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「わたしの魂は主をあがめ」

詩編147:1~11
ルカによる福音書1:46~56

主日礼拝

井ノ川勝

2024年12月8日

00:00 / 34:22

1.①クリスマスは故郷に帰る時でもあります。故郷を離れていた家族や友が故郷に帰り、共にクリスマスをお祝いする時でもあります。それは言い換えれば、このようにも言えます。クリスマスは私どもの魂の故郷に立ち帰る時でもあります。私どもの魂の故郷とは何でしょうか。飼い葉桶に宿られた救い主イエスです。私どもに対する神の愛が出来事となって現れたからです。クリスマスは飼い葉桶に宿られた救い主イエスに立ち帰る時であるのです。

 ある方がとても印象深い言葉を語られています。

「大きなところに、どっかりと落ちおちつかない、ということが、愛ということの本質ではないだろうか。なまけものの愛ということはありえない。なまけものの愛とは、いつも馴れたところに、座りこんでしまった愛であって、それは愛の破産にほかならない。愛というものは、自己保存のために武装しない。愛は傷つけられることを恐れない」。

 愛は落ち着かない。それが将に、クリスマスに起きた出来事です。神の御子が人となられて、マリアの胎内に宿り、飼い葉桶に宿られた。神の落ち着かない愛の出来事が起こりました。この神の愛の出来事に触れた私どもも、落ち着かない愛に生きるのです。

 

12月1日よりアドヴェント、待降節に入りました。今日も、教会学校の生徒がキリスト降誕劇の練習をしていました。天使ガブリエルがナザレの村で生活していたごく普通の女性マリアに、あなたは神の御子を宿したことを告げる場面から、クリスマスの出来事が始まりました。

 神の御子を宿したマリアは、その後、どうなったのでしょうか。座り込んで不安に駆られ、悩んでしまったのでしょうか。じっとしていたのではありません。マリアは立ち上がり、出かけて行きました。しかも婚約していたヨセフの許に出かけて行ったのでもありません。従姉妹のエリサベトの許へ出かけて行きました。ガリラヤのナザレからユダヤのエルサレムの郊外の山里へ出かけて行きました。子を宿したマリアが、しかも一人で出かけて行きました。数日間はかかる旅です。何故、マリアはじっとしていられなかったのでしょうか。落ち着いていられなかったのでしょうか。何故、子を宿しながら、旅に出かけたのでしょうか。どうしても従姉妹のエリサベトに会いたかったのです。

 従姉妹と言いましても、叔母さんと姪の関係のように年が離れています。エリサベトは既に高齢でした。しかし、そのエリサベトも子を宿した。マリアだけでなく、エリサベトにも神の御業が現れた。エリサベトに起こった神の御業を確認することによって、自分の身に起こった神の御業が確かなものであることを確認したかったからです。それ故、マリアはじっとしていられなかった。エリサベトの許へ出かけて行ったのです。

 もう30年前になりますが、私もエルサレムの郊外にあります山道を歩きました。マリアがエルサベトを訪ねた場所は、マリアの訪問教会が建っています。静かな山里にあります。礼拝堂の正面の壁に、マリアとエリサベトが抱き合いながら、喜びを分かち合う場面の絵が掲げられていました。礼拝堂の外の壁には、この時、マリアがエリサベトと歌った「マリア賛歌」のプレートが世界中の言葉で張られてありました。山道を歩きながら、ああ、マリアも子を宿しながらこの山道を歩いたのだな、どんな思いでこの道を歩いたのだろうか。マリアの足跡に自らの足跡を重ね合わせながら、一足一足歩きました。

 高齢のエリサベトと結婚前の若きマリア。二人に共通するものは、神の御業がわが身に現れたことです。神が与えて下さった子を宿したことです。それぞれの子に、神が行われる救いの御業の使命が与えられているのです。マリアもエリサベトも、そのことに驚き、恐れと不安に包まれていました。大変なことがわが身に起こった。こんな大きな出来事を、とても自分一人では受け留められない。それ故、マリアは同じ神の御業を身に負ったエリサベトを訪ねました。

 

