「主イエスと再び会う日まで」
ゼカリヤ14:1~9
コリント二5:1~10
主日礼拝
井ノ川 勝
2023年8月6日
1.①先週、北海道の旭川にあります三浦綾子記念文学館より、通信が送られて来ました。昨年、2022年は三浦綾子生誕百年記念の年でした。『道ありき』『塩狩峠』『氷点』と多くの作品が遺されました。皆さんの中にも愛読されている方がいると思います。いつも病と向き合いながら生きていましたので、「生と死」が作品の主題となっていました。「わたしの病床体験」という文章の中で、こういう言葉を綴っておられます。
「わたしはキリストの言葉を知って以来、なおりたいという願いよりも、よく生きたいという願いを持った」。
よく生きたい、それは自らの死から目を逸らすのではなく、自らの死を見つめることでもあります。自らの死を見つめる。自分が死すべき存在であることを知る。それは同時に、よく生きることを願うことでもあります。
晩年、病床でこういう言葉を語られました。「わたしには死ぬという大切な仕事が残されている」。三浦綾子さんは一体、自らの死に対して、どのようなまなざしを注がれていたのでしょうか。
先月の7月、教会員のお母さまが亡くなられ、この礼拝堂で葬儀を行いました。御遺体が納められた棺を前にして、葬儀を行いました。棺を前にした時に、私どもも死すべき存在であることを知ります。自らの死を見つめるようになります。今、私どもが礼拝を捧げているこの礼拝堂は、葬儀を行う場所でもあります。私どもは神の御前に立つ時に、自らの死を見つめるのです。そのことを通して、よく生きたいと願う者とされるのです。与えられた一日一日を、残された一日一日を、よく生きたいと願うようになります。
問題は、私どもが自らの死に、一体何を見るのかです。言い換えれば、私どもの人生の終わりに、一体何を見るのかです。
②7月教会で葬儀を行った後、斎場に行き、御遺体を火葬に伏しました。御家族にとって最も厳しく辛い時です。家族との交わりは体を通した交わりです。その体がもはや見えなくなることは、厳しいことです。その火葬の時に、読まれる御言葉の一つが、今朝、私どもが聴いた御言葉、コリントの信徒への手紙二第5章の御言葉です。火葬前ですから、全部の御言葉を朗読することは出来ません。その一部を朗読します。
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになさるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです」。
この御言葉は更に続きます。最後はこういう言葉で結ばれています。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」。
私どもの人生の終わりにあるものは、何でしょうか。それは死だと私どもは考えます。しかし、聖書はそのようには語っていません。終わりの日、私どもは主イエス・キリストと再びお会いする。それは大きな喜びです。しかし、その時、キリストは何を行われるのでしょうか。全ての人がキリストの裁きの座の前に立ち、体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けるというのです。
今朝も、私どもは「使徒信条」を共に唱えました。聖書の福音を要約したものです。全てのキリスト教会の、教会の信仰を言い表したものです。その中で、私どもの人生の終わりに起こることを語っています。
「キリストは、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。
十字架に掛けられ死なれた主イエスは、甦られて、天に昇って行かれた。今、父なる神の右におられ、私どもが生きる世界を支配しておられる。終わりの日、キリストは再び私どもに会いに来て下さる。生きている者も死んだ者も、キリストの裁きを受ける。私どもの人生の総決算が行われる。世界の総決算が行われる。
皆さんは、この言葉をどのように受け留めているでしょうか。死ぬことも怖いけれども、もっと恐ろしいことが人生の終わりにあるのだな。そんなことを考えたら、びくびくして生きなければならなくなる。誰もがそう思うかもしれません。
