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「キリストの手紙として生きよ」

エレミヤ31:31~34
コリント二3:1~6

主日礼拝

井ノ川 勝

2024年11月10日

00:00 / 42:14

1.①日本全国にはキリスト教書店があります。文書、書物を通して、生けるキリストを届けるという大切な働きをされています。北陸にも、以前は北陸学院中高の前にキリスト教書店がありました。現在は、内灘の聖書教会の中にお店があります。毎月、キリスト教の書物を教会に届けてくれます。全国のキリスト教書店で、多く読まれている本、一推したい本を推薦して、その年、最も多くの支持を受けた本を選び、本屋大賞を決めます。今年の本屋大賞は、最相葉月さんの『証しー日本のキリスト者』が選ばれました。

 最相葉月さんが、日本全国津々浦々にある様々な教派の教会を訪ね、その地に生きているキリスト者の生の声、証しを聞き取り、まとめたものです。千頁を越える大部の書物です。元々、この書物はキリスト教の出版社ではなく、一般の出版社から刊行されたものです。初めは一般の書店の店頭に並べられました。『証しー日本のキリスト者』という書物が一般書店の店頭に並べられるだけでも、心躍ることです。まだ聖書を読んだことのない方、教会に足を運んだことのない方が手に取られ、読まれました。反響を呼びました。

 しかも著者の最相葉月さんは、キリスト者ではありません。キリスト教幼稚園、キリスト教大学で、聖書の御言葉に触れられた方で、教会に対して親近感を持たれている方です。何故、キリスト者でない最相葉月さんが『証しー日本のキリスト者』という本を編集されたのでしょうか。このような問題意識があったからです。「現代日本において、何故、キリスト者として生きるのか」。これは私どもに問いかけられている重要な主題です。

 書物の題名になりました。「証し」。この言葉は教会ではよく用いますが、社会においては用いられない言葉です。それ故、最相葉月さんはこの本の冒頭で、「証し」とは何かを紹介されています。

「『証し』とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること。証、証言ともいう」。この本には、全国の様々な教派の教会に生きる135人の生けるキリストを証しする言葉と信仰のかたちが綴られています。

 私はこの本に触発されて、今年度より水曜日の祈祷会で、教会員の信仰の証しをしていただいています。やがて『金沢教会の信仰証言集』としてまとめたいと思っています。教会員の証しを聴いていますと、信仰というのは、生きたキリスト者の生活の中での、生けるキリスト証言であると、改めて心に刻んでいます。

 

人類が誕生して今日に至るまで、とても重要な役割を果たして来たものの一つに、手紙が挙げられます。自分の思いを言葉に綴って届ける。遠い所にいる親しい方にも届けられる。手紙というものが、言葉を伝える伝達手段としてどんなにか大きな役割を果たして来たことでしょうか。今日も数え切れない多くの手紙が、世界の津々浦々に届けられています。しかし今日、言葉の伝達手段は、手紙からメールに代わっています。手紙が書かれないようになっています。このまま手紙は衰退し、メールが主流になるのでしょうか。しかし、どんなに時代が変わっても、手紙はなくならないと思います。メールに打ち込まれた文字と、自筆でしたためた言葉には、決定的な違いがあるからです。自筆にしたためた言葉には、その字体、言葉使いからして、その人の人柄、思いが滲み出ています。遠くにいても、手紙を書いた人と会話し、出会っているような親近感を抱きます。

 教会の伝道にとっても、手紙はとても重要な役割を担って来ました。新約聖書の文書のほとんどが手紙です。当時、紙は貴重でした。羊の皮に墨で文字を記しました。伝道者パウロが語り、弟子がそれを書き記しました。伝道者パウロの手紙を弟子が教会に届け、礼拝の中で手紙を朗読しました。手紙が説教に役割を果たしました。手紙には、キリストが届けて下さった福音、喜びの知らせが記されていました。それ故、手紙は喜びの知らせと呼ばれました。手紙を届けて下さった伝道者を、喜びの知らせを伝える福音伝道者と呼ぶようになりました。教会員は喜びの知らせが伝えられるのを待ち望んでいました。礼拝を待ち望んでいました。自分たちのいのちを養う言葉が届けられるからです。

 

