「とげある肉体に生きる」
創世記32:23~32
コリントの信徒への手紙二12:1~10
主日礼拝
副牧師 矢澤美佐子
2024年5月12日
私たちは、人と人との関わりの中で生きています。その関わりによって、お互いが支えられ、助けられ、厳しい状況の中でもなお生きて行く勇気や力が与えられています。そして、人生が豊かに彩られていきます。けれども、助けてくれる家族や友人がいたとしても、また、住む場所があり、ある程度、何とか生活ができる経済的条件が揃っていたとしても、何かの時に心の中にふと何によっても埋められないものがあると感じることはないでしょうか。
そのような心にぽっかりと開いた穴を感じながら、過去の癒されない傷が時よりうずいて、今でも自分を苦しめるということもあるでしょう。また、日常生活の中では様々な問題にも直面しながら、自分の弱さを知らされ、落胆もすることもあるでしょう。「私の人生、いったい何だったの」「私の人生、いったい何なの」そういう問いを、これまで私は、何度となく聞いてきました。
キリスト教病院でお仕えしている尊敬する女性チャプレンから、60代の男性患者さんも、同じような「問いかけ」をされ、苦しんでおられたことをお聴きしました。その男性は、人生について投げやりで、周囲の温かな人たちに対しても反発しておられました。しかし、その方が神様に出会い、聖書の御言葉によって変わっていかれたと言うのです。その様子を、少しでも皆さんの救いになればと紹介させて頂きます。
その60代の男性患者さんは、「多発性骨髄腫」という難しい病を患っておられました。そして、自分の弱さを受け入れられず、何もできなくなっていく自分に価値があるのかと苛立ち、「私の人生は、いったい何だったのか」、納得ある答えが欲しいと問い続けておられました。
その方は、若い頃からいつも元気で、「仕事のできない人間、社会や人のために働けない人間には意味がない、価値がない」と厳しい考え方をお持ちでした。しかし、ご自身が病気になり弱くなっていかれたのです。ご自分の弱さを知った時、その苦しみは非常に大きくなっていきました。それは、今まで自分が否定していた人間そのものになってしまったという苦しみからくるものでした。
これまで自分が否定していた人間になってしまったということに酷く落ち込み、「自分の価値はどこにあるか。自分の人生は、何だったのか」と苦しみ、なんとか答えを得たいと願っている方は、本当に多くいらっしゃいます。
この方は、「病気の自分、弱い自分には、生きる意味がない。生きていると迷惑がかかる。だから、自分が死ぬことが誰にとっても一番よいことなんだ」そのような固まった考えを持っておられました。
しかし、それは、「これまで、良い人間関係を築けなかったために、誰のお世話にもなれない」という寂しさ、強い孤独の表れでもありました。そして、「本当は生きる意味を見つけて、幸せに生きていきたい」という心の叫びが混じっていたのです。
その方の苛立ちの奥には、「弱くなっていく身体でも、生きる意味を見つけて幸せになりたい。誰か、助けてほしい」という涙が隠されていたのです。
その方は、これまで自分の価値観でまっしぐらに進んでこられました。しかし、弱くなって病院の礼拝に出席され、聖書を読むことによって、少しずつ命について見方が変えられていきました。その方の価値観でまっしぐらに進んでこられた人生を、神様の視点で「見直す」ということが始まったのです。
1ヶ月過ぎた頃、その方はこんなことを話すようになりました。「今まで、自分の弱さはマイナスだと思っていました。けれど、それだけでもないですね。弱さの中にプラスもあるんじゃないかな。だから、もう少し神様の語る価値観を知ってみたい」。
そして、さらに1ヶ月たってからは、「弱さがあってもいい、病気があってもいい、きっと生きるというのは、生きてやろうと思わなくても、生きている姿がそのまま何か光ったり、気づかないうちに誰かの光りになっていたりするんですね」と話されました。そこには確かに、生きる意味についての受け止め方の変化が見られました。
その後、その方は、以前の価値観にとらわれそうになることもありました。戻りつつ、進みつつ、そのたびに、神様との繋がりを原点として、繰り返し神様の価値観に立ち戻りながら、ご自分の弱さに向き合っていかれました。
そして、こんなことを語られるようになりました。「これまでは、病気の自分は、死んだほうがよいとしか受け止められなかった。でも、弱くなってみて、これまで見えていなかったものが、見えるようになった。これからは、見えるようになった新しい世界、信じられるようになった神様に、もたれかかって生きていきていけばいいんだ。今、思うと以前の元気だった頃の自分の方が、病気だったと思う。これからが神様と一緒に生きる、私の本当のスタートだと思っています」そう語られ、少しずつ、少しずつ、これまで自分を支配し、苦しめていた価値観から自由になっていかれました。
