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「この人を見よ」

イザヤ50:4~11
ヨハネ19:1~16

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年4月2日

00:00 / 39:40

1.①教会の桜も満開になりました。満開の桜の中で、受難週に入りました。一方で神が造られた美しい桜の景色に感嘆します。しかし他方で、美しい桜の景色に逆らって、自らの心の内面を見つめる。それが受難週です。桜を眺めるだけでは、自らの心の内面を深く見つめることは出来ないからです。古来より日本人は華やかに咲き、散って行く桜の花と自らの命を重ね合わせて、歌を謳って来ました。しかし、聖書はこう語ります。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉はとこしえに変わらない」。とこしえに変わらない神の言葉の前でこそ、私どもは真実に自らの心の内面を深く見つめることが出来るのです。


 受難週、それは主イエスが歩まれた地上の最後の一週間です。福音書はこの一週間に起こった出来事を細かく書き留めています。いろいろな場面がありますが、中でも注目すべき場面は、主イエスの裁判の場面です。ヨハネ福音書は、主イエスの裁判の場面をとても丁寧に描いています。取り分け、裁判官ピラトと被告の主イエスとの対話を丁寧に書き留めています。今朝も礼拝で、教会の信仰を言い表した「使徒信条」を唱えました。その中に、このような言葉がありました。「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け」。ローマ帝国から遣わされた総督ピラトの下で、主イエスは裁かれ、十字架に引き渡された。皆さんは、この言葉をどのような思いで、いつも唱えているのでしょうか。


 私どもは礼拝の度に、「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け」と、信仰の告白をします。「使徒信条」の中で、個人名が記されているのは、主イエス以外、マリアとピラトだけです。ピラトは信仰告白に残る名となりました。私どもはどういう思いでピラトの名を口にしているのでしょうか。ピラトは何と悪い人物だと思うのか。ピラトは何と気の毒な役回りをしたことかと同情するのか。それともピラトは私どもを代表していると思うのか。一人一人に尋ねてみたい思いがいたします。



②今朝、私どもが聴いたヨハネ福音書19章の御言葉は、主イエスの受難物語の一場面です。主イエスの受難物語の御言葉に触れる。それはこういうことではないでしょうか。舞台の上で、キリスト受難劇が行われています。主イエスの裁判の場面の幕が上がりました。私どもは客席からそれを観ています。しかし、私どもはそれを平静な心で観ていられなくなります。じっとしていられなくなります。腰を浮かし、身を乗り出します。そしていつの間にか、私どもも舞台の上に引き出されています。私どもも舞台に登場している一人の役を演じています。主イエスの裁判の場面には、様々な人物が登場しています。ピラト、ローマの兵士、祭司長、その下役、ユダヤの民衆。これらの登場人物は、民族も異なれば、身分も違います。しかし、共通していることがあります。皆、主イエスを裁いています。その点では同じです。一つになっています。主イエスを裁くために、様々な声を上げています。私どももそれらの役を演じながら、主イエスを裁き、声を上げているのです。その声の中心にあるものは、この声です。


 「見よ、この人を」。「この人を見よ」。


 私どもが手にしている新共同訳聖書では「見よ、この男だ」と訳されています。以前の口語訳聖書ではこう訳されていました。「見よ、この人だ」。


 ピラトが主イエスを捕らえ、鞭で打たせ、兵士たちに命じて、主イエスの頭に茨の冠を編んでかぶせ、紫の服を着せて、語った言葉です。ローマの兵士たちも主イエスの前で、「ユダヤ人の王、万歳」と叫び、平手で打っています。主イエスを嘲り、蔑んだ言葉です。「見よ、この男だ。見よ、この人を。何とみすぼらしい王なのだ。ユダヤ人の王は何と弱々しいことか」。


