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「この世の悲しみ、神の御心に適った悲しみ」

エレミヤ書 17章9~17節
コリントの信徒への手紙二 7章5~13節a

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年5月31日

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2026.5.31. 「この世の悲しみ、神の御心に適った悲しみ」

       エレミヤ17:9~17、コリント二7:5~13a


1.①誰もが、いつも抱えているもの。その一つに、悲しみがあります。私どもは日々の生活において、実に様々な悲しみを経験します。大切な方を失った悲しみがあります。友だちとの関係にひびが入り、なかなか修復できない悲しみがあります。自分が望んだことが叶わず、挫折を味わう悲しみがあります。日々、年齢を重ね、昨日まで出来たことが、今日出来なくなる悲しみがあります。幼稚園の園児も、小さな心の中に、いっぱい悲しみを抱えています。悲しみは年齢に関係なく、誰もが、いつも抱えているものです。一人一人がそれぞれの悲しみを抱えながら生きています。

 悲しみを抱えた私どもが聖書を開き、御言葉に触れる時に、気がつかされることがあります。聖書にはいっぱい悲しみが語られています。聖書は私どもの悲しみを知っています。私どもが気づいている悲しみも、気づいていない悲しみも語っています。

この朝、聴いた御言葉の中にも、悲しみという言葉が繰り返し語られています。中でも、皆さんが心に留められた御言葉は、この言葉ではないでしょうか。

「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします」。

 悲しみには二種類あると言うのです。一つはこの世の悲しみです。もう一つは神の御心に適った悲しみです。しかも、この世の悲しみは死をもたらす。それに対して、神の御心に適った悲しみは救いをもたらす悔い改めを生じさせる。一体、この世の悲しみとはどのような悲しみなのでしょうか。神の御心に適った悲しみとはどのような悲しみなのでしょうか。

 

「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらす」。

 一体、この御言葉はどのような場面で語られた言葉なのでしょうか。この御言葉を語ったのは、伝道者パウロです。パウロが自らの伝道によって生まれた、ギリシャ半島にあるコリントの教会の信徒に宛てた手紙の中で、語った言葉です。

 実は、この手紙を書く前に、もう一通の手紙を書いています。「涙の手紙」と呼ばれています。しかし、この手紙は見つかっていません。伝道者パウロが涙を流しながら書いた手紙です。一体、涙を流しながら、何を書いたのか。コリントの教会の中に、信徒同士の対立がありました。しかもかなり激しい対立でした。その中には、伝道者パウロを厳しく批判する信徒もいました。そのような教会の現実に、心を痛めたパウロが、涙を流しながら、信徒の罪を指摘し、しかもかなり厳しい言葉を綴りました。

伝道者が信徒の罪を真っ正面から指摘し、悔い改めを迫る。これはかなりの覚悟のいることです。パウロはこのような手紙を書いたことを後悔しました。「ああ、あんなに厳しい言葉を語らなければよかった」。「もっと別の言い方があったのではないか」。パウロは後悔しながら悩みました。コリントの教会の信徒たちも、パウロ先生からの激しい手紙を読んで、却って心が頑なになりました。自分たちこそが義しいことをしている。パウロ先生からそのような叱責を受ける筋合いなどない。始めは心を頑なにしていた信徒たちが、何度もパウロ先生の手紙を読み直すことにより、自分たちの罪を知った。そして神の御前で悔い改めるようになった。その知らせを聞いたパウロが、この手紙を書いたのです。パウロはこう綴っています。

「あの手紙(涙の手紙)によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです」。そして、この御言葉続くのです。

「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします」。

 

2.①さて、問題は、伝道者パウロが語る、この世の悲しみとは、どのような悲しみなのでしょうか。神の御心に適った悲しみとは、どのような悲しみなのでしょうか。

 この世の悲しみは死をもたらす、というのです。激しい言葉です。死をもたらすということは、私どもを生かす命はないということです。私どもを押し潰して、死に至らせるということです。それでは、この世の悲しみとはどのような悲しみなのでしょうか。パウロがここで繰り返し語っている言葉で言えば、後悔する悲しみです。悲しみの中心に、後悔が立つということです。「あの時、こうしていれば、違った結果になったのに」と、悔やんでばかりいる。悔やむ思いがぐるぐると心の中を回ってばかりいます。自分で何とかしようと思いのだけれども、どうすることも出来ない。結局、私が悲しみの中心に立ってしまう。「誰も、私の悲しみを分かってくれない」と、自分の心の内に閉じこもってしまいます。「あなたには、私の悲しみなど分からない」と、悲しみのエゴイズムに陥ってしまいます。悲しみの中で、自己中心になり、罪を犯してしまいます。