2.①マリアがエリサベトに挨拶した時、エリサベトの胎内の子が踊りました。神が与えられた命が喜び踊りました。エリサベトはマリアを祝福しました。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。言い換えれば、こういう祝福の言葉です。

「幸いなるかな、信じた女よ、その人に語られた言葉は、必ず主によって成就する」。

 天使ガブリエルがマリアに語られた言葉を、エリサベトは語り直しています。

「神にできないことは何一つない」。「神においては、その語られた全ての言葉が、不可能ということはない」。「神があなたに語られた言葉は、必ず主によって実現する」。

 神の御業が私どもの身に現れる。その最たるものは、洗礼を受けることです。皆さんの中に、今年のクリスマス、洗礼を受けるかどうか迷いながら、祈り求められた方が多くいたと思います。洗礼は、神の御子イエスがわが身に宿られ、私を生きて下さる出来事です。マリアと同じ出来事が私どもの身に起こることです。それは恐れ多いことです。信じられないことです。しかし、信じられない恐れ多いことが、わが身に起こるのが、神の御業です。私ども人間の想定範囲内に起こるのが、神の御業ではありません。神の御業は私どもの思いを遙かに超えて起こるから、驚きなのです。恐れ多いことなのです。しかし、それが同時に、喜びであり、感謝なのです。神に選ばれる理由など何もない私どもが、ただ神の憐れみによってのみ、神に選ばれたからです。

 自分たちの身に起こった神の御業、神の憐れみを、畏れをもって受け留め、神の祝福を感謝して共に分かち合うマリアとエリサベト、ここに教会の姿があると言えます。神の祝福を分かち合う交わりです。マリアとエリサベトの交わりの中で生まれた歌が、「マリア賛歌」です。「マリア賛歌」と呼ばれていますが、マリア一人だけで歌ったのではない。エリサベトもマリアの歌に声を合わせていたと、私は思います。教会の歌でもあります。

 

「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神をほめたたえます。

  身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。

  今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、

  力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」。

 「わたしの魂は主をあがめ」。「マリア賛歌」は、この賛美の言葉から始まっています。「あがめる」という言葉が冒頭にあります。面白い言葉です。ラテン語で「マグニフィカート」と言います。地震の大きさを表すマグニチュードの元になった言葉です。新約聖書の言葉、ギリシャ語ではメガフォンという言葉の元になった言葉が用いられています。大きな声で応援する時に用います。いずれにして、「大きくする」という意味です。主をあがめる。それは主を大きくすることです。自分の存在を通し、自分のあらん限りの声を出して、主を大きくする。何故、主を大きくするのでしょうか。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。

 「身分の低い」という言葉は、「無きに等しい」という意味です。「何の価値も持っていない」という意味です。大きな神が、何の価値も持たない、無きに等しい者に、目を留めて下さった。神の御子を宿すという偉大なことをなさった。「目を留める」という言葉は、「顧みる」という意味です。「訪れる」という意味でもあります。大きな神が無きに等しい私をも顧みて下さった。訪れて下さった。それ故、小さなマリアが自分の全存在を通して、あらん限りの声を上げて、神を大きくしているのです。それが主をあがめることです。主をほめたたえることです。

 「あがめる」という言葉は、「喜ぶ」という意味もあります。誰からも顧みられないような私。何の価値も持たない私。無きに等しい私。そのような私に目を留めて、大きな御業を現して下さった神を喜ぶのです。このような神を誇るのです。

 

3.①「マリア賛歌」を口ずさむ時に、真っ先に想い起こすのは、宗教改革者ルターが綴った「マリア賛歌」の講解です。冒頭の言葉を採って、『マグニフィカート』としました。とても美しい文体で「マリア賛歌」を説き明かしました。ローマ・カトリック教会の修道士であったルターは、教会に対する危機感を持っていました。それ故、教会に対する改革案を提示しました。しかし、そのことが大きな波紋を呼び、ルターはカトリック教会から破門宣言を受けました。破門宣言を受けることは、自分が生きる地盤、存在する地盤を失うことです。ルターを殺せという勢力は幾つも存在していました。そのような中で、ルターの身を案じたフリードリッヒ選帝侯は、ルターをワルトブルグ城に囲いました。そこでルターが真っ先に執筆したのが、「マリア賛歌」の講解、『マグニフィカート』であったのです。いつ殺されるか分からない死への不安と恐れの中で、遺言として綴った書物でした。