 しかし、ピラトのこの嘲りの言葉は、後に、教会にとって大切な信仰の言葉となりました。不思議なことです。画家のルオーはカトリックの信仰に生きましたが、「この人を見よ」という題のキリストの絵を何枚も描いています。ルオーは道化師の顔とキリストの顔を重ね合わせるように、何枚も描きました。ルオーにとって、「この人を見よ」は、キリストを指し示す信仰の言葉となりました。カトリック教会の公用語であったラテン語聖書では、「エッケ・ホモ」と呼びました。「見よ、この人を」。


 また、この後、賛美する讃美歌21-280は、由木康牧師が作詞した代表的な讃美歌です。日本人が作詞した讃美歌の中で、最も歌い継がれて来た讃美歌です。その讃美歌の中で、繰り返されている言葉があります。「この人を見よ」。主イエス・キリストを見よ。ここに由木康牧師の信仰の核心があり、私どもの信仰の核心があるからです。


 主イエスへの嘲りの言葉が、信仰の核心の言葉に替えられる。本当に不思議なことです。



2.①主イエスを法廷で裁く。その中心に立っているのは、裁判官のピラトです。しかし、ピラトは何度も官邸を出て、ユダヤ人たちに向かって、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と3度も語りかけています。主イエスを釈放しようとさえ務めています。しかし、ユダヤ人たちは同意しません。主イエスを裁いているのは、ピラトだけではありません。ピラトは何度もユダヤ人の信仰の指導者である祭司長やユダヤの民衆の声を聞いています。ユダヤ人たちの声に、ピラトは心なびいています。ユダヤ人たちの叫びに脅えてさえいます。


「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」。あなたはローマ皇帝から職を解かれてしまうかもしれないと、脅されています。


祭司長やユダヤの民衆も、主イエスを裁いています。祭司長、ユダヤの民衆は叫びます。


「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。


主イエスが何故、十字架につけられなければならなかったのか。その理由が明確に語られています。主イエスは神の子と自称したからです。自分たちが期待する救い主の姿とは異なっていたからです。ここに主イエスの裁判の特異性があります。ピラトも、祭司長も、ユダヤの民衆も、神の子を裁いているのです。人間が神を裁いているとも言えます。本来、裁くべき神が人間に裁かれ、裁かれるべき人間が神を裁いている。主客転倒が起こっている。本当に恐ろしいことが起こっている。私ども人間の罪が明らかにされる。それが主イエスの裁判で現れているのです。このことは、その後の世界の歴史の中で、繰り返し起こっています。今でも起こっています。私どもの日常生活の中でも起こっています。


 主イエスの裁判の場面で重要なことが、13節で語られています。


「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち、『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」。


 裁判の席。それは裁判官の席です。実は、以前の口語訳聖書では、「ピラトが裁判の席に着いた」と訳していました。しかし、新共同訳聖書では、「イエスを裁判の席に着かせた」と訳しています。どちらにでも訳せる言葉です。しかし、「イエスを裁判官の席に着かせた」という訳に心惹かれます。何故、ピラトは主イエスを寄りによって、裁判官の席に着かせたのでしょうか。ピラトは主イエスを裁判官の席に着かせた姿を、ユダヤ人たちに見せて、こう語りかけています。


「見よ、あなたたちの王だ」。先程の言葉で言えば、「見よ、この人を」。


嘲りの言葉です。蔑みの言葉です。ユダヤ人の王は茨の冠をかぶり、紫の服を着せられた、何とみすぼらしい王であることかと、嘲り、蔑みました。


 しかし、ここで主イエスが裁判官の席に着かせられたことは、ピラトの思いを超えて、重要な意味がありました。本来、裁くべき神が座るべき裁判官の席に座られたからです。そのことを通して、実は、主イエスの裁判の場面、舞台を導いているのは、ピラトでもなく、ユダヤ人たちでもなく、神であることを現しているのです。そこでこそ、私ども人間の罪が見えて来るのです。



