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「わたしを知り、わたしを生きる」

サムエル記上16:1~13
ローマの信徒への手紙12:1~8

主日礼拝

井ノ川 勝

2024年7月21日

00:00 / 31:26

1.①私どもが生きている社会には様々な物差しがあって、私という存在を測り、評価します。学校には偏差値という物差しがあり、学力が測られます。会社では営業成績という物差しがあり、社員の能力を測ります。私どもは点数によって示される成績を見て、喜んだり、落ち込んだりします。しかし、果たしてそれらの物差しが、私という存在を全て測れる物差しなのでしょうか。

 昨日、高校生会の夏期研修会が行われました。「キリスト教大学と教会」という主題で、お互い語り合う豊かな時を持つことが出来ました。高校生一人一人が大学を目指して、日々学びをしています。偏差値という物差しで自分の学力が測られ、一喜一憂しながら歩んでいます。厳しいことです。でも、その物差しは私という存在の一部分しか測れない物差しです。その物差しで私という存在の全てが明らかになるのではありません。私という存在が全て正しく評価されているとは言えません。

私どもにとって大切なことは、私という存在を正しく測る物差しを持つことです。そのことにより、私どもの生き方は全く変わります。喜んで私を知り、私を生きるようになります。そのような物差しとは一体、何なのでしょうか。

 

この朝、私どもが聴いた御言葉は、伝道者パウロがローマの教会員一人一人に語りかけている御言葉です。

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」。

 自分を過大に評価して、高ぶったり、高慢になったりするな。反対に、自分を過小評価して、自分を卑下したり、卑屈になってもいけない。神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価しなさい。

 ここに注目すべき言葉があります。「信仰の度合い」という言葉です。元の言葉は「信仰の尺度」「信仰の物差し」という言葉が用いられています。神は私どもに、「信仰の物差し」を与えて下さっておられるのです。その「信仰の物差し」によって、慎み深く評価しなさい。「慎み深く」とはどういうことなのでしょうか。日本人の美徳、謙遜に自分を評価するということではありません。「慎み深く」とは、「健康的に」「健やかに」という意味です。もし私どもが不健康な評価を受けたら、私どもは生き生きと生きられません。心が萎んでしまいます。「健康的に」「健やかに」とは、私が本当に生き生きと生きられるということです。私を知り、私を生き生きと生きることが出来るようになるということです。

 それでは、神が私どもに与えて下さった「信仰の物差し」とは、どんな物差しなのでしょうか。私どもを健やかに生かして下さる「信仰の物差し」とは、どんな物差しなのでしょうか。

 

2.①隅谷三喜男さんというキリスト者であり、経済学者がいました。代田教会の長老をされていました。求道者会で、求道者に御言葉を伝え、信仰へ導く奉仕を喜びとしていました。そこで用いていた原稿が書物となりました。『私のキリスト教入門』です。隅谷三喜男さんが晩年、大学生に向かって語られた講演が、書物となりました。『<生きる>座標軸を求めて』。大学生よ、若者よ、あなたがたが生きるためには、生きた座標軸を持つことが必要なのだと呼びかけています。自分がどこに立っているかが明らかになれば、自分がどこへ向かって生きればよいのかが明らかになるのだと語られています。

座標軸は縦軸と横軸が交差しています。そのことによって、私は一体どこに立っているのかが明らかにされます。横軸は私と人との関係を表します。人と自分とを比べて、自分を見つめるだけでは、私がどこに立っているのかを見失います。自分を健やかに評価することは出来ません。どうしても縦軸が必要なのです。横軸と縦軸が交差して、初めて私がどこに立っているのかが明らかにされます。縦軸は神と私どもの関係を表しています。特に、私ども日本人が見失っている大切な座標軸です。神との関係を見失ったら、私どもがどこに立っているのかを見失うのです。神との関係を見失い、神から身を隠したアダムとエバに向かって、神は問いかけました。

「あなたはどこにいるのか」。「あなたはどこに立っているのか」。

 私どもの命は神によって造られ、神から与えられた命です。一人一人の命に、神の祈り、神の御心が注がれています。神との縦軸を失うということは、神が私の命に込められた祈り、御心が分からなくなることです。自分がどこに立っているのかを見失ってしまう。

 

縦軸と横軸が交差する、クロスする。それこそが主イエス・キリストの十字架です。「信仰の物差し」とは、主イエス・キリストの十字架と言えます。

伝道者パウロはこの手紙の前半で、神から価なしに与えられた主イエス・キリストの十字架の恵みを集中して語りました。そして手紙の後半に入る12章の始めに、神から与えられた「信仰の物差し」である主イエス・キリストの十字架の恵みに生かされることこそ、私どもは健やかに、生き生きと私を生きる道なのだと語るのです。

 伝道者パウロは初めて、ヨーロッパ大陸にキリストを運んだ伝道者でした。様々な民族にキリストを伝えた伝道者でした。しかし、パウロは一人でキリストを運び、キリストを伝えようとはしませんでした。パウロの傍らにはいつも、伝道者の仲間がいました。ルカでした。ルカは主イエスの物語、ルカ福音書を書いた伝道者でした。恐らく、伝道している最中、パウロに、主イエスはこのような御言葉を語られたのだと伝えたのではないでしょうか。その中に、主イエスのこの御言葉も伝えたと思われます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。

