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「主を讃美しながら帰ろう」

イザヤ書 55章6~13節
マルコによる福音書 5章1~20節

井ノ川 勝 牧師

2026年4月26日

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2026.4.26. 「主を賛美しながら帰ろう」

      イザヤ55:6~13,マルコ5:1~20


1.①この朝、初めて礼拝に出席された方がいるかもしれません。皆さんの中には、4月より北陸学院高校、大学に入学され、初めて聖書を開き、読み始めた方もいるかもしれません。この分厚い聖書には一体、何が語られているのでしょうか。聖書を開いて読み進めて行きますと、一つのことに気づかされます。聖書が語っていることは、ただ一つのことです。それは、一人の人間が回復することです。人間回復の出来事が起こることです。聖書を開いているあなたに、人間回復の出来事が起こることです。

 主イエスは一人の人間を求めて、出かけられます。一人の人間と向き合われます。一人の人間の苦しみを受け止められます。一人の人間を癒され、新しい人間へと造り替えられます。その一人とは、今、聖書を開いている、あなたのことなのです。私ども一人一人に、人間回復がもたらされる。新しい人間に造り替えられるとは、どういうことなのでしょうか。

 17世紀、イギリスのロンドンのウェストミンスター寺院で、高校生、青年のための信仰問答が作られました。『ウェストミンスター小教理問答』と呼びました。その問1がとても重要です。

「人間の主要な目的は何ですか」。

皆さんは、このように問われたら、どう答えられるでしょうか。あなたの生きる目的は何ですか。

答「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです」。

「神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶ」。言い換えれば、神を賛美する人間となることです。喜んで讃美歌を歌う人間となることです。そこに、私どもが生きる目的があります。皆さんが受付で手渡された週報の真ん中に、この言葉が記されています。

「主を喜び、讃美する教会」。主を喜び、讃美する教会へ招かれた皆さん一人一人が、主を喜び、賛美する人間となることを願っています。

 

この朝、私どもが聴いた御言葉は、マルコ福音書5章です。一読して、皆さんはどのような観想を持たれたでしょうか。ここには私どもの現実とは掛け離れた離れた異様な出来事が語られている。そのように思われた方は多いと思います。しかし、ここに将に、人間回復が語られています。この一人の人間に起きたことは、あなたにも起こると語られているのです。

 主イエスは弟子たちと共に、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地へ舟に乗って向かわれました。そこは異邦人が住んでいる地です。しかし、主イエスは異邦人にも救いをもたらすために、その地へ向かわれます。しかも一人の人間を人間回復へもたらすために出かけられました。

 その一人の人間とは、汚れた霊に取り憑かれ、墓場を住みかとしている人間です。家族からも、親しい友からも見放され、一人墓場に住んでいる。夜も昼も、大声で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。暴れ回るのを押さえるために、足枷と鎖で繋がれていました。しかし、自分の力で鎖を引き千切り、足枷を砕いていました。

 真に異様な光景です。私どもの現実と掛け離れているとしか見えません。しかし、果たしてそうなのでしょうか。私どもが生きている世界は、深い深い闇で覆われています。夜、一人、闇の中でうずくまり、魂の叫び声を上げます。社会や、学校から落ちこぼれというレッテルの鎖に縛られ、自暴自棄になります。「私なんて生きていたって、何の意味もないんだ」。「ぼくの苦しみなんて、誰も分かってくれない」。「私が心引き裂かれ、痛んでも、世界は少しも痛いとは思わない」。「ぼくなんていない方がいいんだ」と叫んで、自分で自分を痛めつける。真夜中の孤独な魂の叫び。呻き声が世界の至るところから立ち上がっています。それこそが私どもの現実です。

 大学生の時、ロシアの作家ドストエフスキーの『悪霊』という小説を読みました。小説の冒頭に挙げられた御言葉が、二千匹の豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、溺れ死ぬこの御言葉でした。政治を巡って様々な人物が登場しますが、一人一人が悪しき霊に取り憑かれている。一人一人が自分の政治的主張こそが正義であると叫んでいる。どす黒い政治的欲望、陰謀が一人一人の魂を捕らえ、相手を奈落の底へ突き落とそうとする。墓場へ向かって、滅びへ向かって、突き進む人間の現実を描きました。

 

2.①ゲラサ人の町にやって来た主イエスが真っ先に向かわれたのは、墓場を住みかとする一人の人間です。一人の人間に人間回復をもたらすために、湖を越えてやって来られました。墓場から叫び声が聞こえて来た。主イエスは墓場へ向かった。そして墓場で、主イエスと一人の人間との対話が始まります。

