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「いのちを深く掘る」

申命記 8章1~10節
ルカによる福音書 10章38~42節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年7月5日

00:00 / 34:09

2026.7.5. 「いのちを深く掘る」

      申命記8:1~10、ルカ10:38~42


1.①7月を迎え、最初の主の日の礼拝を捧げています。今年も夏に、東京神学大学、将来、伝道者として立つために学びをしている神学生を迎え、夏期伝道実習をしてもらいます。礼拝で説教をする。教会学校の生徒に説教を語る。聖書黙想・祈祷会で聖書の説き明かしをする。高齢、病気の教会員を訪ねる。様々な経験をしていただきます。そのことを通して、伝道者の奉仕の中心は、一人一人の魂に御言葉を語ることにあることを実感してほしいと願っています。それは困難な業ですが、同時に、喜びの業でもあります。

 夏期伝道実習生のことに思いを寄せていましたら、私の神学生時代のことを思い起こしました。卒業式の後のお祝い会で、北森嘉蔵先生が卒業生に送られた言葉を思い出しました。井戸を深く掘りなさい。井戸を深く掘れば掘る程、水脈に辿り着き、こんこんと水が湧き上がる。それと同じように、私ども伝道者にとって何よりも必要なことは、御言葉を深く掘ることにある。御言葉を浅く掘っただけで、御言葉の意味が分かったと満足してはならない。御言葉は私ども人間の知識を遙かに超える水脈を宿している。御言葉を深く掘れば掘るほど、私どもを生かすいのちの水が湧き出て来る。伝道者は生涯、御言葉を深く掘り続ける情熱と努力を怠ってはならない。

 

夏の始まりの主の日に聴いた御言葉は、マルタとマリアの話です。私どもが親しんでいる御言葉です。これまでも何度も聞いて来た御言葉です。今日、初めて聞いた方でも、解説をしなくても分かる御言葉です。しかし、この御言葉はもう分かっている。理解している。実は、そこに問題があります。御言葉を浅く掘って分かったと、満足してはなりません。もっと深く、更にもっと深く掘り続けることが大切です。聖書の御言葉は私どもを生かすいのちの水脈を宿しているからです。

 主イエスと弟子たちは旅を続けていました。その旅の途中、ある村に入られました。その村はベタニアではないかと言われています。ベタニアはエルサレムの入口にあります。主イエスの旅の目的はエルサレムです。従って、主イエスの旅は佳境に入っています。エルサレムの入口にあるベタニアには、マルタとマリアの姉妹の家がありました。マルタは主イエスを家に迎え入れました。伝道の旅を続けている主イエスをもてなすためです。

 マルタは主イエスを様々にもてなすために、忙しく立って働いていました。ところが、妹のマリアは主イエスの足元に座って、話を聞いていました。対称的な姉妹の姿が描かれています。マルタは主イエスに向かって、不平を漏らしました。

「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。

 マルタの不平は妹マリアだけに向けられていません。主イエスに対しても不平をぶつけています。忙しく立ち働いている私に、何の手伝いもしないマリアに注意をしない主イエスにも、不満をぶつけています。

 

2.①ここでまず、注意をしてほしいことがあります。マルタはイエスに向かって、「主よ」と呼んでいることです。今日の御言葉に、実に3回語られています。「マリアは主の足元に座って」。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせています」。「主はお答えになった」。

 「イエス」と言わずに、「主」と言っています。「主」は救い主の主です。生ける神を現す主です。マルタもイエスに向かって、「主よ」と呼んでいます。主におもてなしをしたい。主に奉仕をしたい。主に仕えたい。誰よりも強く、その思いを持っていました。主におもてなしをしたい。そのためにマルタは忙しく立ち働いています。私だけが奉仕している。ところが、マリアは手伝おうともしない。主イエスの足元に座って、立ち上がろうともしない。マルタはかっかかっかしていました。

 新しい聖書翻訳はこう訳しています。「マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていた」。以前の訳ではこうなっていました。「マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし」。「心を取り乱す」という訳は捨てがたいと思います。主のおもてなしのために、忙しさの余り、心を取り乱していた。この「心を取り乱す」という言葉は、「脇へ引っ張られる」という意味です。本筋から外れて、脇道へ引っ張られる。また、「心を取り乱す」という言葉は、「心が分裂する」という意味でもあります。心が幾つにも分裂して、大切な一つのことに集中できなくなることです。心が千々に乱れると、目の前のことが手につかなくなります。これは私どもが日々経験することです。テスト勉強もそうです。論文をまとめ、発表しなければならない。大切な仕事を明日までに仕上げなければならない。しかし、時間が刻々と迫っているが、あれもしなければ、これもしなければと、心が集中できず、目の前のことに手が着かない。それが「心を取り乱す」ことです。

 心を取り乱しているマルタに向かって、主は答えられました。

「マルタ、マルタ」。主イエスは二度までもマルタの名を呼んでおられる。マルタを憐れんで語りかけておられます。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている」。

