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「人にはできないが、神にはできる」

イザヤ45:5~7
マルコ10:17~27

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年3月5日

00:00 / 44:21

1.①3月は旅立ちの季節です。先週も、北陸学院高校で、また、多くの高校で卒業式が行われました。金沢教会の礼拝に出席されていた高校生が卒業され、4月より新しい地で学びを始められます。私も先週、高校を卒業された一人一人を覚えながら、捧げた祈りがあります。北陸学院で、また、金沢教会で、共に主を礼拝し、御言葉に聴いて来た卒業生が、新しい地に赴いても、自分の内なる声に聞き続けるのではなく、主の声に耳を傾けながら歩んでほしい。主から与えられた一度しかない人生を、悔いなく送ることが出来ますように。主から与えられた掛け替えのない命を、自分のためにだけ用いるのではなく、主に献げて生きることが出来ますよう、願って止みません。高校を卒業された一人一人のことを心に留めながら、今朝、与えられたマルコによる福音書の御言葉に耳を傾けたいと願います。


 ある人が主イエスの許にやって来た話です。マタイによる福音書は、ある人を青年と語っています。それ故、「富める青年の話」として、伝えられて来た御言葉です。キリスト教学校で、教会での青年伝道礼拝で、しばしば取り上げられて来た御言葉です。ところが、この「富める青年の話」は、福音書で語られている主イエスと人々との出会いの物語と決定的に違う点があります。他の物語は、主イエスの招き、御言葉によって、主イエスに従って行った物語です。ところが、この富める青年は主イエスの言葉に躓いて、気を落とし、悲しみながら主イエスの許から去って行った物語です。その意味で、主イエスの伝道は失敗したのです。主イエスの伝道で失敗した唯一の出来事であったと言えます。何故、この青年は躓いたのか。主イエスに従うことが出来ず、主イエスの許を去って行ったのか。その意味で、この御言葉は本来、キリスト教学校や、教会の青年伝道で取り上げるのにふさわしくない御言葉であるかもしれません。


 しかし、主イエスはここで、主イエスに従うとはどういうことか、とても大切なことを語られています。他の出来事では語られていないことを語られています。そのことが、この物語が大切にされて来た理由でもあります。一方でこの青年は主イエスの御言葉に躓きました。しかし他方で、主イエスはここで主イエスに従うことの勘所を語られています。私どもも主イエスの許を訪ねながら、主イエスの許から去って行った親しい方を何人も思い浮かべています。思い起こす度に、心が痛みます。自らの無力さを痛感します。しかし、誰よりも心痛めておられるのは、主イエス御自身でしょう。それだけに、私どもは主イエスの招きに、躓くことなく、従って歩む方が一人でも多く与えられることを願わずにおれないのです。主イエスに従うことは、一方で厳しいことです。しかし他方でこれ程豊かな祝福はないからです。



②マルコによる福音書は、主イエスの許を訪ねた方を、マタイ福音書のように「青年」とは語っていません。「ある人」と語ります。それは青年に限らず、あらゆる年代の方にも共通する問題があるからです。その問題とは何でしょうか。主イエスが旅に出ようとされた時、ある人が主イエスの許に走り寄り、ひざまずいて尋ねました。思い悩んでいた問題があったからです。


「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」。


この人が主イエスに問いかけたのは、永遠の命です。それは言い換えれば、この人が抱えていた問題は死であったということです。死を恐れていました。私どもはどんなに良い働きをしても、やがて死を迎える。いや、突然、死が訪れるかもしれない。自分がやり残したまま、死を迎えるかもしれない。死に直面する私どもの人生とは一体何なのか。私どもが生きるとは、どういう意味があるのか。これはあらゆる年代の方に問われている問題です。死で全てが終わってしまう。しかし、もし、永遠の命があるならば、言い換えれば、死を超えた命があるならば、私どもの生き方も変わるのではないか。私どもの生きる意味が変えられるのではないか。永遠の命とは死んだ後の命ですが、それは同時に、今、ここで、私どもがどう生きているかどうかが問われているのです。あなたは人生の究極の問題である死の問題に決着がついていますか。それが問われているのです。