 不思議な言葉です。あなたの命は全世界よりも重いと語られているのです。それではあなたの命の重さどれ程の重さを持っているのか。あなたの命を買い戻すためには、どんな代価を支払ったらよいのか。

 伝道者パウロは「信仰の物差し」と語りました。言い換えれば、「信仰の秤」です。理科の実験で、重さを量るのに天秤を用います。二つのお皿の片方に、私どもの命が載っています。その命に釣り合うもう一つのお皿の上に載っているものは何か。神の御子イエス・キリストの命です。あなたの命は神の御子イエス・キリストの命と釣り合う重さを持っている。驚くべきことです。十字架で主イエスがあなたのために命を献げて下さった。御自分の命を代価として、私どもの命を買い戻して下さった。それが十字架の出来事で起こったことです。あなたの命は神の御子の命と同じ重さを持っている。信仰の物差し、信仰の秤である主イエス・キリストの十字架は、私どもに向かって、この恵みを語りかけているのです。それ故、自分の命を過小評価して、自分は生きている価値などないと卑下してはならない。さりとて、自分の命を過大評価して、高慢になってはならない。神から与えられた命、主イエス・キリストの命に買い取られた命として、感謝して生きようと勧められているのです。

 

3.①伝道者パウロは更に語ります。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」。

ここでも「与えられた恵みによって」という言葉を繰り返しています。私どもにはそれぞれ異なった賜物が与えられています。昨日の高校生会の夏期研修会で、タラントン、賜物の話をしました。主イエスが十字架にかかる直前に語られた譬え話です。主イエスは御自分の命と引き明けに、私どもにそれぞれにふさわしく5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けられました。タラントンというお金の単位がタレント、才能、賜物という言葉となりました。5タラントン、2タラントン、1タラントンというのは、不公平なことではありません。それぞれに応じて、異なった賜物を預けたのです。1タラントンも高額です。私ども一人一人はそれぞれ異なった賜物を、神から預かっているのです。その賜物を喜んで用いるか、土の中に隠しておいて用いないのかが問われています。神から預かった賜物を喜んで用いた者は、「忠実な僕、よくやった」と神は喜んで下さるのです。

 他の人と比べて、自分は1タラントンしか預けられていないと不平を述べて、土の中に隠しておいたら、神から授けられたあなたの賜物は生かせないのです。私どもは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているのです。

 それ故、パウロは語ります。

「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。

 パウロはこれと同じ言葉を、コリントの教会へ宛てた手紙でも語っています。コリントの信徒への手紙一12章の御言葉です。

 教会は生きたキリストの体です。私どもがキリストと結ばれるということは、生きたキリストの体の部分とされることです。キリストの手、足、目、耳とされることです。それぞれが異なった賜物を与えられています。しかし、どの部分もキリストの体に連なり、頭であるキリストのために喜んで働くのです。手が足に向かって、あなたは要らないとは言えません。目が耳に向かって、あなたは要らないとも言えません。それぞれが体にとって、欠くことの出来ない働きを担っているのです。従って、左足が怪我をして痛んだら、他の部分がその働きを担うのです。お互いの部分がそれぞれを労り合いながら、一つの生きたキリストの体として生きるのです。それが教会なのです。

 この教会の譬えから、私どもの社会も一つの共同体として捉えるようになりました。キリスト教学校も、キリストを頭とし、生きたキリストの体の手、足、目、耳となって、神から与えられたそれぞれの賜物を、キリストのために喜んで用いて生きるのです。

 

毎年11月に、北陸学院大学のセミナーが行われます。北陸学院が大切にして来たセミナーです。以前は宿泊で行われていましたが、昨年は大学で二日間行われました。私はいつも教育学部1,2先生のセミナーで講演します。将来、幼稚園、保育園、小学校、中学校の先生になる学生たちに、御言葉を語ります。私が毎年、学生たちに伝えたいことは、今日の御言葉に尽きます。

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に勧めます。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の物差しに応じて健やかに評価すべきです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を与えられています。一人一人がキリストの体に連なる欠くことの出来ない大切な部分なのです」。

 そしてセミナーの最後に、一つの歌を学生たちに聴かせます。修道女マザー・テレサの朝の祈りを歌にしたものです。福音歌手の森祐理さんが歌っています。「わたしをお使いください」。

「主よ、今日一日、貧しい人や、病んでいる人々を、助けるために

 わたしの手を お望みでしたら、

 今日、わたしの手を お使いください。

 主よ、今日一日、友を求める 小さな人々を 訪ねるために

 わたしの足を お望みでしたら

 今日 わたしのこの足を お使いください。

 主よ、今日一日、優しい言葉に 飢えている人々と 語り合うために

 わたしの声を お望みでしたら

 今日 わたしの声を お使いください。

 主よ、今日一日、人というだけで、どんな人でも 愛するために

 わたしの心を お望みでしたら

 今日 わたしの心を お使いください」。

主はあなたに預けた賜物が、主の手、主の足、主の声、主の心として、隣人のために豊かに用いられることを願っておられます。

 今日の御言葉、ローマの信徒への手紙12章は、こういう言葉から始まっていました。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。

