「わたしの主、わたしの神よ」
イザヤ書25:6~10
ヨハネによる福音書20:24~29
主日礼拝
井ノ川勝
2025年4月20日
1.①私どもの人生において、決定的な影響を与えるものは、何と申しましても、人との出会いです。この人との出会いによって、私の人生は変わった。この人と出会っていなければ、今の私はなかった。今、この道を歩むことがなかった。誰にも人生を変える出会いの経験を持っています。人との出会いに、神の御手の働きを見ることがあります。
しかし、それ以上に、大きな出会いがあることを、聖書は私どもに告げています。それは甦られた主イエス・キリストとの出会いです。
主イエス・キリストの甦りをお祝いするイースターの朝を迎えました。このイースター礼拝で、北陸学院の高校生が洗礼を受けられました。北陸学院で聖書の御言葉に触れ、主イエス・キリストを知り、そして教会に導かれて、甦られた主イエス・キリストとお会いしたのです。これからの人生の歩みを、甦られた主イエス・キリストが導いて下さるのです。
②先週、私どもは受難週の一週間を歩んで来ました。十字架の道を歩まれた主イエスを覚えて、御言葉に聴き、祈りながら過ごして来ました。受難週の礼拝を捧げた翌日の月曜日の夕方、驚きの知らせが飛び込んで来ました。内灘教会の三田照美長老が急逝されたとの知らせでした。金沢教会と親しい交わりをして来られた長老でした。受難週の礼拝に、いつものように出席をされていた。翌日、家族が訪ねたら、部屋で倒れており、息をされていなかったというのです。85歳でした。実は、受難の金曜日の夕方、内灘教会で受難日聖餐祈祷会を行う予定でした。内灘教会は昨年より無牧師になりました。しかし、三田照美長老より、受難日聖餐祈祷会は私にとってとても大切な祈りの時なので、是非続けてほしいとの願いがありました。昨年も、私が行って、御言葉と聖餐に与り、共に祈りを捧げました。今年も是非行ってほしいとの願いがあり、行く準備をしていました。三田照美長老も、受難日聖餐祈祷会に向けて祈りつつ準備をされていたと思います。何故、受難日聖餐祈祷会を大切にされていたのでしょうか。
受難の金曜日、主イエスが十字架につけられた日です。十字架の主イエスを仰ぎながら、主イエスの十字架の死の意味を深く思いながら、自らの死を見つめておられたと思います。私どもの人生は死に向かって歩んでいることを、深く心に留めておられたと思います。それ故、一回一回の礼拝、祈祷会を、一期一会の思いで祈りをもって捧げておられたに違いありません。死を恐れつつ、祈りに生きた教会員でした。祈りの人でした。無牧師の教会を祈りによって支えていました。何よりも、甦られた主イエス・キリストとお会いしたことが決定的なことでありました。キリストの甦りの証人として、牧師の伴侶として、保育者として、長老として、喜んで主に仕えて来ました。昨日の朝の葬儀に出席し、そのことを深く思わされました。
2.①甦られた主イエスとの出会いを、弟子たちの中で最後に経験したのは、トマスでした。ヨハネ福音書は元々、20章で結ばれていたと言われています。甦られた主イエスとトマスとの出会いの物語が、この福音書の結びにある出来事でした。それはこの福音書に触れている私どもも、トマスと同じように、甦られた主イエスと出会ってほしいとの願いが込められています。
トマスをこういう言葉で紹介しています。
「12人の一人でディディモと呼ばれるトマス」。
「ディディモ」という言葉は、「双子」という意味です。「双子のトマス」と呼ばれていたのです。双子のもう一人は、この福音書には登場していません。もう一人は誰なのか。それは私ども一人一人でもあります。弟子たちの中で、最後まで主イエスの甦りを疑っていました。甦られた主イエスを信じようとしませんでした。それ故、疑い深いトマスと呼ばれるようになりました。それは取りも直さず、私どものことでもあります。
伊勢の教会で伝道していた時、友の会の聖書の学び会に出席されている方が、山田教会の礼拝にも出席されていました。その方がしばしば言われたことがあります。「私はイースターが近づくと、トマスになるの」。夫が若くして亡くなりました。その悲しみを抱えながら生きていました。教会は主イエス・キリストの甦りの出来事を語る。主イエス・キリストは甦って生きておられると告げる。復活信仰を語る。しかし、私の夫は帰ってくるわけではない。イースターになると、夫を亡くした悲しみが深まり、私はトマスのように、主イエスが甦られたことに疑い深くなる。信じることが出来なくなる。イースターを迎える度に、この方に主イエスの甦りの出来事を、いかに告げるかは、いつも大きな課題となりました。今、イースター礼拝を捧げながら、この方と同じ思いをされている方がいると思います。