 主イエスが真っ先に語りかけます。

「汚れた霊、この人から出て行け」。

男は汚れた霊に取り憑かれていたからです。男は遠くから主イエスを見ると、主イエスの許に走り寄り、ひれ伏し、大声で叫びました。

「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。

 汚れた霊は、悪しき霊は、主イエスが「いと高き神の子」であることを知っています。「構わないでくれ」。以前の口語訳ではこう訳されていました。

「あなたはわたしとなんの係わりがあるのです」。元の言葉は、「あなたはあなた、わたしはわたし」です。「あなたはあなた、わたしはわたし、何の関わりもないでしょう」。言い換えれば、「わたしは神さまなしでも生きて行ける」ということです。「わたしは神さまと関係をもたなくても、わたしの力で十分に生きて行ける」。

 「後生だから、苦しめないでほしい」。この日本語訳は面白いですね。「後生だから」、元々は仏教用語です。「後の世に生まれ変わること」「後の世の安楽を願う」という意味です。そこから転じて、「後生を願う」。神に願をかけることです。わたしは神さまと関わりを持たなくても生きて行けると言いながら、主イエスの前でひれ伏し、神に願をかけて、わたしと関わらないでほしいと願う。汚れた霊、悪しき霊に取り憑かれ、自己分裂を起こしています。

 主イエスは尋ねました。

「名は何と言うのか」。

名を尋ねることは、その人の存在を知ることです。男は答えます。

「名はレギオン。我々は大勢だから」。

「レギオン」という言葉は、ローマ帝国の一軍団を表します。一軍団6千の兵士と言われています。相当は数です。男は一軍団6千の兵士に相当する汚れた霊、悪しき霊に取り憑かれていたということです。悪しき霊が男を完全に支配している。

 汚れた霊は主イエスにしきりに願いました。自分たちをこの地方から追い出さないでほしい。その辺りの山に、豚の大群が飼われていた。汚れた霊は主イエスに願った。

「われわれを追い出すのだったら、豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」。

主イエスはお許しになられた。汚れた霊は豚の中に入った。すると二千匹程の豚の群れは、崖を下り、湖になだれ込み、溺れ死んだ。男を支配していた汚れた霊は、豚二千匹に匹敵する程の勢力だったことを表しています。怒濤の音が鳴り響く、誠に凄まじい出来事です。想像しただけで身の毛がよだちます。

 

しかし、ここでこの物語が終わったのではなかった。むしろここから新しい物語が始まった。人間回復の物語です。男は汚れた霊から解き放たれて、人間回復したのではなかった。

 墓で暴れていた男は、汚れた霊から解き放たれ、正気になって座り込んでいた。町の人々が寄って来ました。男から汚れた霊が解き放たれたこと。豚二千匹に乗り移り、崖を下り、湖になだれ込んだこと。この一連の出来事を見聞きした町の人々は、恐れに捕らえられました。そして主イエスに、町から出て行ってほしいと願いました。

 主イエスが舟に乗ろうとした時、悪霊に取り憑かれていた男が、主イエスにお供したいと願いました。しかし、主イエスはそれを許されませんでした。何故でしょうか。主イエスは語られました。

「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」。

 主イエスは男に、家族のもとに帰れと言われます。家族から疎外された男を家族のもとへ帰らせるのです。何故か。主があなたにしてくださったこと、あなたを憐れんでくださったことを、家族に知らせなさいと言われます。ここで注目してほしい言葉があります。

 主イエスは「わたしがあなたにしたこと、あなたを憐れんだこと」とは語られていません。「主があなたにしてくださったこと、あなたを憐れんでくださったこと」と語られています。「主が」という言葉を敢えて用いられています。イエスが自らを「主」と呼ばれる。「わたしは神である」と証しされています。汚れた霊、悪しき霊に取り憑かれ、家族からも友人からも疎外されていた男に、主なる神が憐れみの御業を行って下さった。汚れた霊から解き放たれたあなたが成すべきことがある。それは主があなたにしてくださったこと、憐れんでくださったことを、喜んで家族に伝えることだ。言い換えれば、主を賛美する人間とされた。それこそが主イエスによってなされた人間回復です。

 男は主イエスのもとを立ち去り、家族のもとへ帰って行きました。主を賛美しながら帰って行きました。家族に、主がわたしにして下さったことを、喜んで伝えました。家族だけではありません。デカポリス地方にことごとく言い広めました。この「言い広めた」という言葉は、「宣教する」「説教する」という言葉となりました。男は最初の異邦人伝道者となりました。異邦人に、主イエスの御業を伝える伝道者になりました。そのために、主イエスは男を連れて行かずに、異邦人の地に残したのです。

