「いのちの響き合い」
出エジプト12:1~13
マルコ14:12~25
主日礼拝
井ノ川勝
2025年7月27日
1.①皆さんの中で、今朝初めて金沢教会の礼拝堂に入られた方がいると思われます。礼拝堂の印象を様々に持たれたことでしょう。十字架もない、ステングラスもない、何の飾りもない。隣りのカトリック教会の礼拝堂と比べますと、誠に殺風景です。しかし、そのような中で、皆さんが目に留まったものがあると思います。礼拝堂の正面にあります大きなテーブルです。テーブルの上には、何も置かれていません。一体何のために置かれているのだろうかと疑問に思われたと思います。
今朝も、北陸学院の高校生が礼拝に出席されています。毎日、礼拝堂で礼拝を捧げることから、授業が始まります。しかし、北陸学院の礼拝堂の正面には、このような大きなテーブルは置かれていません。なぜ、教会の礼拝堂には置かれているのだろうか。
実は、教会の礼拝はこのテーブルを囲むようにして礼拝を捧げているのです。礼拝において無くてはならないテーブルなのです。今朝は何も置かれていませんが、クリスマス、イースター、そして来週の第一主日の礼拝では、パンとぶどう汁が置かれます。キリストが十字架で、私たちのために注がれたキリストのいのちを現しています。キリストのいのちによって、私どもは生きる時も死ぬ時も生かされるのです。この大きなテーブルを聖餐の食卓と呼んでいます。教会の礼拝は、聖餐の食卓を囲んでなされるキリストのいのちの交わりなのです。
それは言い換えれば、私ども教会の信仰をひと言で言えば、「食卓の信仰」です。「食卓の交わり」です。食事をすることを大切にしています。
②私どもは毎日、家族と食卓を囲み、言葉を交わし合います。当たり前の光景です。しかし、日々の食卓が掛け替えのないものであったと実感するのは、家族を亡くした時です。いつも座っている席に家族の姿がない。寂しさが募ります。一回一回の食卓がどんなに掛け替えのない食卓であったかを実感します。そして食卓で交わした言葉を想い起こします。あの時語られた言葉が、今の私を生かしているのだと改めて思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチが描きました有名な『最後の晩餐』の絵があります。元々は修道院の食堂に飾られてあった作品です。修道士が日々、食事をしながら、『最後の晩餐』の絵に目を注ぎます。主イエスが12人の弟子たちと執られた最後の食卓です。実は、日々の何気ない食卓が、「最後の晩餐」の食卓に支えられていることを味わったのです。最後の晩餐の食卓の卓主は、主イエスです。その主イエスが日毎の食事の卓主でもあるのです。私どもにいのちを注ぎ、いのちの糧で養って下さるのです。私の食卓に飾られている額、英語の言葉があります。
「主イエスこそわが家の主人、見えざる客、沈黙の聴き手」。
2.①主イエスは食事の交わりを大切にされました。福音書を見ますと、食事の場面が何度も出て来ます。主イエスが十字架につけられる前に、どうしてもしなければならないことがありました。木曜日の夜の食事です。その食事は特別な食事でした。春の季節、ユダヤ人が「過越の祭り」で行う「過越の食事」でした。不思議な名前ですね。
以前、芥川賞を受賞した作品に、米谷ふみ子さんの『過越しの祭』がありました。作者の実体験が基になっています。ユダヤ人と結婚した日本人の女性が、ユダヤ人が大切にしている過越の食事に与る。その体験を綴ったものです。戸惑いながらも、ユダヤ人が3千年以上もの間、過越の食卓を通して、信仰を受け継いで来たことに驚いています。
過越の食事は、丸焼きにした小羊と、パン種の入っていないパンを苦菜を添えて食べます。子どもたちが尋ねます。「お父さん、お母さん、なぜ、今日はこのような食事をするの」。父母は答えます。「それはね、昔、私どもの祖先が奴隷であったエジプトから、主の御手によって導き出されたことを記念する食事なのよ」。旧約の時代、神が行われた最大の御業は、出エジプトの出来事です。奴隷の家、エジプトから解放された神が、今でも私どもを導いておられることを賛美する食事です。
出エジプトの出来事は、出エジプト記12章に記されています。エジプトを脱出する夜、主は語られました。小羊の血を取って家の入り口の二本の柱と鴨居に塗りなさい。小羊を火で焼き、パン種の入っていないパンを苦菜を添えて食べなさい。食べる時には、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手には杖を持って、急いで食べなさい。その夜、主はエジプト人の家をことごとく打たれる。しかし、家の入り口の二本の柱と鴨居に、小羊の血が塗られた家は、主は通り過ぎる。過ぎ越す。そこから生まれたのが、「過越の祭り」、「過越の食事」です。出エジプトの主の御業を記念するために、ユダヤ人が今でも大切に受け継いで来た春の祭り、食事です。主イエスも、過越の食事を大切にされました。