2.①今朝、私どもが聴いたら御言葉は、伝道者パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。繰り返し語られている言葉があります。「推薦状」です。推薦状も手紙の一つです。伝道者パウロは冒頭で、こう語っています。

「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」。

 私どもが大学推薦入学のための面接試験、就職のための面接試験を受ける時に、信頼できる方に推薦状を書いてもらいます。推薦状があるかないかで、面接官の態度も随分変わるものです。それと同じように、伝道者にも推薦状が必要であったのでしょうか。元々、伝道者パウロは主イエスの弟子ではありませんでした。むしろ教会の迫害者でした。キリスト者の敵として恐れられていました。そのパウロが甦られたキリストと出会い、回心させられ、キリストを伝える伝道者へと召し出され、生けるキリストを伝える使命を与えられました。しかし、他の伝道者、コリントの教会員はパウロを信じることが出来ませんでした。パウロが語る言葉を信頼出来ませんでした。それ故、あなたが本当に甦られたキリストと出会い、甦られたキリストから福音を託され、遣わされたことを証しする推薦状を提出しなさい。それを見なければ、われわれはあなたをキリストの伝道者として認めないと言われたのです。しかし、パウロは断固として語ります。

「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」。

素敵な言葉です。わたしの推薦状は教会なのだ。コリントの教会に連なる教会員なのだ。紙に書かれた推薦状がなくても、生きたキリストの教会の群れが、わたしが甦られたキリストと出会ったこと、甦られたキリストから福音を託されて遣わされたことを証ししているではないか。コリントの教会は伝道者パウロの伝道、生けるキリストを伝える福音によって生まれた教会だからです。伝道者パウロは語ります。

「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

 

ここで注目すべき言葉は、「あなたがたはキリストの手紙」です。あなたがたはキリストがお書きになった手紙。そして生けるキリストが記され、証ししている手紙である。これらの言葉の背景に、エレミヤ書31章31節以下の御言葉があります。ここには「新しい契約」という言葉が、旧約聖書で唯一語られている大切な御言葉です。古い契約はシナイ山で、石の板に神の指で「十戒」の文字が記されました。しかし、新しい契約は心の板に、神が霊の文字で記される。「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」。「キリストこそあなたの主、あなたはキリストの者」。霊の文字はどんなことがあっても決して消えることはない。

  仙川教会の大串元亮牧師が心臓発作のため入院し、手術を受けられました。二度目の心臓発作で倒れた時、命の危険があるから覚悟するようにと、医師から告げられました。奇蹟的に助かりました。手術後、改めてエレミヤ書のこの御言葉と向き合いました。「新しい契約は彼らの心に記す」。「心」は「心臓」という意味です。大串牧師は語ります。

「あたかも心臓移植するかのように、神の救済のメスが人間存在の奥底に入れられていく。こうして人間の体も心も、神の愛の御手によって、まったく新しい人間に創造されるのです」。

自らのいのちを犠牲にして、傷をもって傷を癒された主イエス・キリストの十字架の出来事は、まさに、心臓の機能を失った私どものために、主イエス御自身の心臓の移植手術をされた出来事でした。主イエスのいのちの血によって、私どもの心の板に、「わたしはあなたの主、あなたはわたしの者」という霊の文字が記されたのです。私どもはキリストの手紙とされたのです。

 伝道者パウロが語った言葉で、更に注目すべき言葉はこの言葉です。

「文字は殺しますが、霊は生かします」。

 今日も、メールを通して様々な文字が行き交っています。その多くが人を打ち砕き、裁く文字、人を殺す文字です。文字にいのちの霊が注がれなければ、文字は人を殺す言葉となります。しかし、文字にいのちの霊が注がれれば、人を生かす言葉となります。そのような言葉を、人々は待ち望んでいるはずです。

 

3.①今日の御言葉の直前に、とても重要な言葉が語られていました。「わたしたちはキリストの香り」。「キリストの手紙」と「キリストの香り」は、共に響き合う言葉、いのちの音色を奏でる言葉です。

