「わが過去を踏み直す主イエス」
ホセア書 11章1~5節
マタイによる福音書 2章19~23節
主日礼拝
井ノ川 勝 牧師
2025年12月28日
2025.12.28. 「わが過去を踏み直す主イエス」
ホセア11:1~9,マタイ2:13~23
1.①私どもは今、2025年の最後の主の日の礼拝を捧げています。神の御前に立つ私どもは、この一年の歩みを振り返っています。皆さんにとってどのような一年だったでしょうか。また、私どもの教会の歩みにおいて、どのような一年であったことでしょうか。自分が願っていた目標を達成できた方もおられることでしょう。しかし、多くの方が、自分が掲げた目標を達成できなかった。主の御心に適った歩みをすることができなかった。様々な失敗と挫折を味わって来た。後悔の思いの中にいるのではないでしょうか。
私どもの人生の歩み、信仰の歩みは、現在と向き合いつつ、将来に向かって歩んでいます。しかし、私どもはいつも、過去に引っ張られています。過去の出来事に精算できていないからです。誰にも過去の過ち、失敗、挫折があります。後悔があります。悔いがあります。それらの過去の出来事が、現在の私を苦しめるのです。それ故、将来に向かって、前に向かって、一歩を踏み出せないのです。更に、私どもを苦しめるのは、取り返しのつかない過去の出来事に対して、私どもは解決できない無力さの中に置かれているのです。過去に対しては、自分の力ではどうすることもできないから、苦しむのです。
②先週、私どもは御子イエス・キリストの御降誕をお祝いしました。御子イエスの誕生の直後、誠に悲惨な出来事が世界に起こりました。ヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺せという命令を下しました。幼子イエスの命を殺そうとしました。権力者の手によって、多くの幼子の命が犠牲となりました。その日、ベツレヘムはわが子を喪った母たちの悲痛な叫びがこだまし、母たちの涙が流されました。
しかし、その夜、主の天使が夢でヨセフに現れて、語りかけました。
「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」。
ヨセフは主の御言葉に従い、直ちに起きて、夜のうちに、幼子イエスとその母マリアを連れて、エジプトへ逃げました。生まれたばかりの幼子イエスと、出産直後のマリアを連れての逃避行は過酷な旅でした。しかもベツレヘムからエジプトまでは、相当の距離があります。長い長い過酷な道のりでした。何故、主はエジプトへ逃げなさいと命じられたのでしょうか。他の地ではいけなかったのでしょうか。もっと近くで身を隠す地はあったはずです。しかし、どうしてもエジプトでなければならなかったのです。そこに主の御心があったからです。
エジプト。そこはかつて、イスラエルの民が奴隷として生活していた地です。エジプトの王によって、過酷な労働を強いられ、苦しみを味わった地です。エジプトの王は、イスラエルの民をヘブライ人(土地を持たない民、流浪の民)と呼びました。そしてヘブライ人の男の子が生まれたら、一人残らずナイル川に投げ込めという残酷な命令を下しました。幼子モーセは母の機転により、生き延びました。モーセはやがて、イスラエルの民を奴隷の家・エジプトから脱出させる重要な働きを、主から託されました。モーセは旧約の時代の救い主でした。
幼子イエスがエジプトに逃れ、エジプトに滞在する。それはイスラエルの民の苦しみを、自ら味わうためでありました。
2.①マタイによる福音書を綴ったマタイは、幼子イエスのエジプトへの逃避行を、預言者ホセアの御言葉の成就として受け止めました。ホセア書11章でこう語られています。
「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出した」。「私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を外す者のようになり、身をかがめて食べ物を与えた」。
預言者ホセアが語る出エジプトの出来事です。出エジプトの出来事は奴隷からの解放の出来事です。荒れ野で神を礼拝できる自由への解放の出来事です。神は、エジプトで奴隷であったわが子を愛し、わが子を呼び出しました。顎から軛を外し、愛の綱で、わが子をエジプトから導き出しました。荒れ野の40年の旅において、神自ら身を屈めて、わが子に命の糧、マナを与え、命の御言葉を与えて、養われました。
ヘロデ王が死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに、再び現れて語られました。
「起きて、幼子とその母を連れ、イスラエルの地へ行きなさい」。
ヨセフは主の御言葉に従い、直ちに幼子イエスとその母マリアを連れて、イスラエルの地に入りました。「イスラエルの地へ行きなさい」。この主の御言葉は、「イスラエルの地へ入りなさい」という意味です。エジプトを脱出した神の民が、主に導かれて約束の地に入った、足を踏み入れたことと重ね合わされています。
エジプトへ逃れた幼子イエスが、主の御言葉に導かれて、エジプトを脱出して、約束の地へ入って行く。それは新しい出エジプトを行ったということであったのです。幼子イエスはモーセに代わる、新しい救い主として、新しい出エジプトの出来事を行う救い主であることが明らかにされたのです。モーセはイスラエルの民を、奴隷の家・エジプトから解放させた旧約の救い主です。主イエスは世界の全ての民を、諸々の力、罪の支配から解放させる新しい救い主なのです。
