「もはや何の差別もなく」
エゼキエル書 11:14~21
ガラテヤの信徒への手紙 3:21~29
主日礼拝
井ノ川勝 牧師
2025年8月17日
1.①先週の8月14日の木曜日、金沢教会で長く信仰生活をされた山内健司長老の記念会が行われました。亡くなられてから12年になります。多くの方が集い、信仰の想い出を語り合うひと時でした。私どもが受け継ぐべき信仰とは何かを、改めて確認させられました。山内健司さんは教会の長老として、教会学校の校長として、また、北陸学院高校の教諭として、様々なお働きを担って来られました。多くの教会学校の生徒、高校生を導いて来られました。
泉ヶ丘高校の2年生の時、友人に誘われて、「キリスト教研究会」に入部しました。更に、当時、石浦町にあった金沢教会の一室にYMCAがあり、学生たちのキリスト教活動にも参加するようになりました。夏になるとキャンプが行われます。高校生が一人ずつ、何故、洗礼を受けるようになったのか、入信のをしします。近親者の死が切っ掛けとなった。病気が切っ掛けとなった。苦しみや不幸が切っ掛けとなった。そのような体験が動機となって、洗礼を受けるようになった。しかし、私にはそのような動機となるものがなかった。当時、金沢教会の牧師は上河原雄吉牧師であった。全く私心のない伝道者であった。この先生が信じている信仰だったら間違いがないと確信して、大学1年生のクリスマスに、柿木畠に移転した金沢教会で洗礼を受けられました。
上河原牧師は礼拝の説教で、ただ一つの福音を繰り返し語られた。私どもは毎日、神さまに対して借金を負っている。神さまの御心通りに生きられない。行動できない。言葉を語れない。私どもが背中に負うている借金の重荷は膨大になり、自分で背負うことが出来ない。押し潰されそうになっている。もう私は駄目だと喘いでいる。その時、私どもは十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見る。主イエス・キリストは十字架で、私どもに代わって、私どもの借金を全て背負って下さった。ご自分のいのちと引き換えに、私どもの借金を棒引きして下さった。それ故、私どもは罪の借金から解き放たれて、感謝と喜びをもって、主に仕えて生きることが赦されている。山内健司長老の愛唱聖句はこの御言葉でした。テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
②高校2年生の時、教会へ導かれ、キリストに捕らえられ、19歳の時に洗礼を受けられた山内健司長老は、77歳で主の御許に召されるまで、一筋の信仰をもって、喜んで主に仕えて来られました。洗礼を受け、キリストのものとされることは、価値観が転換させられます。新しい価値観に生かされます。
皆さんは今、どのような価値観に捕らえられて生きていますか。私どもが生きている世界、社会には、様々な価値観が飛び交っています。この世を支配する価値観が、私どもを評価します。あなたはどのような業績を上げたのか。どんな働きをしたのか。その評価によって、私どもは喜んだり、心痛めたりいたします。私はもはや生きるに価しない人間なのだと、落ち込んだりします。
しかし、洗礼を受け、キリストのものとされることは、聖書が語る価値観に生きるものとされることです。聖書の人間理解に生きるようになることです。それを語っている御言葉こそ、今朝、私どもが聴いたガラテヤの信徒への手紙3章の御言葉です。
「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もありません。奴隷も自由人もありません。男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです」。
私どもの世界には、民族差別、身分差別、性差別が根深くあります。それに苦しめられている人は多くいます。法律が整備されても、なかなか乗り越えられない壁があります。私どもの心の中にも、差別する罪が根深くあります。しかし、そのような社会の中に、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、様々な差別を超えた交わりがキリスト・イエスにおいて誕生した。それが教会の交わりです。いまだかつて存在したことのない交わりが、キリスト・イエスにあって誕生したのです。驚くべきことです。
2.①世界の様々な宗教の中には、その教理において、民族差別、身分差別、性差別が残っているものがあります。しかし、キリスト・イエスにおいては、そのような様々な差別が乗り越えられているのです。何故、キリストは差別の壁を打ち砕かれたのでしょうか。この手紙を書いた伝道者パウロは語ります。