毎月礼拝後、読書会が行われています。加藤常昭先生の『老いを生きる』を読んで、お互い感想を述べ合っています。その中で、このようなエピソードを紹介しています。教会史家であり、信濃町教会の長老であった石原謙先生が90歳を越えて、病気で入院をされたので、お見舞いに行った。石原先生は率直に、「私は死ぬのが怖い」と語られた。しっかりとした信仰者であったので、その言葉に驚いた。しかし、石原先生は自らの死に、何を見つめておられたのか。それは自分の存在が亡くなる死を恐れたのではない。死というものは、キリストの裁きの座に立つことと深く結び付いている。そのことに石原先生は恐れを感じたのだと思ったというのです。私どもは人生の終わりに、キリストの裁きの座に立つ。人生の総決算をキリストが行われる。だからこそ、今ここで身繕いをして生きるようとする。三浦綾子さんの言葉で言えば、よく生きることを願うようになるのです。
2.①生きて者も死んだ者も、全ての者が終わりの日に、キリストの裁きの座に立ち、そこで最後の裁きを受ける。その時、私どもはキリストに対して、弁明することが出来るでしょうか。私どもには人の目は誤魔化せても、神さまの目を誤魔化すことは出来ません。牧師であっても心の中で、いろいろな感情が湧き上がり、罪を犯していることはいっぱいあります。キリストに弁解などできません。また私どもは生きている世界は、長い歴史において、神の義しさを踏みにじり、自分たちの義しさを貫き、様々な愚かな過ちを繰り返して来ました。地上では裁けなかった不正がいっぱいあります。しかし、終わりの日、キリストをそれらを一つも見逃すことなく、裁かれる。神の義しさが貫かれる。終わりの日に立つのは、神の義しさだけ。
多くの画家がキリストの最後の審判に絵を描いています。中でも代表的な絵は、イタリアのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの絵です。キリストが右の拳を振り上げて、裁かれている場面です。その絵を観た人は誰もが、恐れを感じます。自分はキリストに裁かれない義しさに生きて来たと胸を張れる人は誰もいないからです。
宗教改革者カルヴァンが青少年のために、『ジュネーヴ教会信仰問答』を書いています。カルヴァンは誰よりも神の義しさを教会の中心に据えました。それ故、神の義しさに従わないで、人間の義しさを押し通す者に対して、厳しい裁きを行いました。それ故、カルヴァンは冷徹な改革者だと恐れられました。そのカルヴァンがこの信仰問答の中で、キリストの最後の審判に関する問答をこのように説き明かしています。
われわれはキリストの最後の審判を恐れおののくべきではありません。キリストの最後の審判は、われわれにとって非常な慰めなのです。何故、カルヴァンはそのように断言するのでしょうか。キリストが裁判官であり、同時に、われわれの弁護者であるからだと言うのです。裁判官が同時に、弁護者である。地上の法廷では成り立たない裁判です。しかし、最後の審判は、キリストがわれわれの裁判官であり、同時に、弁護者としてわれわれの訴訟を弁護して下さるから、私どもには非常な慰めとなるのだと言うのです。
②このカルヴァンの最後の審判の説き明かしを、受け継ぎ、更に展開したのが、『ハイデルベルク信仰問答』です。いずれも私どもの教会が親しんでいる信仰問答です。そこでこう語られています。
最後の審判でわれわれが受けるべき神の裁き、呪いを、キリストが十字架の上で、われわれに代わって引き受けて下さった。それ故、最後の審判はわれわれにとって慰めとなった。だからこそ、終わりの日に来られる裁き主キリストを、われわれは頭を上げて待ち望むことができるのです。恐ろしくなって頭を抱え込んで縮こまってしまうのではない。頭を上げて、再び来られるキリストを待ち望む姿勢で生きるようにされているのです。
3.①さて、この朝、与えられた御言葉であるコリントの信徒への手紙二第5章の御言葉です。ここには独特な表現で語られています。印象深い言葉が繰り返されています。「重荷を負って呻いている地上の幕屋を脱ぎ捨てたい」。「天から与えられる住みかを上に着たい」。家を衣服に譬えています。ある方はこんな譬えは成り立たないと批判します。しかし、伝道者パウロは様々な豊かな譬えで、神の御業を語ります。ここでは敢えて、家を衣服に譬えるのです。それだけに新鮮に響いて来ます。何故、家を衣服で譬えるのでしょうか。