そして、神様にもたれかかって与えられた人生を全うしたい。そんな思いで、その方は、病床洗礼を受けられ、その一年後に神様のもと天国へ平安の中で帰っていかれました。
今日の新約聖書、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」という御言葉は、パウロがコリントの教会の人たちへ書いた手紙です。パウロは、自分自身の弱さを赤裸々に告白しています。彼は、自分の弱さを「一つのトゲ」という言葉で表現しています。「わたしの身に一つのトゲが与えられた」
このパウロに与えられた「トゲ」。ある学者たちは、痙攣や激しい頭痛、マラリアなどの感染症、目の病気など、辛い肉体的な病だと言いました。また、他の学者たちは、霊的な誘惑、迫害などの厳しい精神的な苦しみと主張しました。実は、パウロは自分の「トゲ」について、明確に語ってはいないのです。ですから私たちは、そのトゲが具体的に何であったか、正確に知る必要はありません。つまり、その「トゲ」がどんな事であったとしても、それは、パウロを非常に苦しめるものでした。
恐らくその苦しみは、皆の前で現すことは難しかったのかもしれません。更に、抜くことができないトゲのようになかなか解決できず、長い間パウロを苦しめていたのです。
パウロは、この「トゲ」を思い上がらないようにするために与えられたと語っています。この苦しみ、試練は、私が思い上がらないように与えられた「トゲ」なんです。そう語るパウロの、この謙遜な態度に心が熱くなり感動を覚えます。しかし、ここに至るまでパウロは、どんなに自分の苦しみ、激しい痛みを忍耐し向き合ってこられたことでしょう。「思い上がらないように」、「思い上がらないように」神様が与えてくださっている。
ここに至るまでにパウロは、嘆きや悲しみ、痛みや苦しみを、神様に隠さず訴えてきました。そのことを正直にこう告白しています。「この苦しみを、離れさせてくださるように、私は三度、主に願いました」。
「神様もう十分です。結構です。こんな試練に遭わせないでください」。パウロは泣き叫ぶように、神に何度も、何度も願ったのです。「三度、主に願った」とあります。しかし、これは文字通り三度ということではありません。何度も、何度も、来る日も、来る日もパウロは、神に祈り願ったという意味です。
パウロは偉大な使徒でした。律法を徹底的に学び、劇的な回心をし、キリストの使徒となってからは、誰もが認める立派な信仰者となりました。神への誠実な態度、多くの人々から尊敬され、常に教会の指導者として信頼されていました。尊敬されているパウロが、「もう嫌です。もう止めて下さい。こんな試練に合わせないでください」と泣くじゃくるように、神に何度も繰り返し願ったと言うのです。
人には決して見せられない、隠しておきたい自分の弱さ、醜さ、頼りなさ。それを、神だけには見せていたんです。「主よ、助けてください。辛いんです」パウロは、神だけには全てをさらけ出していました。そのパウロを、神は、大きな愛の御腕でしっかりと受け止め、こうお答えになります。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」。「あなたの『トゲ』こそ、あなたの弱さの中にこそ、私、主イエス、救い主はあなたと共にいる。
私たちの弱さの中にこそ、主イエス・キリストの力が宿っています。
私たちの弱さの中にこそ、主イエス・キリストが生きて働いてくださっています。
私たちの、何によっても埋められない心の中の空洞、そこにも、主イエス・キリストが入ってくださり、空しさを埋めて下さるのです。穏やかに主イエス・キリストが、心に染み渡るように入って下さり、埋めてくださる。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」。この御言葉の意味を味わい、理解の助けになる素晴らしい証し人がいらっしゃいます。
星野富広さんという方です。詩人として、多くの人にキリストの香りを伝え続けて来られた星野富広さんは、4月28日に神様の御もとへと帰られました。星野さんは、中学校の体育の教師をしておられ、ある日、跳び箱を失敗し全身不随となってしまいました。24歳の時です。それから、車椅子とベッドの寝たきりの生活となりました。
ご自分の人生を受け止めるまでに、どんなに長い苦しみ、葛藤を経験されたことでしょう。ご自分の人生を引き受け、生きるということは、簡単なことではなかったと思います。その中で星野さんは、口に絵筆をくわえてみたのです。神は、その時の、苦しみも、涙もご覧になって下さっていました。