 何故、宗教改革を起こしたルターが、真っ先に「マリア賛歌」の講解をしたのでしょうか。ローマ・カトリック教会にとって、マリア信仰は生命線となる信仰です。神の御子を宿した神の母、聖母として、マリアをあがめます。しかし、ルターは聖書に立ち戻ることにより、マリアと自分とを重ね合わせました。無きに等しいこの私をも、主は顧みて下さった。ルターはマリアと共に、主をあがめるのです。そして私どもにも、あなたもマリア、マリアと共に主をあがめよう、主を大きくしようと呼びかけるのです。

 クリスマスの出来事は、大きな神が小さくなって、小さなマリアにまで宿って下さった。飼い葉桶にまで宿って下さった出来事です。その出来事に驚いたマリアが、主をあがめるのです。私どものために小さくなって下さった神こそ、大きな神であるとあがめるのです。それが「マリア賛歌」です。

 

東京神学大学の左近淑先生が阿佐ヶ谷教会のキャンドルサービスでした説教があります。「愛は落ち着かない」という題で、今日の御言葉を説き明かされた説教です。落ち着かないで、動き回っているのは、御子を宿したマリアだけではない。それ以上に落ち着かない愛に生きられたのは、神御自身であった。そして詩編113編の御言葉を説き明かされます。左近先生の愛唱聖句です。旧約954頁。

 主はすべての国を超えて高くいます。主に並ぶものはおられない。主の御座を高くに置き、主の栄光は天を超えて輝く。しかし、そのように高きにいます主が、天の御座にじっとしてはおられない。低きに降って、天と地を御覧になられる。主が低きに降られ、顧みられたのは、弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、子のない女に、子を持つ母の喜びを与えて下さることだったのです。主こそが落ち着かない愛に生きられた。低きに降られ、自らの身を投げ出された。自らの愛を全て注がれた。それこそが神の御子が人となられて、マリアの胎に宿られ、飼い葉桶に宿られたクリスマスの出来事だったのです。全ての人を照らす真の光としての神の栄光とは、投げ捨てられた栄光、千々に敗れ果てた栄光、傷つけられ、破れ果て、泥にまみれた栄光だったのです。

 

4.①11月に、全国連合長老会教師会が大阪で行われました。主題は「ベテランの説教者たち」。一つの教会で40年、30年、20年と、一筋の心で御言葉を語り続け、教会を形成されて来た3名の伝道者が、どのような姿勢で説教し、どういうことを心掛けて説教をしているのか。実際、教会でなされた説教を発表していただきました。それを私が応答し、コメントし、私ども伝道者の説教の課題を明確にすることが主題でした。

 40年、東京の下町の教会で、説教をされている伝道者がされた説教は、旧約聖書サムエル記上の1章の「ハンナの祈り」でした。待降節に、ハンナの祈りを私ども教会の祈りとすることにより、クリスマスに備えたいという説教でした。実は、マリア賛歌、マリアの祈りは、ハンナの祈りと響き合う賛歌、祈りです。旧約聖書の中から代表する12人の祈りを挙げると、必ずハンナの祈りが挙げられます。

 ハンナは子どもが与えられませんでした。毎日、主の御前に立ち、魂を注ぐ祈りをしました。「もし、私の祈りが叶えられれば、わが子をあなたに献げます」と献身の祈りを捧げました。そのハンナの祈りを、主は聴かれ、ハンナに男の子を授けました。その子はサムエルと名付けられ、預言者となり、神の民を形成する大切な働きをしました。神の民が形造られるその出発点に、ハンナの祈りがありました。ハンナの魂を注ぎ出す祈りは、その後の神の民に受け継がれて行きました。その一つの例として、ベテランの伝道者は、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」の結びに、「魂を注ぎ出し」「自らを投げうち」という同じ言葉が用いられていることを指摘されました。

