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「キリストの十字架が意味するもの」

イザヤ43:1~7
ガラテヤ3:7~14

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年6月4日

00:00 / 43:39

1.①私は絵を観ることが好きなので、時々、絵を眺めながら、いろいろなことを思い巡らします。中でも、十字架のキリストを描いた絵を観ます。キリストの磔刑図です。実に多くの画家が十字架のキリストを、様々な構図で描いています。絵を通して、画家たちの十字架のキリストへの信仰が表されています。中には、一人の画家が生涯と通じて、何枚も十字架のキリストの絵を描いています。描いても描いても、主イエス・キリストの十字架において起きた出来事を描き切れないという思いがあったのだと思います。


 主の日の朝、私どもは神の御前に立ち、礼拝を捧げています。神の御前に立つことは、十字架のキリストの下に立つことでもあります。ところが、金沢教会の礼拝堂の正面には、十字架が掲げられていません。他の教会では礼拝堂の正面に十字架が掲げられています。隣のカトリック教会では、十字架の上に主イエス・キリストの像が掲げられています。私どもの教会の信仰の中心は、十字架のキリストへの信仰であることを、目に見える形で表しています。それに対して、金沢教会の礼拝堂の正面には、十字架が掲げられていません。金沢教会は十字架のキリストへの信仰を軽んじているのでしょうか。決してそうではありません。それではどうのようか形で、十字架のキリストへの信仰を表しているのでしょうか。そこに私どもの教会の信仰の要があります。


 今朝も、全ての教会の信仰の土台にある「使徒信条」を告白しました。聖書で語られている信仰を要約したものです。その中で、十字架のキリストへの信仰を、たった一言で言い表しています。「キリストは十字架につけられ」。これだけです。しかし、短いこの一言に、どんなにか深い意味が込められていることでしょうか。語っても語っても語り尽くせない意味が込められています。聖書全体が、「キリストは十字架につけられ」、この一言を、しかも、豊かな言葉で言い表していると言えます。私ども教会の信仰は、私どもキリスト信仰は、十字架のキリストへの信仰によって、立ちもし倒れもすると言っても過言ではありません。



②私は以前、伊勢の教会で伝道していました。伊勢神宮の外宮のすぐ前にあります。伊勢神宮の外宮の前に土地を得て、念願の教会堂を建てることになりました。屋根の上に十字架を立て、ここにキリストの教会があるのだと、伊勢の町の人々に示そうとしました。ところが、町の人々はそれを許しませんでした。この町は、日本人の神さま、天照大御神が祀られている。伊勢神宮の前に、外国人の信仰である十字架を立てるなどけしからん。そこで教会堂の屋根に十字架を立てることは出来ませんでした。しかし、その代わりに、軒瓦に十字架を刻みました。十字瓦の礼拝堂と呼ばれるようになりました。現在の教会堂の入口の壁に、その十字瓦が埋め込まれています。しかし、礼拝堂の正面には、金沢教会と同じように、十字架を掲げていません。


 時々、十字架論争が起こりました。やはり礼拝堂の正面に十字架を掲げるべきだ。ここは教会の礼拝堂であることが、一目で分かる。十字架へ心を向けて、心を静めて祈りをすることが出来る。しかし、冨山光一牧師はいつも強調して語られました。十字架は眺めるものではない。心に刻むものだ。御言葉によって、十字架を心に刻むものだ。金沢教会も、このような十字架信仰に立って歩んで来ました。



2.①先週の主の日、天から聖霊が弟子たちに群れに降り、教会が誕生した、ペンテコステの礼拝を捧げました。聖霊によって誕生した教会は、全世界に向かって伝道しました。「十字架につけられて死なれた主イエスは、甦って生きておられる」。


 世界伝道の中心的な伝道者が、パウロでした。その伝道者パウロが、伝道者として大きな挫折を味わった時に、語った言葉があります。


「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も語るまいと心に決めた」。「しかも、わたしは宣教という愚かな手段を用いて、十字架につけられたキリストを伝える」。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める。しかし、わたしは愚かと言われる、十字架につけられたキリストをひたすら宣べ伝える」。「わたしは宣教の愚かさに徹する」。ここに伝道者パウロの伝道者としての召命がありました。