②私が大学生の時、大学の正門の前に、小さなキリスト教書店がありました。よく立ち寄り、立ち読みをしました。そこでキリスト教書籍と掛け替えのない出会いをしました。その一冊に、渡辺善太牧師の説教集『わかってわからないキリスト教』がありました。題名が誠にユニークです。題名に惹かれて購入しました。銀座教会で行った説教を集めたものです。その中で、私の心を特に惹き付けた説教があります。「わが過去を踏み直したもうイエス」。今日の御言葉を説き明かした説教です。
渡辺善太牧師は『聖書的説教とは?』という、自らの説教の土台となる説教論を書かれています。その中でこういうことを語られています。聖書は様々な神学的論理で貫かれている。その神学的論理を説教で明確にしないと、会衆に生きた御言葉が届かない。その神学的論理の一つに、神の恩寵による「踏み直し」の論理がある。そこで渡辺善太牧師が注目する御言葉が、申命記11章24節の御言葉です。「わが過去を踏み直したもうイエス」の説教でも触れている御言葉です。旧約284頁。
「あなたがたの足の裏が踏む所はすべて、あなたがたのものになる」。「あなたがたの神、主は、あなたがたに言われたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の至るところで、あなたがたへの恐れとおののきを抱かせる」。
神に導かれて、約束の地に入れられる、足を踏み入れることを約束した御言葉です。
ところが、預言者ホセが語るように、エジプトを脱出した神の民は、荒れ野の40年の旅において、神の愛の呼びかけに背きました。
「私はエジプトから私の子を呼び出した。しかし、私が彼らを呼んだのに、彼らは私から去って行き、バアルにいけにえを献げ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支え、歩くことを教えたのは私だ。しかし、私に癒されたことに、彼らは気付かなかった」。
神の民は荒れ野の旅において、主の道を踏み損なったのです。それが神の民の罪であったのです。主の道を踏み損なった神の民の罪を、幼子イエスが踏み直して下さる。新しい出エジプトを行って下さる。そのためにどうしても、幼子イエスはエジプトに逃れ、エジプトを出て、荒れ野の旅をして踏み直しをし、約束の地イスラエルに足を踏み入れなければならなかったのです。
過去の過ち、失敗、挫折、後悔は、私どもの力ではどうすることもできないものです。過去に対しては、私どもは全くの無力です。しかし、私どもが救われるということは、現在の私が救われることだけではありません。過去もろともに救われなければ、私どもは罪から解放されたことにはならないのです。それを成し遂げられるのは、主イエス・キリストのみです。それ故、主イエスはわが過去を踏み直して下さるのです。わが過去も主イエスの御手の中に置いて下さるのです。主の御足の跡に置いて下さるのです。
3.①主の御言葉に導かれ、ヨセフは幼子イエスとその母マリアを連れて、イシラエルの地に入りました。しかし、アルケラオが父ヘロデ王に代わってユダヤを治めていると聞いたので、ユダヤに行くことを恐れました。すると、主の御使いが夢でヨセフに現れて語りかけました。
「ガリラヤ地方のナザレに行きなさい」。
ヨセフは幼子イエスとその母マリアを連れて、ガリラヤ地方に退き、ナザレの町に住みました。
マタイはこの出来事に触れて、預言者の言葉が成就したと語ります。
「彼はナザレの人と呼ばれる」。主イエスはナザレの人と呼ばれる。
一体、どの預言者がこの御言葉を語ったのでしょうか。実は、直接この御言葉は旧約聖書にはないのです。そこで様々な推測がなされています。一つの説は、士師記13章に、士師、裁き司である怪力サムソンが登場します。神に選ばれ、聖別され、神に献げられたナジル人と言われていました。生まれてからずっと頭の毛に剃刀を当てたことがありませんでした。このナジル人がナザレ人の語源になったとも言われています。
しかし、それ以上に、これが最も有力な説と言われています。イザヤ書11章1節の御言葉です。クリスマス預言と言われています。旧約1062頁。
「エッサイの株から一つの芽が萌え出で、その根から若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。
クリスマスの讃美歌にもなりました。エッサイはダビデ王の父です。ダビデの子孫から救い主が現れる。「若枝」という言葉が、「ナザレ」の語源になったと言われて」います。エッサイの株から小さな芽が、若枝が生えて来る。小さく、弱々しく、見栄えのしない、目立たない若枝です。しかし、それこそがイスラエルの救い主となると言うのです。
「辺境の地ガリラヤからは何の良いものも現れない」。「ナザレからは何の良いものも出ない」。そのように言われていた辺境の地ガリラヤのナザレから、救い主が現れる。やがてその救い主は「ナザレのイエス」と呼ばれるようになりました。日本的に言えば、「田舎者のイエス」です。しかし、ナザレのイエスこそ、世界の全ての民を救う救い主となるのです。
人間の目から見れば、歴史を支配しているのは、ヘロデ王という権力者です。自らの権力で、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人の残らず殺すことさえ厭いません。恐ろしいことですが、現在でも権力者はそのような力を奮って世界を支配しています。子どもたちが犠牲となり、母たちが涙を流しています。
