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「ひれ伏して幼子を拝み」

イザヤ書 60章1~6節
マタイによる福音書 2章1~12節

主日礼拝

井ノ川 勝 牧師

2025年12月14日

00:00 / 37:00

2025.12.14. 「ひれ伏して幼子を拝み」

       イザヤ60:1~6,マタイ2:1~12


1.①待降節に入りまして、三回目の主の日を迎えました。教会学校や、キリスト教幼稚園、キリスト教学校では、キリスト降誕劇の準備をしています。キリスト降誕劇の最後の山場は、東から来た博士たちが、ペツレヘムの馬小屋で誕生した幼子イエスさまに、黄金、乳香、没薬を献げ、ひれ伏して拝む場面です。教会学校の子どもたちは、イエスさまへの献げ物を落とさないように、大事に大事に持って、幼子イエスさまに献げ、ひれ伏して拝みます。その場面を観ている私たちは感動を覚えます。

 しかし、改めて考えて見ますと、とても不思議なことです。博士たちの行動は誠に異常です。赤ちゃんを見ると、心が和みます。何て可愛い赤ちゃんかしらと言って、抱き上げます。赤ちゃんを抱くことはしても、赤ちゃんの前でひれ伏して拝むことはしません。そもそも今日、私どもは日常生活において、ひれ伏して拝むことなどしません。幼子イエスさまの前で、博士たちがひれ伏して拝む。これがいかに驚くべき、異常な行動であったことが分かります。何故、博士たちは幼子イエスさまの前で、ひれ伏して拝んだのでしょうか。幼子イエスさまこそが真の王、救い主であったからです。

 今、私どもの街並みは、クリスマスで一色になっています。クリスマスの飾り付けがなされ、クリスマスの音楽が流され、クリスマスケーケが並べられています。クリスマスバーゲンセールがなされ、居酒屋でもクリスマスが祝われます。「クリスマス」という言葉は、今日すっかり定着した言葉になりました。しかし、「クリスマス」という言葉の意味を知っている方は、まだまだ少ないと思います。「クリスマス」という言葉は、「キリスト」と「マス」という二つの言葉が重なって生まれました。「キリスト礼拝」という意味です。「キリスト」という言葉は「救い主」という意味です。「キリスト礼拝」という言葉は、この御言葉から生まれました。

「彼らはひれ伏して幼子を拝み」。

 クリスマスは、救い主として、キリストとしてお生まれになった幼子イエスさまの前で、ひれ伏して拝むことなのです。この「ひれ伏して拝む」という言葉から、「礼拝する」という言葉が生まれたのです。キリストを真の王として、神として礼拝する。それがクリスマスの出来事であったのです。

 

一番初めのクリスマス。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった幼子イエスさまをひれ伏して拝んだのは、神が選ばれたユダヤ人ではありませんでした。東から来た博士たちは、神の救いから漏れたと言われていた異邦人でした。これも注目すべきことです。

 ヘロデ王も、祭司長も、律法学者たちも、幼子イエスを拝んでいません。

彼らは旧約聖書の御言葉に生きていました。救い主がベツレヘムでお生まれになることを、ミカ書5章1節にあったことにも気づきました。それがこの御言葉でした。

「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダの指導者たちの中で、

 決して最も小さな者ではない。あなたがたから一人の指導者が現れ、

 私の民イスラエルの牧者となるからである」。

しかし、ヘロデ王も、祭司長も、律法学者たちも、聖書の御言葉を知っていても、博士たちのように驚かないのです。自分たちの思いが優先した生活の中にどっかりと腰を下ろし、動こうとしないのです。御言葉が知識に留まり、自分たちの生活、人生を突き動かす御言葉となっていないのです。それは私どもにも起こることなのです。

教会学校の生徒が演じる博士たちは三名です。昔から三人の博士と言われて来ました。しかし、マタイ福音書には人数は記されていません。しかし、幼子イエスに献げた贈り物が、黄金、乳香、没薬の三つだったので、三人の博士と言われるようになりました。このことから様々な伝説が生まれました。三人の博士は当時の三つの大陸を代表している。ヨーロッパ大陸、アジア大陸、アフリカ大陸。そしてこの三人の博士はそれぞれの大陸を代表する王であった。その三人の王が、幼子イエスの前でひれ伏して拝む。それは幼子イエスが、世界の中のあらゆる民族の真の王、救い主としてお生まれになったことを現しているのです。