 かつて、金沢教会が開拓伝道して生まれた若草教会の初代伝道者である加藤常昭牧師が、自らの伝道者としての歩みを振り返った『自伝的伝道論』で、こう語られました。「わたしは十字架一本で伝道してきた」。いい言葉ですね。伝道者パウロの言葉を一言で言い表したものです。わたしは十字架一本のみを頼りとし、十字架のキリストのみを語って来た。伝道者は十字架一本で勝負をする。金沢で伝道していた時、高齢のキリスト者から聞いた証しがあった。


子どもの頃、親から言われたことがあった。教会の前を通ったら、況してや教会堂の扉が開いていたら、教会の前を通ると毒気に当たる。それ故、教会の前を通る時は、目をつぶり、鼻を押さえて通りなさい。そのような時代に歌われた歌があった。「耶蘇教徒の弱虫は、磔拝んで涙を流す」。耶蘇教徒を揶揄する歌です。しかし、キリスト信仰の急所を捕らえた歌です。耶蘇教徒は、十字架で磔つけされたイエスを、ありがたやと言って涙を流しながら拝んでいる。何と弱虫な十字架信仰であることか。



②世界のあらゆる民族へ向かって伝道した、伝道者パウロの十字架のキリストへの信仰が、最も明確に語られている御言葉こそが、今朝、私どもが聴いたガラテヤの信徒への手紙三章の御言葉です。


「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。


 激しい言葉です。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」。元の言葉はもっと激しい言葉です。「ああ、何と愚かな人たち」。ある方は、「あなたがたは馬鹿だ」と訳しています。これは伝道者が教会員に向かって、絶対語ってはならない言葉です。もし私が説教壇から、このような激しい言葉を語ったら、私はもう説教壇で御言葉を語ることが出来なくなります。しかし、それをよく承知で、伝道者パウロは敢えて、このような激しい言葉を語るのです。ガラテヤの教会員が、十字架のキリスト信仰の中心部からずれてしまっていたからです。これは信仰の死活問題であったからです。


 「わたしは、あなたがたの目の前に、十字架につけられたイエス・キリストを、鮮やかに描いた」。


 ここで、伝道者パウロは明確に、「描く」という言葉を用いています。画家が十字架につけられたイエス・キリストを鮮やかに描くように、伝道者である私は、説教を通して、十字架につけられたイエス・キリストを、あなたがたの目の前に鮮やかに描いた。伝道者はただ説教のみで、ただ御言葉のみで、十字架につけられたイエス・キリストを目の前に鮮やかに描く存在である。もし、目の前に描かれた十字架のキリストがはっきりしていなかったら、くすんでいたら、それは伝道者が語る十字架の説教が明晰ではないからです。十字架の説教が明晰でなかったら、目の前に描かれた十字架のキリストがはっきりしていなかったら、目の前の人に伝道出来ません。


 しかし同時に、伝道者が存在を懸けて、御言葉によって目の前に十字架のキリストを鮮やかに描いたにもかかわらず、それを教会員がはっきりと見なければ、教会員に問題があることになります。御言葉によって描かれた十字架のキリストを見るためには、霊のまなざしが必要です。霊のまなざしでないと見えないのです。霊のまなざしは御言葉と聖霊によって養われて行くものです。ガラテヤの教会員たちは、伝道者パウロが存在を懸けて語った御言葉によって描かれた十字架のキリストを、はっきりと見なかった。ガラテヤの教会員の霊のまなざしが曇っていたからです。鈍感であったからです。それ故、パウロは、「ああ、何と愚かな教会員たちよ」と嘆きの声を上げたのです。


 ガラテヤの教会員は何故、霊のまなざしが鈍り、御言葉によって描かれた十字架のキリストをはっきり見ることが出来なかったのでしょうか。十字架一本では信仰は成り立たないと思ったからです。十字架という柱と、私どもの信仰の業という二本柱があってこそ、私どもは救われるし、私どもの信仰も立つことが出来るのだと信じたからです。しかし、伝道者パウロは、私どもが救われるのは、十字架一本のみ。ただ十字架につけられたキリストを信じるだけで、受け入れるだけで救われるのだ、と語り続けたのです。



3.①金沢教会と親しい教会に、目の不自由な方がいました。礼拝で、毎回、伝道者から十字架につけられたキリストの説教を聴きました。また、家庭集会でも、牧師から十字架につけられたキリストの御言葉を聴きました。家庭集会で、目の不自由な方が牧師に質問しました。「先生、十字架って何だね」。牧師は十字架の意味を尋ねていると思い、「十字架とはね」、と説明を始めました。その方は言いました。「先生、それはよく分かっている。私は生まれた時から目が見えないので、十字架と言っても分からないのだ。日本に十字架はないだろうか。十字架に触ることって出来ないかね」。傍らにいたご婦人が、お菓子を取る塗り箸を取って、それを十字に重ねて、その人の手に持たせた。「十字架ってこういうものよ。でもこの箸はすべすべしているけれども、イエスさまがつけられた十字架はごつごつしていて、荒削りの十字架だったのよ」。その方はしばらくそれをさすって、こう言われた。