 

3.①水野源三さんという「瞬きの詩人」と呼ばれる方がいました。敗戦の翌年、町で流行った赤痢が基で、脳性麻痺に罹り、手足の自由が奪われました。意思表示は瞬きだけになりました。深い深い闇の中に葬られるような日々でした。光が全く見えない絶望の闇の中に陥りました。人間として生きる意味を失いました。「不安」という詩を綴っています。

「何も聞こえない 夜

 何も見えない 夜 闇「

 主よ 呼んでください 呼んでください

 私の名を」

 夜の闇の中で、魂の叫びを上げても、誰も応えてくれない。何も見えない。このまま夜の闇の中で、私は葬られて行く。命が闇に吞み込まれて行く。しかし、ただ一人、私の魂の叫びを聴かれる方がおられる。夜の闇の中で、私を訪ねる方がおられる。私の名を呼んで下さる方がおられる。そのお方こそ、主イエスです。それ故、主に向かって叫ぶのです。

「主よ 呼んでください 呼んでください 私の名を」

 水野源三さんは、牧師が置いて行かれた聖書を通して、主イエスと出会いました。私が生きているのではない。私は生かされている。神さまに生かされている。主イエスが私の名を呼んで下さる。主イエスの呼ぶ声に応えて、生かされている喜びを、瞬きで詩に綴りました。嘆くばかりの人間が、主を賛美する人間へと変えられました。ここにも主イエスによって人間回復が起こりました。

「何も聞こえない 夜

 何も見えない 夜 闇

 主よ 呼んでください 呼んでください

 私の名を」

 

墓場を住みかとしていた男に取り憑いていた汚れた霊、悪しき霊は、一軍隊6千の兵士、豚二千匹の相当するものでした。男から汚れた霊を解き放たれた主イエスは、十字架へと向かわれました。十字架の道を目指してひたすら歩まれました。この男のためにも、私どものために、十字架にかけられました。何故、主イエスは十字架にかけられたのか。主イエスはこう語られた。

「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」。

 私どもの命は、十字架にかけられた神の子、主イエスの命によって買い戻された。私どもの命は、十字架にかけられた神の子、主イエスの命と同じ重さ、同じ値打ちを持っている。私どもを支配しているのは、諸々の悪しき霊ではなく、私どもの命を生かす生ける主の御手です。

来週の5月3日の主の日の礼拝は、金沢教会創立145周年記念礼拝を捧げます。いつも礼拝を捧げながら不思議に思うことがあります。教会145年の歩みは、主を賛美する人が絶えなかった歩みでもあります。主の憐れみの御業が、どんな困難な時代にも絶えなかった。生き生きと働いていた。礼拝は主の憐れみの御業が働かれ、人間回復が起こるところです。主イエスによって人間回復がなされ、主を賛美する人間が誕生する。洗礼を受けることによって何が変わるのか。どんな時にも主を賛美する人間となることです。

私どもの日々の生活は、様々な試練に直面し、苦しんだり、嘆いたりします。死と向き合いながら、悲しみ、涙を流します。しかし、どんな時にも、主の憐れみの御手は尽きることがない。それ故、私どもは嘆きながらも、主を賛美する。涙を流しながらも、主を賛美する。悲しみながらも、主を賛美するのです。

礼拝が終わると、私どもは主から遣わされて、自分の家に帰って行きます。家庭、学校、職場、社会へ帰って行きます。そこは様々な問題が渦巻くところです。しかし、そこに主から遣わされて、主を賛美しながら帰って行くのです。主がわたしにして下さった主の憐れみを、賛美しながら家族に、学校の友人に、職場の仲間に伝えるのです。たとえ自分の言葉が貧しくとも、共に讃美歌を歌う交わりを築いて行くのです。

 

お祈りいたします。

「様々な悪しき霊が私どもに取り憑き、苦しめます。自分の存在の意味、生きる意味を見失い、自暴自棄になる私どもです。しかし、主イエスは私一人を目指し、駆け寄り、語りかけられるのです。悪しき霊から解き放ち、生ける命を注いで下さいます。嘆く人間から主を賛美する人間へ造り替え、人間回復をして下さるのです。礼拝において、主の憐れみの御手に捕らえられた私どもは、主を賛美してそれぞれの家に帰って行きます。一人一人の道を、主よ、どうか祝福して下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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