 「苦難の僕の歌」は、やがて来られる救い主を預言しました。そしてその結びでこう語りました。イザヤ書53章12節。旧約1150頁。

「彼が自らをなげうち、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。

「自らを投げ打った」苦難の僕こそ、自らを投げ出され、マリアに宿り、飼い葉桶に宿られた神の御子イエスであったのです。

 この「ハンナの祈り」と響き合うのが、「マリア賛歌」です。神の御子イエスを宿したマリアの賛歌、マリアの祈りから、新しい神の民の形成が始まるのです。

 

「マリア賛歌」は「ハンナの祈り」を始め、旧約聖書の御言葉を土台として成り立つ賛歌です。神の民の祈りと信仰を受け継ぎ、それを土台として生まれた賛歌、祈りです。

 特に、「マリア賛歌」の後半の言葉は激しい言葉が続きます。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者も打ち散らし、

 権利のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。

これは「革命の歌」と呼ばれています。その点でも、「ハンナの祈り」を受け継いでいます。マリアの歌、ハンナの祈りも、激しい革命の歌です。この世の秩序が神の御業によって引っ繰り返ってします。この世の支配者は自らの権力を誇り、支配した民に圧力を加え、皇帝賛歌を世界中に鳴り響かせます。しかし、それはこの世の支配者の姿だけでなく、私どもも家庭において、学校において、社会において、教会において、支配者になり、権力を誇示することはしばしばあることです。しかし、主はそのような支配者を打ち砕かれる。神の支配が打ち立てられる。その神の支配はどこから始まるのか。ナザレの田舎娘マリアに宿る程までに、自らの身を投げ出し、小さくなられた神の御子イエスから始まったのだと、歌うのです。王さまの王子として華々しく誕生し、華々しく王子として権力を振るうのではありません。真に人知れずに、マリアの胎内に身を投げ出して、宿る仕方で、神の支配が始まったのだと告げるのです。

 

5.①クリスマスに洗礼を受けられる方の中で、或いは、今、洗礼を受けようかどうか迷っている方もいるかもしれません。一番の不安と迷いは、洗礼を受けても、生涯、主イエスに従うことが出来るかどうか、信仰を持ち続けることが出来るかどうか、という不安と迷いだと思います。

 「マリア賛歌」の中で、「神の憐れみ」が強調されています。

「その憐れみは代々限りなく、主を畏れる者に及びます。

 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。

この「憐れみ」という言葉は、「真実」という意味でもあります。たとえ、私どもが不真実であっても、主イエス・キリストは真実であられるのです。主イエスも真実が不真実な私どもを支えるのです。様々な苦しみや試練の中で、神を見失い、神を疑い、神を信じられなくなり、神を忘れてしまうことがあります。しかし、神が私どもを見失うことはない。神が私どもを忘れることはない。神が私どもの示される真実は失われることはない。このような神の憐れみの真実は、マリアに宿られ、飼い葉桶に宿られた御子イエスにおいて現れたのです。御子イエスに現れた神の憐れみの真実が、私どもの信仰を支えるのです。

 

神の憐れみの新しい支配の歴史は、神の御子イエスがマリアに宿ることから始まりました。「マリア賛歌」を講解することにより、ルターの歩みから始まりました。そして今、「マリア賛歌」に私どもが声を合わせて賛美することにより、神の憐れみの新しい歴史が、私どもの小さな主の群れからも始まるのです。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びます」。私どもの小さな存在を通して、「神を大きくする」、神の憐れみの新しい歴史が始まったのです。今、死と向き合っている方にも、「マリア賛歌」を唇に授けるのです。主は死を打ち破る程、大きい。わたしの魂は主をあがめる。

 

 お祈りいたします。

「天高くにおられた大いなる神が自ら身を投げ出し、低きに降られ、小さくなってマリアに宿られました。そこから神の憐れみの新しい支配の歴史が始まったのです。小さなマリアが存在を懸けて、主をあがめ、主を大きくしました。私どももマリアのように救い主イエスを宿した主の群れです。私どもの小さな群れを通して、主をあがめ、主を大きくする歩みをさせて下さい。クリスマス、私どもの賛美の響きが、一人でも多くの方の魂に届きますように。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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