主におもてなしをして、主イエスに喜んでいただきたい。満足してほしい。そのために気を遣い、思い煩っている。もてなしのため気を遣い過ぎる余り、思い煩い、心が病んでしまっている。目の前の奉仕に専念出来ない。「心を取り乱す」状態を表しています。「それがマルタ、あなたでしょう」と、主イエスは言われた。そして更に、こう言われた。

「しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」。

 「必要なことは一つだけ」。以前の訳ではこう訳されていました。

「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。

この一つを欠いたら、他の奉仕も、もてなしも成り立たないものがある。無くてならないものがある。将に、扇の要です。扇の要を欠いたら、扇はばらばらになってします。無くてならぬただ一つのものとは何か。マリアはそれを選んだ。それ故、それを取り上げてはならない。それこそが、「主の足元に座って、御言葉を聞く」ことです。

 この御言葉も、以前の訳ではこう訳されていました。

「主の足元に座って、御言に聞き入っていた」。主の足元に座って、御言葉を漠然と聞いていたのではありません。御言葉に聴き入っていた。御言葉に聴くことに集中していた。主の御言葉に聴くことに、全身を傾けていた。それこそが無くてならぬただ一つのこと。それこそが、マリアが行っていた奉仕、主へのもてなしであったのです。そして主イエスはマルタにも招いているのです。「あなたも、マリアのように、主の足元に座って、御言葉に聴き入りなさい」。

 

私が伊勢の教会で、コリントの信徒への手紙一を説教していた時、御言葉の深みを味わった経験をしました。7章35節の御言葉です。(新約303頁)。7章は、伝道者パウロが結婚について、夫と妻に対して語られた御言葉です。7章35節でこう語られています。

「むしろ、あなたがたが品位を保ち、ひたすら主に仕えるようになるためなのです」。

以前の訳はこう訳されていました。

「そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである」。

 「余念なく主に奉仕する」。ある方は、この言葉は、パウロが造った造語ではないかと語ります。元の言葉の意味はこうである。「美しく主の傍らに座を占める」。夫婦の生活において何よりも大切なことは、違う方向に引っ張られることなく、美しく主の傍らに座を占めること。それが「余念なく主に奉仕すること」である。そしてこの言葉と響き合っている言葉こそ、この御言葉なのです。

「主の足元に座して、主の御言葉に聴き入る」。

 主を礼拝しつつ御言葉を語っている時に、はっとさせられることがあります。主の足元に座し、主の御言葉に聴き入る姿の美しさです。礼拝者の美しい姿勢です。マリアの姿勢の美しさです。それは伊勢の教会でも、金沢教会でも経験して来ました。御言葉に聴き鋳る姿勢の美しさが説教者に伝わって来ます。それだけに、主の御言葉を語る奉仕の重さを心に刻みます。

 主のもてなしのために、様々な方向へ心が引っ張られ、心取り乱し、思い煩っていたマルタの姿勢は曲がっていたでしょう。美しさを失っていたでしょう。主の足元に座し、主の御言葉に聴き入るマリアの美しさとは、対称的な姿勢だったでしょう。

 ある神学者が『説教学』の中で語っている言葉があります。これもはっとさせられ、背筋がぴんとされた言葉です。

「説教の第一の聴き手は、会衆ではなく、神である」。

礼拝において、神が第一の聴き手となって、説教を聴いておられる。まず、第一に、神に向かって説教をする。その時、説教は祈りとなる。それ故、説教は祈りで結ばれる。説教が神への祈りであるということは、説教者もまた主の傍らに座し、主の御言葉に聴き入っているということです。それなくして説教の言葉は生まれない。それが説教者の礼拝での奉仕であるのです。

 

3.①私が金沢教会に遣わされる13年前、婦人会でこの御言葉を巡って堀岡満喜子先生に御言葉を説き明かしてもらい、懇談会が行われたと伺ったことがあります。どんな話し合いが行われたのでしょうか。「礼拝と奉仕」という主題であったとのことです。マリアは礼拝の代表者、マルタは奉仕の代表者ということでしょうか。

主のもてなしのために、忙しく食事の用意をするマルタ。教会の交わりのために、大切な奉仕の業です。しかし、マルタはマリアが手伝ってくれないので、心を取り乱していました。何故、私だけが主のもてなしのために忙しくしていなければならないのか。マリアに不満をぶつけ、裁いています。それは私どもにも起こることです。奉仕の業に熱心であればある程、一緒に奉仕の業に協力してくれない方々、あるいは自分の思い通りに奉仕の業に励んでくれないと苛立ちます。裁きます。

 しかし、主イエスはマルタの食卓の奉仕を否定しているわけではありません。全ての奉仕の根源的な奉仕ある。あなたもその奉仕に服してほしいと招かれるのです。無くてならぬただ一つのこと。主の足元に座し、主の御言葉に聴き入ることです。これこそが余念なく主に奉仕することである、と語られるのです。言い換えれば、礼拝こそが根源的な奉仕です。全ての奉仕は礼拝から始まる。しかし、礼拝は私どもの奉仕によって成り立つのではないのです。主の奉仕こそが礼拝を成り立たせる奉仕に業なのです。礼拝でどのような主の奉仕がなされているのでしょうか。