 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」。


ある人の問いかけに対し、主イエスは答えられます。


「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。


主イエスはある人のまなざしを善き神へと向けさせようとします。これはとても大切な御言葉です。神からまなざしを逸らし、自分にばかり心を向けていたら、永遠の命の問題、死の問題を解決出来ないからです。



2.①主イエスは更に語られます。


「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。


 ここで主イエスが挙げられたのは、十戒の後半の御言葉です。善き神の御心が示されているのが、十戒だからです。しかし、十戒の本来の順序が異なっています。「殺すな」が最初に語られています。何よりも、永遠の命、死の問題との関連で、神から与えられた命を大切にしようということを強調したのかもしれません。更に、何故、主イエスは十戒の前半の神との関わりではなく、後半の隣人との関わりの御言葉を挙げられたのでしょうか。私どもの命は一人で成り立つのではなく、隣人との関わり、隣人との交わりの中でこそ成り立つことを強調するためであったと思われます。


 主イエスの問いかけに対して、ある人は答えます。


「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。


この人は誠実に、子どもの時から十戒の言葉に従って歩んで来ました。


 主イエスはそれに対し、語られました。


「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。


 ところが、この人は主イエスのこの御言葉に躓き、気を落とし、悲しみながら立ち去って行きました。何故、主イエスは行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさいという厳しいことを命じられたのでしょうか。律法の戒めにあるように、財産の10分の1を施しなさいと語られなかったのでしょうか。このような厳しい要求をしたら、誰であっても主イエスの許から立ち去ってしまうのではないでしょうか。


 実は、主イエスがこの御言葉を語られた時、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。この「慈しむ」という言葉は「愛する」という言葉が用いられています。福音書の中で、「主イエスが一人の人を愛して」という言葉が用いられているのは、意外に思うかもしれませんが、この箇所だけです。それだけに重要な御言葉です。主イエスはこの人をじっと見つめ、この人を愛して、この人に言われた。それがこの御言葉です。主イエスはこの人を「わたしに従いなさい」と愛をもって招いておられるのです。主イエスの愛が注がれた愛の招きの御言葉です。



②それでは、愛の招きの御言葉でありながら、行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさいと厳しい要求をされたのでしょうか。この人の信仰に問題点があったからです。主イエスはここで、「あなたに欠けているものが一つある」と語られました。あなたは他の点では合格点に達しているが、ただ一つが合格点に足りないという意味ではありません。決定的な点が欠けていると語られたのです。この一点を欠いたら、他のものも崩れ去る決定的な欠けを指摘されたのです。それは何でしょうか。


 この人が主イエスの許に走り寄り、ひざまずいて尋ねたことは、このようなことでした。


「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。


強調点は、私が後、何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来ますかです。私は子どもの時から、十戒に従って歩んで来ました。自分の力で90点を採りました。後10点、何が足りないのですか。私が後、何をしたら、合格点に達して、永遠の命を手にすることが出来ますか。主イエスはこの人の問題の立て方自体に、決定的な欠けがあると見られたのです。自分が誠実に積み重ね、努力して積み上げて来たもの、自分が努力して掴んで来たものにこだわり続けているからです。その延長線上に、永遠の命があるからではないのです。


 主イエスはあなたが掴んだもの、握り締めているものを手放しなさいと命じられたのです。それは行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさいです。自分が掴み、握り締めたものから解き放たれて、自由になって、わたしに従って来なさいと語られたのです。主イエスが最初に語られた御言葉は、この言葉でした。


「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。


自分の手の中にあるものから解き放たれて、まなざしを善き神へ向けなさいと語られたのです。私が努力して永遠の命を掴み取るのではなく、善き神からのみ永遠の命、死を超えた命が与えられるのだと強調されたのです。



3.①この物語はここで終わっていません。更に続きがあります。主イエスと弟子たちとのこの問題を巡る対話です。主イエスは弟子たちを見回して言われました。再び、主イエスが見られたという言葉が強調されています。


