「キリストは陰府にまで降られ」
詩編139:1~8
ペトロ一3:13~22
主日礼拝
牧師 井ノ川 勝
2023年7月2日
1.①小学生の頃、土の道を通って学校に通っていました。土の道には沢山の足跡がついていました。それらの足跡を見ながら、道を歩いていました。遺された多くの人の足跡に、自分の足を踏み重ねて、毎日歩いていました。今日では、道はすっかり舗装され、日々の生活の中で足跡を見ることがなくなっています。
私どもの歩む人生は、しばしば道に譬えられます。誰もが人生という道を歩いているのです。しかし、その道はまっさらではありません。実に多くの先達が歩いた足跡が遺されています。私どもは先達が遺された足跡に、自分の足を踏み重ねて人生の道を形造って行くのです。このことは信仰生活においても同じです。信仰の道を歩いて行く時に、先達が遺された足跡がある。その足跡に自分の足を踏み重ねて、信仰の道を形造って行くのです。これは信仰生活を歩む上で、とても大切なことです。
先程も申し上げましたが、日々の生活において、道がすっかり舗装され、足跡を見ることがなくなっている私どもです。しかし、私は北陸の地に遣わされまして、足跡を見る機会が与えられ、改めて足跡の大切さを経験しました。それは冬の雪が積もった朝です。兼六園や金沢城公園に散歩に出かけます。まだ誰の足跡もない地に、足を踏み入れて、自分の足跡を遺すことは、何とも言えない爽快感があります。ところが、誰の足跡も遺されていない雪道を歩いていると、ずぶずぶと深みにはまってしまうことがあります。しかし、誰かの足跡が遺された雪道であれば、その足跡の上に自分の足を踏み重ねれば、深みにはまったり、滑ることはありません。信仰の道を歩くことと重なり合います。
②多くの方に知られた詩があります。「砂の上の足跡」です。作者不詳の英語の詩です。自分の人生を振り返った時、二人の足跡が遺されていた。一人は私の足跡、もう一人は主イエスの足跡です。ところが、私の人生において最も悲しかった時、辛かった時に、私の足跡しか遺されていない。主イエスよ、あなたは一体どこにおられたのですかと問いかける。すると主イエスは答えられる。「わが子よ、あなたが最も辛かった時、悲しかった時に、そこに遺されていた足跡は、実はわたしの足跡なのだ。わたしはその時、あなたを背負っていたからだ」。
この詩に込められた信仰の心も大切かもしれません。しかし、私どもの信仰の道においては、辛い時も、悲しい時も、どんな時にも主イエスが足跡を遺されている。その主イエスの御足の跡を踏み従いながら、私どもの信仰の道を形造って行くことが、とても大切な信仰の道であると言えます。この信仰を語っているのが、今朝、与えられた御言葉であるペトロの手紙一なのです。2章21節で、こう語られています。
「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。
私どもは誰もが愛唱讃美歌があります。日々の生活において口ずさむ讃美歌です。特に、病の時、家族や友を失った悲しみの時に、繰り返し讃美歌を口ずさみます。讃美歌が私どもの信仰の歩調を形造ります。くずおれた私どもの心を慰め、立ち上がらせてくれます。愛唱讃美歌はその方の信仰が映し出されます。それ故、葬儀の時に、その方の信仰を思い起こして歌われます。
私の愛唱讃美歌の一つが、優れた説教者であったジョン・ヘンリー・ニューマンが作詞した讃美歌です。1954年版讃美歌では288,讃美歌21では460です。私の葬儀の時に歌ってほしい讃美歌です。特に、その2節です。1954年版讃美歌288の歌詞です。
「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、
一足また一足、道をば示したまえ」。
主イエスが遺された足跡に、一足また一足、自らの足を踏み重ねて歩いて行く。しかし、それは私一人の足取りではありません。信仰の仲間と共に、主イエスの御足の跡を、一足また一足と踏み重ねて歩いて行くのです。そのようにして私どもの信仰の道が形造られて行くのです。
2.①私どもは人生の道、信仰の道において、様々な足跡を遺します。足跡を遺します。「あの方はこのような信仰の足跡を遺してくれたね」と言います。しかし、私どもの人生の道、信仰の道に遺された足跡は、死において途切れてしまうのでしょうか。私どもの足跡は、死に直面したら、そこで消えてしまうのでしょうか。