「それは辛かっただろうな」。


 そこにいた人たちは一瞬、息を飲んだ。お茶やお菓子を飲んだり食べるのも忘れて、しんと静まりかえって、改めて十字架につけられたキリストへ思いを馳せた。十字架の上で起こった厳しい出来事に思いを寄せた。


 伝道者パウロは様々な教会の教会員に向かって、ただひたすら十字架につけられたキリストを語り続けました。しかし、このガラテヤの信徒への手紙にだけ記した十字架理解があります。


「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。


 十字架は呪いであったと言うのです。十字架にかけられた者は呪われることだと言うのです。驚くべき言葉です。主イエスは十字架の上で、まともに神の呪いを受けられた。神の呪いを受けたら、滅びるしかない。それ故、主イエスは十字架の上で叫ばれたのです。


「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」。



②私どもの日々の生活において、私どもの誰もが最も嫌う言葉は、「呪う」ことだと思います。恐ろしい言葉です。しかし、私どもは日々の生活において、病気になったり、事故に遭ったり、思い掛けない苦しみの出来事が続いたりいたしますと、私の人生は呪われているのではないかと疑いが生じます。況してや、親しい方から、あなたの家は呪われているのではないのと言われたら、もしかしたらそうではないかと思ってしまいます。高いお金を払ってでも、お祓い、祈祷をしてもらわないとならないと考えてしまいます。様々な言葉が私どもを惑わすのです。惑わされるということは、見るべきものが見えなくなってしまうことです。今まで信じていたものが、本当に大丈夫かしらと揺れ動いてしまうことです。


 更に、ここで伝道者パウロが集中して語っていますのは、「律法の呪い」です。「律法の呪い」とは何でしょうか。私どもには関係のないことなのでしょうか。そんなことはありません。神さまが与えられた律法は、全ての人に関係するものです。律法とは神を愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することです。そこに私ども人間の健やかな歩みがあります。しかし、私どもは神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することも、破れがあります。それを何とかして自分の力で修復しようとするのだけれども、それが出来ないのです。最も出来そうな自分を愛することでさえ、私どもは破れ果てています。自分を愛せない、自分を受け容れられない。自分を肯定できない。自分の嫌なところが見えて来ます。自分に対しても破れ果てています。愛の関係の破れ、神との関係においても、自分との関係においても、隣人との関係においても、愛の関係が破れ果てている。これこそが律法の呪いです。愛の関係が破綻したら、そこには呪いしかない。


 更に、私どもは誰もが死と向き合って生きています。日々の生活で、死ぬべき存在であることを忘れていることがあるかもしれません。しかし、誰もが死と向き合って生きていることは事実です。死の恐ろしさはどこにあるのでしょうか。それは神さまとの関係が断たれたまま死ぬことです。それこそが呪われた死です。


 しかし、主イエス・キリストは、私どものために、私どもに代わって、十字架に立たれ、神の呪いを身に受けて下さった。それ故、私どもはどんなに苦しみを受けても、どんな死に方をしても、私どもは呪われていないのです。主イエス・キリストが共にいて下さるのです。それ故、十字架は呪われた十字架ではなく、祝福された十字架とされているのです。私どものために、私どもに代わって、十字架につけられ、神の呪いを受けて下さった主イエス・キリストを信じて、受け入れるだけで、私どもはキリストの祝福の中にあるのです。


 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった」。


 宗教改革者ルターは、この御言葉をこう説き明かしています。


「私どもが犯した罪、これからも犯すかもしれない罪が、皆キリストのものになっている。まるでキリストがこれらの罪を犯されたかのように。私どもの罪は、すべてキリストご自身の罪にならないわけにはいかなかった。そうでなければ、私どもは滅びてしまっていたであろう。永遠に」。


 誠に虫のよい話です。私どもの過去、現在、将来の全ての罪を、キリストが十字架の上で負い、私どもに代わって神の呪いを受けて下さったから、私どもは滅びることはない。神の祝福に中にあるのだと言うのです。それが十字架のキリストにおいて起きた出来事であったと言うのです。しかし、このように虫のよい出来事であるからこそ、私どもは救われたのです。