星野さんは『あなたの手のひら』という題名の本では、カトレアの花の挿絵とともに、心の深みにまで届く、神様への素晴らしい詩を書いておられます。
「そこに、立っていても、倒れていても、ここは、あなたの手のひら」
どーんと神様にぶつかって、神様に嘆いたり、訴えたり、涙を流したり、立てなくなっても、どんな状態であっても、私たちは、神様の愛の手のひらの中で守られている。私たちは、今、神の大きな愛の手のひらの中にいます。私たちは、しっかりと守られています。
星野富広さんは、口に筆をくわえた始めての日がありました。たくさんの人が見ていたわけではなかったでしょう。たった一人で、神様だけが知っておられる、二人だけの小さな瞬間だったかもしれません。しかし、筆を口にくわえた、その勇気を神は見つめておられたのです。
神は、私たちにも、語りかけて下さっています。「誰も知らなくても、私は、知っている。私だけは、あなたの全てを知っている。あなたの涙も、勇気も」そう語りかけて下さっています。
私たちの小さな業、小さな奉仕を、私たちが考えるよりも遥かに大きな祝福へと、神は豊かに実らせて下さいます。星野さんは、口にくわえた絵筆によって、日本だけでなく、世界中の多くの人々に生きる勇気と希望を与えて来られました。まさか、私の「トゲ」が、このような形で用いられるなんて。思いもよらない神の素晴らしい御業は、私たちの周りで、確かに起こっています。
水野源三さんという人もまた、9歳の時に脳性麻痺になり、47歳で亡くなるまでずっと寝たきりの生活を送られました。たくさんの悲しみ、たくさんの涙を流されました。そして、このように詠うのです。
「悲しみよ、悲しみよ、あなたが、私を神様のもとへ連れて行ってくれた」
悲しみを経験したから、私は神様に出会えたと言うんです。
パウロも言います。「『トゲ』こそが、私を、神のもとへと導いてくれた。神は、私を思い上がらないようにして下さっている。身を低くすることができるようにして下さっている。私たちの弱さの中にこそ、イエス・キリストの力が宿っています。私たちの弱さの中にこそ、キリストが働いてくださっています」パウロは、そう語るのです。
「トゲ」だと思っていることも、欠点だと思っていることも、実は、神は、豊かに用いて下さり、周囲の人々を励ましていたり、周囲の人の希望となっていたり、幸せな笑顔を与えていたりする。そういうことを神様がなさっておられます。
特に高校生や、大学生、若い方々は、「失敗するのはいやだから、欠点があるから、新しいことに挑戦するのは止めよう」と消極的に生きてしまわないでほしいと思うのです。私たちが欠点と思っていること、「トゲ」だと思っていることも、神様は、用いてくださいます。失敗してもいい。夢は、持ち続けてほしいのです。けれど、夢は簡単には手に入らないでしょう。しかし、失敗しながら、神様が鮮やかな色をつけてくださり、新しく咲く花の種を蒔いて下さっています。
そして、何歳になっても主イエス・キリストが、そして、出会った仲間たちが、辛い時は肩をかしてくれます。神様が、愛の御腕で私たちをしっかりと支えてくださっています。
時には、前進もできず、足踏みしているだけ、そんな時もあるかもしれません。弱くなっている時にも、神様が、私たちの信仰を美しく育ててくださっています。目に見えなくても、豊かに育てて下さっています。そして、やがてそれは、自分の弱さを知ることによって、人の弱さも抱きしめ、労ることのできる、本当の強さ、思いやりある慈しみ深い信仰となっていきます。
ひとたび弱くなってみなければ見えない世界の深みというものがあります。弱さを通して、病を通して、悲しみを通して、神様が、本当の強さに気づかせてくださいます。
自分の「トゲ」の中で、神と向き合った人物として、今日の旧約聖書では、ヤコブが登場しております。
今日の「ヤコブの格闘」の場面、イスラエルの物語の原点とも言える箇所です。心の底で何度も味わいたい場面です。
登場するのは族長ヤコブ。夜でした。夜が明けるとヤコブは、兄エサウと対面しなければならなかったのです。二十年ぶりの再会です。しかし、この再会は、ヤコブにとっては「兄エサウに殺されるかもしれない」恐ろしい緊張を強いられるものでした。 兄エサウと弟ヤコブ。この二人は双子の兄弟です。二人は一緒に成長しますが、お互いの性格は極端なほど違うものでした。
兄エサウは、たくましい狩人となり、弓矢を取って野に入り、獣道を歩き、獲物を追いかけました。一方、弟ヤコブは、穏やか性格で、天幕の家の周りで働き、畑を耕したり、羊の世話をしたりして暮らしていました。
