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「主よ、あなたが癒して下さるなら」

エレミヤ17:5~14
ガラテヤ3:1~14

主日礼拝

牧師 井ノ川勝

2024年6月16日

00:00 / 34:20

1.①私が購読している新聞の土曜日欄に、「それぞれの最終楽章」という特集があります。今、ある漫画家が「最愛の妻の死」という題で連載しています。ある日突然、妻が膵臓癌の診断を受け、余命3か月との宣告を受けます。妻は私の前では決して涙を見せず、弱音を吐かなかった。むしろ妻の前でおろおろし、涙を流し、弱音を吐く私に対して、いつもと変わらず明るく、元気な言葉を語りかけた。「何があっても無理心中なんて嫌だからね。後追い自殺もダメ」。

最愛の妻を突然失う喪失感、耐えがたい心の痛み、悲しみと日々向き合って、残された者は生きて行かなければならない。それは本当に厳しいことです。心が挫け、病んでしまいそうになります。

この朝、私どもが聴いた御言葉に、このような心の叫びがありました。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」。

これは誰もが共感する叫びです。私の心の痛み、悲しみ、病んでしまった心。それは誰にも分からない。親しい者にも分からない。

 

画家レンブラントが預言者エレミヤの絵を描いています。どのようなエレミヤの姿を描いたのでしょうか。勇ましいエレミヤではありません。エレミヤ書17章のエレミヤを描きました。そこにエレミヤの真実の姿を見たからです。洞穴の中で一人横たわるエレミヤです。深い闇に覆われ、うずくまるエレミヤです。エレミヤは嘆きの預言者です。悲しみの預言者です。心病んだ預言者です。エレミヤは何故、預言者でありながら、心病んでしまったのでしょうか。

預言者は神から託された言葉を語ります。しかし、御言葉を語っても語っても、同胞の民は御言葉を喜んで受けいれるどころか、却って心を頑なにし、御言葉を拒絶し、暴言を語り、暴力を加え、命を狙おうとする。一方で御言葉を語らなければならない主からの使命がある。しかし他方で、御言葉が拒絶される現実がある。その狭間で、エレミヤは心病んでしまいました。一人、洞穴の中でうずくまり、深い闇に覆われ、誰にも心を打ち明けることが出来ない。ただ神に向かってのみ叫びました。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」。

すると神は闇の中で、応えられました。

「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである」。

親にとって最も辛いことは、わが子が悩み、苦しんでいても、わが子の心の奥の痛みを共感出来ないことです。親だからわが子のことを全て知っているわけではありません。むしろ知らないことだらけです。苦しむわが子の痛みを共感したい。しかし、それが出来ない。親であっても、わが子の前で全く無力です。何も出来ません。そこに私ども親の苦しみがあります。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである」。

 しかし、ただ一人、わが子の心を探り、はらわたを究める方がおられる。主なる神です。それ故、主なる神の御前で、私の弱さを曝け出すのです。親としての弱さを曝け出すのです。

 

2.①「主はこう言われる」。エレミヤ書はこの御言葉から語り始めています。主はここで一つの譬えを語られます。私どもを一本の木に譬えています。呪われた木と祝福された木です。あれかこれかです。「呪われよ」、「祝福されよ」。主が御言葉を語られる。その時、私どもは御言葉の前で、岐路に立たされます。どちらの道をあなたは選ぶのか。選択を迫られるのです。命の道か滅びの道かです。

 一本の木が生長し、青々とした葉を繁らせ、豊かな実を結びためには、何と言っても、大地に根がしっかりと張っていなければなりません。しかも根がどこに向かって伸びているかが大切です。

 伊勢の教会の幼稚園で、父母に向かって繰り返し語ったことがあります。私ども親はわが子の見えるところばかりに目を注ぎます。どのくらい知識が増えたのか。どのくらい出来るようになったのか。他の子どもと比べては、わが子に目を注ぎます。しかし、幼児教育は根っこの教育です。大地にいかに根を張っているかに目を注ぐ教育です。目に見えない部分に目を注ぐ教育です。大地にしっかりと根を張っていないと、見える部分がどんなに立派であっても、暴風に耐えることが出来ません。