ペトロの手紙一は、ローマ帝国の厳しい迫害の時代に、各地に離散したキリスト者を慰めるために書かれた御言葉です。家族の死、友の死、信仰の仲間の死を味わう厳しい日々でした。いつ自分が捕らえられ、殺されるか分からない緊迫した日々でした。カタコンベという地下の暗い墓に潜り込んで、遺体を囲み、涙を流して讃美歌を歌い、最後の別れをしました。死と向き合って生きる日々にあって、私どもはどのような信仰の足跡を、子どもたちに、次の世代の人々に遺すことが出来るかが、いつも問われていたことでした。そして更に、もう一つの問いかけがありました。洗礼を受けずに死んだ家族、友はどうなるのか。救われないのか。これは切実な問いかけでした。
ローマ帝国の迫害の時代です。ローマ皇帝は自らを神と拝まないキリスト教会、キリスト者を目の敵にしました。主の日の朝、教会員の家に集まり、密かに礼拝を捧げていました。そこにローマの兵士がやって来て、片っ端から捕らえ、殺して行くのです。その中に、まだ洗礼を受けていない家族もいれば、友もいたのです。涙を流しながら、地下のお墓で葬りをしつつ、主に問いかけました。洗礼を受けずに死んだ家族、友はどうなるのか。救われないのか。
神学校を卒業する時、神学校の先生から言われたことがあります。求道者の純朴な問いかけに対し、丁寧に答えなさい。およそ神学というものは、求道者の問いかけに答えることから生まれたものなのだ。金沢教会も礼拝前の30分間、求道者会が行われています。内藤牧師の時代から牧師が担当し、大切にして来ました。そこから洗礼へと導かれた方も多くいます。求道者から様々な質問が出されます。その中に、しばしば出される問いかけがあります。洗礼を受けずに死んだ家族、友は救われないのか。異教社会に生きる日本人にとって、切実な問いかけです。神から与えられたわが子が幼児洗礼に与る前に亡くなってしまう。漸く礼拝へ導いた家族や友が洗礼を受けずに亡くなってしまう。そのような家族や友は救われないのか。他にも様々なケースが考えられます。
私どもの信仰は、自分が洗礼を受け、救われれば、それでよいという信仰ではありません。私が救われれば、家族や友も、同じように洗礼を受け、救われてほしいと願います。そのために執り成しの祈りをし、伝道します。
執り成しの信仰に生きます。
②そのような私どもの切実な問いかけに対し、聖書は答えられます。それがペトロの手紙一3章18~22節の御言葉です。声に出してみると、とてもリズムを打つ文章です。それ故、讃美歌であったのではないかとも言われています。葬儀の時にも歌った讃美歌です。洗礼を受けずに亡くなった家族、友の葬りをする時にも、涙を流して歌った讃美歌であったかもしれません。ここに驚くべき言葉が語られています。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。
キリストは死んだ者たちのところへ行かれ、宣教されておられる。4章6節でもこう語られます。
「死んだ者にも福音が告げ知らされた」。
しかも、キリストが宣教した具体的な人物まで語られています。ノアの時代、神さまの言葉に従わずに、ノアの箱舟に入らず、洪水に巻き込まれた人々です。恐らく、神さまの言葉に従わずに、死んだ者たちを代表しているのでしょう。聖書の中で、キリストが死んだ者たちに、福音告げ知らされ、伝道しておられるという御言葉は、この箇所だけです。それだけに興味深い御言葉です。
この朝も、聖書の福音を凝縮し、教会の信仰をまとめた「使徒信条」を告白しました。全てのキリスト教会の土台にある信仰告白です。この中に、こういう告白があります。
「キリストは、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り」。
キリストの死をとても丁寧に告白しています。元々は、「使徒信条」の中に、「陰府に降り」という言葉はありませんでした。4世紀半ばに加えられたと言われています。キリストが陰府に降られた、このことを言い表さないと、キリストの十字架の死の意味を十分に言い表したことにならない、と教会は判断したからです。その聖書的な典拠となったのが、ペトロの手紙一のこの御言葉であったのです。主イエスは陰府まで降られ、そこにも足跡を遺されたのです。
3.①しかし、更にもう一つ重要な御言葉が旧約聖書にありました。詩編139編です(旧約979頁)。キリストが来られる前に、このような御言葉が、旧約聖書にあることは、驚きです。葬儀の時に朗読される御言葉でもあります。詩人は驚き叫んでいます。
「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、
陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、
あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、
右の御手をもってわたしをとらえてくださる」。
旧約の時代はまだ復活信仰がありません。死んだ者全ては陰府に赴きます。生きている間は神との生きた関係の中にあっても、死んで陰府に降ったら、神との関係が断たれてしまいます。死の闇が支配するところです。陰府に身を横たえて、もはやここには神はおられないと思っていた。しかし、見よ、あなたはそこにもおられたと、詩人は驚いている。もはや神の御手の及ばないところはない。死んだ人が赴く陰府にも、神はおられる。詩編139編で語られる信仰は、主イエス・キリストが甦られた出来事によってこそ、確かなものとされたのです。それ故、詩人は語ります。
「『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す』。
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」。
主イエスの弟子ペトロは、甦られた主イエス・キリストにお会いしました。その時、詩編139編の御言葉の意味が分かったと思います。主イエスは十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にまで降られた。陰府にまで降って何をされたのか。陰府にまで主イエス・キリストは足跡を遺された。御言葉に従わずに亡くなった者たちのところへ赴き、宣教をされた。福音を伝え、悔い改めへと導いておられる。キリストの支配は陰府にまで及び、陰府の闇に打ち勝った。すべては神のもとへ導くためであったのです。主イエス・キリストの御手が及ばない場所は、もはやどこにもない。キリストに足跡が遺されない場はもはやどこにもない。それがペトロの手紙一3章18節以下の讃美歌で謳われているのです。
洗礼を受けずに死んだ人はどうなるのか。亡くなった人への伝道はどうなるのか。しかし、これはキリストに委ねるしかありません。私どもは洗礼を受けずに亡くなった家族、友のことを、様々に心配します。不安になります。しかし、全てはキリストに委ねるしかないのです。そして私どもに主から託された使命は、生きている間に、家族、友への伝道に励むことなのです。
②私ども金沢教会の信仰のルーツは、スイスのジュネーヴで宗教改革を行ったジャン・カルヴァンの信仰にあります。カルヴァンは青少年のために、聖書の福音を問答形式でまとめた『ジュネーヴ教会信仰問答』という小冊子を作りました。その中で、『使徒信条』の「陰府に降り」を説き明かしています。カルヴァンは陰府とは、死者が赴くところではなく、十字架こそが陰府であったと説き明かしました。主イエスが十字架につけられたことは、主イエスこそが、将に陰府に降られたということを意味していました。カルヴァンは語ります。
主イエス・キリストは私ども罪人を代表して、私ども罪人に代わって、十字架であたかも神から見捨てられ、神の怒りを受け、その恐ろしい苦悩を心に刻まねばならなかったのです。そして陰府の深淵の中から叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
更に、カルヴァンは語ります。十字架という陰府の深淵に立たれた時、主イエス・キリストは、しばしの間、その神性、神であることを隠され、力を表さなかった。私どもと同じ全き人間となられた。教会の信仰、教理を重んじるカルヴァンが、将にぎりぎりの表現で、主イエス・キリストが十字架という陰府に降られたことを言い表そうとされたのです。それだけに、カルヴァンの「陰府降り」の緊迫した問答は、私どもの心に迫って来ます。
このカルヴァンの「陰府降り」に込められた信仰の心を、説き明かした神学者がいました。同じ改革派の信仰に立つカール・バルトでした。バルトは1940年から1943年の6回に亘り、スイスの教会の牧師たちに、カルヴァンの『ジュネーヴ教会信仰問答』の内、「使徒信条」の項目の説き明かしの講義を行いました。第二次世界大戦真っ只中です。神に造られた人間同士が殺し合い、他国を侵略する戦争の現実は、将に、人間こそがこの世界に陰府を造り出していると言えます。陰府は私どもが死んでから赴くところではない。私ども人間が世界を創造された神を片隅に追いやり、私ども人間がこの世界の只中に陰府を造り出している。神から見捨てられた陰府を、神から呪われた陰府を造り出している。誠に恐ろしいことです。それは今日でも起こっている陰府の現実です。バルトはそのような陰府の現実の只中で、カルヴァンの「陰府降り」を説き明かしました。バルトの緊迫した説き明かしが伝わって来ます。