②ヨハネ福音書は、ピラトと主イエスとの対話を丁寧に描いています。ピラトと主イエスとの対話は、興味深いものがあります。18章37節で、主イエスはピラトに語られました。


「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ピラトは尋ねます。「真理とは何か」。


 しかし、真理を巡る対話はここで中断しています。ピラトは真理である主イエスと向かい合い、主イエスから真理の言葉に耳を傾けようとはしません。ピラトは直ぐに、ユダヤ人たちの前に出て、彼らの声に耳を傾けています。


 更に、ピラトは主イエスに向かって、「お前はどこから来たのか」と、重要な問いかけをしています。しかし、主イエスは答えようとはされなかったので、ピラトはこう語りかけました。


「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」。


 主イエスは答えられました。


「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」。


 人を裁く。これは本来、神にしか与えられていない権威、権能です。神しか人間を義しく裁けるお方はいません。もし人間が人を裁くのであれば、神からその権限を委ねられなければ、出来ないことです。そして人を裁く権限を義しく用いるためには、真理である神の御前にひざまずき、神から真理の言葉を謙遜に聴かなければ、出来ないことです。もしも権力者がこのことを忘れ、自分には人を裁く権限があると誇り、その権限を乱用したら、これ程、恐ろしいことはありません。それは今日の世界にも起こっていることです。その最たることは、人間が神を裁くことになります。


 私ども人間の罪は複雑で、罪深いものです。神の御前でひざまずき、祈りを捧げている権力者が、他国を侵略し、他民族を裁き、支配する。自らは神から委ねられた権限で、義しい裁きを行っていると疑わない。恐ろしいことです。それは真実に、神の御前にひざまずき、神から真理の言葉を聴いているかどうかが問われます。それは国の権力者だけに起こることではない。私どもにも日常生活で起こることです。私どもも様々な場面で、人を裁きます。人を裁くことは、自分に委ねられた権限があると信じているからです。しかし、人を裁くことで、私どもも罪を犯すことがある。私どもも神の御前でひざまずき、祈りを捧げている存在です。そこで私どもにも問われるのです。私どもは真実に、神の御前にひざまずき、神から真理の言葉を聴いているか。真理の言葉に打ち砕かれているか。真理である神を畏れているかどうか、問われています。


 本日、イザヤ書50章の御言葉を聴きました。預言者第二イザヤは、やがて来られる主の僕をこう言い表しました。


「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。


 驚くべき言葉です。主イエスが来られる五百年前に語られた言葉です。そしてこう語りました。


「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし、松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って、自分で燃やす松明によって」。


 私どもは、打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者に頬をまかせ、顔を隠さず、嘲りと唾を受けた主の僕の声に聴き従わず、自分で火を灯し、松明を掲げ、自分が光となって歩んでいる。



3.①人間が神を裁く。それを象徴する言葉が、ピラトのこの言葉です。


「見よ、この男だ」。「見よ、この人を」。


何とみすぼらしい王だ、神の子だ、救い主だ。私どもが「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け」と「使徒信条」の言葉で信仰を言い表す時、ピラトとは将に、この私であるのです。


 伝道者パウロが、ローマの信徒への手紙5章12節以下で、「アダムとキリスト」という主題で語っています。「アダム」は、最初の人間です。元々、「人間」という意味です。私ども人間を代表しています。アダムは神との約束を破り、食べてはいけない木の実を食べました。それを食べたら、神のようになれると、へびから誘惑を受けたからです。神に造られた人間が神になる。それが人間の根源にある罪です。人間が神のようになる。それが最もよく現れるのが、人間が裁きを行う時です。人間が神になって、裁きを行う。その時、人間は本来の人間の姿を失ったのです。


 カルヴァンが中高生のために書いた『ジュネーヴ教会信仰問答』の問1でこう語りました。「人生の主な目的とは何か」。「神を知ることである」。神を知ることがなければ、人間が神になってしまう。それは人間が獣になること。いや、獣よりも劣った存在となることだとまで語りました。