 呪われた木と祝福された木を分ける境目とは何でしょうか。それはただ一つ。水に向かって根を広げているかどうかです。どんなに立派な木であっても、荒れ地に植えられれば、恵みの雨を見ることなく、炎暑の荒れ地で裸の木となってしまいます。それに対し、水のほとりに植えられた木は、大地に張った根から水を豊かに吸収し、青々とした葉を繁らせ、豊かな実を結びます。

 木を豊かに生長させる水とは、主が注がれるいのちの御言葉です。いのちの御言葉こそいのちの水です。それ故、呪われた木とは、自分の力に信頼し、肉なるものを頼みし、その心が主から離れ去っている人です。それに対して、祝福された木とは、主に信頼し、主の御言葉を拠り所としている人です。主が御言葉を語られる時、私どもは岐路に立たされます。あれかこれかの選択を迫られます。しかし、主が私どもに求めていることは、ただ一つです。あなたはいのちの道を選べ。あなたは祝福された木として生きよ。主が注がれるいのちの水に生きなさい。病んでいる心に染み入るいのちの水が、主からあなたの心にも注がれている。

 

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」。この御言葉は様々な言葉で翻訳されています。ある聖書はこう訳しました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」。新しい聖書翻訳はこう訳しています。「心は何にも増して偽り、治ることもない」。何よりも心惹かれる訳は、ルターの訳です。

「人の心は、突っ張っているか、いじけているかどちらかである」。

毎日のように試練の荒波が押し寄せて来ます。自分がしっかりしなければならないと覚悟し、心を突っ張ります。頑張ろうとします。しかし、私どもの心は強くはありません。重荷に耐えきれず、心いじけてしまうことがあります。ある時には心の糸をぴんと張り詰めている。しかし、心の糸を張り詰め過ぎると、張り詰めていた心の糸がばしっと切れてしまうことがあります。心が病んでしまいます。それは誰にでも起こることです。病院に通っていなくても、心痛み引き裂かれること、心が千々に乱れ、分裂すること、心病むことは、誰にでも起こることです。

 自分で自分の心の状態を捕らえることは、自分であっても難しいことです。自分で自分が分からなくなることがあります。しかし、主は私どもの心の奥底までご存じです。それ故、この御言葉は主が語られた御言葉でもあるのです。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである」。

 主の御言葉を聴いたエレミヤは、主に向かって叫びます。呻きます。

「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。

 あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。

 あなたをこそ、わたしはたたえます」。

 主よ、どうかあなたのいのちの水を、私に注いで下さい。病んでいる私の魂に、生ける水を注いで下さい。主よ、あなたが癒やして下さるなら、私は癒やされます。あなたが救って下さるなら、私は救われます。あなたをこそ、私はどんな時にもたたえます。

 心が病んでいる時にこそ、主に向かって叫ぶのです。主よ、助けて下さいと。いや、心が病んで主に心を向けることが出来なくなっても、主に向かって叫ぶことが出来なくなっても、主は私どもに心を向けて下さる。いのちの水を魂に注いで下さるのです。

 私どもが心病んでしまう時、心には幾つも穴が開いています。その穴の中に、思い煩い、後悔、自責の念、様々な感情が詰まっていて、自分でどうすることも出来なくなります。しかし、主は心の穴の中に、いのちの水を注いで下さるのです。

 

3.①4月下旬、日本の教会を導いて来られた加藤常昭先生が逝去されました。昨年のクリマス、最後の著書が刊行されました。『慰めとしての教会に生きる』。この著書は加藤先生が日本の教会、伝道者に遺された遺言書でもあります。その中に、「絶望において知る慰め・絶望における信頼」という文章があります。最初の章で、「自殺をめぐる黙想」をしています。伝道者として絶えず問い続けて来た問題は、自殺でした。