②トマスは何故、弟子たちの中で、最後まで主イエスの甦りを疑い、信じようとしなかったのでしょうか。主イエスが甦られた日の夕べ、弟子たちは家に内側から鍵を掛け、閉じこもっていました。死を恐れていたからです。自分たちも捕らえられ、主イエスと同じように殺されるのではないかと恐れていました。そこに甦られた主イエスが現れました。ところが、トマスだけはその場に居合わせていませんでした。トマスだけが夜、外出していました。主イエスの十字架の死の出来事に触れ、自らも死と向き合い、死を恐れたのだと思います。一人、夜の闇の中で、死を恐れながら彷徨っていました。
トマスが家に帰った時、他の弟子たちはトマスに言いました。「トマス、驚くべきことが起きたのだよ。私たちは主を見た」。「私たちは甦られた主イエスにお会いした」。しかし、トマスは主イエスが甦られたことを信じようとしませんでした。
「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘痕に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」。
元の言葉は、「私、私、私」という言葉が繰り返されています。
「私の目で主イエスの手に釘痕を見、私の指を釘痕に入れ、私の手を脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」。
主イエスが十字架にかかって死なれ、甦られたかどうか。それを証明する基準は、私の目、私の指、私の手なのです。
甦られた主イエスが弟子たちに現れた一週間後、やはり日曜日でした。弟子たちは再び、家の内側から鍵を掛け、閉じこもっていました。主イエスが甦られたことを信じることが出来ないトマスがいたからです。しかし、甦られた主イエスは一週間後の日曜日、疑い深いトマス一人を目指して、弟子たちの家にやって来られました。何故、一週間後の日曜日に、甦られた主イエスは訪れるのでしょうか。ここに既に、日曜日、甦られた主イエスを迎えて礼拝する教会の姿があるからです。教会の群れの中には、まだ主イエスの甦りの出来事を信じることが出来ず、疑っている者が必ずいます。しかし、教会の群れは、そのような方を排除しません。一緒に礼拝を捧げるのです。そして甦られた主イエスは、まだ疑い、信じることの出来ない人を目指して、来て下さるのです。それが私どもが今、捧げている主の日の礼拝で起きていることです。
3.①甦られた主イエスは弟子たちの真ん中に立たれました。「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。そしてトマス一人の前に立たれ、語りかけます。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れてみなさい」。
甦られた主イエスはトマスの要求を退けられません。あなたの要求は不信仰だとも言われません。むしろ、トマスの要求を受け入れています。あなたの指を私の手に入れてみなさい。あなたの手を私の脇腹に入れてみなさい。あなたの目で私を見なさい。そして主は語られます。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
甦られた主イエスの招きです。願いです。切実な祈りです。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。疑い深いトマスのために、甦られた主イエスはこのような祈りを携えて、トマスの前に立ち、信仰へと招いておられるのです。
私は大学1年生の時に、大学に講義に来られていた牧師に招かれ、その牧師が牧会していた渋谷区富ヶ谷の教会へ導かれました。熊谷政喜牧師でした。70歳を越えていました。キリスト教の大学でしたので、大学では毎日、礼拝が行われ、出席しました。また主の日には教会の礼拝に出席しました。熊谷牧師の説教を通して、御言葉が心に迫って来ました。主イエス・キリストが私のために、私の罪のために、十字架につけられた。それは分かるようになりました。しかし、十字架で死なれた主イエス・キリストが甦られて、私に現れて下さった。主イエスが甦られたことを信じることが出来ませんでした。
