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「キリストは今どこに」

ダニエル4:19~27
使徒言行録1:1~14

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年7月23日

00:00 / 36:39

1.①先週の主の日、私は親しい友人が伝道、牧会している山梨県甲府市にある山梨教会で、礼拝の説教をしました。車で出かけましたが、6時間かかりました。教会員から、先生、車で行ったのですかと驚かれた方もいました。今はカーナビがありますので、目的地まで迷わず辿り着くことが出来ます。上空から電波で、今どこにいて、どこへ向かっているのかを案内してくれます。以前でしたら、頼りになるのは地図です。地図で確認しながら、何度も道に迷いながら、目的地に漸く辿り着いていました。平面の地図ですと、なかなか今どこにいるのか、どこへ向かっているのか分かり難いところがありました。しかし、上空からの電波、上からの地図ですと、立体的に今どこにいるのか、どこへ向かっているのかを知ることが出来ます。

 しかし、このことは私どもの人生の歩みと重なり合うところがあるのではないでしょうか。私は今どこにいるのか、どこへ向かっているのか。これは人生の道を歩んでいる全ての人にとっての、根源的な問いかけです。私は今どこにいるのか、どこへ向かっているのか。それを知るために、私どもは様々な平面の地図を手に入れます。しかし、それには限界があります。平面的な地図では、視野が狭いのです。

どうしても上空から私どもが立っている場所、向かう場所を映し出す立体的な地図が必要なのです。上空からの視点が必要です。そのような上空からの視点で描かれた立体的な地図こそ、聖書の御言葉なのです。聖書が証ししている父なる神、神の御子イエス・キリストなのです。ここにおられるお一人お一人が、聖書という上空から描かれた立体的な地図で、絶えず上からの視点、父なる神、御子イエス・キリストのまなざしの中で、今私はどこにいるのか、どこへ向かっているのかを知り、人生を歩んでほしいのです。

 

②東京の富士見町教会の初代の牧師は、植村正久牧師です。日本のプロテスタント教会の草創期の代表的な伝道者です。洗礼を志願し、主イエス・キリストに従って生きようと決心した者は、長老会に陪席し、信仰の試問を受けます。その席で、植村牧師が洗礼志願者に必ず問いかけたことがあります。

「イエス・キリストは今どこにいますか」。このことさえ分かっていれば、まだ他のことが分からなくても、洗礼を受けてよいと判断したのです。将に、信仰の急所がここにあると受け留めていたからです。皆さんだったらどう答えられるでしょうか。教会学校の子どもたちだったら、素直に答えるでしょう。「イエスさまは、いつも私と共におられる」。それも正しい答えです。教会学校の生徒でも洗礼を受けることが出来ます。しかし、もう一つ答があります。

 十字架にかけられた主イエスは甦られた後、天に上って行かれました。そして今、父なる神の御許で、地上に生きる私どもを見守り、執り成しておられます。同時に、天におられる主イエス・キリストが、聖霊を通して、今、私どもと共におられるのです。

 

2.①私は以前、伊勢の教会で伝道していました。伊勢の教会には幼稚園があって、園長として礼拝で、園児に聖書の御言葉を語っていました。とても楽しい時間でした。甦られたイエスさまが天に上って行かれる場面のお話をしたことがありました。甦られたイエスさまはね、両手を挙げて弟子たちを祝福された。そして両手を挙げて祝福しながら弟子たちを離れ、天に上げられた。そして今、イエスさまはね、父なる神さまの御許で、両手を挙げて、私たちをいつも祝福しておられる。

 一人の園児が答えました。「イエスさま、両手を挙げたまま、天から私たちを祝福して疲れないの」。「そうだね。でも、イエスさまは私たちから目を離されないよ。両手を降ろすことをされないよ。両手を挙げて、いつも私たちを見守って下さるのだよ。祝福されているんだよ」。

 キリストが天に上られる。キリストの昇天の出来事が語られているのは、ルカ福音書の24章の結びです。今日、礼拝の最後、先週は葬儀が行われましたが、葬儀の最後に、牧師が手を挙げて祝祷を捧げます。祝福を宣言するのです。生きる時も死ぬ時も、あなたはキリストの祝福の中にあることを宣言するのです。それはキリストが天に上られた時、両手を挙げて祝福されたことから来ているのです。

 

②ルカ福音書を通して、地上の主イエスの歩みを描いたルカは、第二部として教会の伝道物語を綴りました。それがこの朝、私どもが聴いた使徒言行録です。使徒言行録は28章あります。最後は、伝道者パウロがローマに連行され、拘束されながらも、ローマの町の人々にも、キリストを伝えた場面で結ばれています。使徒言行録は教会の伝道の物語です。しかし、それは昔昔の物語ではありません。28章で完結しているのではないのです。私どもは今、金沢教会での伝道を通して、使徒言行録29章の新しい伝道物語を綴っているのです。使徒言行録は私たちの教会の伝道物語なのです。その意味で、金沢教会の伝道物語は、使徒言行録1章から始まっているのです。

