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「人を生かす絆」

出エジプト記12:21~27節
コリントへの手紙一12:12~27節

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年9月3日

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1.①9月を迎えました。一昨日の9月1日は、関東大震災から100年目の記念の日でした。新聞、テレビで様々な特集が組まれていました。特に、当時の白黒の映像がカラー化されまして、震災直後の被災者の顔の表情がくっきりと映し出されていました。また地震によって引き起こされた火災が、瞬く間に広がって行く恐ろしさも映し出されていました。その映像を見ながら、その火の手の中に、教会もあったのだなと改めて思いました。

私が関東大震災を身近に感じるようになったのは、植村正久牧師が関東大震災直後に語った説教を読んでからのことです。植村牧師は日本のプロテスタント教会の草創期の中心的な伝道者でした。富士見町教会の初代牧師、今日の東京神学大学の初代校長でした。関東大震災直前、植村牧師は朝鮮、九州、中国地方で伝道旅行をしていました。帰路、名古屋で震災の知らせを聞きましたが、汽車が不通のため、清水港から汽船に乗り、横浜港に上陸しました。酷暑の道を、震災の悲惨な状況を目の当たりにしながら、徒歩で上京しました。富士見町教会も神学校も焼失していました。更に、植村牧師が責任を負うていた多くの教会が焼失していました。植村牧師は休息を取る暇もなく、富士見町教会と神学校の再建のため、また日本の教会の再建のため、奔走しました。65歳の植村牧師にとって、心労が重なり、2年後、心臓発作のため急逝しました。植村牧師が震災直後、バラックで語った説教が何編か残されています。妻と5人のわが子が地震に伴う火災によって焼かれてしまった教会員の痛み、悲しみを心に刻み、涙を流しながら語った説教です。植村牧師は語ります。

自分のことばかり考え、自分が世界で一番不幸であるかのごとく思うのは間違いであろう。愛する人が死んだ。或いはそれも一人ならず重ね重ねの不幸に遭った人もあろう。なるほど辛い悲しい思いは胸一杯であろう。だが、悲しみの中で余りに利己主義になってはならない。われらはキリストを信ずる群れである。弟子たちはキリストに問われた。何故、道ばたで物乞いをしているこの男は、生まれつき目の見えない不幸の中にあるのか。キリストはただ一言語られた。ただ神の御業が現れるためなり。今、震災により破れ果てたわれら主の群れに、神の御業が現れるためなり。このような震災の只中でこそ、神への賛美と感謝を忘れずに、捧げる主の群れであろう。

更に、植村牧師は語ります。

われら主の群れは自分たちの再建を果たしさえすればよいのではない。この社会に対して奉仕する務めが主から託されている。主は震災という試練を通して、篩にかけ、われらに大命を奉ず、使命を託されたのである。植村牧師が強調した、教会はキリストの心を心とし、キリストの志によって成長し、社会の木鐸たれ、社会のために奉仕せよが、ここでも語られています。

 

②教会はいかなる交わり、団体であるのか。教会は何故、社会の中に立ち続けているのか。これは日本プロテスタント教会の草創期の伝道者が、植村牧師が絶えず問い続けていた中心的な主題です。その時に、いつも立ち戻っていた聖書の御言葉が、今朝、私どもが聴きましたコリントの信徒への手紙一12章の御言葉でした。その中心にあるのが、この御言葉です。

「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」。

 教会は建物を意味するのではありません。キリストの生きた体です。ここにキリストが生きておられる。私ども一人一人も、驚くべきことに、生けるキリストに連なることにより、キリストの体とされているのです。教会はキリストを中心とした交わりです。教会がキリストの体であることが、最も明らかに具体的な形で現されるのが、私どもが今、捧げている礼拝の交わりであるのです。

 今年の教会学校の夏期学校の主題が、この御言葉でした。

「あなたがたはキリストの体、一人一人はその部分」。

この御言葉から、幼稚科、小学科低学年、高学年が、分級で展開し、制作をしました。小学科低学年の生徒は、頭、胴体、手、足からなる人間を制作しました。それは同時に、キリストの体でもあったのです。頭、胴体、手、足が、一つに連なって、動いている。頭、胴体、手、足が、それぞれ一つの体の大切な部分となって、動いている。それがキリストの体であることを、子どもたちは身をもって体験しました。私たちもイエスさまに連なって、生きている喜びを実感しました。

 今、加藤常昭先生が書かれた『老いを生きる』という小冊子をテキストにして、読書会をしています。「老いを生きる」という主題を掲げますと、若い方は自分たちはまだまだずっと先のことだと思い、読書会に出席することを敬遠します。しかし、「老いを生きる」という主題は、あらゆる世代の主題でもあります。加藤先生が「老いを生きる」という主題で大切な御言葉として挙げているのが、このコリントの信徒への手紙一12章の御言葉なのです。

キリストの体に子どもたちが連なって、生き生きとしている。これは大切なことです。しかし、同時に、高齢の者も生けるキリストの体に連なって、生き生きとした存在とされている。これもまた、大切なことです。

 