 

最近、加藤常昭先生の『日本伝道論』という本が出版されました。加藤先生が逝去されてから2年が経ちました。加藤先生が様々なところで講演されたものをまとめた書物です。加藤先生は最後まで、「日本の教会は大丈夫だろうか」と心配されていました。日本の教会の将来が、日々の祈りでした。この本の中に、鎌倉雪ノ下教会全体集会で語られた講演「私たちの教会の伝統に学ぶー植村正久と髙倉徳太郎」があります。

 鎌倉雪ノ下教会は、ルターの宗教改革400年を記念し、日本基督教会が鎌倉に伝道しようと志し、最初の礼拝説教をされたのが植村正久牧師でした。その後、毎週、髙倉徳太郎牧師が来られて説教をされました。その最初の説教が、今日の御言葉で、「深き生命」という題の説教でした。その説教の結びで、髙倉牧師はこう語られました。

「私はイエスの足下に座して余念なく御言葉に聞きとれておったマリアの態度に、かぎりなく心ひかれます。仰いで測り知るべからざる富にてありたもうキリストを待つ、十字架上のキリストを黙してまつ、上からの生命の水はしたたり落ちて、必ずわがうちに淵をなします。自分が自分を掘るのではありません。キリストが自分のうちに深く生命を掘って下さるのです。私共が自分で意識しておるよりも、もっと深いものです」。 

 礼拝において、主イエス・キリストが、私共のいのちを深く掘って下さる。主はそのような奉仕を、私どものためにしておられる。驚くべき御言葉です。

 この時、主イエスは主の足下に座し、御言葉に聴き入っているマリアに、どのような御言葉を語られたのでしょうか。その内容は記されていません。しかし、エルサレムを目指して旅をしていた主イエスにとって、ベタニアはエルサレムの入口です。エルサレムを目指す旅は、十字架を目指す旅であった。それが愈々近づいたということです。主イエスは直前で、弟子たちに向かって受難預言をされました。9章21節以下です。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。

もしかしたら、この時、マリアに向かっても、この御言葉を語られたのかもしれません。

 

4.①違う方向へ心が引っ張られ、心取り乱す。様々な思い患いが心を支配する。これは忙しく奉仕しているマルタだけではありません。主の足元に座し、主の御言葉に聴き入っているマリアにも起こっていることなのです。今、主に礼拝を捧げている私どもにも起こっていることです。主を礼拝しながらも、御言葉を聴きながらも、私どもの心は違う方向へ引っ張られてしまいます。様々な思い煩いから解き放たれないのです。病、死に対する不安と恐れが心を支配するのです。主の御前でも、私どもは罪人なのです。

 しかし、主イエスはそのような罪に支配された私どもの魂、いのちを深く掘って下さるのです。十字架でご自分のいのちで、ご自分の血で、私どものいのちを深く掘って下さる。私どものいのちの深みは、思い煩いが支配するのではない。病が支配するのでもない。死が支配するのでもない。闇が支配するのでもない。生ける主イエス・キリストが私どものいのちの深みに立って下さる。このような主の奉仕が私どもになされている。それが主の足元に座す、この礼拝で行われていることなのです。

 主イエス・キリストのいのちを懸けた奉仕の業に触れた私どもは、喜んで主に仕える奉仕へと押し出されて行くのです。この後、主の聖餐に与ります。主イエス・キリストがご自分のいのちで、ご自分の血で、私どものいのちを深く掘って下さり、私どものいのちの深みに、生ける主イエス・キリストが立って下さり、私どもに仕えて下さった主の奉仕に与ります。主の奉仕に与った私どもは、この聖餐の食卓から主への奉仕に喜んで仕える一歩を、共に踏み出すのです。

 

会報「みち」最新号に、「金沢教会150周年に向けて」という文章を記しました。5年後に金沢教会は150周年を迎えます。145年の教会の歩みの中心にあったものは、無くてならぬ、このただ一つのことでした。主の足元に座し、主の御言葉に聴き入る。この中心軸がずれることなく、150周年に向けて、主の足元に座し、主の御言葉に聴き入る主の群れとして、余念なく主に仕える主の群れでありたいと願います。

 

 お祈りいたします。

「主のもてなしのために奉仕に励んでいても、心取り乱し、不満をぶつけ、裁いてしまう私どもです。主の足元に座し、主の御言葉を聞いていても、違う方向へ心が引っ張られてしまう私どもです。そのような私どものために、主はこの礼拝において奉仕されています。ご自分のいのちを削ってまで、ご自分の血を流してまで、私どものいのちを深く掘って下さり、いのちの深みにまで立って下さるのです。罪人である私どもに仕えて下さるのです。今から与る主の聖餐を通して、主の奉仕を味わわせて下さい。喜んで主に仕える奉仕へと、私どもを召して下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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