 敗戦直後、父の工場で働き、戦地から帰還した青年が自死した。大学の卒業式の日、友人が北鎌倉の西田幾多郎の墓前で自死した。若草教会に赴任して間もなく、『髙倉徳太郎傳』が刊行された。その最後の章が「死への疾走」であった。日本を代表する伝道者・髙倉徳太郎の死が自死であることを知り、衝撃を受けた。教師検定試験の直前、家出した高校生を教会で預かっていたが、姿が見えなくなり、様々なところを探し歩いたが、自死した姿で見つかった鎌倉雪ノ下教会で、教会員の息子で、教会学校に通っていた中学生が由比ヶ浜海岸で遺体となって見つかった。ドイツ留学中、ドイツの詩人クレッパーの最後の舞台となった家を眺めつつ過ごした。ユダヤ人の妻と娘がナチスによって捕らえられることを恐れ、自死した家です。

 何故、神から与えられた命を自らの手で絶たなければならなかったのか。伝道者としての重い課題でした。

 次の章で、「エレミヤをめぐる黙想」をしています。エレミヤ書には「エレミヤの嘆き」が5回も繰り返されています。その一つの17章の御言葉を黙想しながら、心病んでしまったエレミヤには自殺にまで追い詰められた切羽詰まった状況にあったのではないか。そのような中で生まれた切実な神への心の叫び、呻きです。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである」。

「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」。

 エレミヤはもしかしたら遙かかなたに、十字架のキリストを見ていたのではないか。

 そして最後の章で、文章の表題となったこの言葉を黙想しています。「絶望において知る慰め・絶望における信頼」。この言葉はルターの言葉です。しかも大きな過ちを犯し、心病んでしまった伝道者に宛てた手紙の中で語りかけた言葉です。絶望において知る主イエス・キリストの慰めがある。慰めは傍らに呼んで、息をさせるという意味です。絶望において知る主イエス・キリストの真実がある。そのキリストの真実の御手が絶望している私にも伸ばされていることを知り、私もキリストの御手を握る。それが絶望における信頼です。ルターは絶望において知るキリストの慰め、絶望におけるキリストの真実を、一体どこに見ているのでしょうか。十字架の主イエス・キリストに見ているのです。

 

加藤常昭先生が訳された本で、私が繰り返し読み直している本があります。加藤先生と親しい交わりにあり、日本に3度来日されたこともあるボーレン先生が綴った『天水桶の深みにて~こころ病む者と共に生きて~』です。元の題名は「暗い貯水槽にうずくまり」です。雨水を溜める貯水槽は深い穴蔵です。外界から切り離された暗い穴の中にいるような閉塞状況を意味しています。それを加藤先生は日本の庭に見られる「天水桶」と訳しました。江戸時代に用いられた雨水を受ける桶です。たとえ閉塞状況にあっても、天の恵みに向かって、いのちの水が注がれるのを待つ、開かれた心を表そうとしました。

 ボーレン先生が何故、この本を綴ったのでしょうか。神学生に自死した家族への魂の配慮をどうしたらよいのか講義をしている時に、心病んでいた妻が自死したからです。妻を救えなかった自分を責め続け、自らも心病んでしまいました。そのようなボーレン先生がどのようにして心の慰めを受け、立ち直ることが出来たのか、自らの経験を綴った書物です。10年掛けて綴った書物です。

 そこで強調していることは、『ハイデルベルク信仰問答』の一つ一つの言葉を、心病み、傷ついた魂に、暗唱して刻み付けることでした。取り分け重要な意味を持ったのが、問53の問答でした。金沢教会が教会修養会で、『ハイデルベルク信仰問答』を学ぶ志を立て、その第一回目の講師として招いたのが、加藤先生でした。その時、加藤先生が説き明かされたのが、問53の問答でした。この講演は、金沢教会伝道説教集『あなたは何を求めていますか』に収録されています。

 ボーレン先生の病んだ魂を慰め、癒した問53の問答は、どのような言葉なのでしょうか。

「聖霊は、御父とみ子と、同じに永遠の神であること。次に、聖霊もまた、このわたしにも与えられていること、まことの信仰によって、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、わたしを慰め、永遠までも、わたしとともにいて下さる、ということです」。

 聖霊が慰め主として、心病んだこの私にも与えられ、傍らに呼んで、いのちの息を注ぎ、息苦しくなった私にいのちの呼吸をさせ、とこしえに私と共にいて下さるのです。

 また問1の問答も、大きな慰めとなりました。

「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、いのちを注がれ、わたしを買い戻し、主のものとして下さったのです」。