 この御言葉は私どもが今、献げている礼拝を指し示しています。しかし同時に、私どもの日々の生活も、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる、献身の生活、神礼拝でもあるのです。

 

4.①先週、とても悲しい出来事がありました。青山教会の増田将平牧師が52歳の若さで逝去され、葬儀が行われました。父君がかつて小松教会で牧師をされていましたので、皆さんも知っておられる方が多くいると思います。伴侶はかつて金沢元町教会の三輪牧師の娘さんです。

 数年前より癌の治療をされ、入退院を繰り返されていました。増田将平牧師と親しい友人牧師が厳しい闘病生活の中で、しかし、神への献身を貫くご夫妻の日々の生活を、メールで知らせて下さり、日々祈りを合わせていました。退院されてからは車椅子で説教をされていました。一回一回の礼拝が一期一会の渾身の説教でした。昨年のイースター礼拝では、3か月ぶりに車椅子で説教をされました。「神を知る生涯」という題の説教でした。

 私どもの命は神から預かった命を生きている。それ故、やがて神にお返ししなければならない命を生きている。神から預かった命をいかに用いて生きるのかが日々問われている。神の祈りと、御心が注がれた命を日々いかに用いて生きるのか。詩編27編の詩人の祈りと闘病の日々の自分の祈りを重ね合わせるのです。こう語ります。

「お話をしながら私は今、肩の痛みを感じています。この痛みの原因は病ですが、痛みとは実に手強いものです。様々な痛み、また苦しみや悲しみが自分の中で大きくなってくると、私の主人は病ではないかと感じることが時々あります。お前の主人は誰か知っているか。それは俺、お前の中にある病で、この先を全て支配しているのだという声が聞こえる時があります。これはとても恐ろしい囁きです。その時、私は思い出すのです」。詩編27編の冒頭の御言葉です。

「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。

 主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう」。

増田牧師は詩人の必死の祈りに声を合わせます。

「主よ、呼び求めるわたしの声に聞き、憐れんで、わたしに答えてください。

 心よ、主はお前に言われる、『わたしの顔を尋ね求めよ』と。

 主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。

 御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください。

 あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。

 見捨てないでください。

 たとえ父母がわたしを見捨てようとも、

主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」。

更に、詩人の祈りに祈りを合わせます。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。

 命のある限り、主の家に宿り

 主を仰ぎ望んで喜びを得、

 その宮で朝を迎えることを」。

主イエス・キリストの甦りの朝であり、私どもの終わりの日の甦りの朝です。

増田牧師は説教の中で、輸血のことを語ります。闘病生活で輸血をされたのかもしれません。

 私どもの体の中に、家族の血、誰かの血が入って来る。その血が私どもを生かす。瀕死状態になった時、輸血をしないと生きられない。それと同じように、私どもも主イエスの助けをいただけなければ、瀕死状態に陥っていた罪人だったのだ。しかし、このような私どものために、主イエス・キリストは私どものために、血を注いで下さった。輸血して下さった。キリストの血によって、私どもは死に打ち勝つ命を生きる者とされているのである。

 そして説教の最後をこう結びます。

 どんな時も、どんな現実が立ちはだかった時でも、主イエス・キリストに執り成されて、目を点に上げて、「天の父よ、お願いです。どうか私の祈りを聞いて下さい」と祈ることが出来る。それは私どものために死んで下さった方が復活されたからです、この方は私どもの代わりに死に、死ぬべき死に勝利され、私どもに永遠の命を下さるからです。生きるとは神を知ること。私どもは神を知るために造られたのですから。

 増田牧師の最後の説教は、6月30日の主日、憐れみ深いサマリア人の譬えでした。強盗に襲われ、瀕死状態で倒れているユダヤ人のために、天敵であったサマリア人は憐れに思い、近寄り、介抱をされた。「憐れに思い」は、自らの腸を引き裂いてという意味です。自らの腸を引き裂き、血を注いでまで、倒れたユダヤ人を助けた。この憐れみ深いサマリア人とは、十字架で私どものために血を注がれた主イエスである。しかし、主イエスは最後にこう言われた。「あなたも行って同じようにしなさい」。あなたも憐れみ深いサマリア人になるのだと言われ、押し出された。「あなたも行って同じようにしなさい」。これが増田牧師の最後の説教となりました。そして今日の主日礼拝で語るべき説教題は「教会につらなる」でした。教会の掲示板に掲げられたその説教題の言葉を纏うように棺の中で眠っておられた。主から預かった命、賜物が主に用いられ、今、主にお返ししたのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、私どもが今、身に負うている全てのものが、あなたから預かったものです。私の命も、私の賜物も、全て主から預かったものです。やがて主にお返ししなければなりません。その時まで、私の命も、私の賜物も、全てあなたのために用いさせて下さい。あなたから預かった体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げて生きさせて下さい。あなたも行って同じようにしなさいと、私どもをお使い下さい。悲しみの中にあって、主の御手に委ねて歩ませて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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