②主イエスは過越の食事を、とても丁寧に、周到に準備されています。二人の弟子を使いに出して言われました。
「都に行きなさい。エルサレムの町に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会うであろう。その人に付いて行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか」と言っています』。すると、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために食事の用意をしなさい」。
弟子たちは出かけて都に行ってみると、主イエスが言われたとおりだったので、過越の食事の準備をしました。過越の食事をする部屋は、エルサレムの二階の広間、二階座敷に用意されました。主イエスは12人の弟子と共に、二階の広間、二階座敷に行かれました。そして食事の席に着かれました。
3.①食事の席で、主イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて語られました。
「取りなさい。これは私の体である」。
また、杯を取り、感謝を献げて弟子たちに与えて語られました。
「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である」。
主イエスは一つのパンを裂かれ、分け与えられました。また、ぶどう酒の入った一つの杯を手渡され、順番に回し飲みをされました。今日でも、このような聖餐を行っている教会があります。私どもの教会はパンも、杯も、一つ一つ分けられて手渡されます。しかし、信仰的な意味は同じです。一つのパンと一つの杯を分かち合うのです。
毎年春、過越の祭りで、主イエスが弟子たちと共に行っている過越の食事です。ところが、今日の食事はいつもと違うのです。しかも食事の席で主イエスが語られた言葉に、弟子たちは驚いたことでしょう。初めて聴く言葉でした。主イエスから手渡されたパンとぶどう酒は、「これは私の体である」、「これは、多くの人のために流される私の血である」。主イエスはパンとぶどう酒を通して、ご自分のいのちそのものを注がれたのです。お与えになられたのです。
考えて見れば、不思議です。主イエスと弟子たちは過越の食事をされているのです。過越の食事に欠かせないのは、小羊とパン種の入っていないパンです。ところが、小羊を食したかどうかは記されていません。何故でしょうか。過越の食事は十字架の出来事を指し示しているからです。それ故、十字架につけられる前に、主イエスがどうしてもしなければならない食事であったのです。過越の食卓の卓主である主イエスご自身が、十字架につけられる犠牲の小羊であるからです。十字架で献げられる犠牲の小羊の肉と血、主イエスのいのちによって、あなたがたは生かされるのだ、と告げられたのです。
過越の食事は、出エジプトの出来事を記念する食事でした。奴隷から解放され、自由を与えて下さった主を賛美する食事です。主イエスが卓主となられた「最後の晩餐」は、新しい出エジプトの出来事を告げる食事です。私たちを罪の奴隷から解放し、真実の自由を与えて下さった十字架の主イエスを賛美する食事です。主イエスを卓主とする「新しいいのちの食卓の交わり」が誕生したのです。それが聖餐の食卓を囲んで礼拝を捧げる新しい主の群れ・教会の交わりです。
②しかし、食事の席で、主イエスは衝撃的な言葉を語られました。
「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」。
弟子たちは皆、心を痛め、代わる代わる言いました。
「まさか私のことでは」。
イスカリオテのユダだけでなく、弟子の一人一人に思い当たることがあったのです。主イエスとのいのちの関係を壊そうとする者がいる。主イエスとのいのちの交わり、食卓を壊そうとする者がいる。それが私たちの罪です。罪の奴隷になってしまう誘惑があるのです。実際、いのちの食卓に与った12人全ての弟子が、主イエスを裏切ってしまうのです。「裏切る」という言葉は、「引き渡す」という意味です。主イエスは十字架に引き渡されてしまう。
しかし、十字架の上で、主イエスは多くの人のために、全ての人のために、一人一人のために、裏切った弟子たち一人一人のために、血を流され、ご自分のいのちを注がれました。主イエスの血を注がれた者は、その主イエスの血の故に、主は私たちの前を通り過ぎて、裁きを行われないのです。罪の奴隷から解放し、主イエスの御支配の中で、生かして下さるのです。それこそが、主イエスの十字架で成し遂げられた「新しい出エジプトの出来事」であったのです。最後の晩餐はこの出来事を指し示しているのです。