しかし、マタイ福音書は語るのです。世界を導いているのは権力者ではなく、実は神なのだ。神はヨセフとマリアという目立たない、普通の存在に目を留め、神の御子を幼子イエスとして託された。主の御言葉はヨセフに語られ、ヨセフは主の御言葉に従って動いている。幼子イエスはヨセフに守られ、ベツレヘムからエジプトへ、エジプトからイスラエルのユダヤへ、ユダヤからナザレへと導かれる。そのようにして、神は幼子イエスを通して、新しい出エジプトという救いの御業を行われている。誠に目立たない仕方で、しかし、神は御言葉を通して歴史の中で働かれ、救いの御業を行われている。
②今、「ボンヘッファー」という映画が上映されています。ボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加わり、処刑されたドイツの教会の牧師、神学者です。ヒットラーが支配していた1940年の新年に、ボンヘッファーはこの御言葉で説教をされています。ヘロデ王によって多くの幼子が殺されました。救い主イエスの誕生後、最初の殉教者になりました。私どもの目から見れば、犠牲となった幼子たちは何のために生まれて来たのだろうか。こんなに惨い悲劇はないと思ってしまいます。しかし、ボンヘッファーはこう語るのです。
幼子たちは主イエスのために犠牲となった。だから、主イエスは幼子たちと死を超えて共にいて下さる。「神われらと共にいます」というインマヌエルの神は、何よりも幼子たちと共におられる。そこに幸いがある、祝福がある。驚くべき言葉です。このような言葉を語ることのできる牧師はいないと思います。しかし、この言葉を語ったボンヘッファーは、この5年後の復活祭の直後、処刑されてしまいました。主イエスのために死んだ殉教者となりました。絞首刑を受ける直前、最後の言葉を遺されました。
「これで終わりです。しかし、私にとって新しい命の始まりです」。
ボンヘッファーがこの御言葉の説教で強調されているのも、このことでした。私どもが生きる歴史を支配しているのは権力者のように見える。しかし、神は目立たない仕方で、幼子イエスを通して、御言葉によって世界を導いておられる。それこそが繰り返されているこの御言葉が表している。
「主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」。
4.①神の御子は幼子の姿を取って、この世に来られました。小さく、弱々しく、見栄えのしない、目立たない若枝でした。ところが、幼子イエスは生まれた直後、ヘロデ王の幼児虐殺、エジプトへ逃避行、出エジプト、そしてガリラヤのナザレに入られるという、激動の日々を経験されました。私ども人間の目から見れば、神はどこにおられるのかと問いたくなる歴史の現実です。しかし、神は幼子イエスを通して、歴史の中で激しく動いておられるのです。私どもの救いのために、生きて働かれておられるのです。
マタイは歴史の一つ一つの出来事に背後に、神の生ける御業を見ました。「ああ、この出来事も、預言者の御言葉の成就であったのだ」。マタイが特に注目したのが、預言者ホセアが語った11章の御言葉です。出エジプトの出来事と、幼子イエスの新しい出エジプトの出来事を重ね合わせました。最後にもう一度、その御言葉に注目したいと思います。旧約1396頁。
「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出
したた。
私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を外す者のようになり、身をかがめて食べ物を与えた」。
ベツレヘムからエジプトへ逃避行された幼子イエスは、エジプトからナザレへ向かわれ住まれました。しかし、ナザレが最終の地ではありませんでした。エルサレムへと向かわれました。十字架へと向かわれました。この世の権力者は身を屈めません。自らが王、神だからです。しかし、主イエスは身を屈める王、神です。十字架という最も低き場所に立たれ、身を屈めて、私どもの顎から軛を外し、ご自身を命の糧として与え、私ども養い生かして下さいました。死を超えて生かして下さるのです。それ故、私どもも、主のために生き、主のために死ぬ、小さな歩みをするのです。
②わが過去を踏み直して下さる主イエス。私どもの踏み損なった過去の歩みを、踏み直して下さる主イエス。私どもが変えられない後悔に満ちた過去も、主イエスが踏み直して下さった。私どもは現在だけでなく、過去もろともに、主の御足の跡に置かれたのです。十字架で身を屈めた主イエスは、甦って、私どもの先頭に立って歩まれるのです。それ故、私どもは主イエスの御足の跡に踏み従って、将来へ向かって、前へ向かって歩む神の民とされているのです。
お祈りいたします。
「世界の中に起こる不条理な現実に躓く私どもです。神はどこに生きておられるのかと問い続ける私どもです。しかし、神は幼子の姿を取って来て下さいました。私どもが踏み損なった過去の歩みを、踏み直して下さるのです。新しい出エジプトを起こして下さるのです。過去もろとも主の御足の跡に置かれた私どもが、主の御足の跡を踏み従いながら神の民として歩ませて下さい。主のために生き、主のために死ぬ、小さな歩みを歩ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