 

2.①マタイ福音書2章には、「拝む」という言葉が3回も用いられています。それが鍵となる言葉となっています。3回の「拝む」の内、1回はヘロデ王が語っています。ヘロデ王が博士たちに語った言葉です。

「見つかったら知らせてくれ、私も言って拝むから」。

しかし、ヘロデ王には幼子イエスを拝む思いなど全くありません。むしろ幼子イエスを見つけたら、殺そうとしたのです。自分こそが王であり、新しい王の誕生を許さないからです。自分の王座を奪われたくないからです。世界中の人々がクリスマスを祝います。国家の指導者もクリスマス礼拝を捧げます。しかし、そこで真実に、真の神が真の人になられた。飼い葉桶に宿る救い主としお生まれになった。この幼子イエスを真の王として、ひれ伏して拝んでいるかが問われるのです。礼拝することは、ひれ伏して拝むことだからです。

 これはヘロデ王、国家の指導者だけの問題ではありません。私どもの問題でもあります。私どもも自分が王になるのです。私の人生の主人は私なのだと思って生きているのです。それ故、幼子イエスの前にひれ伏して拝むことは容易なことではありません。自分の王座が奪われ、私の王として幼子イエスが立つからです。王の交代が起こるからです。しかし、それこそがクリスマスの出来事で、一人一人に問われていることなのです。

 「私ども人間は一体何者なのか」。これはいつの時代にも問われて来た根源的な問いです。様々なことが言われて来ました。「知恵に生きる人間」「物を造って生きる人間」「遊びに生きる人間」。しかし、聖書は語ります。「神礼拝に生きる人間」。そこにこそ、私ども人間の中心があるのです。「神礼拝に生きる人間」は、「礼拝本能」が養われる。神を礼拝しないと、自分ではなくなるからです。神を礼拝してこそ、私は私らしくある。人間が最も人間らしくあるからです。

 私どもの人生に、ひれ伏して拝むことが中心にあるのか。それとも私こそが王なのだから、ひれ伏して拝むことなど必要がない。私は何があっても頑固に王として立ち続けるのか。それが問われています。幼子イエスの前でひれ伏して拝む。そこから幼子イエスから新たな使命が与えられ、立ち上がって歩き出す歩みが始まるのです。

 

東から来た博士たちを、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった幼子イエスへと導いたものは、星でした。マタイ福音書はそのことを、とても生き生きと描いています。

「見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、大いなる喜びにあふれた」。昇り行く星がぐんぐんと博士たちを、幼子イエスへと導いたのです。博士たちはその星を見て、大いなる喜びに溢れました。元の言葉には「喜び」が重ね合わされています。大いなる喜びを喜んだ。破格の喜びです。博士たちを導いたものは、もう一つあります。聖書の御言葉です。ミカ書5章1節の御言葉です。救い主はベツレヘムでお生まれになり、私たちを導く新しい牧者となられる。

 博士たちは何故、異邦人でありながら、遠い東の国からはるばる救い主を拝みに来たのでしょうか。自分たちの人生を導く救い主が必要なのだと信じていたからです。日々、苦しみ、悲しみの直面する私どもを慰め、立ち上がらせて下さる牧者が必要なのだと信じていたからです。それは誰にでもある切実な思いです。

 博士たちは幼子イエスの前にひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げました。この三つの献げ物こそ、幼子イエスがどのような救い主であるのかを現しています。「黄金」は王を現しています。「乳香」は礼拝に焚かれる香です。香りです。礼拝を司る者は祭司です。祭司は、神と人間との間に立って、私どもを執り成す役目を行います。「乳香」は「祭司」を現します。「没薬」は、死んだ人の体に塗る薬です。体が早く腐らないようにする防腐剤です。生まれたばかりの幼子に、死んだ人の体に塗る薬を献げる。最もふさわしくない贈り物です。しかし、没薬こそが、幼子イエスにとって最もふさわしい贈り物だったのです。ベツレヘムの馬小屋で、飼い葉桶に宿った幼子イエスは、十字架を目指して歩まれ、十字架につけられる救い主として誕生されたことを現しているからです。

