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「不信仰の信仰に生きる」

エゼキエル14:12~20
マルコ9:14~29

主日礼拝

井ノ川勝

2025年6月1日

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1.①先週、私は金沢と東京を何度も行き来する日々を過ごしました。月曜日、東京での会議の後、入院している妻の父と面会をしました。いつものように言葉を交わし、祈りを捧げて、別れました。火曜日、妻と共に金沢に戻って来ました。夕食中に電話が入りました。「父が亡くなった」。急いで身支度をし、新幹線の最終に乗って、再び東京に戻りました。高齢の妻の母を連れて、病院に駆けつけた時は、既に12時を過ぎていました。

 病院は24時間、眠ることなく、命と死と向き合っています。夜の病院は静まりかえっています。夜の闇に包まれた病室からは、患者の呻き声が聞こえてきます。救急患者を搬送する音、家族の涙声が聞こえて来ます。霊安室に寝かされた父を見た母が、涙を流して泣き叫びます。「なぜ、死んじゃったの。目を開けて。起きて」。涙を流しながら泣き叫ぶ母の傍らで、祈りを捧げました。しかし、牧師の祈りであっても、果たして死の闇を打ち勝つ祈りとなっているのだろうか。死の闇に覆われた無力な祈りになっていないだろうか。父の遺体を前にして、改めて牧師である私の祈りと信仰が問われたように思いました。

 

「100分で名著」というテレビ番組があります。5月は、昨年、亡くなられた詩人・谷川俊太郎の詩集を取り上げていました。解説をされたのは、カトリックの信仰に生きる批評家の若松英輔さんでした。そこで、「なくぞ」という詩を採り上げていました。ひらがなの詩で、ひらがなの響きを伝える詩です。

「なくぞ ぼくなくぞ いまはわらってたって

 いやなことがあったらすぐなくぞ 

 ぼくがなけば かみなりなんかきこえなくなる

 ぼくがなけば にほんなんかなみだでしずむ

 ぼくがなけば かみさまだってなきだしちゃう

 なくぞ いますぐなくぞ ないてうちゅうをぶっとばす」

 私どもの世界は、昼も夜も、泣き声、呻き声に溢れています。日本が涙で沈む程の涙が流されています。宇宙がぶっ飛ぶ程の、泣き声に溢れています。

 若松英輔さんはこの詩を採り上げた後、詩編12編6節の御言葉を想い起こしたと言って、紹介しました。フランシスコ会訳です。

「主は仰せになる、

『哀れな者のすすり泣きと、貧しい者の呻きの故に、

 今こそ、わたしは立ち上がり、脅された者を安全な所に置こう』」。

私どもが涙を流しながら叫ぶ祈りは、誠に無力です。しかし、主なる神は哀れな者のすすり泣き、貧しい者の呻き、無力で小さな叫びを聴いて下さる。立ち上がって下さる。救いの御業を行って下さる。私どもの無力で小さな信仰と祈りは、私どもの祈りともいえないすすり泣き、呻きを聴いて下さり、立ち上がって、御業を行われる、主なる神によって支えられているのです。

 

2.①この朝、マルコによる福音書9章14節以下の御言葉を聴きました。私どもの信仰、祈りを、真っ正面から問う御言葉です。教会がいつも中心に据えてきた御言葉です。ここには、主イエスの呻きが語られています。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

 主イエスが語られた御言葉の中で、最も激しい叫びです。主イエスはこの時代の、この世の不信仰を嘆いておられます。「いつまであなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と、呻いておられます。堪忍袋の緒が切れそうになっている。忍耐の限界にまで達しています。

 私どもは日々、世界の現実と向き合いながら生きています。そこで心痛め、悲しみ、考え、悩み、涙を流しながら生きています。その時、いつも思うことがあります。主イエスは世界をどのように見つめておられるのだろうか。主イエスは世界の現実をどのように考えておられるのだろうか。主イエスであるならば、今、どのような決断をされるのだろうか。世界の現実と向き合っておられる主イエスの思いが集約された呻きです。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

 しかし、私どもは思い違いをしてはならないのです。主イエスの激しいこの呻きは、一体誰に向かって語られた言葉なのでしょうか。この御言葉は教会の外にいる人々に向かって語られた言葉ではありません。弟子たちに向かって語られた御言葉です。教会に生きる私どもに向かって語られた御言葉です。

 しかし、主イエスのこの御言葉は、弟子たちの不信仰を嘆いて、弟子たちとの関係を断ち切ろうとする思いが込められた御言葉ではありません。むしろ、弟子たちの不信仰を、主イエスが担い、信仰へと導こうとする思いが込められた御言葉です。

 

主イエスが嘆かれた弟子たちの不信仰は、どこに現れたのでしょうか。ある父親が霊に取り憑かれた息子を連れて、主イエスの許にやって来ました。霊が暴れ出すと、息子は所構わず引き倒され、泡を吹き、歯ぎしりして体をこわばらせしまいます。父は為す術がない。どうすることも出来ない。わが子が苦しんでいる姿を目の当たりすることこそ、親にとっていたたまれないことはない。様々な医者や、祈禱師にお願いしたが、息子は一向に良くならなかった。そこで、主イエスの許に連れて来て、息子から霊を追い出してもらおうとしました。ところが、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、山に登られたので、不在でした。