「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。


「永遠の命」が「神の国に入る」ことに言い換えられています。更に、主イエスは語られます。


「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。


金持ちは自らの手の中に掴んだものが多いことの代表として語られています。私どもはお金に限らず、名誉、地位、評判、いろいろなものを手の中に掴んでいます。それを握り締めて生きています。弟子たちは主イエスの言葉を聞き、ますます驚きました。


「それでは、だれが救われるだろうか」。


誰一人救われて、神の国に入れる者はいないではないか。特に、弟子たち驚いたのは、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われた言葉です。子どもの頃、母が小さな針の穴に、細い糸を通す姿を脇で見ていて、すごいなと思いました。私が針の穴に糸を通そうとしても、何度してみても出来ません。大きならくだが針の穴の中を通ることは、全く不可能なことです。しかし、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと、主イエスは語られるのです。「それでは誰が救われるのだろうか」と驚いて弟子たちが答えるのも当然なことです。


 その時、主イエスは弟子たちを見つめて言われました。三度、主イエスは見つめられたことが強調されています。


「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。


 私どもは自分の努力によって、永遠の命をつかみ取り、神の国に入れるものではありません。それはどんなに信仰深い人間であっても不可能なことです。しかし、神には出来るのです。神に出来ないことは何もないからです。私どもが救われることも、死を超えた命を授けられることも、神の国へ招かれ、入れられることも、これは全て神の御業です。あり得ないことが、神によって起こされるのです。



②この朝も、私どもは教会の信仰である「使徒信条」を告白しました。その中に、「われは全能の父なる神を信ず」とありました。皆さんはどのような思いで、この言葉を告白されているでしょうか。神さまは私の願ったことを何でも叶えて下さる。それが神の全能だと思われている方は多いと思います。しかし、ここで大切なことは、「全能の神を信ず」ではなく、「全能の父なる神を信ず」と告白していることです。全能の神であるけれども、災いを下す恐ろしい神ではないのです。全能であることと、父であることとが一つの神であることです。父としてのまなざしをもった神が、全能の御業を行われるのです。それをどこで行われたのか。私どもの救いにおいてです。私どもが滅びることを願わない全能の父なる神が、私という小さな存在を救うために、全能の業を行って下さる。それが主イエスのこの御言葉です。「われは全能の父なる神を信ず」を言い換えた言葉です。


「人間にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。


 先週、金沢教会の主日礼拝の動画を視聴された他教会員の方から、ご丁寧なお手紙をいただきました。先々週の礼拝で、私が引用しました生まれつき二分脊椎症でありながら、詩人として豊かな詩を綴られた島崎光正さんの詩に心動かされ、手紙を書いて来られました。引用した詩はこの詩です。


「自主決定にあらずして たまわった 


いのちの泉の重さを みんな湛えている」。


この信徒の方が愛読している藤木正三牧師の黙想集『神の指が動く』の前書きコピーして送って来て下さいました。その前書きに、島崎光正さんのこの詩を黙想した文章が綴られていたからです。この詩に込められた島崎さんの信仰を更に深く味わうことが出来ました。この本の前書きの前に、藤木牧師は島崎光正さんの「天地創造」という詩の冒頭部分を掲載されています。


「神は はじめに


 天と地とを創造された


 地は形なくカオスがその上を覆っていた


 地球の柱時計はまだ眠ったままだった


 不図 神の指はうごめく」。


 全能の父なる神の指がうごめいて、光を創造された。この世界を創造された。私ども人間を創造された。そして全能の父なる神の指が、主イエスとなって、人間には出来ない私どもの救いを行って下さったのです。私どもの内に、全能の父なる神の指のうごめき、全能の父なる神の指である主イエスのうごめきがあるから、私どもは救われたのです。らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われた不可能な出来事が、この私に起こったのです。



4.①今日の御言葉の直前に、幼子を祝福された主イエスの出来事があります。子どもを祝福された主イエスの出来事と、この富める青年の出来事とが一つになって伝えられて来ました。これはマタイ福音書、ルカ福音書でも同じです。富める青年の出来事は、子どもを祝福された主イエスの出来事の光の中で見ないと分からないということです。


