「今この時を生きる」
コヘレトの言葉 3章1~22節
ルカによる福音書 12章13~21節
「主日礼拝」
井ノ川 勝 牧師
2026年6月21日
2026.6.21. 「今この時を生きる」
コヘレトの言葉3:1~22,ルカ12:13~21
1.①6月に入り、金沢教会にとって厳しい日々が続きました。2週間の内に、4名の方の葬儀を行わなければならなかったからです。教会員の遠藤幸四郎さん、相坂一成さん、教会員ではありませんでしたが、教会と親しい交わりにあった星野俟子さん、北陸学院の院長であった番匠鐵雄先生の次女であり、北陸学院大学の学長であった星野命さんの妻でありました。そして私の妻の母、池田澄子さん、2月より東京から金沢で生活を始めたばかりでした。一人の方の葬りが終わらない内に、新たな方が亡くなられることが続きました。死と向き合い、遺族の悲しみと向き合いながら、御言葉を語り、葬りをする。これはとても厳しいことでした。教会員の方も何度も礼拝堂に足を運ばれ、ご遺族の悲しみを受け止めながら、祈りを共にして下さいました。
愛する家族、教会員の死と向き合いながら、葬りをする。その度に私どもは、自らもまた、死と向き合いながら生きていることを、改めて心に刻みます。私どもは日々の生活において、死はまだまだ先のことと思いながら生きています。しかし、死は突然やって来ます。今日かもしれない、明日かもしれない。それは誰にも分かりません。しかし、確かなことは、私どもは日々、死と向き合いながら生きていることです。
私どもは今、神の御前に立ち、礼拝を捧げています。将に、礼拝こそが、私どもが死と向き合いながら生きていることを、新たに心に刻む時なのです。礼拝はいつも一期一会です。これが地上で捧げる最後の礼拝になるかもしれないのです。
②今、神の御前に立つ私どもが聴いた御言葉は、コヘレトの言葉です。「コヘレト」という言葉は、日本語に訳されずに、そのままになっています。以前は「伝道の書」と訳されていました。「コヘレト」という言葉は、ニックネーム、あだ名です。「集会を司る者」という意味です。「伝道者」という意味でもあります。集会を司る者が、伝道者が、礼拝、集会で語った御言葉です。その3章の冒頭で、こう御言葉が語られます。
「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事には時がある」。そして、「生まれるに時があり、死ぬに時がある」から始まる「時の詩文」が語られます。ここには実に、14回も「時」が語られます。そのほとんどが、戦争と関係のある時です。
「植えるに時があり、抜くに時がある。殺すに時があり、癒すに時がある。壊すに時があり、建てるに時がある。泣くに時があり、笑うに時がある。嘆くに時があり、踊るに時がある。石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。抱くに時があり、ほどくに時がある」。
コヘレトが生きた時代は平和な時代ではありませんでした。絶えず戦乱が絶えない時代でした。それ故、いつ死ぬか分からないという恐れと不安の中を生きていました。私どもが生きている全ての時機、全ての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。言い換えれば、私どもの命は神の御手の中にある。私どもは自分で生まれる時を決めることは出来ません。自分で死ぬ時を決めることも出来ません。全ては、神が命を与え、神が命を取り去られるのです。私どもは神の御手の中で生まれ、神の御手の中で生かされ、神の御手の中で命取り去られ、死に赴くのです。
20節にこういう御言葉が語られています。
「すべては塵から成り、すべては塵に帰る」。
創世記で語られていた御言葉です。神は土の塵から人間を造られました。愛を込めて人の形に造られました。しかし、人間はまだ生きた存在とはならなかった。神は人間に命の息を注がれた。そこで初めて人間は生きる存在となりました。私ども人間は、神から命の息を注がれて、健やかな呼吸をして生きるのです。神の命の息を注がれないと、私どもは息苦しくなり、呼吸困難に陥り、健やかに生きることが出来ない。そして、私どもはやがて息を引き取ります。塵から生まれた者は、塵に帰る。コヘレトは続けてこう語ります。
「人の子らの息が上へ昇り、動物の息が地に降ると誰が知るだろうか」。
神から命の息を注がれた私どもは生かされ、やがて息を引き取り、その息は神の御手の中に帰って行く。
2.①「コヘレトの言葉」の中で、皆さんが最も知っておられるのは、冒頭の御言葉です。