 金沢教会創立95周年記念礼拝、今から48年前です。東京神学大学の竹森満佐一牧師が、この御言葉で説教をされました。「キリストの凱旋」です。この説教が金沢教会伝道説教集第1号となりました。私も伊勢の教会で、伝道説教集を通してこの説教を読み、とても感銘を受けました。キリストは白馬に跨がり、勝利の凱旋行進をされている。その後に勝利を得た兵士が胸を張って行進し、最後に鎖に繋がれた敗者の兵士、奴隷が歩いている。私どもは一体どこにあいるのか。凱旋行進をされるキリストの後に続く兵士ではない。鎖に繋がれた敗者の兵士、奴隷である。キリストは勝利者、私どもはキリストに打ち負かされた者、奴隷です。伝道者パウロは自らを手紙で紹介する時に、「わたしはキリストの僕、奴隷」と喜んで語りました。それがわたしの最もふさわしく呼び名なのだ。キリストの鎖に繋がれた奴隷は、喜んで、凱旋将軍であるキリストの後に従っているのです。キリストの打ち負かされたことを喜びながら、勝利者キリストの後に従っているのです。その時、滅びに至る死の香りではなく、いのちの香りを放っている。キリストこそ主、勝利者なのだと、キリストのいのちの香りを放っているのです。私どもを支配するものは、死の力でも、悪魔でも、運命の力でもない。私どもはそれらの力から解き放たれている。ただ勝利者キリストに支配される奴隷として、キリストのいのちの香りを放つのです。

 自筆の手紙の筆跡には、書かれた方の人柄、個性が滲み出ています。その文体に、その方の特徴が表れています。いかにもこの方の手紙だと思わされます。その筆跡、文体が、その方の香りを放っています。私どもはキリストのいのちを注がれ、十字架の血をもって霊の文字が記され、キリストを証しする手紙であれば、キリストのいのちの香りを放つものとされているのです。

 教会がキリストの手紙であれば、私どもが今、捧げている礼拝が、この世界に向けて、日本に向けて、金沢市民に向けて、生けるキリストを証しする手紙となっているのです。礼拝が終われば、教会に連なる一人一人が、甦られたキリストから、家族に、学校の友人に、職場の仲間に宛てられたキリストの手紙とされるのです。私どもの存在を通して、生活を通して、生き方を通して、キリストの手紙として読んでいただくのです。私どもには一体、どんな言葉がキリストによって書かれているのでしょうか。

 伝道者パウロはこの手紙の4章で、この霊の文字が記されているのだと語ります。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」。

 生けるキリストが破れに満ちた私どもを生きて下さる。キリストの生けるいのちの文字が私どもを生かし、キリストの手紙として証しさせて下さるのです。

 

宗教改革者ルター、カルヴァンは、日々、過酷な教会改革の最中にあっても、手紙を書き、多くの手紙を遺されています。大きな過ちを犯し、落ち込んで立ち直れない若き伝道者に向かって、ルターは慰めの手紙を書きました。

「神の故に耳をこちらに向けて、キリストにある兄弟が語りかける言葉をよく聴き取ってください。弱く、悪魔に追われ、脅えているあなたが、私の方に身を向け、私によって立ち直り、再びしっかりと立って、悪魔に逆らい、悪魔に向かって、こう歌えるようになるまでしてください。『ひとがわたしを倒そうと、突き落としても、主がわたしを助けてくださる』」。

 カルヴァンの許で学んでいた将来を嘱望された学生がペストで亡くなり、悲しみの中にある父へ、カルヴァンは慰めの手紙を書きました。

「私どもがなおキリストに属する者でありますならば、なぜキリストが、生きることにおいても死ぬことにおいても、私どもを支配する力をお持ちにならないことがあるでしょうか。ご子息が、あまりにも短い人生を生きただけ

ではないかということであったとしても、ご子息が、主によって定められた人生の航路を全うしたのだということが、私どものこころを満たすべき思いでなければならないのではないでしょうか。ご子息は主にとっては十分に生ききって、みもとに赴いたのですから」。

 

5.①先週の月曜日、教会修養会が行われました。共に聖書の御言葉に聴き、語り合い、祈り合い、そして久しぶりに昼食の交わりも持つことが出来ました。豊かな修養会となりました。主題は「教会の伝道―生けるキリストを証しする-」でした。主題講演で次のことを語りました。

 大阪学院の院長であり、玉出教会の長老であった西村次郎さんが、滝野川教会創立75周年記念礼拝で説教をされました。「わが墓標」という題の説教です。この説教の後、西村次郎さんは逝去されました。遺言説教となりました。この説教は信徒が行った説教の中で、日本説教史に遺したい説教です。

