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「ここに私がおります」

イザヤ6:1~13
マルコ4:10~12

主日礼拝

井ノ川 勝

2025年1月5日

00:00 / 39:38

1.①新しい年を迎え、誰もが新たな志を立てて、一歩を踏み出されたと思います。しかし、私どもにとって、新しい歩みの第一歩は常に神の御前でなされるものです。神を礼拝し、神の御言葉を聴くことから、私どもの歩みは常に始まります。そこで問われることは、私どもの志、私どもの願い、私どもの希望ではなく、主の使命、主の召しです。主が私どもに託された使命、主が私どもに与えられた召しを聴き取ることです。

 新しい年の最初の礼拝で与えられた御言葉は、預言者イザヤの召命の出来事です。実は、新年礼拝でイザヤの召命の出来事を取り上げた一つのきっかけがありました。昨年、大島力先生が『イザヤ書1~12章の註解書』を書かれました。更に、それを一般向けに書き改めました入門書、『イザヤ書を読もう上 ここに私がおります』が刊行されました。私はこれらの書物に触発されまして、新年礼拝にイザヤの召命の出来事を選んだのです。

 

ところが、年末に、ある方から驚くべき知らせを聞きました。大島力先生がクリスマス礼拝直前に逝去され、葬儀が阿佐ヶ谷教会で行われたとのことでした。とても驚きました。大島先生は神学校の先輩であり、神学生時代からイザヤ書の研究に没頭されていました。東京の石神井教会で伝道しながら、青山学院大学の宗教主任をされていました。数年前、退職をされました。『イザヤ書の註解書』の続編、『イザヤ書を読もう下』の刊行を楽しみにしていました。

 大島先生が書かれた書物に『預言者の信仰―神から遣わされた人々』があります。月刊誌『信徒の友』に連載していたものをまとめたものです。また、NHKラジオ放送「こころの時間」で、『旧約聖書入門』を講義されました。そこで必ず取り上げられたのは、預言者イザヤの召命の出来事です。恐らく、大島力先生の伝道者としての召命の原点が、ここにあったのだと言えます。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。

 大島先生の死の知らせを通して、改めて思いました。主の召命の出来事は一期一会の出来事であるということです。「まだ、その時ではありません」と先延ばし出来ないことです。「私にはふさわしくありません」と拒むことも出来ません。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。主から命じられたら、主に応答するしかありません。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。

 

2.①イザヤが預言者に召されたのは、明確な日付がありました。南王国ユダのウジヤ王が死んだ年でした。紀元前736年頃と言われています。長く王として君臨して来たウジヤ王の死は、南王国ユダにとっては危機を意味していました。「危機」という言葉は、「分かれ目」「岐路」を意味します。命の道を選ぶのか、それとも滅びの道を選ぶのか、その分かれ目、岐路に立たされることを意味していました。

 ウジヤ王による経済政策により国家は豊かになり、軍事力を増強し、領土を拡大し、繁栄の時代を築き上げました。イザヤは宮廷政治に携わっていた人物でした。中でも外交政策に関わっていたのではないかと言われています。イザヤはウジヤ王の政治を支えていた一人であったのです。繁栄の時代を築いた貢献者の一人でもありました。しかし、イザヤには一つの問いかけがありました。人間の間から見れば、確かに繁栄の時代を築き上げた。しかし、神のまなざしから見れば、それは真実に評価されることなのだろうか。ウジヤ王の死は、神の審きの出来事であったのではないか。それ故、ウジヤ王の死を、神がもたらした危機、分かれ目、岐路と、イザヤは受け留めたのではないでしょうか。

 神の御心を問うために、イザヤはエルサレム神殿で、礼拝を捧げ、祈りを捧げていました。その礼拝の最中、イザヤは神の召しを受けたのです。

 

礼拝は、神がここにおられる。生ける神の御臨在に触れる時です。神がここに生きておられるから、私どもの捧げる礼拝が生きたものとされるのです。イザヤは礼拝の最中、神の御臨在を見ました。「高く天にある御座に主が座しておられるのを見ました」。主の衣の裾は神殿いっぱいに広がっていました。神殿の上に方には、主から遣わされた使いセラフィムが幾人も飛んでいました。それぞれ六つの翼を持ち、その内、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていました。セラフィムは互いに呼び交わし、主を讃美しました。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。

礼拝の中心にある神讃美、頌栄です。聖三唱と呼ばれ、イザヤ書、ヨハネの黙示録を経て、今日の礼拝にも受け継がれている神讃美です。今朝も、頌栄、讃美歌21-83を讃美することから礼拝を始めました。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主なる神。

 主の栄光は 地に満てり。聖なるかな、主なる神」。

神は何よりも、「聖なる神」であられます。それこそが、神を呼ぶに最もふさわしい名です。神が聖であられることは、不義なるものを神の義しさによって徹底的に審き、打ち砕くことです。同時に、打ち砕かれ、悔いるものを愛をもって包み込むことです。

 セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と神を讃美した時、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされました。神が生きて、ここにおられることが明らかにされました。

 