熊谷牧師が後に、説教集を出版されました。題名は『罪人と食事を共にする神』。その中に、今日の御言葉を説き明かされた説教が納められています。「人からの手と神からの手」と題する説教です。その中で、「神からの手と人からの手の逆転」が起こったのだと語られるのです。
トマスは断固として主張しました。「私の目で主イエスの手に釘痕を見、私の指で釘痕に入れ、私の手で脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」。私の目、私の指、私に手を強調します。しかし、甦られた主イエスはトマスに語られ、招かれました。「あなたの指を私の手に、あなたの手を私の脇腹に」。ここに神からの手と人からの手の逆転が起きている。人からの手が主イエスの甦りを証明するのではなく、甦りの主イエスの手が疑い深く、信じることの出来ないトマスを支えているのだと言うのです。
私は熊谷牧師が語られるこの福音に触れた時、主イエスが甦って、私にも現れ、甦りの御手で、疑い、信じない私をも支え、招き入れて下さっているのだと信じることが出来ました。
ある詩人が「ディディモはわたし」という詩を書いています。その終わりの一部です。
「自分のことは自分では見られない 自分の顔は見られない
自分の一部しか見られない
もちろん鏡に映っているのも本当の自分ではない
見たことのない自分を信じて 自分の目で見ていないからといって
なぜ信じるべきものを われわれは信じられないのだろうか
信じないと決めたら、見えても信じない
聞こえても信じない、ふれても信じない のがわれわれではないか
そう ディディモはわたし わたしはディディモ
主はいまもわたしたちの真ん中に立っておられるのに
飛び込もうとはしない」。
甦られた主は、あなたを御手の中に、懐の中へと招いておられるのです。
②「あなたの指を私の手に、あなたの手を私の脇腹に入れてみなさい。信じない者ではなく、信じる者となりなさい」。
甦られた主イエスのこの招きを受けたトマスは、もはや私の指、私の手で、主イエスの甦られたお体に触れる必要はなくなりました。主イエスが語りかけて下さる御言葉だけで十分でした。そしてトマスの口からこの言葉が生まれました。
「私の主、私の神よ」。
トマスの信仰告白です。トマスは甦られた主イエスの前にひざまずき、礼拝しながら、この信仰の告白をされたのではないでしょうか。そしてトマスの信仰告白は、後に教会の信仰告白となりました。今日、洗礼を受けられた北陸学院の高校生も、甦られた主イエスの招きの言葉、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」を受けて、「私の主、私の神よ」と、教会の信仰を告白されたのです。甦られた主イエスこそ、私の人生を導く主、私の歩みを導く神。
甦られた主イエスに向かって、教会は「私たちの主、私たちの神よ」と信仰告白をします。しかし同時に、洗礼を受けることは、甦られた主イエスに向かって、「私の主、私の神よ」と信仰を告白することでもあるのです。
吉祥寺教会の牧師であった竹森満佐一牧師の、イエス伝講解説教集『わが主よ、わが神よ』があります。この説教集は竹森牧師の代表する説教集です。日本説教史にも残る説教集です。この説教集の題名となりました「わが主よ、わが神よ」は、トマスと甦りの主イエスとの出会いの物語を説き明かした説教から採られたものです。その説教で、竹森牧師は語られます。
「一番疑い深い、そして、一番弱かった、トマスが、口にしました信仰の告白が、それからのち、二千年の間、代々の教会の、ほんとうの信仰の告白になったのです。われわれは、神のおどろくべき奇跡を、ここに見る思いが、するのであります。ペテロが言ったことや、パウロが言ったこと、ではないのです。疑い深いという、あだ名がつけられました、このトマスが、追いつめられたように、主の前で、告白しました、この言葉こそ、ほんとうの教会の命、になったのであります」。
「伝説によれば、トマスは、インドに伝道に言った、と申します。そして、今日インドに、トマスの教会というのが、厳然として残っているのであります。・・一番弱かった人間が、一番用いられたのではないか、と思わせるほどであります。これは、弱いわれわれにとって、限りない慰めであります。主の復活は、勇者に対するものではない、いつでも、罪深い者、そして弱い者、躓く者、そういう者をすくい上げて、そういう者に限りない命を約束する、救いの福音なのであります」。