夏休み、家族と旅行に行かれる方もいることでしょう。私どもは旅先で快適なホテル、旅館で宿泊することがあります。しかし、それには限度があります。今、沖縄は台風の影響で、ホテルで延泊して帰れない観光客が多くいます。本当に安心してくつろげる場所は、どんなに粗末な家であっても、自宅です。外では打ち明けられなかった心の内を、家では話すことが出来ます。外では気を張っていたが、家の中では、自分の嘆きも、呻きも上げることが出来ます。涙を流すことが出来ます。家と私どもとは一体です。衣服と私どもの体が一体であるように、家と私どもとは一体です。それ故、家を衣服に譬えているのです。
ここで注目してほしいことがあります。伝道者パウロは実に繊細な言葉使いをしています。私どもが生活する地上の住みかを、幕屋に譬えています。幕屋はテントです。夏のキャンプで用いる折りたたみ可能なテントです。地上の幕屋はどんなに立派な家であっても、家族との思い出が沢山溢れていても、死が訪れると、畳まなければならないテントです。それは永遠に立ち続ける家ではありません。
しかし、天から与えられる建物、神が与えられる建物は、幕屋ではありません。テントではありません。永遠の住みかです。畳まない住みかです。過ぎ去って行く住みかではありません。
実は、今日の御言葉は5章1節から始まるのではなく、4章の最後の御言葉と繋がっています。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」。
「知る」という言葉は「見る」という意味です。私どもはやがては過ぎ去って行く見えるものばかりを見て生きています。それに価値があるように見えるからです。しかし、決して過ぎ去らない見えないものを見て生きているかどうかが問われています。死に直面した時に、決して過ぎ去らない見えないものを見ているかどうかが問われます。
②私どもが地上で生活している幕屋には、苦しみ、悲しみ、嘆き、呻き、涙がいっぱい染み込んでいます。自分一人では背負いきれない重荷を背負って、歯を食いしばりながら生きています。地上の幕屋の中で苦しみもだえ、幕屋を脱いだらどんなに楽だろうかと、誘惑に駆られることもあります。
私どもが幕屋を脱ぐ日は死がやって来た時です。しかし、私どもの命が死に呑み込まれるのではない。死ぬはずのものが命に呑み込まれるのです。何故ならば、主イエス・キリストが死に打ち勝ち、甦られたからです。それ故、天から与えられる、神によって備えられた住みかを上に着たいと切に願いながら、地上では幕屋を着て苦しみ悶えているのです。全ては神の御業、神が備えられる永遠の住まいです。神が備えられる永遠の住まいを着る。それは伝道者パウロが好んで用いた言葉で言えば、キリストを着る、キリストを身に纏うことでもあります。
伝道者パウロが4章、5章で繰り返している言葉があります。「だから、わたしたちは落胆しません」。「それで、わたしたちはいつも心強い」。地上の幕屋にあって、落胆する日々です。もう駄目だと気落ちする日々です。次から次へと苦しみ、悲しみが幕屋に訪れます。それが余りにも重く押し潰されてしまいそうになります。伝道者パウロも地上の幕屋でいっぱい重荷を背負い込みながら、何故、わたしたちは落胆しない、わたしたちはいつも心強いと言い切ることが出来たのでしょうか。
神が聖霊を注いで下さるからだと言うのです。聖霊は神の息です。甦られたキリストの息です。その神の息が、キリストの息が、苦しみ悶えて生きている私どもの幕屋に注がれて、私どもを生かして下さるからです。
「わたしたちは落胆しない」。主イエスが十字架の死を目前として語られた遺言説教の結びの言葉です。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
「心強い」という言葉は、「勇気あれ」「雄々しくあれ」「大胆であれ」と同じ言葉です。キリストが共におられるからです。キリストがいのちの息を注いで下さるからです。キリストによって与えられる死に打ち勝つ雄々しさ、大胆さです。
4.①8月は訪問月間です。先週も長老、執事と共に、教会員の訪問をしました。施設で生活されている教会員とは、コロナでオンラインで面会していたのですが、4年ぶりに対面することが出来ました。また、自宅のベッドで療養されている教会員ともお会いすることが出来ました。私はお会いする度に、教会の群れから遣わされて、教会の皆さんを代表して、教会の祈りと讃美歌を届けているのだという思いでいます。そこで愛唱讃美歌を歌い、祈りを捧げます。皆、涙を浮かべながら讃美歌を歌っています。その教会員の信仰生活を導いて来た讃美歌であるからです。苦しみ悶えながらも、讃美歌を歌い続けて来た。讃美歌を歌っていると、そこに甦られたキリストのいのちの息が注がれていることを実感します。