3.①その時、イザヤは叫びました。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。

 汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、

 王なる万軍の主を仰ぎ見た」。

聖なる神の御臨在に触れた時、イザヤは自らの罪の深さを知り、私は滅ぼされる経験をしました。「ああ、災いなるかな。わたしは滅ぼされる」。イザヤは自らの罪深さをどこで感じたのでしょうか。汚れた唇です。イザヤはウジヤ王の側近として、言葉で説明し、言葉で説得して来ました。しかし、自分の唇で語った言葉で、ウジヤ王を満足させ、ウジヤ王の栄光を現して来た。しかし、聖なる神を満足させ、聖なる神に栄光を現すような言葉ではなかった。私は唇、言葉で罪を犯して来た。聖なる神の栄光を汚して来た。更に、注目すべきは、イザヤは自らの汚れた唇を、汚れた唇の神の民の中で見ているのです。汚れた唇に生きたのはイザヤだけでなく、神の民全員が汚れた唇に生きて来た。聖なる神をほめたたえる神讃美の唇、言葉に生きて来なかった。

 イザヤの罪、神の民の罪は、私どもの罪でもあります。私どもが最も罪を犯すのは唇です。言葉においてです。それ故、聖なる神によって唇の罪が審かれなければならないのです。

 セラフィムの一人がイザヤのところに飛んで来ました。その手には祭壇から火鉢で取った炭火がありました。その炭火をイザヤの口に触れさせて語りかけました。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。

 その時、主が語られる御声を、イザヤは聴きました。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。

イザヤは応えます。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。

 

神学生時代、神学校の一週間は火曜日から始まりました。礼拝の後、クラスに分かれて祈祷会が行われます。神学生が順番に献身の証しをします。自分たちが聖書のどの御言葉によって、伝道者になる献身を与えられたのか証しをします。多くの神学生が決定的な影響を受けた御言葉は、モーセの召命の出来事か、エレミヤの召命の出来事でした。

 主から召しを受けた時、モーセは応えました。

「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。主は語られました。

「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。

 主から召しを受けた時、エレミヤは応えました。

「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。しかし、主は語られました。

「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。

 私はイザヤの召命の御言葉によって、伝道者としての召しを受けたと証しする神学生は一人もいませんでした。ある神学生はわざわざ、私はイザヤ的召命ではなく、エレミヤ的召命によって、伝道者としての献身の志が与えられたと証しをしました。それを聞いたクラス担任の左近淑先生が、こう呟きました。「イザヤの召命はエレミヤの召命と対立するのだろうか」。

 モーセ、エレミヤが、主から召しを受けた時、私は口が重い、私はまだ若いという理由で、主の召しを躊躇し、拒みました。それに対し、イザヤは真に対照的です。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。しかし、問題は、果たしてイザヤは、胸を張って、わたしがここにおります。わたしを遣わしてください、と応えたのでしょうか。

 

4.①左近淑先生がイザヤの召命の出来事を綴った文章があります。礼拝堂で、聖なる神の御臨在に触れた時、イザヤは叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる」。左近先生はこう訳しています。「ああ、わたしはもう駄目だ」。聖なる神の御前で、イザヤは「わたしは汚れた唇の者」であることを思い知らされました。唇だけが汚れているという意味ではありません。唇とは、全存在を表現するものです。言葉が私どもの全存在、全人格を形造っているからです。それ故、イザヤの叫びはこのような思いが含まれています。

「ああ、わたしはもう駄目だ。わたしは完全に内側から崩れている。わたしの全存在が汚れ、全存在が汚れた民のなかにいる」。

自己の崩壊、内側からの完全な崩れを表す叫びです。

 内側からの崩れを経験している人間が、胸を張って、「われここにあり」とは言えません。「ああ、わたしはもう駄目だ」と、内側からの崩れを経験しているイザヤが、しかし、全く他なる存在によって、神によって根源的に赦され、支えられているのです。罪の赦しの宣言を心底に聴き取ったイザヤの感謝に満ちた応答の言葉。それがこの言葉です。「わたしがここにいます」。

 大切なことは「ここに」という言葉が、どこを表しているかです。わたしが立っている「ここ」ではありません。あなたが汚れた唇のわたしを赦し、なお、遣わして下さる神の「ここ」です。神の「ここ」しか、わたしが立つ場所はないし、神の「ここ」しか、わたしが遣わされる理由はないのです。それ故、左近先生はこう訳します。

「はい、わたしがここに」。

汚れた唇のイザヤを根底から赦し、新たに生かし、遣わす神の聖なる憐れみに対する、感謝の応答です。主の召しに畏れ驚きながら、感謝しつつ喜んで従う姿勢です。それが主の召しに応えることです。

 

年末に、東京神学大学の教授であった近藤勝彦先生からメールをいただきました。クリスマス礼拝、クリスマスの集会が全て終わった12月27日、妻静子は静かに息を引き取りました。数年前より癌のため自宅で療養されているとお聞きし、案じて祈っていました。近藤先生御夫妻は、私が大学3年生の時、ドイツの留学から帰国され、私が通いっていた教会の牧師夫妻となられました。大学生、神学生時代に、豊かな交わりが与えられ、いっぱい想い出があります。近藤先生だけでなく、静子さんからも導かれ、祈られ、支えられました。