 さて、ルカは教会の伝道物語をどこから始めているのでしょうか。神学校に入学して間もなく、東京神学大学の松永希久夫先生が鳥居坂教会の修養会で講演された『教会とは何か~新約聖書の教会論~』のパンフレットを読みました。そこで新鮮な驚きを感じました。私どもは教会の誕生を、天から聖霊が降り、教会が誕生した、聖霊降臨の出来事、ペンテコステの出来事として受け留めています。ところが、使徒言行録はそこから書き始めていません。何から書き始めているのでしょうか。主イエス・キリストが天に上げられた出来事から書き始めているのです。松永先生はキリストの昇天の出来事こそ、教会の出発点、伝道物語の始まりであったと語っておられるのです。

ルカは、主イエス・キリストの昇天の出来事で、主イエスの地上の歩みが結ばれた。同時に、教会の伝道の歩みが始まったのだと捕らえているのです。これは私どもがしっかりと受け留めなければならない大切な視点です。私ども教会は今どこにいるのか、どこへ向かっているのか。それは天に上げられたキリストから知ることが出来るということです。

 

3.①その意味で、使徒言行録1章はとても重要な出来事が記されている御言葉です。ここでまず、私どもが注目しなければならないことがあります。十字架のつけられた主イエスは甦られて、すぐに天に上って行かれたのではありませんでした。40日間、弟子たちと寝食を共にしながら、御言葉を語られ、訓練されました。この40日間の甦られた主イエスと弟子たちとの交わりが、教会の土台となったのです。

 学生の皆さんは夏休みに入りました。全国、北陸の中高生修養会が2泊3日で行われます。それこそ寝食を共にしながら、聖書の御言葉、様々な信仰の悩みを共有し合う貴重な時です。私も大学生時代、八ヶ岳にある大学の寮で行われた夏期研修会に、4年間出席しました。100名を超える出席者でした。

また、神学校を卒業してから30年間、富士山の朝霧高原にある東京農業大学の寮で、全国連合長老会中高生修養会のスタッフとして出席しました。一つの大部屋で雑魚寝をしながら、高校生と夜遅くまで信仰を巡り語り明かしました。それは私にとっても貴重な財産となっています。

 況してや弟子たちは甦られた主イエスと40日間の寝食を共にした合宿をされたのですから、忘れられない貴重な経験となったはずです。それが教会の土台となりました。

 40日間、弟子たちと交わりをされた後、甦られた主イエスは天に上げられました。キリストの昇天の出来事は、私ども教会にとって大切な信仰です。復活祭から40日目がキリスト昇天日です。しかし、この日は平日です。欧米の教会は祝日となり、教会で礼拝が捧げられます。しかし、日本の教会はこの日、特別な礼拝をしません。そのためキリストの昇天の出来事が、私どもにとってどのような信仰的な意味があるのか、疎かにされているところがあります。カルヴァンはキリストの昇天の出来事をとても重んじました。

 

②先週の主の日、私は山梨教会で礼拝説教、信徒研修会の講演をしていました。昼過ぎに携帯に連絡がありました。教会員のお母さまの具合がよくないとの連絡でした。心配し、祈りに覚えていたお母さまです。そして4時過ぎに、亡くなられたとの知らせを受けました。月曜日の夜に前夜祈祷会、火曜日の午前に葬儀と火葬が行われました。死は別れです。愛する家族のお姿が見えなくなることです。家族にとって誠に厳しいこと、悲しいことです。

 甦られた主イエスが天に上げられる。それは弟子たちとの別れでもありました。弟子たちは主イエスに訴えたことでしょう。「主よ、何故、私どもから離れて、天に上げられるのですか。何故、ずっと地上に留まらないのですか。何故、私どもとずっと共におられないのですか」。