弟ヤコブは、兄エサウが羨ましくなっていきます。自由に力強く飛び回る兄エサウ。たくましく頼りになる兄は、自分にない物をもっている。そして、父親は、兄を愛している。弟ヤコブは、兄を妬ましく思い、いつしか父と兄に憎しみを感じるようになって行きました。
そして、このようなある日、事件が起こります。ある日のこと、兄エサウが野原から疲れて帰って来ました。兄エサウは、弟ヤコブが料理をしている所にやって来て言います。「お願いだ、そのスープを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているのだ」。ヤコブは言います。「じゃあ、兄さんの長子の権利、神の祝福を譲ってください」 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えるとヤコブは言います。「では、今すぐ誓ってください」 そうして兄エサウは誓い、弟に「神からの最大の祝福」を譲ってしまうのです。
更に弟ヤコブは父のもとへ行きます。父は歳を取り、身体が弱り、既に目もかすんで見えなくなっていました。息を引き取る前に、最後の力をふり絞って長男、兄のエサウに手を置き「神からの最大の祝福」を与え、受け継がせたいと考えていました。そこで弟ヤコブが欺きます。彼は兄に変装をし、兄になりすまします。まさか子どもから、騙されるとは思っていなかったでしょう。ついに父親は騙され、弟ヤコブの方に手を置いて「神からの最大の祝福」を受け継がせてしまうのです。祝福は、父から次男ヤコブへ受け渡されてしまったのです。ひとたび祝福を譲れば、元に戻すことは出来ません。
この後、騙されたと分かった父親は、わな、わな、わなと震え上がります。兄エサウも、怒りで震え悔しがります。そして弟ヤコブに対する復讐で、熱く燃え上がるのです。弟ヤコブは、兄からの復讐を恐れ、急いで家を出ます。そして、遠い、遠い親戚の家へと逃れて行きました。
あの日から二十年の歳月が過ぎたのです。他の場所へ逃げ、生き延びた二十年。ヤコブは、一生懸命に働きました。たくさんの苦労を通して、罪を繰り返さず、誠実に生きることを学んでいきました。真面目に生き、やがて家族が増え、羊、牛、ヤギ、ロバ、ラクダ、数え切れない家畜を持てるようになります。家族や雇い人を合わせて何百人もの大所帯となり、彼は、世に名の通る「族長ヤコブ」となっていったのです。
そして、今日の箇所です。彼は明日、兄エサウと再会するのです。
二十年前、弟への復讐に燃えていた兄エサウは、何を思って今まで生きてきたでしょうか。時の経過と共に憎しみが深まり、心を硬くさせることもあります。そして、今、兄エサウは、四百人の手勢と共に弟のもとに向かっていると言うのです。兄に殺されるかもしれない。ここで死ぬわけには行きません。家族と多くの者たちを養っているのです。既に、この身は自分ひとりのものではありません。
家族と仲間たちを安全な場所へ先に行かせました。そして、ヤコブは、渡し場のほとりに一人残ります。
一人になって二十年前を思い出していました。父は、おののき震え、兄は、絶望の叫びを上げたのです。明日、再会すれば血の雨が降るかもしれない。自分の罪が原因です。心も身体も疲れ果てます。しかし、気持ちは高ぶって冴えきっています。そして、今、ヤコブは、夜の闇をしみじみと見つめていたのです。
そして、この時です。目の前に一人の男が立っているんです。自分の行く手を塞ぐように立ちはだかっています。ヤコブは、訳が分からず、無我夢中で目の前にいる男に食らいつき、しがみつきます。しかし、男は非常に力が強く、ヤコブを投げ倒します。しかし、ヤコブは、もう一度食らいつき、しがみつきます。また、投げ倒されます。
神が、人に姿を変えて現れたのです。
犯してしまった罪の重み。そして、このような人生を生きなければいけなくなった辛さ。それは、生きていること自体から生まれる、憤り、怒り、苦悩です。これら全てを、神にぶつけたんです。
神は、ヤコブを投げ返します。骨が砕けるほどに、激しく地面にたたきつけられます。何度も、何度も。ヤコブは、たたきつけられます。「あなたの犯した罪の重さを知りなさい」。
ヤコブは、息が止まるほどでした。しかし、しがみつきいていきます。そして、懸命にヤコブは一つのことを願うのです。「祝福してください、祝福してください、祝福してくださるまでは、あなたを離しません」
真面目に、苦労しながら家族を養い生きてきました。努力を積み重ね、豊かな暮らしを手に入れました。
