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「不信仰の信仰に生きる」

エゼキエル書 14章12~20節
マルコによる福音書 9章14~29節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年9月13日

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2026.9.13. 「不信仰の信仰に生きる」

      エゼキエル14:12~20,マルコ9:14~29


1.①イタリアのルネッサンスを代表する画家に、ラファエロがいます。聖書を題材とする作品を何枚も描いています。ラファエロは37歳の若さでなくなりました。その代表作に、「キリストの変貌」があります。最後の作品となった絵です。ラファエロの信仰が現れていると言えます。マルコ福音書9章の御言葉を題材とした絵です。山の頂で起きた主イエスの山上の変貌の出来事と、山の麓で起きた病で苦しむ子どもを巡る出来事とを、一枚の絵で描いています。

 山の頂では、主イエスが旧約聖書を代表するモーセとエリヤと語り合い、主イエスのお姿が光り輝いている。しかし、主イエスは山の頂に留まっておられない。光り輝く主イエスは山の頂から飛び立っておられる。山の麓では病に苦しむ子どもを、弟子たちが癒そうとしたが癒せない。弟子たちの信仰の無力さが顕わになり、騒動になっている。山の麓は闇で覆われている。光り輝く主イエスが来られたことに気づいた者もいて、主イエスに向かって指さしている。しかし、ほとんどの者が主イエスに気づかない。主イエスに背を向けて、目の前の子どもの病が癒やせない現実に混乱している。

 二つの場面を一枚の絵で、ラファエロは描きました。

 

②マルコ福音書9章は、主イエスの地上の歩みにおいて、分岐点となった出来事が語られています。福音書の大きな山場です。この出来事をきっかけに、主イエスは最大の山場である十字架を目指し、十字架の道をまっしぐらに歩んで行かれました。

 山に登られた主イエスは、山の上で、モーセとエリヤと語り合います。その時、主イエスのお姿は光に輝いた。山上の変貌と呼ばれています。そこに居合わせたペトロは感動しました。「何と素晴らしいことか。ここに小屋を建てますから、ずっと留まって下さい」。しかし、主イエスは山の上に留まることはしませんでした。山を降りて、麓に向かわれました。山の下には悲惨な現実、不信仰な現実があるからです。そこへ主イエスは向かわれました。

 出エジプト記の出来事を想い起こします。エジプトを脱出したモーセは、シナイ山の頂で、神から十戒の言葉が記された石の板を受け取りました。その時、モーセの顔は光輝いていました。しかし、モーセは山の頂に留まりません。山を降って行かれました。山の麓では、金の小牛を造り、自分たちの神として拝む、不信仰な神の民がいたからです。モーセも山から降り、主イエスも山から降ります。そして悲惨な現実、不信仰な現実へ向かいます。

 一人の父親が病に苦しむわが子を連れて、主イエスの許に来ました。発作が起こると、口から泡を吹き出し、歯ぎしりをして体を硬直させていた。てんかんの病だと言われていました。人々は汚れた霊に取り憑かれていたと受け止めた。ところが、主イエスは山に登られ、不在でした。そこで弟子たちが主イエスに代わって、病を癒そうとした。しかし、病を癒すことが出来なかった。汚れ霊を追い出すことが出来なかった。律法学者たちが寄って来て、弟子たちの無力さを揶揄します。そこに大勢の群衆もやって来て、大騒ぎになります。そこに主イエスが山から降りて、やって来ました。主イエスの帰りを待っていた、病を抱えた子どもの父親は、主イエスの許に駆け寄りました。

 

2.①主イエスが山から降りて来て、その現実を見られ、真っ先に語られた御言葉があります。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

主イエスの嘆きです。

 私どもは日々、世界の現実と向き合いながら歩んでいます。その時、私どもが抱く思いがあります。主イエスは今日の世界の現実をどのように御覧になられているのか。恐らく、この御言葉を語られるのではないだろうか。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

 主イエスは世界の現実を見られ、嘆いておられる。憤っておられる。しかい、嘆き、憤りながら、私どもが生きるこの世界を見捨てられるのではありません。「我慢できようか」という言葉は、見放すという意味ではなく、愛をもって担い続けるという意味です。不信仰な世界であるにもかかわらず、主イエスは愛をもって、この世界を見放すことなく、担い続けて下さる。我慢し続けて下さる。