キリストは私どもに代わって、私ども罪人が受けるべき神からの完全に隔てられ、神から見捨てられるという陰府の状況、十字架で担って下さった。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この陰府の状況こそは、本来私どもが負うべき状況であった。私どもの人生の歩みもまた絶望を知っている。しかし、私どもが味わう絶望は、もはや完全な、あのたた一つの絶望、主イエス・キリストお一人が担い切って下さった絶望ではない。このようのキリストと私どもとが担う絶望をはっきり区別することにより、われわれの苦悩がどれ程厳しいものであろうと、私どもの絶望を劇的なもの、ドラマチックなものとすることをしなくて済んでいる。私どもが知るのは、主イエス・キリストが陰府の力を、それがどんなに強大なものであろうと、既に十字架で打ち砕いて下さっていることだからである。
4.①カルヴァンの陰府降りと、バルトのその説き明かしは、陰府のような現実を生きる私どもの魂への配慮として重んじられるようになりました。私どもは私ども人間が造り出した陰府の闇の中で、もがきながら生きています。陰府の闇に完全に覆われて、出口が見えないのです。光が全く見えないのです。叫んでも叫んでも、誰も答えてくれないのです。神に叫んでも、神の声が聴こえてこないのです。私は神から完全に見捨てられた。誰も私の苦しみも、痛みも分かってくれない。陰府の闇の中で、全く孤独です。陰府の闇に呑み込まれて、絶望の淵に追いやられ、命が消えかかっている。闇の中でいっそ自分で自分の命を断って、闇の中に消えてしまいたい誘惑に駆られてしまう。
しかしそこでこそ、主イエス・キリストの十字架の叫びを聴くのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。真実に、神から完全に見捨てられた陰府に立たれたのは、主イエスただ一人です。主イエスがただ一人、十字架という陰府に立たれたことにより、私どもが直面する闇は、もはや陰府の闇とはなくなった。神から完全に見捨てられた陰府ではなくなったのです。そこにも主イエス・キリストが立って下さるからです。主イエスがおられるところ、そこはもはや陰府の闇ではないのです。闇の中でも、主イエスは私どもに御手を差し伸べておられる。そこにも主イエスのいのちの足跡が遺されている。足下から私どもを支えて下さる。闇の中でも、キリストが光となって下さるのです。
②ローマ帝国の厳しい迫害の中、キリスト者たちはカタコンベという地下の暗いお墓に潜り、そこで礼拝をしました。時には、家族、友の遺体を囲み、涙を流しながら、棺の上にパンとぶどう汁を置き、聖餐に与りました。キリストのいのちに与った。陰府にまで降られたキリストは、暗い墓の中にも、いのちの足跡を遺して下さった。暗闇の中でも、主イエスのいのちの足跡が見える。涙を流しながら讃美歌を歌ったことでしょう。それが、ペトロの手紙一3章18節以下の讃美歌であったかもしれない。キリストは陰府まで降られ、キリストは天に上って神の右におられる。私どもを神のもとへ導くために。この世の権力、勢力は、キリストの支配に服しておられる。キリストの御支配を仰ぎ見ながら、キリストの御足の跡を踏み従いて、一足一足、共に歩んで行くいのちの歩調が与えられたに違いない。
説教の冒頭で紹介したジョン・ヘンリー・ニューマンの讃美歌288は、このような歌詞が続いています。
「しるべとなり給いし、光よ、今よりなおも野路に、山路に、闇夜の明け行くまで、導き行かせ給え」。
「とこ世の朝に覚むる、その時、しばしの別れをだに、嘆きし、愛する者の笑顔、御国にわれを迎えん」。
お祈りいたします。
「私ども人類は日々、陰府の闇を造り出しています。そのような深き淵にはまり込み、絶望の叫びを上げる私どもです。しかし、神から完全に見捨てられ、神から呪われた陰府に立たれたのは、主イエスただお一人です。主よ、どんな深い闇に囲まれても、主イエスのいのちの足跡が遺されていることを見させて下さい。どんなに絶望の闇の中で、命が消えかかっても、主イエスの十字架の叫び声を聴かせて下さい。闇に呑み込まれるような現実に直面しても、主イエス・キリストがここに生きておられることを見させて下さい。
キリストの御足の跡を踏み従いながら、信仰の仲間と共に、一足また一足確かないのちの歩調を刻ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。