「神は人を分け隔てなさいません」(2・6)。「神は人を偏り見られない」。
私どもはしばしば人を偏り見てしまいます。偏った目で人を見て、評価します。それが差別を生み出します。しかし、神は人を偏り見られることはない。神の偏り見られない御心は、どこに明らかになったのか。それが主イエス・キリストの十字架の出来事だったのです。それ故、パウロは語ります。
「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか」(3・1)。
ガラテヤの教会の中に、差別の罪が根深くあった。それは十字架につけられたイエス・キリストを見ようとしないからだというのです。主イエス・キリストは十字架で、全ての人のために、いのちを注がれました。ユダヤ人のためにも、ギリシャ人のためにも、異邦人のためにも、奴隷のためにも、自由人のためにも、男のためにも、女のためにも、いのちを注がれた。そこには何の差別もない。それ故、キリストにあって、全ての者が等しく一つなのです。一つの交わり生かされるのです。
家に帰れば、主人と、奴隷の関係です。仕えられる者と仕える者との関係です。しかし、教会においては、礼拝においては、主人も、奴隷も、共に神を礼拝する者、キリストに仕える者なのです。教会ではこの世の差別を超えて、神の御前では等しい者なのです。神は人を偏り見られない。キリストの十字架の恵みには、何の差別もない。この信仰がやがて教会から社会へと影響を及ぼし、人権思想となって、社会を変革して行くことになるのです。「基本的人権の尊重」として、神から信託されたものとして受け入れられて行きます。日本国憲法(97条)にも謳われることとなります。
②「もはやユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女もありません。あなたがたはキリスト・イエスにあって一つだからです」。
キリストにあって、人種、身分、性別の違いを超えて、神の御前で等しく交わり、生きることが出来る。それが教会の交わりです。このキリストにある交わりに加えられるために、私どもは信仰を与えられ、洗礼を受けます。そのような信仰はどうしたら与えられるのでしょうか。
金沢教会と親しい関係にあります鎌倉雪ノ下教会で、かつて若草教会の初代牧師であった加藤常昭牧師と加藤さゆり伝道師が伝道、牧会をされていました。求道者会、婦人会の指導は加藤さゆり伝道師がしていました。もう長く求道生活をしていた女性がいました。信仰の悩みを抱えていました。さゆり先生に話をしました。
「私は、皆さんのような立派な信仰を見ていると、とても信仰を持てないと思ってしまいます」。
さゆり先生は答えました。
「あなた、信仰は持つものではなく、神さまから与えられるものよ。信仰をこの手で掴もうと思ったら、一生掛かっても持てないわよ」。
その言葉にはっとして、洗礼の決心がついたとのことです。
信仰は自分の手で掴むものでも、持つものではない。神さまが与えるもの。これは私どもがしばしば誤解することです。
3.①金沢教会は今年の4月より、新しい聖書翻訳、「聖書協会共同訳」を用いています。その中で、もっとも翻訳が変わったのが、今日の箇所です。これまでの日本語訳にはなかった言葉で翻訳しました。これまではこう訳されていました。
「イエス・キリストへの信仰」「信仰が現れた」。それを新しい聖書ではこう訳しました。「イエス・キリストの真実」「真実が現れた」。「信仰」「真実」、同じ言葉です。どちらにでも訳せる言葉です。両方の意味が込められている言葉です。
以前の訳では「信仰が現れた」でした。この言葉は「信仰が来た」という意味です。私どもが使わない言葉です。しかし、伝道者パウロは語ります。信仰は私どもが掴むものでも、持つものでもなく、信仰は来るものなのだと。私ども日本人は「信仰」と「信心」を区別しません。「信仰」は「信心」だと思っています。「信心」とは「信じる心」です。自分の内側にあるものです。自分の内側をのぞき込んでも、揺るがない確かなものなどありません。「信仰」は違います。信じて仰ぐものです。信仰は私どもの外にあるものです。外から来るものです。それ故、「信仰が来た」と語るのです。信仰は外から来るから、私どもは掴むことも、持つことも出来ない。気に入らなくなったら捨てることも出来ないのです。
それでは信仰はどこから来るのか。キリストから来るのです。それ故、新しい訳では、「イエス・キリストの真実」「真実が現れた」と訳しています。「真実が来た」。この真実こそ、キリストです。
