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「キリストを着る」

エレミヤ書 13章1~11節
ガラテヤの信徒への手紙 3章23~29節

主日礼拝

井ノ川 勝 牧師

2025年11月23日

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2025.11.23. 「キリストを着る」

       エレミヤ13:1~11,ガラテヤ3:23~29


1.①先週18日の火曜日、馬場幼稚園で、キリスト教保育研修会が行われました。「クリスマスってなんですか」という主題で話をしました。最近、キリスト教幼稚園に、北陸学院大学の保育科の卒業生だけでなく、他の大学の卒業生も保育者として就職をします。聖書の御言葉に触れたことのない若い保育者がいる。キリスト教幼稚園にとって、クリスマス礼拝、キリスト降誕劇は、中心となる行事です。将に、キリスト教保育の特色が現れる時です。ところが、若い保育者から、「教会でもクリスマスをお祝いするのですか」と言う方もいる。そこで是非、「クリスマスってなんですか」という主題で話をしてほしいと依頼されました。

 来週11月30日から待降節に入ります。キリスト教幼稚園も、教会学校も、クリスマスの飾り付けをし、クリスマスの讃美歌を歌い、キリスト降誕劇の練習を始めています。キリスト教保育研修会でも、クリスマスのこども讃美歌を歌って始めました。

「かいばおけにねむる ひとりのおさなごは

 わたしたちのための すくいのしるし

 さあ行こうよ、ベツレヘム、すくいの主を見に。

 つたえよう、みんなに、うれしいしらせを」

 

来週11月30日から、アドヴェントに入ります。アドヴェントという言葉は、「主が来られる」という意味です。この朝、私どもが聴いたガラテヤ書の御言葉の中にも、このような言葉が語られていました。

「真実が現れた」。しかも2度も繰り返されています。実は、以前の新共同訳では、「信仰が現れた」と訳されていました。「信仰が来た」という意味です。私どもがあまり用いない表現です。私どもがよく用いる表現があります。「信仰を持つ」「信仰を手にする」。「私は信仰を手にしたから、洗礼を受けよう」。「私はあの方のように立派な信仰をまだ持っていないから、洗礼を受けることに躊躇している」。信仰は私どもの手の中にあるもの。信仰は私どもが掴むものという理解です。それ故、要らなくなったら、信仰を手放すことも、信仰を捨てることも出来ると考えてしまうのです。しかし、これは誤った信仰の捉え方です。それ故、この手紙を書きました伝道者パウロは、「信仰が来た」という表現を用いています。信仰は私どもの手の中にあるのではない。外から来るもの。神から来るもの。神が与えられるものである。

 今、私どもが手にしている聖書は、新しい聖書翻訳です。聖書協会共同訳です。これまでの聖書翻訳と大きく変わった箇所が、この御言葉です。「信仰が現れた」「信仰が来た」という言葉を、「真実が現れた」「真実が来た」と訳しました。どちらにも訳せる言葉です。この「真実」とは何を指しているのか。それは「主イエス・キリスト」です。「主キリストが来られた」。将に、アドヴェント、クリスマスの出来事を語っているのです。

 しかし、クリスマスの出来事を語る時に、2千年前に起きた過去のクリスマスの出来事を語るのではありません。今、私どもに、あなたがたに起きているクリスマスの出来事を語るのです。キリストは私たちのところに、あなたがたのところに来られた。それが「真実が来た」ということです。その時に、私たちに、あなたがたに大きな出来事が起こるのです。真実があなたを掴むのです。キリストがあなたを捕らえるのです。

 

2.①ここで注目してほしいことがあります。人称代名詞に注意して見て下さい。21節以下では、「私たちは」となっていました。ところが、26節以下では、「あなたがたは」となっています。人称代名詞が突然、変わるのです。真実が来た時、キリストが来られた時、私たちの救いの出来事が、あなたがた一人一人の救いの出来事となるのです。他人事ではなくなるのです。あなたがた一人一人に起こった出来事、あなたに起きた出来事となるのです。真実があなたを掴んだ、キリストがあなたを捕らえた時、そこで具体的に何が起こるのでしょうか。洗礼の出来事が起こるのです。パウロは語ります。

「あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」。

 この26節以下の「あなたがたは」という文章は、洗礼式の時に語られた御言葉ではないかとも言われています。私どもの教会でも、洗礼式の時に、「あなたがたは」「あなたは」と語りかけ、誓約をして、洗礼を授けます。

 私ども伝道者にとって、日本のプロテスタント教会の先頭に立つ伝道者がいます。植村正久牧師です。富士見町教会の初代の牧師、東京神学大学の初代の校長です。私ども伝道者、説教者のお手本となる存在です。植村牧師が宣教師の下で、神学を学び、愈々伝道を始めましたが、日本人の心になかなか福音が届きませんでした。失敗と挫折の連続でした。しかも植村牧師は訥弁で、牧師になる試験で、宣教師から「あなたは何を言っているのか分からない」と言われ、危うく落とされそうになりました。失敗と挫折を繰り返し、一番町で開拓伝道を始めました。やがて一番町教会という小さな教会の群れが誕生しました。植村牧師の若き頃の説教に、「宗教の衣装」という題の説教があります。明治36年になされた説教です。

 私どもの信仰において大切なことは、身体に纏う衣装である。どのような衣装を纏って、主の御前に立つのかが常に問われる。私どもの身体と衣装は一つである。私どもの信仰と衣装は一つである。

 キリスト降誕劇も、神さまに献げる礼拝です。どのような衣装を着て、神の御前に立つのか。幼稚園の園児、教会学校の生徒は、それぞれの役の衣装を身に着けます。マリア、ヨセフ、羊飼い、羊、博士、星。マリアの衣装を身に着けると、子どもはマリアになりきります。羊飼いの衣装を身に着けると、子どもは羊飼いになりきります。衣装がその人を変えます。そういう魅力が衣装にあります。そしてマリアも、ヨセフも、羊飼いも、羊も、博士も、それぞれの衣装を身に着けて、救い主である赤ちゃんイエスさまを礼拝するのです。キリストを礼拝する。それがクリスマスの出来事です。

 

聖書は一貫して、「信仰と衣装」を一つの主題としています。創世記において、神はアダムとエバを創造されました。しかし、アダムとエバは、神さまとの約束を破ってしまった。蛇に誘惑されて、食べてはいけない木の実を食べてしまった。その時、アダムとエバは裸であることに気き、身を隠し、神の御前に立つことが怖くなり、出来なくなりました。それは自分たちが犯した罪、神との関係の破れに気づき、神との関係が破れたままでは、神の御前に立てなくなったということです。その時、神はアダムとエバに、「皮の衣」を着せられました。象徴的な出来事です。

 そこで問題となっていることは、私どもが、神との関係が破れた私ども罪人が、神の御前に立って、神を礼拝するためには、どのような衣装を身に纏うべきかが、主題として問われているのです。

 伝道者パウロは、私どもが洗礼を受けることは、「キリストを着る」ことだと語りました。興味深い表現です。これはパウロがロマ書13章でも強調していることです。最初の教会は、受難週の一週間、洗礼志願者はひたすら御言葉に聴き、祈りを捧げ、洗礼準備の教育を受けました。そして主イエス・キリストが甦られた復活祭の朝、野外の川で、全身水の中に浸り、洗礼を受けました。金沢にもバブテスト教会、洗礼教会と呼ばれる教会があります。全身水の中に浸る洗礼式を行います。講壇の後ろの壁の板を取り払う。あるいは講壇の床の板を取り払うと、そこに水槽があります。その水槽に水を入れ、冬はお湯を入れます。牧師と洗礼志願者は白い衣に着替えます。牧師は洗礼志願者を水の中に、仰向けに倒します。キリストと共に、古い人間が十字架につけられて死んだという動作です。そして水の中から起き上がらせます。キリストと共に、新しい人間として甦ったことを表す動作です。私どもの教会では、頭の上に水を垂らす滴礼です。しかし、洗礼において、意味することは同じです。

 洗礼式の象徴が白い衣です。それは何を意味するのでしょうか。洗礼を受けた者が、キリストにあって新しく生まれ変わった象徴でしょうか。洗礼を受けた者は、キリストによって罪赦された純潔のしるしなのでしょうか。

 