「空の空、空の空、一切は空である」。
聖書の中で、独特な音色を響かせています。「コヘレトの言葉」全体に響き渡っています。実に、38回も繰り返されています。ところが、3章では「空」という言葉は1回しか語られていません。それに代わって、繰り返し語られるのは、「時」です。「空」と「時」が響き合っている。共鳴しているとも言えます。
問題は、「空」という言葉はどういう意味なのかです。以前の新共同訳ではこう訳されていました。
「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」。
確かに、「空」という言葉には、「空しい」「儚い」という意味があります。しかし、それだけではありません。「束の間」という意味があります。「時」という言葉にも、この「束の間」という意味が込められています。私どもの生きている時は、束の間なのです。だから空しいと、虚無主義に生きるのではありません。だから空しいと、この世から逃避して、厭世的に生きるのでもありません。束の間だから、腹を満たして、楽しく生きようと、享楽的に生きるのでもありません。
束の間の時だからこそ、今この時を、神から与えられた時として、真剣に、誠実に生きよう。それが、コヘレトが語りたい主題なのです。
②金沢教会は昨年の4月より、新しい聖書翻訳、聖書協会共同訳を用いています。最も変わったのが、コヘレトの言葉です。コヘレトの言葉の解釈がこれまでと大きく変わったからです。コヘレトはこれまで、全ては空しいと、虚無主義者、厭世主義者、あるいは享楽主義者と言われてきました。しかし、そうではなく、空という束の間の時を、神から与えられた時として、真剣に生きようと勧める伝道者である。そのような解釈をもたらしたのは、東京神学大学の小友聡先生でした。
月刊誌『信徒の友』で、コヘレトの言葉を説き明かす連載をされ、それを本にまとめられました。『コヘレトの言葉を読もうー「生きよ」と呼びかける書』。2019年3月末でした。その本が注目され、NHKの「こころの時代」で、『それでも生きるー旧約聖書「コヘレトの言葉」』が放送されました。2020年4月~9月でした。これまでも「こころの時代」で聖書が何度も採り上げられましたが、コヘレトの言葉が採り上げられたのは初めてのことです。それが反響を呼び、「こころの時代」で、『すべてには時があるー旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』が放送されました。2021年11月でした。また昨年も、一般の出版社から出版されました。『人生に無意味なことなどないー今を生きるコヘレトの言葉』。何故、コヘレトの言葉が注目されたのか。それは何故なのか。コロナの感染拡大と重なり合ったからです。コロナの感染拡大により、自分たちが目指していたものが中断させられた。自由に活動出来なくなった。人との交わりが出来なくなった。健やかな呼吸が出来ず、息苦しくなり、呼吸困難に陥った。そのような状況の中で、コヘレトの言葉が私どもの魂に、響いたのです。放送を聞いた中学生か高校生の女の子が、小友先生に電話をして来ました。
「先生、生きよっていうけど、生きられないよ。毎日、学校でいじめられて地獄だよ。それでも、私に生きよっていうの」。咄嗟に言葉が出なかった。しかし、無我夢中で答えた。「それでも生きるんです。いつか必ず、あのとき生きる道を選んでよかったと思える日が来ます。その日のために生きてください」。
それでも生きよ。今この時を神から与えられた時として、それでも生きよ。ここに、コヘレトの言葉のメッセージがある。小友先生はそう語るのです。
3.①6月、4名の方の葬儀が続く、厳しい時の中で、嬉しい知らせもありました。輪島教会の牧師館が完成し、感謝礼拝が捧げられました。全国の諸教会、また金沢教会の教会員の祈りと献金が形となりました。会堂建築はまだまだ先になりますが、伝道の拠点が据えられました。能登に生きる人々に、聖書の御言葉、コヘレトの言葉を手渡して行くのです。
時を生きる私どもです。時は神の御手の中にあります。しかし、私どもには神の御手の中にある時として、到底受け入れがたい時もあるのです。その一つが2年前、2024年1月1日に起きた能登半島地震です。多くの命が失われました。家族との想い出が詰まった家が倒壊しました。美しい自然、大地が変わり果てました。故郷に帰りたくても帰れないで、市外、県外で避難生活をされている方も多くいます。あの日、あの時を境に、生活が一変しました。元に戻ることが出来ず、多くの方が苦しんでいます。