4.①今から20年前、ドイツの彫刻家バルラハの展覧会が日本で初めて開かれました。東京と京都で開かれたのですが、残炎ながら私は行くことが出来ませんでした。私の親しい牧師が展覧会に行き、作品のハガキを買って来て下さいました。私が好きなバルラハの「再会」と題する作品でした。トマスと甦られた主イエスとの再会を彫刻で表したものです。バルラハは幾つもこの作品を造られています。印象深い作品です。甦られた主イエスとトマスが顔と顔とを合わせています。疑い深いトマスを私どもは若者として想像します。ところがバルラハは老人として描いています。恐らく、バルラハ自身を表しています。
バルラハはヒットラー率いるナチスに抵抗し、作品の多くを奪われ、処分されました。芸術家にとって作品は自分の命そのものです。バルラハはナチスに抵抗し、戦いに疲れ果てていました。倒れそうになっていました。そのような自分とトマスを重ね合わせたのです。老人トマスはもはや自分の足で立つことが出来ず、今にも倒れそうです。しかし、甦られた主イエスが十字架の釘痕が残る両手で、トマスの脇腹から手を回し、しっかりとトマスを支えているのです。疲れ果てたトマスを見つめる甦られた主イエスの顔を仰ぎ見ながら、トマスは主に向かって口を開いて告白します。「わが主よ、わが神よ」。
バルラハの「再会」というこの作品を観た者は誰も、トマスと自分自身を重ね合わせます。私にも甦られた主イエス・キリストは現れ、私を両手で脇腹から支えて下さる。その時、生まれる信仰の告白です。「わが主よ、わが神よ」。
甦られた主イエスは最後に、トマスに語られます。
「私を見たから信じたのか、見ないで信じる人は、幸いである」。
甦られた主イエスは、主イエスを見て信じたトマスの信仰を咎めておられるのでしょうか。そうではありません。「あなたは私を見て信じたね。それも幸いなことだ」。「しかし、あなたの後に続く者は、私を見ることは出来ない。しかし、私を見なくても信じるであろう。それは何と幸いなことか」。
この時、トマスの傍らにいたペトロがこういう言葉を語っています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています」。
教会は二千年の歴史において、このような復活信仰に生きて来たのです。
②説教の冒頭で紹介したように、先週の月曜日、内灘教会の三田照美長老が急逝され、昨日、葬儀が行われました。三田照美長老の長男と長女は内灘教会の長老をされています。次男はカナダのバンクーバーで伝道者として奉仕をされています。お母さまの訃報を聞き、急いで日本に向かう準備をし、家を出ようとした時に、郵便配達者がポストに手紙を入れるところであった。母からのイースターカードであった。一方で、「母が急逝した」という知らせを受けて、動揺している。しかし他方で、イースターカードを通して、「主イエス・キリストは甦って生きておられる。何と幸いなことか、イースターとめでとう」というメッセージが届いた。母の命は死に呑み込まれたのではない。死に打ち勝たれて主イエス・キリストの甦りのいのちへ招き入れられたのだと確信した。そして母の愛唱聖句を想い起こした。昨日の葬儀の時にも朗読されたローマの信徒への手紙8章の御言葉です。
「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」。
甦られた主イエス・キリストは、今朝、主の日の朝も、私どもを訪ねて来られ、一人一人と向き合っておられます。そして語りかけておられます。
「信じない者ではなく、信じる者となりなさい。見ないで信じる人は、幸いである」。甦られた主イエス・キリストの招きを受けた私どもは、トマスと声を合わせて応えます。「わが主よ、わが神よ」。
お祈りいたします。
「主の日の朝、甦られた主は、私に会いに来られました。私の前に立たれて、招いておられます。信じない者ではなく、信じる者となりなさい。甦りの主の御手に招かれて、トマスのように、わが主よ、わが神よ、と応える者とさせて下さい。ご復活の主に、喜んで仕える証人として下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。