 主イエスは子どもを抱き上げ、手を置いて祝福されました。そしてこう語られました。


「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。


 神の国は子供のような者たちのものである。それ故、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることは出来ない。幼子は自分の力では生きられない、何も出来ない存在です。それ故、母の懐に全てを委ね切っています。方や、私は子どもの時から十戒を真面目に守って来た。後何をすれば、永遠の命を受け継ぐことが出来ますかと尋ねたある人がいます。方や、何も出来ず、母の懐に全てを委ね切っている幼子がいます。主イエスは語られます。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない。人間にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。


 富める青年の出来事の後、マルコ福音書が強調していることがあります。主イエスのお姿に集中しています。


「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」。


 先頭に立って、エルサレムへ上られる主イエスの並々ならぬお姿に、弟子たちは驚き、恐れました。主イエスは弟子たちに語られた。3度目の受難預言です。


「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。


 主イエスは、十字架を目指して先頭に立って進まれることを明確に語られました。そしてこの後、主イエスはこう語られた。


「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。


 主イエスはご自分の命という財産を、私どもの全ての身代金として、十字架の上で献げるために来たのだと語られました。ご自分の命という財産を、主イエスは私どものために惜しげもなく、十字架で献げ尽くして下さった。それ故、らくだが針の穴を通るよりも難しいと言われた私どもが救われ、詩を超えた命が約束され、神の国へと招かれる思いがけない出来事が起こったのです。


 それ故、主イエスが願っていることはただ一つです。「わたしに、今、ここで、従いなさい」。



②先々週、日本基督教団教師検定試験が行われました。32名の方が受験されました。今回は神学校の卒業予定の方が主な受験生でした。32名という人数は最も少ない人数です。これまでは50名以上がいました。今週は東京神学大学の卒業式も行われます。卒業生は10数名です。やはり少ない人数です。コロナの感染拡大の中で、神学校に入学して来られた方です。日本基督教団の将来、日本伝道の将来に不安と危機感を覚えています。伝道者を求めている全ての教会に、伝道者を遣わすことが出来ないのです。それはまた、教会が献身者を神学校へ送り出せない、体力が弱くなっている現実があるということでもあります。


 教師検定試験で32名の面接をしました。高校を卒業し、神学校で学び、24歳で遣わされる伝道者がいます。73歳で主に召され、地方の小さな教会に遣わされる伝道者もいます。牧師の息子でありながら、親と同じ道を進むことを厭い、企業に就職し、業績を上げ評価されながらも、しかし、献身して神学校で学び、伝道者として遣わされる方もいます。障害がありながら、しかし、主に召されて遣わされる伝道者もいます。32名一人一人が異なった仕方で、神に選ばれ、召され、遣わされるのだと、神の御業を見る思いがしました。将に、人間には出来ないが、神には出来る。神は何でも出来るからである。 


 金沢教会のこれからの歩みも、様々な不安と恐れがあります。受洗者が与えられること。献身者が与えられること。伝道が前進すること。教会が主の教会として成長すること。しかし、教会の伝道の業もまた、人間には出来ないことです。しかし、神には出来る。神は何でも出来るからである。全能の父なる神が、主イエス・キリストにおいて、新しい人間創造を行って下さる。この確信があるからこそ、私どもは全能の父なる神の御手に委ねる。全能の父なる神の御手である主イエス・キリストに委ねる。私どもに今、求められているのは、この信仰なのです。



 お祈りいたします。


「主の御前で、己の業ばかりにこだわる私どもです。主から評価されたいと願う私どもです。しかし、私どものどのような最上の業も、救われて神の国に入れる条件とはなり得ません。ただ主イエスがご自分の命という財産を、私どものために十字架で献げて下さった故に、私どもは救われ、神の国の扉が開かれたのです。主よ、どうか私どもを用いて下さい。あなたの指として用いて下さい。救い主を指し示し、自らの存在と言葉を、生き方を通して、主を証しさせて下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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