 ボーレン先生はこう語ります。「キリスト者の魂は、いかなる穴も持ってはならないと言うのは間違いである。自分の魂のなかに、どれほどの大きな、どれほどの多くの穴があろうが、それは問題にはならない。どれほど多くの苦い水が、その穴のなかに集まろうが、それも問題にはならないのである。むしろ大切なのは、穴だらけの魂を抱くままにイエス・キリストのものになっているということである。そうなれば、私の魂のなかの苦いものも、重苦しいものも、すべて私のものではなく、イエス・キリストに属する事柄なのである」。

 

4.①この朝、私どもが聴いたもう一つの御言葉は、ガラテヤの信徒への手紙です。十字架は神の呪いであったと語ります。「木にかけられる者は呪われている」と申命記21章23節で語られているからです。主イエスは十字架の上で、神から突き放され、神から見捨てられ、神から呪われたのです。将に滅びを身に負ったのです。それ故、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と絶望の叫びを上げられたのです。十字架という暗い穴蔵にうずくまれたのです。そこには一切光も、救いもないのです。主イエスもまた、十字架の上で、心病んでいたのではないか、と言う人もいます。

 私どももまた心病んでしまう時、暗い穴蔵にうずくまり、私は神から見捨てられたのではないか。神から突き放されているのではないか。神に呪われているのではないかと思うことがあります。しかし、主イエス・キリストが神の呪いである十字架に立たれたことにより、私どもがどんなに悲惨な状況に置かれたとしても、もはや神から見捨てられ、神から呪われている全き絶望の中にはいないのです。私どもはどんな状況にあっても、主イエス・キリストの者とされているのです。

 主イエス・キリストは私どもの涙に、新しい意味を注ぎ、新しい方向を与えて下さるのです。私どもが流す涙は空しく地に落ちて、消えて行くのではない。天に向かって、主に向かって、涙を流すのです。主は私どもが流す涙を一粒一粒無駄にすることなく、数え上げ、革袋に蓄えて下さるのです。

 ボーレン先生が、「神が慰めてくださる!」という説教をされています。詩編145編18節の御言葉を説き明かしたものです。

「主は、主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます」。こう語られます。

「神は私どもに近くあり、ご自身を私どもに知らしめてくださることによって、慰めてくださいます。ご自身の教会のなかにあって、教会を通じて慰めてくださいます。――私にとってすばらしい経験は、妻の死に際して、この私を撃った出来事のなかで、自分はひとりではないということを感じ取ったということであります。私は、重い苦しみのなかで、神の慰めを経験しました。そこで、私はまたこう言うこともできます。牧師、また教授としての自分の生涯において、私どもが信じるイエス・キリストの教会が、ひとつの現実であり、ひとつの力であるといくことを、これほど強く体験することは今までありませんでした。――ある方は、ひとつの詩編の言葉を自分が聞き取り、私を訪ね、それを更に私に伝えてくれました。ひとことの言葉であります。それが私を凍える思いから解き放ったのであります。多くの人びとが書き、また語ってくださいました。私と人びとのために祈ってくださったことを。それが実際になされたことだということを、ほとんどからだで感じ取ることができました。神は、教会のなかで、教会を通じ、私を慰めてくださったのであります」。

キリストの者とされた私どもは、慰めとしての教会に生かされているのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、私どもの心はとらえ難く病んでいます。どうすることも出来ません。私どもの心を探り、そのはらわたを究めるのは、主よ、あなただけです。それ故、主に向かって叫びます。主よ、あなたが癒して下さるなら、私は癒されます。あなたが救って下さるなら、私は救われます。十字架の主イエス・キリストに、私どもの心を向けさせて下さい。一切の絶望、暗黒、呪いを主が負われたことにより、私どもは滅びに至る絶望を味わわなくてよいのだと確信させて下さい。どんな状況にあっても、主イエス・キリストの者とされていることを確信させて下さい。私どもも病んでいる友の傍らで祈らせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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