信仰が来た。真実が来た。キリストが来た。私どものところにまで来て下さる。その時、キリストは私どもに何をして下さるのか。キリストが私どもを掴まえて下さるのです。掴まえるだけではありません。キリストが私どもの衣装となって、私どもを覆って下さるのです。キリストを身に纏わせて下さるのです。
②説教の冒頭で、山内健司長老の記念会の話をしました。高校2先生の時、金沢教会に導かれ、上河原雄吉牧師と出会い、上河原雄吉牧師の説教を通して、キリストと出会い、19歳の時、洗礼を受けた。上河原牧師はこういう説教をされています。
信仰とは、自分の要求に合った既製品の洋服を買い求めるものだと理解する人がいる。自分の要求に合わなければ、脱ぎ捨て、また新しい服を求める。しかし、信仰とは私どもの要求、注文が先に立つものではない。路頭に迷い、夕暮れになり、家路に帰る道さえ分からなくなる。身に着けていた服はぼろぼろになっている。寒風が肌に染みて、震えが止まらなくなる。その時、主イエス・キリストが来て下さり、自らの服を身に纏わせて下さり、家路に着かせて下さる。将にこれこそが、「地獄に仏だ」と言うのです。誠に大胆な表現です。上河原牧師でなければ、説教で語れない言葉です。
信仰とは、キリストが来て下さり、キリストが私どもの衣装となり、私ども身に纏って下さる。私どもの不安も、心配も、苦悩も、悲しみも、全てキリストが身に纏って下さる。そこには私どもの要求も注文も先に立たない。先に立つものは、キリストの恵み以外にはない。キリストを身に纏う。キリストを着る。これこそが、洗礼を受け、キリストのものとされることです。
それ故、伝道者パウロは語ります。
「あなたがたは皆、キリストへの信仰によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」。
新しい訳はこうです。
「あなたがたは皆、キリストの真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」。
キリストを身に纏わされ、洗礼を受け、神の子とされた私どもは皆、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る。喜びの時も、悲しみの時も、どんな時も、「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る。そしてこの言葉が続くのです。
「もはやユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであるなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫、約束による相続人です」。
4.①説教の冒頭で紹介した山内健司長老の愛唱聖句は、この御言葉でした。
「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい」。
キリストが私を身に纏って下さったからです。教会がどんな困難に直面しても、どっかり腰を据えていた。肝っ玉の座った信仰に生きていた。教会員もそれを見て、大丈夫だと確信した。キリストを身に纏った交わりの中で、「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来た。
山内健司長老はしばしば語ったそうです。私は死を怖いとは思わない。神の御許に帰ることが出来るのだから。こんなに嬉しいことはない。だから私の葬儀は湿っぽい悲しみに包まれないでほしい。「見よや、十字架の旗高し、キリストの兵士よ、前進せよ」という勇ましい讃美歌を歌ってほしい。
洗礼を受け、キリストを身に纏った者は、約束による相続人とされる。生きる時も死ぬ時も、キリストのもの、神の子として、永遠の祝福に生かされる。その確かな信仰が、キリストから与えられていたからです。私どももその信仰を受け継いで、キリストの兵士として、神の国を目指して、共に前進して行くのです。
お祈りいたします。
「悲しみの時、苦難の時、私どもの内にある信心をのぞき込むのではなく、私どもの外に立つキリストを仰がせて下さい。キリストは来て下さいました。私どもを全て纏って、キリストを着せて下さいました。私どもは生きる時も、死ぬ時も、神の子です。キリストのものです。約束の相続人です。キリストによって差別を超え、一つとされた私どもが、どんな時にも、アッバ、父よと呼び続ける主の群れとして歩ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