2.①加藤先生は語ります。伝道者パウロはここで、「キリストの体語」を用いている。「キリストの体語」。面白い言葉です。私ども人間の体とキリストの体とが、重ね合わせて語られている。だから、具体的で、体で分かる。頭だけで理解する知識とは異なる。体は多くの部分から成り立っている。頭、目、耳、鼻、口、手、足、胴体。一つ一つの部分がそれぞれ大切な役割を担っている。どれ一つとして欠けてはならない、無くてならないものばかりである。一つ一つの部分がそれぞれ大切な働きを担うからこそ、一つの体として機能し、動くことが出来る。従って、足が手に向かって、「お前はいらない」と言うことは出来ない。耳が目に向かって、「お前はいらない」と言うことも出来ない。手は足にない働きをするし、目は耳にない働きをします。

 一つの体に連なる一つ一つの部分は、勝手に動くことは出来ません。そんなことをしたら、体は分裂してしまいます。伝道者パウロはエフェソの信徒への手紙で、こう語りました。

「教会はキリストの体、頭はキリスト」。分裂することなく、動くことが出来るのです。

 7月、8月と夏期訪問が行われました。礼拝に出席出来ない教会員を、施設に、ご自宅に訪問しました。オンラインでの画面越しの面会、ガラス越しの面会、顔と顔とを合わせての面会、聖餐を分かち合う面会を、それぞれしました。一人一人の面会がとても嬉しく、祝福されたものでした。高齢の教会員がしばしば語られることがあります。「私はもはや高齢になり、教会のために何の奉仕も出来なくなりました。教会のために何の役にも立たなくなりました」。寂しそうに言われます。でも、果たしてそうなのでしょうか。

 加藤先生が『老いを生きる』の中で、紹介している詩があります。作者不詳の「最上のわざ」です。今日では良く知られている詩です。元々は、イエズス会のドイツ人神父で、聖イグナチオ教会の司祭をされ、上智大学で教え、学長もされたヘルマン・ホイヴェルス神父が、1969年に刊行された『人生の秋に』という随筆集で、「年をとるすべ」という章で紹介した詩です。故郷の南ドイツの友人から教えてもらった詩です。

「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、

 働きたいけど休み、しゃべりたいけれでも黙り、

 失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

 

 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

 弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

 

 老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

 まことのふるさとへ行くために。

 おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、

 真にえらい仕事。

 こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

 

 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

 それは祈りだ。

 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

 

 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

 『来たれ、わが子よ、われなんじを見捨てじ』と」。

 

 神が最後まで残しておかれる最上のわざ、それは祈ることです。体が地涌に動かせなくなっても、ベッドの上で寝たきりになっても、教会のため、信仰の仲間のため、友のために祈ることは出来ます。手を合わせて祈ることこそ、最上のわざなのです。

 

②伝道者パウロは語ります。

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好をよくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が喜ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

 伊勢の教会で伝道していた時、幼稚園の園長もしていました。園長の仕事の一つは、野外行事を天気予報とにらめっこして決行するか中止するかを決めることでした。運動会の早朝、午前6時前に主任から電話があります。電話を取ろうと、2階の階段から駆け下りて、最後の一段を踏み外して、右足の小指がひっくり返り、骨折をしました。ある方が言うのには、足の小指はもはや何の機能も果たさない、死んだ部分なのだと言うのです。しかし、足の小指一本が骨折しても、痛みが全身に走ります。立っていられません。歩くことも出来ません。松葉杖を突かなければ歩けません。10月は出張が多く、松葉杖を突きながら、東京での教団総会、高岡教会での中部教区常置委員会にも出席しました。松葉杖を突きながら結婚式、葬儀も行いました。主日礼拝の説教もしました。体の他の体の部分が右足の小指の役割を担い、配慮し合って、一つの体を動かすのです。

 キリストの体である教会も同じでしょうと言うのです。一つの部分が苦しめば、全ての部分も共に苦しみ、一つの部分が弱まれば、お互いの部分が配慮し合って、一つのキリストの体として動いて行くのです。

 カナダに、ジャン・バニエが創設しました、障がい者と健常者が共に生きるラルシュ共同体があります。バニエは語ります。

「イエスがおいでになったのは、頂点にいる者たちが特権や権力や名声やお金を持ち、底辺にいる者たちが役立たずのように見られている世界を変えるためでした。イエスは、一つの体をつくるためにおいでになりました。パウロは、コリントの信徒への手紙一12章において、人間の肉体とキリストの体を比べながら、最も弱く、最も見劣りする部分こそ、体にとってなくてはならないものであると語っています。別の言葉で言えば、最も弱く、最も見劣りする人たちこそ、教会にはなくてはならない存在なのです。このことこそが信仰の核心であり、教会であるとは何を意味するのかということなのです」。

 私どもが生きる社会は、弱い部分をどんどん切り捨てて行きます。見劣りする部分を切り捨てます。見栄えのよい部分、強い部分のみを必要とします。そのようなエリートの共同体を建設します。しかし、バニエは問います。それが本当の共に生きる共同体なのだろうか。バニエは創設した障がい者と健常者とが共に生きるラルッシュ共同体の原型こそが、キリストの体である教会共同体にあったのです。真実の共に生きる共同体の原形こそが、キリストの体である教会共同体であるのです。

