではなく、甦られた主イエス・キリストによって、いのちへ向かって走り出す主の群れとされたのです。
お祈りいたします。
「主イエス・キリストは甦られ生きておられる。喜びの知らせを聴きました。私どもの歩みを180度変える福音の知らせです。死へ向かって走るのではありません。滅びに向かって走るのではありません。甦られた主イエス・キリストが開拓されたいのちへ向かって走り出すのです。この喜びの知らせを、甦りのキリストの証人である私どもの言葉を通し、存在を通して、この世界に向かって伝える主の群れとさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。