 それに対し、神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる、というのです。後悔ではなく、悔い改めがもたらされるというのです。後悔と悔い改めは全く違います。悔い改めは、方向転換する、回心する、立ち帰るという意味があります。自分で自分の心を回すのではないのです。私どもの心は、悲しみに直面すると、心が硬直化し、心が頑なになります。神が悲しみで頑なになった私どもの心を、神の方向へと回して下さるのです。神に立ち帰らせて下さるのです。神の御前で、悲しむようにさせて下さるのです。神の御前で、悲しみの涙を流すようにさせて下さるのです。神に向かって、悲しみを叫び、訴えるようにさせて下さるのです。

 

主イエスが山の上で、弟子たちに向かって語られた説教、山上の説教があります。その最初のところで、八つの幸いの教えを語られました。二番目の幸いの教えは、このような御言葉でした。

「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」。

驚くべき言葉です。一体、誰がこのような言葉を語れるでしょうか。牧師でも語れません。悲しんでいる方に、牧師が「あなたは幸いだ」と語ったら、あなたは私の悲しみを分かっていない、と怒鳴られるでしょう。この御言葉を語ることが出来るのは、ただ一人しかいません。主イエスだけしかいません。悲しみの中に幸いがあるのではありません。悲しみは私どもから幸いを奪い、絶望の底へ突き落とします。「悲しみ人々は幸いである」と語られた主イエスに、慰めがあるのです。主イエスこそ、私どもの悲しみを知っておられるからです。私どもの悲しみを共に悲しんで下さるからです。私どもの悲しみの真ん中に立って下さるからです。

 マルタとマリアが、愛する兄弟ラザロを亡くした時、マルタとマリアは涙を流しながら、悲しみを主イエスにぶつけました。

「主よ、もし、あなたがここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。何故、あなたはもっと速く、私どものところに来て下さらなかったのですか。もう手遅れではありませんか」。

 主イエスはマルタとマリアの涙を見られ、ご自身も涙を流されました。愛する家族を奪い、絶望の底に突き落とす死に向かって、激しく憤りを覚えられました。主イエスは死の前で、激しく感情を露わにされました。

 ヘブライ人への手紙は、主イエスの地上の歩みを、このひと言で言い表しました。

「キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。

 主イエスこそ、私どもに代わって、私どもの先頭に立って、私どもが遭遇するあらゆる悲しみを、身に受けられ、深く嘆き、涙を流しながら、死から救うことのできる父なる神に、祈りと願いとを献げ、聴き入れられた。主イエスこそ、私どもの悲しみの真ん中に立たれ、私どもを執り成して下さった。

 詩編56編の詩人が、このような祈りを捧げています。

「あなたは私のさすらいの日々を数えてくださいました。私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。あなたの記録にはそうするように書かれていませんか」。

 主イエスこそ、私どもの涙を一粒も漏らすことなく、革袋に蓄えて下さる方です。私どもの涙の意味を記録して下さる方です。主イエスこそ涙の革袋です。

 主イエスは何故、十字架の道を歩まれたのでしょうか。主イエスは何故、死に打ち勝ち、甦られ、生きておられるのでしょうか。私どもの悲しみの真ん中に立たれるためです。私どもの悲しみの心を、神に向けさせるためです。その時、私どもの悲しみの意味が変えられるのです。悲しみの方向転換がもたらされるのです。同時に、私ども自身が変えられるのです。それこそが悔い改めさせられることです。

 

3.①「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします」。

 聖書の中に、この世の悲しみを悲しんだ人物と、神の御心に適った悲しみを悲しんだ人物が登場します。主イエスの弟子ユダとペトロです。いずれも、主イエスを裏切るという、取り返しのつかない大きな罪を犯しました。悲しみのどん底に突き落とされました。しかし、何故、ユダは自殺し、ペトロは立ち直ったのでしょうか。

 ユダは銀貨三十枚で、主イエスを祭司長、長老たちに売り渡しました。ところが、主イエスに十字架刑という有罪判決が下ったのを知り、後悔しました。銀貨三十枚を神殿に投げ込み、首をくくって自殺しました。悔やんでも悔やんでも、元に戻らない。どうすることも出来ない。悲しみの中で、自分が真ん中に立って、どうにかしようとしたけれども、何も出来なかった。この世の悲しみは死をもたらす。それを味わったのは、ユダでした。

 ペトロは最後の晩餐の席で、主イエスに向かって断言しました。

「たとえ他の弟子たちがあなたを見捨てても、私だけは最後まであなたに従います。たとえご一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。