 ルターはこうも語ります。キリストは私の罪、あなたの罪、全世界の罪を、十字架で身に纏って下さった。その代わりに、私ども罪人はキリストの祝福を身に纏って生き、死ぬのである。



4.①最近、出版された本に、最相葉月(さいしょう・はずき)さんが編集された『証しー日本のキリスト者』があります。北海道から沖縄まで、離島も含めて、6年間、全国の様々な教派の教会を訪ね歩き、135名の伝道者、信徒の信仰の証言、証しを聴き取り、まとめたものです。千頁を超える大著で、す。現代、日本において、なぜ神を信じ、十字架につけられたキリストを信じて生きるのか。それを追求した書物です。しかも最相葉月さんはキリスト者ではありません。出版社もキリスト教出版社ではなく、一般の出版社から出版されました。


 その中に、女性伝道者の証しがあります。母はホーリネス信仰を持つ筋金入りのキリスト者でした。私の兄弟は皆、母の影響を受けて、中高時代に洗礼を受けた。しかし、私一人だけが抵抗し、洗礼を受けなかった。小学生の頃から、死んだらどこへ行くんだろうって、ずっと不安でした。ある日、風呂の薪をくべながら、「私は死んだらどこに行くんだろう」って母に質問した。そうしたら母は、「あなたが死んでも世の中変わらないよ」というんです。ちゃんと質問に答えてくれない。ちゃんとイエス様のことを娘に証しするよい機会なのに、それをしない。死の不安がますます広がりました。


 20歳の頃、このままではいけないと思い、聖書を真剣に読む決心をしました。家族が通っている教会は嫌なので、一人別の教会へ通いました。小学生の頃から自分の罪深さをずっと感じていた。たとえば妹が翌日履いていくはずの靴下を、私が取って履いて行くとか、授業中に指されないように前の人に隠れるとか、人から見れば小さな日常の出来事に、罪深さを感じていた。何よりも、自分だけが母の信仰に素直に従えない罪があった。そのためか、死んだどこへ行くのかという不安と恐怖が小学生の頃からずっとあった。


 2年間、求道生活をし、洗礼を受けました。自分がずっと引きずっていた死に対する恐怖や自分の罪深さは、キリストが私の代わりに十字架について下さった。なぜイエス様が十字架に架けられたのか、それが自分の罪のためであったことが分かったのです。キリストの十字架で全部解決されました。


 美術大学卒業後、反物に絵を描く仕事をしながら、中学校の美術の講師もやりました。しかし、果たして私が歩むべき道はこの道なのだろうかと、毎日、主に問い続け、祈りました。ある日、決心して伝道者になりたいと母に打ち明けたら、母はびっくりして、そこまでしなくてもいいと止められました。喜んでくれると思ったのに、そうじゃなかった。ホーリネスの伝道者の厳しさを見てきたからだと思います。ところが、母は私と一緒に教会までついて来て、母は牧師に何と言ったか。「イエス様を乗せるロバとして娘を捧げます」。ああ、母は私が伝道者として献身することを、ずっと祈っていたのだと思った。イエス様を乗せるロバとは、イエス様がエルサレムに入場される時に、選ばれた子ロバです。伝道者になることは、私のために十字架につけられ神の呪いを受けて下さり、私に祝福を注いで下さったイエス様を乗せる子ロバになることです。これは伝道者だけでなく、全てのキリスト者に備えられている祝福の道です。


 私は絵を描くことが好きで、ずっと絵を神さまに捧げて生きてきた。しかし、伝道者となり、御言葉によって十字架のキリストを、会衆の目の前に鮮やかに描くという務めを与えられた。今、癌と闘いながらこの務めに励んでいる。これもまた主が備えて下さった祝福です。そして全てのキリスト者が日々の生活の中で、言葉と存在を通して、目の前に十字架につけられたキリストを鮮やかに描くという祝福を、主から託されているのです。



 お祈りいたします。


「伝道者が存在を懸けて語った御言葉を通して、目の前に十字架につけられたキリストが鮮やかに描かれ、それを見て信仰が与えられました。どんな困難に直面しても、死に直面しても、私どものために、十字架で神の呪いを受け、私どもに祝福を注いで下さったキリストを見失うことがありませんように。私どもも日々の生活の中で、言葉と存在を通して、人々の目の前に十字架のキリストを描き出す歩みをすることが出来ますように。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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