しかし、20年前の出来事は、終わっていなかったのです。全て手に入れた豊かさは、自分の手から奪われるかもしれません。明日、兄に殺されるかもしれません。「私の人生、いったい何なんだ」苦労を続けて、全てなくなる。溺れかけているヤコブが、最後に握っている命綱です。「祝福してください。祝福してくださるまで離しません」
神が尋ねます。「あなたの名は何というのか」 「ヤコブです」 「わたしの名は、人を押しのけ、足を引っ張って生きてきた者という意味です」。そうと答えると神はおっしゃいます。「あなたの名は、もうヤコブではない。これからはイスラエルと呼ばれる。イスラエル『神が戦われる』という意味」。そう仰せになって、ヤコブに祝福をお与えになりました。
「押しのける者」ヤコブは、ここでイスラエル「神が戦う」という名を与えられます。ヤコブのこれまでの人生は、自分が、自分の力で、自分のために人を押しのけ、更には、神をも押しのけて、神とも戦う人生でした。しかし、これからは違うのです。神が、ヤコブのために戦ってくださる人生となったのです。
この夜、神との格闘を境に、ヤコブは、生まれ変わります。信仰を持つとは、「神と格闘する夜を持つ」と言うことです。生まれ変わるとは、「神と格闘する夜を持つ」と言うことです。
私たちは、苦しみの意味、いのちの意味を知りたいと「問い」かけながら生きています。そして、その「答え」は、私たち自身が、神との向き合い、「神との格闘する夜を持つ」ことで、見出してこそ、真実な深みのある「答え」になっていきます。
そして、私たちを愛し、どこまでも守り、支え、救って下さる神が、私たちの試練の「答え」、苦しみの「意味」を知っておられるのです。私たちを限りなく愛し抜いて下さる神が、私たちの人生の答えを握っておられます。
それは、つまり、「すでに答えの中に、私たち自身が置かれている」と言うことです。
「立っていても、倒れていても、ここは、あなたの手のひら」
神の愛の御手の中に、生きているのです。
もし「この苦しみの意味がわからない」と言って、人生を投げ出してしまっては、その先に、神様が、用意して下さっているはずの、尊い喜び、祝福にも出会えないことになってしまいます。神が、私たち、一人一人に命をお与え下さっています。そこには必ず、意味があります。私たちの人生には、神によって、散りばめられている幸せ、恵みが用意されているのです。私たちは、神様が用意して下さっている祝福に出会っていくようにして、人生を生きています。
私たちには「神と格闘する夜」があります。
それは、神から、投げ倒されるような厳しい裁きがあり、それと同時に、神からの限りない愛、私は、あなたを決して見捨てない、あなたを守り続ける、という救いがあります。
そして、私たちのすぐそばに、救い主イエス・キリストがおられます。
イエス・キリストは、神の身分をお捨てになって、一人の人となって、私たちの罪と嘆きを受け止めるために、この世に低くなって来て下さいました。私たちの人生そのものをしっかりと受け止めて下さっています。闇の暗さの中で、身体を張って、私たちの全てを受け止めて下さいます。
イエス・キリストは、私たちを愛するあまり、私たちの罪、苦しみ、嘆き、全てを負って、十字架につかれました。茨の冠をかぶせられ、身体には、鞭を打たれた傷があります。手と足には、釘が打たれています。その姿は、私たちの罪と嘆きを受け止められた、神の御子のお姿です。イエス・キリストこそ、私たちの罪と嘆きを、しっかりと受け止めて下さる方です。私たちの生きる叫びを、命を捧げて受け止めて下さる方です。
聖書は語ります。ヤコブは、神との格闘で、「ももを痛めて足を引きずってい」ましたが、「太陽は彼の上に昇って」いた、と聖書は記しています。これは何と感動的な情景でしょうか。
私たちは、神の御子の命を犠牲にして、今、足をひきずりながらも、朝の光の中を歩いています。
私たちは、神の御子の命を犠牲にして、神が照らして下さる祝福の中を歩み始めています。
その後、ヤコブは、何度も頭を下げ、ひれ伏しながら兄エサウと再会します。すると、兄エサウは、走ってヤコブを迎え、抱きしめ、首をかかえて口づけしてくれたのです。そして、2人は抱き合って共に泣いたのです。
これが、私たちの想像を遙かに超えた、神の真実です。思いもよらない大きな祝福が広がっていました。
神が、私たちの先頭に立って、私たちの人生を導いてくださっています。私たちは、決して一人ではありません。神が、私たちを永遠までに愛し抜いて下さり、どこまでも守り、支え、最後まで担って下さいます。
そして、私たちの周りには、神の国へ共に進む、信仰の友がいます。私たちは、決して一人ではありません。私たちは、安心して神に全てをお委ねし、思い切って、この主イエスの救いをこの北陸の地に、日本に宣べ伝え、一人でも多くの人を救いへと導いて参りたいと思います。