 私どもが生きている世界は、神が造られた世界です。しかし、私ども人間は、造り主なる神を忘れています。造り主に心を向けようとしません。造り主を信じようとしません。自分たちこそ、世界の統治者であると誇り高ぶっています。不信仰に生きています。その行き着く先は、滅びでしかない。しかし、主イエスは私どもに、この世界の造り主である神へまなざしを向けさせようと、愛をもって忍耐しながら、この世界を担い続けておられます。不信仰に生きるのではなく、神を信じて生きてほしい。

 

②「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

 主イエスはこの御言葉を誰に向かって語られたのでしょうか。弟子たちに向かって語られました。言い換えれば、教会の外に生きる人々に向かって語られたのではなく、教会に生きる私どもに向かって語られた御言葉なのです。厳しい言葉です。

 弟子たちは主イエスの留守中、子ども病を癒そうとしました。悪霊を追い出そうとしました。しかし、それが出来なかった。弟子たちは主イエスに尋ねました。「なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのか」。主イエスは答えられた。

「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」。

弟子たちは祈って、子どもの病を癒そうとしたはずです。祈って、汚れた霊を追い出そうとしたはずです。しかし、出来なかった。主イエスは語られた。あなた方の祈りは、真実の祈りとなっていない。あなたがたの信仰は、真実の信仰とはなっていない。それでは真の祈り、真の信仰とは何なのか。

 この時なされた主イエスと父親の問答が重要です。人々は子どもを主イエスの許に連れて来ました。汚れた霊は、主イエスを見ると、その子に痙攣を起こさせた。その子は地面に倒れ、口から泡を吹きながら転げ回った。主イエスは尋ねました。「いつからこうなったのか」。父親は答えました。

「幼い時からです。霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」。

 父親は「わが子を憐れんでお助けください」とは言っていません。「私どもを憐れんでお助けください」。「私ども」です。わが子の苦しみは父の苦しみ、わが子の痛みは父の痛みです。わが子と父親とは一心同体だからです。父親は主イエスに向かって、直接、「私どもを憐れみ助けてください」とは語っていません。「もしできますならば」と前置きをしています。条件を付けています。それは謙遜と言えるかもしれません。果たしてそれだけでしょうか。

 私どもも自分の力ではとても解決出来ない時、神に向かって、同じ祈りを捧げます。「もしできますならば」「もし可能であるならば」。条件を付けます。神に全てを委ね切れないのです。神に全てを明け渡し切れないのです。自分の力に頼もうとする心が、尚残っているのです。

 しかし、主イエスは語られます。

「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」。

「もしできるなら」という言葉、条件を、主イエスは取り去られる。そして語られる。全てを神に委ねなさい。信じる者には何でもできるではないか。

 

3.①父親はすぐに叫んで言われた。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。

この父親の言葉は、教会の信仰を言い表す信仰告白となりました。直前で、ペトロの信仰告白がありました。「あなたは、メシアです」。「あなたこそキリストです」。教会の礎となる信仰告白となりました。それと並び称される信仰告白が、父親のこの言葉です。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。

不思議な信仰告白です。前半と後半が相反しています。一方では「信じます」と言う。他方では「信仰のない私を」と言っている。一体、どういう意味なのでしょうか。

 この父親の信仰告白は、「不信仰の信仰」と呼ばれるようになりました。私どもの内には、信仰と呼べるものは一切ない。信仰として誇れるものなど一切ない。そのような不信仰な私どもが、一体何故、「信じます」と信仰を告白出来るのでしょうか。

 ある神学者は、信仰をひと言で言い表しました。「信仰とは空洞」である。「空洞」とは、空っぽということです。私どもは土の器。器は何かを盛るためにある。しかし、私ども土の器は空っぽ。何も入れるものがない。しかも私どもは汚れた器。自らの罪で汚れている。しかし、空洞だからこそ、空っぽだからこそ、神は汚れた器であっても、いのちの水を注いで下さる。

 主イエスは山の上で、光輝くお姿に留まっておられません。それをかなぐり捨てて、山から降りて来られる。不信仰で、悲惨な現実のただ中に、飛び込んで下さる。汚れた霊に取り憑かれ、病に苦しむ子どもと父親と向き合って下さる。空洞の器の中に、空っぽの器の中に、主イエスは来られ、「汚れた霊よ、この子から出て行け」と御言葉を語られ、御業を行って下さる。空っぽの器の中に、生ける主イエスが生きて下さる。そこに「信じます」という信仰がある。「信じます。信仰のない私をお助けください」という不信仰の信仰がある。

 主イエスのこの癒しの出来事、汚れた霊を追い出す出来事の前後に、挟むようにして、主イエスの受難預言の言葉が語られます。癒しの御業、汚れた霊を追い出す御業を行った主イエスは、一体誰なのかが明らかにされます。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、排斥され殺され、三日目に復活することになっている」。