 しかし、ペトロは捕らえられた主イエスの様子を伺いに、大祭司の中庭に入り込んだ時、そこにいた人々から、「あなたも主イエスの弟子だった」と言われ、三度も「私は主イエスなど知らない」と否みました。その時、ペトロは主イエスの言葉を思い起こしました。「あなたは鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うだろう」。主イエスのこの言葉を思い起こしたペトロは、激しく泣き崩れました。ルカによる福音書では、ペトロが三度、主イエスを知らないと言った時、主イエスは振り向いてペトロを見つめられました。ペトロは主イエスのまなざしのもとで、激しく泣きました。

 後に、ペトロは、甦られた主イエスのまなざしのもとで、悔い改めへと導かれ、悲しみの涙の中から立ち直ることが出来ました。再び、主イエスの弟子として立ち直らせていただきました。神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる。神の御心に適った悲しみを、ペトロは味わうことになりました。

 

「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらす」。

 伝道者パウロがここで語る悲しみは、何よりも、自分の罪を悲しむことです。自分が気づかなかった自分の罪を、神の御前で知り、神の御前で自分の罪を悲しむのです。私どもの悲しみの中心に、主イエスが立って下さる。そこでこそ、悔い改めが生まれるのです。神に立ち帰り、神の御前で悲しむのです。

 先週、石川地区総会が金沢元町教会で行われました。開会礼拝の説教を、小松教会の松島保真牧師がされました。その説教の中で、一つのエピソードを紹介された。七尾教会の前任牧師である今村牧師が、神学校を卒業したばかりの釜土達雄牧師に語った言葉があります。伝道者はどんなに一所懸命に御言葉を語っても、なかなか実りが見えないと、悲嘆の叫びを上げたくなる。しかし、人に向かって語ると愚痴になるが、神に向かって語れば祈りになる。神の御前で、悲嘆し、叫びなさい。

 悲しみを、自分の心に内に向かって叫び、人に向かって叫ぶと、後悔になる。しかし、神の御前で悲しみを叫べば、悔い改めへと導いて下さる。主イエスが私どもの悲しみを受け止めて下さるからです。

 昨年、信徒セミナーで、毎年発行される『教会員手帖』を用いて、「教会の信仰、礼拝、組織の学び」をしました。『教会員手帖』に、教会の大切なものが全て書かれています。『教会員手帖』の中に、主の日の礼拝の意味、礼拝式順の意味が書かれています。礼拝は、神に招かれ、神の御前に立つことです。ここで私どもは何をしているのでしょうか。神から御言葉を与えられ、御言葉を聴き、自分の気づいていなかった罪を知らされるのです。神の面前で、自分の罪を悲しむのです。しかし、私どもの罪を、主イエスが十字架で負って下さったことを知るのです。その時、私どもは悔い改めへと導かれ、神の面前で、悲しみの変革をもたらされ、悲しみの中で、神を賛美する者へと変えられているのです。更に、私どもが直面している悲しみを、神の御前で訴えるのです。

 

4.①私が大学生の時、キリスト教大学でしたので、毎日、1限目と2限目の授業の間に、礼拝が行われていました。ある日の礼拝で、文学部の日本文学学科の教授が説教をされました。その説教の中で、出版されたばかりの水野源三さんの詩集『わが恵み、汝に足れり』を数編朗読され、紹介されました。私はそこで初めて水野源三さんの詩に触れました。

 小学生の時に町で流行した赤痢に罹り、脳性小児麻痺を併発し、手足の自由を失われ、意思表示は瞬きだけになりました。しかし、町の教会の牧師が置いて行かれた聖書を通して、生ける主イエス・キリストと出会いました。生かされている喜びを、詩で綴りました。瞬きの詩人と呼ばれるようになりました。その中に、「悲しみよ」という題の詩があります。

「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう

 お前が来なかったら つよくなかったなら

 私は今どうなったか

 悲しみよ悲しみよ お前が私を

 この世にはない 大きな喜びが

 かわらない平安がある

 主イエス様のみもとに つれて来てくれたのだ」

 悲しみに呼びかけている。体の自由を奪った悲しみに、不平を言っているのではない。むしろ悲しみに感謝している。悲しみが主イエスと出会わせて下さった。本当に驚くべき出来事が私の身に起きた。生ける主イエス・キリストとの出会いを通して、悲しみの方向転換が起きた。

 この出来事は今、私どもにも起きているのです。

 

 お祈りいたします。

「日々、様々な悲しみに直面します。絶望のどん底に突き落とされ、立ち直れなくなることがあります。しかし、私どもの悲しみの真ん中に、私どものために十字架にかかり、甦られた、生ける主イエス・キリストが立って下さるのです。悲しみの変革をもたらして下さるのです。気づかなかった自分の罪を悲しみ、主に立ち帰らせて下さるのです。悲しみを主に訴えてつつ、主を賛美する者に変えて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

 

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