 私どもはキリストの墓標である。キリストが私を生きて下さっておられる。それ故、私どもの日々の生活、生き方がキリストを証ししている。「キリストの墓標」は「キリストの手紙」を言い換えたものです。

 明治時代、アメリカのプロテスタント教会から宣教師が日本の各地に遣わされました。北陸には、トマス・ウィン宣教師、イライザ夫人が遣わされました。ウィン宣教師夫妻は、アメリカの教会が送られた「キリストの手紙」でありました。多くの女学生が宣教師の路傍伝道の説教を聴き、教会に導かれ、洗礼を受け、キリスト者となりました。その一人に、金沢教会の最初の女性長老、高橋與与さんもいました。先週の逝去者記念礼拝、墓前祈祷会に、そのお孫さんが出席されていました。宣教師の説教はたどたどしい日本語でした。しかし、多くの日本人が洗礼に導かれたのは何故であったのか。勿論、聖書の教えを信じた人もいたと思います。しかしそれ以上に、宣教師夫妻の生活、生き方を通して、ここにキリストが生きておられることを実感したのです。

西村次郎さんは語ります。キリスト教というものは、教えとして伝わったのではない。道として伝わったのであると。使徒言行録には、最初の教会の伝道の姿が証しされています。教会に連なる人々のことを、教会の外にいる人々は、「あの教えを信じている人」と呼ばなかった。「ああいう生活をしている人」と呼んだ。「主の道に生きる者」と呼んだ。キリスト者の日々の生活、生き方が、そのままキリストを証ししていた。それ故、私どもの信仰は、キリスト教ではなく、キリスト道なのです。キリストの道を共に生きるのです。

 

今年の4月に逝去された加藤常昭先生は、私ども伝道者の説教の導き手でした。説教学に関する本をたくさん書かれました。その中に、『愛の手紙・説教』があります。説教は神からの、キリストからの愛の手紙、ラブレターです。キリストからの愛の手紙を説教する説教者自らも、愛の手紙とならなければ、言葉が伝わらないと語られます。しばしば戒められたことがあります。説教が、役所からの業務用の文章になるな。お決まりの言葉で、無味乾燥な言葉となるな。そのような手紙を受け取ったら、会衆は退屈してしまう。加藤先生が『愛の手紙・説教』の結びで語っていることがあります。

 ナチが支配する時代、イーヴァント牧師は10数名の若い伝道者のために、説教研修を続けました。伝道者は何よりも、説教においてこの世の悪魔的な力と闘うからです。しかし、ナチの迫害を受けて、研修所を転々としなければなりませんでした。イーヴァント牧師は聖書一冊で、若き伝道者の説教講義をしました。説教一冊あれば闘えるのだと語りました。あなた方伝道者がいなければ、どうしてこの世界に、福音を知らせることが出来るだろうか。そこでイーヴァント牧師は、「あなたがたはキリストの手紙である」とのこの御言葉を朗読しました。そしてこう語られた。

 愛の手紙である説教を聴きつつ生かされる教会の存在そのものが、キリストご自身が書かれた愛の手紙である。教会は神が立てた公の存在として、この世界に向かって、公の言葉を、無くてはならぬ言葉を語るのである。われわれ説教者が御言葉を語り続けることによって形成される教会共同体そのものが、キリストの世に対する公開状である。生ける神の霊が書き記す手紙なのである。手紙を通して、生けるキリストと出会い、キリストと共に生きるのです。われわれもまた、愛の手紙である説教を語り続けることによって、教会というキリストの手紙を、キリスト御自身が書き続ける御業に参与するのです。今、神を失いかねない危機にある現代社会の中で、他に先立って憐れみを受けた罪人の群れとして、尚一層力を込めて語りかける手紙である教会を形成し続けるのです。お祈りいたします。

「主よ、あなたがたはキリストの手紙であるとの驚くべき御言葉を聴きました。破れ果てた土の器である私どもに、生ける霊の文字が、キリストの十字架の血によるいのちの言葉が記され、私どもを生きたキリストの手紙として下さるのです。今、礼拝する教会の群れをこの世界に宛てられた生きたキリストの手紙として下さい。私どもが遣わされるそれぞれの場所で、生活を通して、生き方を通して、キリストが私どもに生きておられることを証しさせて下さい。この祈り、主イエス・キリストの御名により、お捧げいたします」。

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