伝道者に託された主からの使命は、讃美歌と祈りを通して、教会員と共に死の前に立つことでもあります。教会員と共に、キリストの裁きの座の前に立つことでもあります。それは厳しいことです。しかし、そこで確信するのです。私どもの人生の総決算である最後の裁きの座に立つのは、死の力でもなく、地上の王、権力者でもない。私どものためにいのちを捧げて下さったキリストこそが、人生の総決算、最後の裁きに立たれるお方。それだからこそ、そこに慰めがあるのです。キリストが初めにも終わりにも立って下さるからこそ、病に直面しても、死に直面しても、私どもの信仰の身繕いは乱れることがないのです。教会員を訪問して確信したことです。
②皆さんには愛唱讃美歌があると思います。愛唱讃美歌は自分の葬儀に歌ってほしい讃美歌でもあります。ある伝道者の愛唱讃美歌は、1954年版の175でした。「主イエス・キリスト 審判」という表題の讃美歌です。恐らく誰もが選ばない愛唱讃美歌だと思います。この伝道者は隠退してから、妻と45分前に礼拝堂に着席し、ひたすら静かに御言葉に聴き、礼拝することを喜びとしました。礼拝者に徹しました。主の御前で祈りをもって礼拝に臨む。その時、この愛唱讃美歌を口ずさんでいたのかもしれません。
キリストの裁きの座の前に立った時、私がこの地上に生きている間にして来た事を、包まず申し上げることが出来るであろうか。私が言葉で言い表そうとするものだけでなく、隠しておきたい思いまでも主が知っておられるとすれば、その隠れた私の思いに対する主からの報いを、受けないわけにはいかないではないか。それ故、信仰の見繕いを糾しながら、地上の生活を送ろう。私はいつ死ぬか分からない。しかし、いつ死んでもよいように、その備えは何であろうか。神の裁きに耐え得るように、神さまとの仲直りを早くしておくことだ。しかし、神の裁きに耐え得るように、神との仲直りは、キリストが十字架で成し遂げて下さった。キリストが死に打ち勝つ、甦られたことにより、死に対する備えも、キリストが既に備えて下さった。
5.①私どもが死に直面すると、棺に納められ、礼拝堂の前に置かれます。棺の前にあるテーブルには、今朝はパンとぶどう汁が置かれています。キリストの十字架の死、甦りを記念する、キリストのいのち・聖餐です。キリストが終わりの日、再び来られ、キリストと対面する日まで、この聖餐は行われます。聖餐に与る時、必ず歌っていた讃美歌があります。「心を高く上げよう」です。讃美歌Ⅱ編1,讃美歌21-18です。今、主日礼拝はライブ配信を行っているので、著作権に抵触して、この讃美歌を歌うことが出来ません。とても残念なことです。しかし、聖餐に与る度に、私どもはいつも心の中で、この讃美歌を口ずさんでいます。カルヴァンが強調した聖餐の信仰が明晰に謳われています。
「霧のような憂いも、闇のような恐れも、
みな後ろに投げ捨て、心を高く上げよう」。
「終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、
わが力の限りに、心を高く上げよう」。
キリストのいのち・聖餐に与る度に、聖霊の執り成しを受けて、今、天の父なる神の右におられるキリストを見上げ、心を高く上げるのです。終わりの日が来たら、裁きの座に立つキリストを見上げ、心を高く上げるのです。今朝、聖餐に共に与れない教会員を覚えて、私どもが今、聖餐に与り、キリストに心を高く上げるのです。
お祈りいたします。
「私どもは地上の幕屋にあって、重荷を背負い、苦しみ悶えています。主が天から与えられる永遠の住みかを上に着たいと切願っています。どんな困難な中にありましても、キリストが天から注がれるいのちの息に生きさせて下さい。死に直面しても、天の父なる神の許で執り成すキリストを、心を高く上げて見ることが出来ますように。終わりの日が来たなら、裁きの座に立たれるキリストを、心を高く上げて見させて下さい。地上を生きる私どもの信仰の身繕いを、御霊と御言葉と聖餐によって糾して下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御前にお捧げいたします。アーメン」。