4.①暑い夏を迎えています。毎年、夏を迎えますと、想い起こすことがあります。学生時代、澁谷の母教会の牧師、近藤勝彦牧師は、7月、8月と集中して旧約聖書の御言葉を説き明かされました。最初の採り上げられたのが、「エリヤ物語」でした。後に説教集にもなりました。『死のただ中にある命』。私は「エリヤ物語」の説教を通して、伝道者への献身の志を与えられました。列王記上19章(旧約552頁)です。預言者エリヤは、アハブ王、妃のイゼベルから命を狙われ、預言者の中で、ただ一人生き残りました。炎天下、荒れ野を一日中逃げ惑います。エリヤは疲れ果てて、主に叫びました。
「主よ、もうたくさんです。私の命を取り去って下さい」。
しかし、主はエリヤの叫び声を聴かれました。主はエリヤのために、パンと水を備えられました。そして語られました。しかも二度まで語られました。
「起きて食べよ」。「起きて食べよ」。「わたしが与える命のパンを食べて、あなたは生きよ」。
エリヤは主が与えられた命のパンを食べ、力を与えられ、40日40夜荒れ野を歩き続け、神の山ホレブに辿り着き、主とお会いしました。預言者として新たな召しを与えられました。「あなた一人が残った。そこに主の御心がある」。
主イエスは最後の晩餐の席で語られました。
「取りなさい。これは私の体である」。
強い命令の言葉です。主イエスが差し出されたいのちは、取っても取らなくてもよいのではありません。食べても食べなくてもよいのではありません。「あなたは取って食べよ。食べて生きよ」。
主イエスの言葉自体に、主イエスのいのちが注がれています。
「わたしのいのちを食べて、あなたは生きよ」。
主イエスはご自分のいのちを全て、わたしのために注ぎ込んでおられるのです。主イエスのいのちを注がれた者は、主イエスのいのちと響き合って生きることが求められるのです。主イエスのいのちに応答して生きるのです。
聖餐の食卓は将に、最後の晩餐です。一期一会の食事です。夏期訪問で、聖餐を運びます。これが最後の聖餐になるかもしれない。そういう思いで聖餐に与ります。しかし、主イエスは一回一回の食卓を通して、語られます。
「わたしはあなたにいのちを全て注いだ。あなたはわたしのいのちに響き合って生きよ、死を超えて生きよ」。
②最後の晩餐の席で、主イエスのいのちに与った弟子たちは皆、主イエスを裏切り、逃げて行きました。主イエスは十字架に引き渡されました。しかし、甦られた主イエスは逃げ去った弟子たちの後を追われました。いや、先回りして、弟子たちに現れ、迎えられました。
弟子たちは再びガリラヤの漁師に戻りました。一晩中、漁をしても一匹も魚が捕れませんでした。失意の中にある弟子たちのために、甦られた主イエスは炭を熾し、パンと魚を焼き、朝食の準備をされました。主イエスはパンを裂き、弟子たちに与えられました。その動作に、弟子たちははっとしました。最後の晩餐で執られた主イエスの動作と同じであったからです。誰も、「あなたはどなたですか」と問う者はいませんでした。皆、パンを裂かれたお方こそ、甦られた主イエスであると信じていたからです。主イエスは罪と死の闇を裂かれ、甦られ、私たちのためにいのちを注いで下さいます。
「取りなさい。私の体である」。
甦られた主イエスが用意された朝の食事を通して、裏切り、挫折した弟子たちを、主の弟子として再び立たせ、用いて下さるのです。甦られた主イエスのいのちと響き合って、新たな一歩を踏み出させて下さるのです。
金沢教会の礼拝堂に初めて入られて、印象深いことは、パイプオルガンの音色だと思います。様々な形、長さのパイプが、いのちの息を注がれると、様々な音色を奏で、主を賛美します。いのちの共鳴です。私どもも一人一人それぞれ異なっています。しかし、甦られた主イエスのいのちの息を注がれて、主イエスのいのちと響き合いながら、私の音色が生かされて、主を賛美するのです。一人一人が主イエスのいのちの交わりの中で、無くてはならない主を賛美する音色を奏でているのです。あなたというパイプは、主イエスの交わりにおいて、無くてならない音色なのです。
お祈りいたします。
「疲れ果てている私どもです。生きていても何の値打ちがあるのかと思ってしまう私どもです。しかし、主は私ども一人一人に、ご自分のいのちを差し出され、わたしを食べて生きよと、呼びかけて下さいます。主よ、あなたのいのちによって、私どもを生かして下さい。
主イエスが注がれたいのちにこだまし、響き合いながら、私ども一人一人が主を賛美するいのちの音色を奏で、主の交わりの中で生かして下さい。いのちのパイプとして用いて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。