 ルターがキリストの昇天の出来事の意味を、このように語っています。急所を突いた言葉です。

「キリストは地上におられた時、私どもから遠かった。しかし、キリストが天に上げられたことにより、私どもに近い存在となられた」。

 ルター特有の逆説的な言葉ですね。キリストは天に上げられることにより、私どもにずっと近い存在となられたと言うのです。もし、甦られた主イエスが地上に留まられたら、私どもが主イエスに会うためには、エルサレムまで行かなければなりません。私は30年以上前に、イスラエルに行く機会が与えられました。日本から直通便はありません。成田空港まで行き、成田空港からロンドン空港まで行き、ロンドンで乗り換え、テルアビブ空港まで行きます。朝出発し、到着するのは翌朝です。丸一日かかります。誰もが行ける場所ではありません。病気の方、高齢の方、主イエスに手を握って祈ってほしいと願っている方が行ける距離ではありません。もし、甦られた主イエスが地上に留まっていたら、主イエスは地上の一箇所だけに留まっておられることになります。しかし、甦られた主イエスが天に上げられることにより、世界中どこにいても、そこで天に上げられた主イエスを仰ぎ見ることが出来るのです。世界のどこからでも、太陽、月を仰ぎ見ることが出来るように、天におられる主イエスを仰ぎ見ることが出来る。父なる神の御許におられる主イエスが、地上を生きる私どもをいつも見守り、執り成して下さる。世界の全てを支配しておられる。ルターが語るように、キリストは天に上げられたことにより、私どもにより一層近い存在となられたのです。

 

4.①皆さんは自らの人生の道筋をずっと先まで見通しているでしょうか。高校生の皆さんは、希望をする大学に入学し、学び、こういう分野で仕事をしたいというところまで自らの人生の道筋を描き、見通していることと思います。しかし、私どもの人生の道筋は自分が思い描いたようには行きません。失敗があり、挫折があります。道を見失います。道が塞がれます。どうしたらよいのか途方に暮れます。人生の道筋を見通すことはなかなか難しいことです。私ども教会の道筋を見通すことも難しいことです。今日、人生百年時代と言われています。隠退してから30年あると言われています。引退後の30年の人生の道筋を見通すことも難しいことです。私どもが人生の道筋を見通せるのは、死までです。死んだら人生の道筋は途絶えるのです。それ故、死を超えたいのちの道筋を見通すことなど、私どもには出来ないことです。人生のカーナビは死を超えた道筋を示すことなど出来ないのです。

 先週、教会員のお母さまが亡くなられ、教会で葬儀を行い、斎場で火葬を行いました。御遺体を火葬に伏す前、御遺族にとって最も厳しい別れの時です。その時に朗読した御言葉は、主イエスが十字架の死を目前として、弟子たちに語られた遺言説教でした。「わたしは父の家にあなたがたの住まいを備えるために、十字架の道を歩む決意をした。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

 この御言葉を心に留めて、キリストの昇天の意味を綴った信仰問答があります。宗教改革時代にまとめられた『ハイデルベルク信仰問答』です。キリストの昇天の意味を、これ程明晰に綴ったものは他にありません。キリストの昇天の利益を三つ上げています。その第二の言葉はこれです。

「われわれは、主が、かしらとして、そのえだであるわれわれを、ご自分のもとに引き上げて下さる、確かな担保として、われわれの肉を、天に持つことになるのであります」。

 キリストは私どもの頭、私どもはキリストの体に連なる肢、肢体です。頭であるキリストが天に上げられ、父なる神の御許に上げられることにより、私どもも死を超えて、父なる神の御許に引き上げる担保、確かな保証となって下さった。死を超えたいのちの道筋を、天に上げられたキリストが確かにつけて下さったのです。それ故、私どもの国籍は天にありと断言出来るようになったのです。

 

②植村正久牧師が英国の詩人ストックの詩を訳され、日本の教会に知られるようになりました。「天に一人を増しぬ」。恐らく、富士見町教会の教会員の葬儀で、何度も読まれ、慰めたのではないかと思います。

「家には一人を減じたり、楽しき団欒(まどい)は破れたり、愛する顔平常(いつも)の席に見えぬぞ悲しき。されば、天に一人を増しぬ。清められ救われ全うせられしもの一人を」。

 「天に一人を増しぬ」。私どもはしっかりと心に刻まなければなりません。天に一人を増しぬ。それは何よりも、甦られた主イエスであったのです。それを不明確にして、私どもの家族や友人が天に一人を増しぬと慰めても空しいのです。甦られた主イエスが天に上げられ、父なる神の御許へ引き上げられたキリストの昇天が、担保となり、確かな保証となってこそ、私どももキリストのいのちと引き換えに、キリストのただ憐れみによってのみ、キリストによって、天へと召される、父なる神の御許へ召されるいのちの道筋が敷かれたのです。キリストの昇天が、私どもの召天の担保、保証となったのです。

 

5.①甦られた主イエスが今から天に上げられようとする時、弟子たちに語られた最後の言葉が重要です。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。