 近藤先生の説教集、神学書の書評を書く時、いつも最後にこう記しました。「近藤先生の傍らには、近藤説教、近藤神学の最良の理解者であり、手強い対話の相手である良き伴侶・静子さんがおられます」。静子さんなくして、近藤説教、近藤神学も生まれなかったでしょう。イザヤの召命を心に刻む時、近藤静子さんを想い起こします。イザヤの召命の出来事は、伝道者だけでなく、信徒にも当てはめることが出来るからです。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。

「はい、わたしがここに。わたしをおつかわしください」。

 輪島教会の新道豪牧師は、昨年の元日の能登半島地震以来、ずっと輪島の地に留まって、礼拝を続けられています。今も、半壊の牧師館で寝泊まりしながら、礼拝、伝道を続けておられます。輪島教会の数名の礼拝の群れが、能登の人々の救いを担っているからです。そこにもイザヤの召命の出来事を見るのです。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。

「は、わたしがここに。わたしをおつかわしください」。

 

5.①イザヤの召命の出来事は、ここで終わっていません。むしろ、その後の主の言葉こそが、驚くべき言葉です。

「主は言われた。

『行け、この民に言うがよい。

よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。

この民の心をかたくなしに、耳を鈍く、目を暗くせよ。

目で見ることなく、耳で聞くことなく、

 その心で理解することなく、

 悔い改めていやされることのないために』」。

主から遣わされたイザヤは、神の民に御言葉を語ります。その時、主は頑なな民の心を柔らかくし、目を開かせ、耳を開かせるのではないのです。むしろ、主は神の民の心を頑なにし、耳を鈍くし、目を曇らせる。神の民は御言葉を理解することなく、悔い改めて癒されることはない。何故、神はそのようなことをされるのでしょうか。

神の御言葉は喜んで聴かれるものではない。むしろ御言葉が語られれば語られる程、神の民の心は頑なになり、耳を閉ざし、目を閉じてしまう。伝道の厳しさが、このような表現で語られているのです。主イエスもまた、弟子たちを伝道に遣わされる時に、語られた御言葉です。

イザヤは頑なな神の民の心に跳ね返され、伝道に挫折し、失敗を何度も何度も味わいました。わたしは何のために御言葉を語っているのだろうか。わたしはもう伝道者として立って行けない。イザヤが日々味わった敗北感です。

イザヤは主に向かって叫びます。

「主よ、いつまででしょうか」。いつまで、このようは敗北感を味わわなければならないのですか。

 それに対する主の答えも、驚くべき言葉です。

「主は答えられた。

 『町々は崩れ去って、住む者もなく、

  家には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで』」。

やがて起こる南王国ユダの滅亡、神の都エルサレムの陥落、神の民は遠いバビロンに捕囚の民として連れて行かれる。バビロン捕囚の出来事。神の民の滅びの預言です。今よりも比べものにならない敗北感を味わう時が来る。神の民を慰めるために御言葉を語るために、主から遣わされる預言者イザヤにとって、耐えられない出来事が起こる。

 

しかし、主は尚、語られます。

「主は人を遠くへ移される。

 国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。

 なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。

 切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。

 しかし、それでも切り株が残る。

 その切り株とは聖なる種子である」。

神の厳しい審きを潜り抜けて神の民の十分の一が残る。しかし、それも焼き尽くされる。神の民というテレビンの木、樫の木という大木が切り倒される。しかし、その切り株から聖なる種子、新しい芽が萌え出る。預言者イザヤが語る「残りの者の信仰」です。

 切り倒された切り株から萌え出た聖なる種子、新しい芽こそ、イザヤが11章の冒頭で語る預言です。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、

 その音からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。

救い主イエスの誕生を告げるクリスマス預言です。切り倒された切り株。人間の目から見れば、全ての命は絶えた。しかし、切り倒された切り株から、聖なる種子、新しい芽が萌え出る。それこそが救い主イエス。救い主イエスの到来により、新しい神の民が立てられる。それがキリストの教会なのです。キリストを頭とする教会に連なる一人一人が、聖なる神の御前に立つ時に、新しい召しを受けるのです。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。

私どもは応えます。「はい、わたしがここに。わたしをおつかわしください」。

キリストの教会は、揺れ動くこの世界を執り成すために、この世界に生きる一人一人を執り成すために、立てられています。そしてキリストの教会に連なる私ども一人一人が、この世界に生きる一人一人の魂に御言葉を届けるために、遣わされるのです。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。

「はい、わたしが」ここに。わたしをおつかわしください」。

 

 お祈りいたします。

「新しい年を迎え、聖なる神の御前に立つ私ども一人一人に、主は語りかけます。誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。私どもは応えます。はい、わたしがここに。わたしをおつかわしください。主よ、一人一人をあなたの御用のために、お遣わし下さい。御言葉を跳ね返されても、跳ね返されても、尚、へこたれることなく、御言葉を語らせて下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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