3.①以前、水曜日の祈祷会で、ヨハネの黙示録の御言葉を黙想しました。私が金沢教会に遣わされ、10年かけて、旧約聖書の御言葉を黙想し、最初に採り上げた新約聖書がヨハネの黙示録でした。7章に、伝道者ヨハネが、ローマ帝国の迫害の只中にある地上の礼拝において、幻の中で天上の礼拝を見ました。そこには数え切れない程の大群衆、私どもの信仰の先達が、白い頃を身に纏って、神と小羊キリストとを礼拝し、大合唱で神を賛美していました。「救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある」。

長老の一人が伝道者ヨハネに問いかけました。

「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか」。ヨハネは答えました。「それはあなたがご存じです」。長老は言いました。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。

 驚くべき言葉が語られています。天上の礼拝をしている者たちが身に纏っている白い衣。それは最初から白かったのではない。罪で汚れていた。罪のしみがこびり付いていた。洗っても洗っても、自分では落とせない罪の汚れ、しみでした。しかし、小羊キリストが十字架で流された血で洗って白くなった。白い衣になったのです。小羊キリストの十字架の血で洗われた白い衣を身に纏わされる。それこそが、キリストを着ることなのです。キリストを身に纏うことです。

 洗礼を受け、キリストを着る。私どもの罪も、過ちも、後悔も、心の傷も、苦しみも、悲しみも、誰にも打ち明けられない心の奥に締まってあるどろどろした思いも、全て、キリストが包み込んで下さる。キリストが覆って下さる。人々から見えなくして下さる。それがキリストを着ることです。キリストを身に纏うことです。

 

しばしば、このような問いかけを受けます。洗礼を受けると、どこが変わるのですか。どこが変わったのですか。一見、どこも変わっていないように見えますが。しかし、決定的に変わったのです。伝道者パウロは語ります。

「あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです」。

 キリストを着ることにより、私どもは神の子とされたのです。鏡を見ても、私はとても神の子には見えないと、言われる方がいます。しかし、あなたは神の子とされたのです。キリストは生まれながらの神の子です。私どもはキリストを着ることにより、神の子とされました。主イエス・キリストは、天の父なる神に向かって、「アッバ、父よ」呼びました。「アッバ」という言葉は、子どもが親しみを込めて呼ぶ言葉です。「おとうちゃん」という意味です。天の父なる神さまに向かって、「アッバ、父よ」「アッバ、お父ちゃん」と呼んだのは、主イエスが初めてです。人々は驚いたことでしょう。しかし、私どももキリストを着ることにより、御子の霊を注がれて、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子とされたのです。幼稚園の園児も、高齢の者も、ベッドで寝たきりの者も、皆、「アッバ、父よ」と呼ぶことが赦されている。クリスマスは、御子イエス・キリストの誕生により、キリストを着た私どもが、年齢を超えて、天の父なる神を「アッバ、父よ」と呼ぶ、神の子らの祭なのです。

 伝道者パウロは語ります。

「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです」。

 私どもが生きるこの社会、世界には、民族の差別があります。身分差別があります。性差別があります。その差別に苦しんでいる者が多くいます。心傷つき、悔しい思いをしている者が多くいます。しかし、私どもはキリストを着ることにおいて、民族差別、身分差別、性差別を超えて、キリストにあって神の子とされ、一つとされているのです。世界の中に、キリストにあって、あらゆる差別を超えたキリストを着る神の子らの交わりが誕生した。それがキリストの教会なのです。

 

4.①先週20日の木曜日、地区集会が行われました。「老いと死をみつめて」という主題で話をしました。老いることと、死を迎えることは、私どもにとって避けられないことです。しかし、聖書は老いること、死ぬことをマイナスには捉えていません。むしろ、そこに神の恵みが注がれるのだと語るのです。

キリストを着る。それは私どもの死に装束でもあります。私どもはキリストを着て、死に臨むのです。伝道者パウロが終わりの日の出来事、終末の出来事をこのように語ります。コリントの信徒への手紙15章52節以下です。