 ここに教会の出発点があります。教会物語の出発点があります。キリストの昇天の出来事は、地の果てに至るまで、キリストの証人となって、生けるキリストを伝道する使命が託された出来事であったのです。天に上げられた甦られた主イエスのまなざしは、遠くまで見通しています。エルサレム、ユダヤ、サマリヤではなく、地の果てまでです。伝道者パウロにとって地の果てはローマでした。ウィン宣教師、イライザ夫人にとっては日本の北陸でした。私どもにとって地の果てとはどこでしょうか。まだキリストが届けられていないところです。あなたの夫かもしれない。あなたの子どもかもしれない。あなたの友人かもしれません。身近な所に地の果てがあるのです。

 私どもはキリストの復活の証人です。使徒言行録がよく用いる言葉です。甦られたキリストとお会いし、キリストから使命を託されて、遣わされて、言葉と存在と生き方を通して、生けるキリストを証しする者とされたのです。甦られたキリストから使命を託され、遣わされて生きる。私どもはそういう存在とされたのです。その時、生きる姿勢が変えられるのです。死に向かう姿勢が変えられるのです。まなざしを注ぐ方向が変えられるのです。天に上げられた甦られたキリストを仰ぐ、上を向いて生きる存在とされるのです。

 

②金沢教会でも説教をされたことがある永井修牧師がおられました。生涯、大阪の森小路教会という一つの教会で伝道された伝道者でした。誰からも愛されたユーモアに満ちた伝道者でした。伊勢の教会にも何度も来られました。私の前任者冨山光一牧師と親しくしていました。うどんが好物で、いつも伊勢うどんを食べてから教会に来られます。娘たちにいつも大きなクマのぬいぐるみをお土産に持って来られ、娘たちはおさむくまちゃんと呼んでいました。土曜日の朝、永井牧師から電話がかかって来ました。「井ノ川君、伊勢うどんのたれを送ってくれないか。伊勢うどんのたれは、伊勢のスーパーしか売っていないからね」。土曜日の朝、説教のことで頭がいっぱいなのに、永井先生は伊勢うどんたれのことが気になっている。余裕があるんだなと思いました。永井修牧師が「宣教」という月刊誌に、教会の伝道物語を連載されていました。亡くなられた後、出版されました。『地のはてまで』という題名です。葬儀の時に朗読された御言葉も、使徒言行録1章6~11節の御言葉でした。伝道者としていつもキリストのこの御言葉を心に刻んでおられました。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。

 永井先生の著書『地のはてまで』の「はじめに」で、こういう言葉を綴っておられます。永井牧師の伝道者魂がよく現れています。永井牧師の遺言です。

「人間の中で僻地に赴く、三種類の仕事がある。探検家と、商人と宣教師だそうである。探検家は未知の土地を探るのが目的であるから当然として、他の二つが商人と宣教師である点は興味深い。

 前北陸学院長番匠鉄雄先生から、興味深い話をうかがった。先生が鹿児島で伝道しておられたとき、しばしば南西諸島に赴かれたそうである。集会場に松明をもって集まるような僻地である。その宿泊所に、決まって隣の部屋に泊まる人物がいた。富山の薬売りであったそうである。先生はそれをみて奮起されたそうである。一方は利益をあげる商売のため、一方は値なしに福音を与えるために僻地に赴くのである。

 残念ながら伝道という言葉は最近死後となりつつある。福音に対する確信の喪失が根本原因なのだろうが、伝道は自己目的的とか、他の宗教に対して傲慢である、というのがその理由らしい。もちろん経営的な伝道や、他宗教に対する不当な軽蔑は慎しむべきであろう。しかし、本来伝道はそんな卑小なものではなく、教会の生命と本質に関わる重大な行為である。それは神の国進展のために神とともに働くことなのである。一人の人が信仰をもつのは、ごく特別な場合を除き、それを伝えた人がいるはずである。『宣べ伝える者がいないのに、どうして聞くことがあろうか』と聖書の記されているとおりである。そして隣人に対する愛は伝道において極まる。それは隣人に永遠の生命を与える手助けをしているからである。伝道は永遠の生命の献血である」。

 永井修牧師は伊勢の山田教会で行われた葬儀にも足を運ばれ、弔辞を語られました。冨山光一牧師の葬儀、冨山牧師の義理の弟さん、長老の葬儀でした。その長老の葬儀の時に、このような弔辞を御遺族に語られました。

「これまでも良かった。しかし、これからはもっと良い。天におられる甦られた主イエス・キリストの祝福の御手の中にあるのだから」。

 

 お祈りいたします。

「甦られた主イエス・キリストが天に上げられることにより、私どもにとって一層近い存在となりました。父なる神の御許からまなざしを注がれ、御手をもって、私どもを導いておられます。聖霊において世の終わりまで、いつも共におられます。主の御支配の御手に喜んで服し、キリストの復活の証人として、生けるキリストを証しして歩むことが出来ますように。キリストに連なる私ども一人一人が、主から託され使命に、遣わされて生きることが出来ますように。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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