 そこで残っていた弟子たちが、祈って、息子から霊を追い出そうとした。ところが、何度も何度も祈っても、霊は追い出せなかった。弟子たちは自らの祈りの無力さに打ちのめされた。その時、主イエスが山を下って帰って来られた。弟子たちの姿を見て、不信仰を嘆かれたのです。

 

3.①この場面で、私どもの心を惹くのは、主イエスと父親との対話、問答です。悲しみの時に、心引き裂かれる時に、私どもは言葉を交わし合うことが出来なくなります。自分の心の部屋に閉じこもってしまいます。誰も私の悲しみ、痛みなど分かってくれないと、心を閉ざしてしまいます。しかし、私どもが悲しみから立ち直るのは、言葉を交わし合うこと以外にはないのです。

主イエスこそ、私どもの悲しみ、心引き裂かれる私どもと向き合って下さるのです。言葉を交わし合って下さるのです。私どもを悲しみの中から立ち上がらせるためです。

 主イエスは父親に声をかけました。「いつからこうなったのか」。

父親は答えました。

「幼い時からです。霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」。

 「もしできますなら」。私どもも神に向かって祈る時に、しばしば用いる言葉です。謙遜の思いを込めて祈ります。しかし、果たしてそれだけの思いでしょうか。「もしできますなら」。それは神に対して、条件を付けているということです。もし神がお出来にならなければ、私は次の手立てを考えますという意味が込められています。もし出来なければ、もはや神に頼らず、自分で何とかしますという意味が込められています。

 しかし、それに対して、主イエスは答えられます。

「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」。

主イエスは、「もしできるなら」という言葉を外させます。神に対して、条件を付ける必要はないのだと言われます。「信じる者には何でもできる」。自分を信じるのではありません。神を信じる者には何でもできる。神を信頼せよ。神に全てを委ねよ。神に全てを委ねたら、「もしできるなら」と、神に条件を付ける必要などないだろうと言われるのです。神は私どもの条件の中で、条件に縛られて行動される神ではないからです。神は私どもの願い、思いを遙かに超えて、御業を行われる神だからです。

 それ故、あなたの心の痛みも、苦悩も全て、神に委ねよと語られるのです。

 

「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」。

主イエスの言葉に、父親は叫びながら応えます。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。

父親の信仰告白です。その後の教会の歩みを導く、決定的な教会の信仰告白となりました。主イエスの呼びかけに応答して、私どもの信仰、祈りが生まれます。今日の出来事の直前で、主イエスは弟子たちに尋ねました。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。ペトロが答えました。「あなたは、メシアです。キリストです」。ペトロの信仰告白、キリスト告白です。また、甦られた主イエスが最後まで主イエスの甦りを信じようとしないトマスに向かって、語られました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは答えました。「私の主、私の神よ」。ペトロの信仰告白も、トマスの信仰告白も、教会の信仰告白の礎となりました。私どもも、「あなたこそキリストです」「わが主よ、わが神よ」と、教会の信仰告白に、「アーメン」と同意して、洗礼を受けます。

 このペトロの信仰告白、トマスの信仰告白と並んで、教会にとって大切な信仰告白こそ、名もなき父親のこの信仰告白なのです。

「信じます。信仰のない私をお助け下さい」。

しかし、不思議な信仰告白です。一方で、「信じます」と告白します。しかし、他方で、「信仰のない私を」と告白するのです。「私は信じます」と言いながら、「私には信仰がない」と言うのです。矛盾した信仰告白です。しかし、ここにこそ、信仰の本質が証しされています。

 私どもの内には、神の御前で信仰と呼べるものなど、何もないのです。弟子たちは主イエスに、密かに尋ねました。

「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。

主イエスは答えられました。

「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」。

弟子たちは祈らなかったのではありません。祈ったのです。祈って、霊に取り憑かれ、苦しんでいる子どもから、霊を追い出そうとしたのです。しかし、追い出すことは出来ませんでした。主イエスは弟子たちに語られます。「あなたがたには、祈りがない。祈っても、真の祈りではない」。厳しい言葉です。主イエスのまなざしの下では、弟子たちの内に、信仰も祈りもなかった。あるのは不信仰のみです。それ故、主イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれたのです。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

「あなたがたの内に、信仰も祈りも見られない」。主イエスが牧師である私に向かって、信仰者である私どもに向かって語られているのです。

 私どもの内に、信仰も祈りもない。あるには不信仰のみ。私どもの内に、信仰と祈りを創造して下さるのは、この御言葉を語られる主イエスのみです。

「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」。

それ故、主イエスに向かって、私どもはこのように答えるのです。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。

この信仰告白が告白していることは、「不信仰の信仰」です。私どもの信仰告白は、「不信仰の信仰」と呼ぶべきものなのです。胸を張って堂々と、「われ信ず」と言うべきものは何一つない。主の御前で、胸を打ちながら、悔い改めながら告白すべきものです。それが「不信仰の信仰の告白」です。