「(終わりの)ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです」。

 私どもの体は死に直面し、朽ちて行きます。しかし、終わりの日、朽ちるべき私どもは朽ちないものを着せられ、死ぬべき私どもは死なないものを着せられる。それこそが、十字架で死なれ、死に打ち勝たれ、甦られたキリストを着ることなのです。キリストを身に纏った私どもは終わりの日、死の眠りから目覚め、皆でこの讃美歌を合唱するのです。

「死は勝利に吞み込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前の棘はどこにあるのか」。

このような大いなる約束が、キリストから与えられているのだから、伝道者パウロは私どもに語りかけます。

「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです」。

 

東京神学大学の教授であり、武蔵野教会の牧師であった熊野義孝先生がおられました。植村正久牧師の弟子であり、日本を代表する神学者です。その伴侶が熊野清子牧師でした。優れた伝道者であり、説教者です。私は一度だけ、熊野清子牧師の説教を聴いたことがあります。富士見町教会で行われた牧師、長老の協議会です。小柄ですが、背筋をぴんと伸ばして、一つ一つの言葉を丁寧に語られました。キリストを身に纏った伝道者とは、このような伝道者なのだと思いました。

『キリストの義をまといて』という説教集を刊行しています。その本の題名にもなった説教は、ガラテヤ書のこの御言葉を説き明かしたものです。そこで繰り返し強調されていることがあります。「キリストを着る」「キリストを身に纏う」ことは、キリストと密着して日々生きることである。日々の生活で、私どもは様々なことで思い煩います。自分の思い通りに行かず、家族に八つ当たりします。腹が立って、自分の高ぶる感情を抑えられなくなります。しかし、そのような私どもを丸ごと、キリストが身に纏って下さるのです。丸ごとキリストが抱え込んで下さるのです。キリストと密着して生きることは、私どもがキリストと密着して生きるよりも、キリストが私どもと密着して生きて下さるのです。熊野清子牧師はこう語ります。

「キリストを着る、誠に光栄なことでございます。着物というものは、その人に不相応な、いい着物でございます場合には、着負ける、着物に負けるということがございます。ひどい時には、狼に衣を着せたような、「狼衣」という言葉がございます。私共は、まさに、キリストを魂の着物に着た場合には、狼が着物を着せられたような、おかしなことになるのでございます。へたをすると、キリストの衣のすそから、狼のしっぽが、のぞいているというようなありさまではないかと、思われるのでございます。

 けれども、着物を、終始、着ておりますと、その着物にだんだんと、着ている人が、馴染んで参りまして、その人に、似合ってくるということもあるのでございます。そして、着負けをしていた人が、まことに、その着物にふさわしい者にあることができる場合がございます。私共も、キリストを、魂の衣として、着ることを許されましたならば、早く、キリストの着物に馴れる者になりたいと思うのでございます。私共は、キリストに密着し、キリストに従って、キリストと結ばれて生活をいたします時に、私共の罪が赦されたばかりでなく、私共が、だんだんと、聖められていくという恵みを経験しているのでございます。そして、ついに、イエス・キリストに似たものになるという、途方もない、素晴らしいことが、与えられるのでございます」。

 キリストを着て、日々生活していると、キリストに似たものとされる。キリストの心を心として生活するようになる。日々の生活で直面する場面場面で、イエスさまだったらどう考え、選ばれるだろうかを、真っ先に考えるようになる。私どもの思いではなく、神の御心がなりますようにと、祈るようになる。

 「主の義をまといて」という説教題は、讃美歌474の4節から採られたものです。19世紀の英国の牧師、エドワード・モート作です。

「終わりの知らせの ラッパの音聞く時、

 主の義をまといて、みまえにわれ立たん。

 われらのイエスこそ 救いの岩なれ、救いの岩なれ」

 終わりの審きの日、神の御前に立つ時、私どもはキリストを着て、キリストの義、真実を身に纏って立つのです。神はキリストの義、真実を見られて、私どもを永遠の救いへと導かれるのです。

 クリスマスの日、洗礼を受け、キリストを着、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子らの群れに、新たに神の子として加えられる者が与えられますよう、祈り願う者です。

 お祈りいたします。

「ただキリストの真実により、キリストを着、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子とされたことを感謝いたします。どんな時にも、キリストを身に纏い、神をほめたたえる賛美に生きさせて下さい。洗礼を受け、キリストを着る者を新たに加えて下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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