 十字架につけられた主イエスが十字架から引き降ろされた時、ユダヤの議員であり律法学者のニコデモが、没薬をもってやって来ました。十字架で死んだ主イエスの体に没薬を塗るためでした。ニコデモの信仰告白です。十字架で死んだ主イエスこそ、私どもの救い主である。

 博士たちが献げた黄金、乳香、没薬は、幼子イエスこそ、永遠の王であり、真実の祭司であり、十字架につけられる唯一の救い主であることを現す信仰告白であったのです。幼子イエスをひれ伏して拝むことは、幼子イエスに対して、このような信仰告白を捧げることであったのです。

 

3.①ひれ伏して拝む。これは誠に異常な行為です。滅多にする動作ではありません。それだけに、博士たちが幼子イエスをひれ伏して拝んだ、この行為に注目します。

 クリスマスの出来事を、中世の神学者はこのひと言で表し、本を書かれました。『何故、神は人となられたのか』。このひと言がクリスマスの出来事を、最もよく現しています。実は、王として生まれ、祭司として生まれ、救い主として生まれた主イエス御自身が、ひれ伏している場面があります。十字架の死を目前とされ、その前夜、夜を徹して祈られたゲツセマネの祈りです。マタイ福音書はこう記しました。26章39節。「うつ伏せになり」。マルコ福音書はこう記しました。14章35節。「ひれ伏し」。ルカ福音書はこう記しました。22章41節。「ひざまずいて」。

 一般に、ユダヤ人の祈りは立って、両手を天に差し伸べて、顔を上げて祈りました。ところが主イエスは十字架の死を目前とされて、うつ伏せになり、ひれ伏して、苦しみ悶えながら父なる神に祈られました。ゲツセマネの祈りがいかに特別な祈りであったか、その動作でも現れています。

「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。

うつ伏せになり、ひれ伏して、「アッバ、父よ」と呼びかけながら主イエスが祈られたことはただ一つです。「私の思いではなく、あなたの御心がなりますように」。

 いと高き神が人となられ、低きに降られた。飼い葉桶に宿り、十字架にまでつけられる。私ども人間が立たない場所にまで、低きに降られた。それが救い主イエスです。私どもがひれ伏し拝む主イエス自ら、ひれ伏して、「アッバ、父と」と呼びかけ、父なる神の御心をひたすらに尋ね求めておられるのです。私どもが主イエスの前にひれ伏して拝む。それは自らひれ伏した主イエスの祈りを、私どもの祈りとするのです。

「アッバ、父よ。私の思いではなく、あなたの御心がなりますように」。

私の思いで生きるのではなく、主の御心に私を生きさせて下さい。私の思いにどっかりと座り込むのではあく、主の御心に動かされる者として下さい。

 幼子イエスの前でひれ伏し拝んだ博士たちは、別の道を通って自分の国へ帰って行きました。「別の道を通って」ということは、来た道とは違う道です。生き方が変えられたということです。人生の方向転換が起こったということです。幼子イエスをひれ伏して拝むことは、私どもの生き方を変えるのです。東から来た博士たちは、星占い師であったと言われています。占い、魔術、呪術に生きていた者たちでした。しかし、幼子イエスをひれ伏して拝むということは、占い、魔術、呪術といった商売道具を捨てることです。もはや占い、魔術、呪術に頼らないことです。私どもの人生は占い、魔術、呪術に導かれているのではなく、幼子イエスが王として、祭司として、救い主として導いておられる。主イエスはインマヌエルの神としてお生まれになりました。神われらと共にいます神です。幼子イエスにおいて、神はわれらと共におられる、神はわれらと共に生きて下さるからです。

 

ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に宿られた幼子イエスは、やがて成長し、伝道の生涯に入られました。しばしばエルサレムの郊外にあるマルタとマリアの姉妹の家に泊まられました。姉のマルタは主イエスのもてなしのために、忙しく働いていました。しかし、妹のマリアは主イエスの足元に座って、主の御言葉に聴き入っていました。マルタは怒り出します。