 私どもが失った人間を回復するために、主イエスは第二のアダムとなられました。一人の人アダムの罪によって、死が支配するようになったとすれば、一人の人イエスによって、全ての人が義とされ命を得ることが出来るようになったのである。人となられた主イエスに、真の人間の姿がある。失われた人間の姿がある。父なる神と向き合い、「アッバ、父よ」と呼ぶ主イエスに、真の人間の姿がある。


「見よ、この人を」。嘲りの言葉が、信仰の言葉となりました。この言葉には、主イエスこそ、真の人という信仰が込められています。真の神が真の人となられたという信仰が込められています。



②私が大学生の時、原恵先生という方が英語を教えておられました。しかし、東京神学大学では、専門の讃美歌学を教えておられました。その講義が『讃美歌』という書物になりました。その本の中で、説教の冒頭でも紹介しましたが、由木康牧師作詞の「この人を見よ」という讃美歌を紹介しています。


 由木康牧師は鳥取県境港市に生まれた。親戚の由木家の養子となった。それは由木康の人生を大きく変えました。由木家のすぐ隣に、キリスト教の伝道所が開かれ、両親は入信し、父親は献身して伝道者となりました。その伝道隊の指導者がバックストンで、山陰地方を伝道した伝道者でした。しかも日本語で伝道した伝道者でした。最近も『バックストン著作集』が刊行されました。その中に、説教集も納められています。父もバックストンと共に、日本伝道隊の一員となって、各地に伝道しましたので、由木康も小学校で6回、中学校で2回転校することとなりました。やがて由木康自身も献身し、関西学院の学び、神戸聖書学校で学びました。神学校在学中の25歳の時に、東京二葉独立教会、今日の東中野教会に招かれて牧師となりました。『礼拝学概論』という礼拝学の古典を書かれていますし、讃美歌「きよしこの夜」の由木康訳は、一般の方にも知られる歌詞となりました。パスカルの『パンセ』の翻訳は、私もそうですが、多くの方に読み継がれています。何よりも讃美歌を幾つも作詞しています。


 由木康牧師は牧師になって間もなく、主イエスの神性について思い悩みました。その頃のことをこう綴っています。


「そのころ私はほんとうの愛というものが果たしてこの世にあるであろうかと疑っていました。そのとき私の心に一つの光がひらめいたのです。たとい人間の世界にほんとうの愛はなくても、イエスのうちにはそれがある。イエスの生活と苦難と十字架には、少しのまじり気もない純粋な愛が表れている。イエスこそほんとうの愛の化身であるという確信です。イエスの神性は、イエスの人性のうちに包まれて、それを通して輝きでていることを示され、一つの確信に到達した。この経験を書きとめようとして、生まれたのが『この人を見よ』の原形となった自由詩である」。


 讃美歌の4節で、こう謳われています。


「この人を見よ、この人にぞ、


 こよなき愛は、あらわれたる、


 この人を見よ、この人こそ、


 人となりたる、活ける神なれ」。


 ピラトから裁かれ、ユダヤ人たちから裁かれ、十字架に引き渡された主イエスを見よ。この方にこそ、人となられた活ける神である。人々から裁かれ、十字架に引き渡された主イエスこそ、私どもを真実に裁き、私どもを立たせ、私どもを生かして下さる、人となられた活ける神なのです。



 お祈りいたします。


「十字架の主イエスの前に立つ時、私どももピラトのように、祭司長のように、ユダヤの民衆のように、神の子を裁いていたのです。神を裁いていたのです。そこに私どもの罪があります。しかし、主イエスは人々に裁かれながら、私どもに裁かれながら、実は、私どもを裁いておられるのです。ここに人となられた活ける神がおられます。十字架の主イエスによって、神をも裁く、私どもの罪を打ち砕いて下さい。見よ、この人をと、新たな信仰の告白に生かして下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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