 

3.①コリントの信徒への手紙一12章は、キリストの体に連なる一人一人に、主から「霊の賜物」が与えられていることから語り始められました。「霊の賜物」という言葉は、「カリスマ」という言葉が用いられています。私どもは最近、よく聞く言葉です。「カリスマ」と言いますと、特別な才能が与えられている人を指すと思ってしまいます。政治的な指導者に向かって、あの方はカリスマ指導者と呼んだりします。しかし、元々は主から与えられた恵みの賜物です。それは私ども一人一人に与えられています。主から与えられた恵みの賜物を、主のための持ち寄り、主に献げて、キリストの体のために用いて行く。お互いが主から与えられた恵みの賜物を認め合い、喜び合う。それがキリストの体である教会であるのです。

 キリストの体に連なる一つの部分が痛み、苦しむと、呼吸困難に陥ります。喘ぎ、苦しみます。そると体全体が呼吸困難に陥り、喘ぎ、苦しみます。詩が、詩編94編19節に、このような御言葉があります。他の翻訳です。

「あまりにも多くの思い煩いが、わたしのこころを押し潰そうとするとき、あなたの慰めが、わたしの魂に新しい息吹を与えてくださいます」。

 キリストの体の頭はキリストです。そこから体の隅々にまで、指示の言葉が伝えられます。キリストの体の心臓部はキリストです。そこから体の隅々にまで、血液が送られ、体が麻痺しないようにします。キリストの体の呼吸の源はキリストです。そこから体の隅々にまで、いのちの息吹が注がれます。

 キリストの体に連なる一つ一つの部分が、一つの体であるためには、いつもこの一つのことを味わい知らなければなりません。体をもって知らなければなりません。伝道者パウロは語ります。

「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。

 キリストに呼び集められた私どもは、実に様々な存在です。しかし、民族を超え、社会的な身分を超え、性別を超えて、一つのキリストの体に連なるのです。私どもは一つのキリストの体となるために、洗礼を受けました。一つのキリストの体となるために、一つの霊をのませてもらいました。言い換えれば、キリストの体と血を証しする聖餐を味わったのです。洗礼と聖餐を通して、私どもは一つのキリストの体とされたのです。キリストのいのちが、キリストの体に連なる私どもの隅々にまで注がれ、私ども一人一人を生かして下さるのです。キリストのいのちを注がれて、私どもに与えられた恵みの賜物が生かされるのです。それ故、洗礼と聖餐こそが、たとえどんなに深刻な人間的な障害や問題があったとしても、私どもが一つのキリストの体であることの大切なしるしなのです。

 東日本大震災が起きた時、絆という言葉がキーワードとなりました。被災者と私どもが絆によって結ばれ、その痛み、悲しみを共有しようと叫ばれました。日本基督教団の教師委員会で被災教会を訪問した時も、駅に大きな垂れ幕が掛かっていました。そこに「絆」という言葉が書かれていました。

 キリストの体に連なる私どもを結ぶ絆は、ただ一つです。キリストのいのちです。洗礼と聖餐を通して与えられたキリストのいのちで結ばれた絆です。

 

②コリントの信徒への手紙一12章は、最後はこのような言葉で結ばれています。

「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい。そこで、わたしはあなたがたに、最高の道を教えます」と語り、13章で「愛の讃歌」を語り始めます。恐らく、礼拝で歌われた讃美歌です。どんなに優れた霊の賜物を用いた信仰も行いも、自己犠牲も、愛がなければ無に等しい、何の益にもならないと歌います。誠に厳しい言葉です。愛こそが最高の霊の賜物だと歌います。そして更にこう歌います。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 「愛」という言葉に自分の名前を入れると、私どもはいかに自分自身が愛のない存在であるかがよく分かります。同時に、愛することで自己中心的になり、愛にすることで傷つき、愛することで破れ果てた社会に生きています。しかし、愛の讃歌の愛に、主イエスの名前を入れれば、主イエスこそ最もふさわしい愛の存在であることが分かります。キリストが十字架で、ご自分のいのちを注がれて、愛なき私どもに愛を注いで下さった。キリストの愛の絆によって、私ども一人一人はキリストの体に連なる部分とされているのです。キリストの愛の絆は、どんな力も、死の力さえも引き裂くことの出来ない私どもを結ぶいのちの絆であるのです。今からキリストのいのち・聖餐に与り、愛の讃歌を共に賛美する主の群れとして、この世界のために執り成して歩んで行くのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、あなたが呼んで下さったのです。あなたが愛をもって、キリストに連なる部分として下さったのです。キリストのいのちによって、私どもをしっかりと結び合わせて下さい。お互いの弱さ、破れを配慮し合いながら、主から与えられた霊の賜物を喜んで捧げる交わりとして下さい。キリストの愛を私どもの交わりを通して映し出し、この世界のために注ぎ出すことが出来ますように。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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