「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。

しかし、その時、主イエスは言われました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、無くてならぬことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

 クリスマスの忙しい時にこそ、心に留める御言葉です。主の足元に座って、身を屈めて、主の御言葉を聴く。それは「無くてならぬただ一つのこと」です。この一事を欠いたら、マルタのもてなし、奉仕も意味を持たなくなるのです。あらゆるもてなし、奉仕は、主の足元に身を屈めて、主の御言葉を聴くという、欠いてはならないこの一事から生まれるのです。幼子イエスをひれ伏して拝んだ博士たちと、主の足元に身を屈めて、主の御言葉を一筋の心で聴いたマリアとは、重なり合うのです。

 今日、私どもは椅子に座って、礼拝を捧げています。隣のカトリック教会では足元に板が渡されてあります。私どもはうっかり靴を載せてしまいます。しかし、足元の板は膝を載せるためにあります。しばしばひざまずいて祈りを捧げます。私どもも時にはひざまずいて祈りを捧げることがあってもよいのかもしれません。しかし、高齢の方、病を抱えた方、全ての人が取れる姿勢ではありません。ましてや、ひれ伏すことなど、全ての人が取れる姿勢ではありません。しかし、椅子に座って神に礼拝を捧げる時に、私どもの心の姿勢は、ひざまずいて神を礼拝している。ひれ伏して神を礼拝している。その礼拝姿勢は崩してはならないのです。

 

4.①幼子イエスは博士たちに、ひれ伏して拝まれました。しかし、その主イエスが十字架につけられる前夜、ゲツセマネでひれ伏して、「アッバ、父よ」と父なる神に祈りを捧げられました。何故、主イエスはひれ伏されたのか。父なる神の御心を尋ね求めるためでした。それでは父なる神の御心である十字架の道とは何でしょうか。主イエスは弟子たちに向かって語られました。10章26~28節。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 主イエスは仕えられるためでなく、仕えるために来られた。そのために、多くの人のために、全ての人のために、自分の命を献げるために十字架の道を歩まれた。そこに神の愛が現されたのです。愛することは仕えることです。ひれ伏して神を礼拝することです。主イエス自ら、ひれ伏し、仕えることにより、私どもに愛を示されたのです。私どももひれ伏して神を拝み、主に仕えることにより、愛に生きるのです。隣人に愛をもって仕える歩みが、そこから始まるのです。クリスマスから始まるのです。

 

マタイ福音書は、博士たちが幼子イエスをひれ伏して拝んだ、クリスマスの出来事から始まりました。そしてこの福音書はこう結んでいます。十字架につけられた主イエスが甦られ、裏切り、挫折した弟子たちを呼び集められました。弟子たちは甦られた主イエスとお会いし、ひれ伏しました。この場面にも、「ひれ伏した」という言葉が用いられています。弟子たちの中には、主イエスが果たして甦られたのか、目の前で見ているにもかかわらず、ひれ伏して疑う者もいました。主イエスが甦られたことが喜びではなく、躓きだったのです。私どもの姿でもあります。

 ベツレヘムでお生まれになった幼子イエスをひれ伏して拝む。それは同時に、私どものために十字架にかけられ、甦られた主イエスをひれ伏して拝むことでもあります。それこそが私どもが今、捧げているキリスト礼拝なのです。ここにクリスマスの出来事があり、イースターの出来事があるからです。飼い葉桶に宿られ、十字架につけられ、甦られた主イエスは、ひれ伏し拝む私どもに向かって、新たな使命を与え、立ち上がらせるのです。

「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

 お祈りいたします。

「高きにいます神が低きに降られ、飼い葉桶の中に宿られました。この幼子イエスを博士たちがひれ伏して拝んだように、私どもも今、主の御前でひれ伏して拝ませて下さい。自らひれ伏して、父なる神の御心がなりますように祈られ、十字架の道を歩まれた主を、ひれ伏して拝ませて下さい。そこから私どもも仕える愛に生きさせて下さい。主を愛し、隣人を愛するために仕えさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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