 癒しの御業、汚れた霊を追い出す御業を行った主イエスは、私どものために十字架につけられ、甦られたキリストである。私ども土の器の中に、キリストのいのちが宿り、私どもを生かし、生ける御業を現して下さる。

 

②私は大学1年生の時、大学の講義に来ていた牧師に導かれ、その牧師が伝道・牧会していた教会の礼拝に出席するようになりました。牧師は毎主日の礼拝で、存在を懸けて説教し、いつも主イエス・キリストはあなたがたのために十字架につけられ、甦られたのだ。キリストの十字架と復活の福音を語られました。御言葉に惹かれつつも、しかし、なかなかキリストの十字架と復活の福音を理解することは出来ませんでした。

 そのような時、東京神学大学の熊沢義宣先生の「十字架と復活」という「東神大パンフレット」を手にし、何度も読みました。そこで初めて、キリストの十字架と復活の出来事が、私のための出来事として迫って来ました。熊沢先生は、私が東京神学大学大学院2年生の時、学長に就任されました。しかし、間もなく心筋梗塞で倒れられ、学長を退かれました。病床での体験を通して、キリストの十字架と復活の出来事が、私のためであったことを語られました。NHKラジオの「宗教の時間」で、「病床からのメッセージ」と題して語られました。

 心筋梗塞で倒れ、ベッドの上で様々なチューブを取り付けられ、身動きが出来ない状態になった。元気な頃、神学校で神学生に神学を教え、神学書を書き、教会で御言葉を説き明かす説教をしていた。いつの間にか、全ての御業の中心に、私が立っていた。私はこれだけのことが出来る。これだけのことをしている。私が生きている。私、私、私と、我を主張し、我を張る。それを聖書は罪と言う。

 私どもは自分の罪の重さ、不信仰の故に、どん底へ向かって落ちて行く。どん底に落ちたら、私どもは砕け散る。滅びるしかない。しかし、私どもはそのことに気づいていない。自らの力を誇示して生きている。しかし、私どもがどん族に落ちて、砕け散ることがないように、神が人となられ、どん族に降られ、立って下さり、罪の重さで落ちる私どもを、わが身で受け止めて下さった。素手で受け止めたら、受け止める側も、命を落とす。しかし、命懸けで、身をもって血を流し、肉が避けても、自らの命が犠牲になっても、罪の重さで落ちる私どもを受け止めて下さった。それこそが主イエスの十字架の出来事であった。そして私どもが新しくされて生かされるように、主イエスは死の力、悪しき霊に打ち勝ち、甦って下さった。

 心筋梗塞で倒れ、ベッドに横たわり、何も出来ない私、価値なき私を、十字架にかかり、甦られた主イエスが受け止め、私を生かして下さる。こんな状態になっても、何も出来ない価値なき存在になっても、尚、生かして下さる。私が生きているのではなく、私はキリストに生かされている。熊沢先生のこの証しにも、この信仰告白の言葉が響いています。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。

 

4.①「汚れた霊よ、この子から出て行け」。主イエスの御言葉によって、子どもは癒された。この子どもと同じてんかんの病に苦しんだのは、伝道者パウロです。パウロはその病を、肉体に与えられた一つの棘と受け止めました。主に向かって三度、繰り返し繰り返し祈りました。「肉体の棘を取り去って下さい。この棘がなくなれば、病が癒されれば、私はもっともっと多くの人に、生けるキリストを伝えることが出来ます」。

 しかし、主は答えられた。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ完全に現れるのだ」。

主は肉体の棘を取り除かれなかった。棘がなくなれば、病が癒されれば、私はもっと伝道できるという傲慢さ、不信仰を打ち砕かれた。肉体の棘を抱えたまま、その弱さにこそ神の恵みは完全に現れるのだと語られた。それ故、パウロは語ります。

「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

伝道者パウロのこの言葉も、父親の信仰告白と響き合います。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。

生けるキリストが不信仰で、弱い私どものところに来て下さり、生き生きと働いて下さり、生ける御言葉を語りかけて下さる。生けるキリストにこそ、不信仰に打ち勝つ真実があるのです。

 

 お祈りいたします。

「私どもの内には、信仰と呼べるものなど一切ありません。誇るべき信仰もありません。空っぽの器である私に、主キリストは来て下さり、宿り、生ける御業を行い、生ける御言葉を語られるのです。信じます。不信仰の私をお助けください。不信仰の信仰に、私どもを生かして下さい。不信仰の私どもを通し、生けるキリストを大胆に証しさせてください。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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