 

4.①説教の冒頭で、お伝えしましたが、先週5月27日(火)夕べ、妻の父が亡くなりました。その週の内に、葬儀と火葬を考えていたのですが、葬儀社、火葬場の都合で、明日、都内の教会で、私の司式で行われることになりました。そのため、週の半ば、木曜日の夕方、私だけ金沢に戻って来ました。その夜、何気なしにテレビを付けたら、ニュース番組をしていました。ドイツの元首相メルケルさんが来日され、インタビューの特集が報道されていました。自伝を出版され、日本語にも訳されました。本の題名は『自由』です。そのために来日されました。

 メルケルさんは東ドイツの牧師の娘です。社会主義体制の国家において、自由はありませんでした。厳しい政治状況の中で、教会に対して様々な圧力がかかる中で、御言葉を信じ、主への信頼に生きました。物理学者となりました。しかし、1889年、難攻不落と言われていたベルリンの壁が崩れました。その出来事がメルケルさん、そして東ドイツに諜報員として遣わされていたプーチンの運命を大きく変えました。メルケルさんは政治家の道へ歩み出します。そしてドイツの首相となりました。メルケルさんはロシア語が堪能ですので、プーチン大統領とロシア語で対話をすることが出来ました。それが二人の間の信頼関係を築くこととなりました。

 メルケルさんが首相を退任されてから数ヶ月後、ロシアのウクライナ侵攻が起こりました。アナウンサーが尋ねました。「何故、プーチン大統領はウクライナ侵攻へと踏み切ったのか」。メルケルさんは答えました。「コロナの影響があったからだ」。以外な答えに驚きましたが、成る程と思いました。コロナの影響で、顔と顔とを合わせて対話が出来なかった。対話出来ないと、政治家は外からの声ではなく、自分の心の声だけしか聞かなくなる。外からの声で自分が打ち砕かれるのではなく、自分の心の内側の声だけを聞いていると、独裁者になりやすい。それが原因だとメルケルさんは語るのです。

 しかし、これは政治家だけに起こることではありません。牧師にも起こることです。私ども信仰者にも起こることです。私どもが心の内側の声を聞き、それを神に言い表し、訴えることが、信仰であり、祈りであると思ったら、大きな間違いです。信仰、祈りとは、外からの声を聴くことにあります。「外からの声」、それは「神からの声」です。神からの声をひたすら聴くことこそが、信仰であり、祈りなのです。神からの声はいつも、私どもの心を満足させるとは限りません。私どもが望む言葉を語るとは限りません。むしろ、私どもにとって都合の悪い言葉を語られます。私どもの高慢、怠慢、虚偽、不義を打ち砕きます。打ち砕かれ悔いる心で、神に立ち帰らせます。それこそが「不信仰の信仰」です。「信じます。信仰のない私をお助けください」。

 

主イエスは汚れた霊をお叱りになりました。

「ものを言わせず、耳も聞こえさせない霊。私の命令だ。この子から出て行け。二度と入って来るな」。

すると、霊は叫び声を上げ、ひどく痙攣を起こさせて出て行きました。息子の病はてんかんだとも言われています。伝道者パウロも、目の病気に加え、てんかんの病を背負っていました。それ故、主に向かって、肉体に与えられた棘、私を打つために、サタンから送られた使いを取り去ってほしいと、三度主に向かって祈りました。三度というのは、何度も祈ったということです。しかし、肉体の棘は取り除かれなかった。肉体の痛み、苦しみはなくならなかった。しかし、主は答えられた。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現されるのだ」。

この主の恵み、主の御言葉に応えて、パウロは語りました。

「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。私は、弱さ、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」。

 伝道者パウロは、主イエス・キリストの恵みを注がれたキリストの器として、主に用いられました。ひたすら自分を生かす主イエス・キリストを証ししました。ある神学者は「不信仰の信仰」をひと言で言い表しました。「空洞」。

私どもは空っぽの器。信仰と呼べるものが何一つ入っていない空の器。しかし、そこで主イエス・キリストは十字架で、自らのいのちを、恵みを溢れんばかりに注いで下さった。

伝道者パウロは、甦られた主イエスと出会った時に、この十字架の恵みを知りました。それ故、パウロは語るのです。パウロの信仰の核心です。

「私どもが救われるのは、行いによるのではなく、キリスト・イエスによる十字架の贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」。

 伝道者パウロもまた、「不信仰の信仰」に生きました。「信じます。信仰のない私をお助けください」。私どもも、キリストの恵みを注がれたキリストの器として、「不信仰の信仰」に生きるのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、私どもは自分の内側の声のみを聞き、それを私どもの信仰、祈りとして、主に訴えています。主よ、外からの声を聴かせて下さい。私どもの内側にある罪を打ち砕いて下さい。主の御言葉によって、立ち上がらせて下さい。ただ主の憐れみによってのみ生かして下さい。主の十字架の憐れみを注がれたキリストの器として、用いて下さい。不信仰の信仰に生かして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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