コヘレトは語ります。10節以下です。
「私は、神が人の子らに苦労させようと与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」。
時の中で、私どもは永遠に触れます。永遠とは生ける神の御手がここに働いていると感じることです。しかし、私ども人間は神の御業の意味を、初めから終わり理解することが出来ないのです。何故、神は時の中で、こんなに耐えがたい悲惨な出来事が起こるのですか、と叫ばざるを得ないのです。大切なことは、神に向かって叫び続くことです。
新しい聖書翻訳、聖書協会共同訳で変わった決定的なことは、束の間の時の中で、家族や友人と食べて、飲むこことを、これまでは享楽的に捕らえられて来ましたが、それを積極的、肯定的に受け留めたことです。小友先生は「飲み食い賛美」と名付けました。3章にも真ん中に語られています。13節です。
「また、すべての人は食べ、飲み、あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそ神の賜物である」。
愛する家族を亡くし、寂しさが募るのは、食卓です。いつもいた食卓に、家族の姿が見られないことです。それ故、一回一回のささやかな食卓こそが、神が与えられた賜物です。家族、友人と共に与る幸いな食卓です。そこに永遠なる神の生きた御手があることを感じ、「神の賜物」として感謝して受け留めるのです。それが「飲み食い賛美」です。
神の賜物として食卓の交わりに生きる。これは私ども教会にとっては、聖餐の食卓の交わりに生きることでもあります。私どもが捧げている礼拝はいつも、聖餐卓を囲んで礼拝を捧げています。この聖餐卓の上に、キリストのいのちであるパンとぶどう汁が置かれます。キリストのいのち聖餐の食卓は一期一会の食卓です。これが地上での最後の聖餐になるかもしれない食卓です。神の賜物としてのキリストのいのちの食卓です。
②6月に葬儀をした池田澄子さん、遠藤幸四郎さん、星野俟子さん、相坂一成さん。一人一人がそれぞれ異なった時を生きて来られました。しかし、4名の方には共通なことがありました。一人一人の時の歩みの中に、生ける神の御手が働かれたことです。それ故、私どもは悲しみの葬りの場面でも、永遠なる生ける神の御業をほめたたえたのです。涙を流しながらも、神への賛美を失わなかったのです。
コヘレトの言葉3章の御言葉と響き合っている主イエスの御言葉があります。それがルカ福音書12章13節以下の御言葉です。主イエスの御言葉を聞いていた群衆の一人が、説教が終わるのを待って、こう言いました。
「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
主イエスの御言葉を聞きながらも、遺産相続の問題がずっと頭の中にあったのです。父を亡くし、母を亡くし、遺産分配のことで、兄弟と争っていたのかもしれません。しかし、主イエスは語られます。私はあなたの裁判官でも、調停人でもない。そして家族を亡くすという悲しみの死の現実の中で、私どもに起こる問題を指摘されました。
「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである」。
人の命は財産によらない。それでは何によるのか。そのために、この譬えを語られました。ある金持ちの畠が豊作で、作物をしまって置くために、大きな倉庫を建てた。金持ちは自分の魂に語りかけます。
「さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」。一生、私の命を保証する財産が出来たことを喜んだ。しかし、神は語られた。
「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体、誰のものになるのか」。そして主イエスは語られた。
「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ」。
たとえ今夜、明日、死が訪れても、私どもの命を保証するものは何か。神のために豊かなに生きるとはどういうことか。それが主イエスから私どもに問われていることです。コヘレトの言葉で言えば、今この時を、神のために豊かに生きるかです。
4.①昨年、8月30日、金沢教会で長く長老として奉仕をされ、礼拝を捧げられた深谷松男長老が92歳で逝去されました。室町教会で葬儀が行われましたが、11月、金沢教会で記念会を行いました。深谷長老は金沢大学の法学部の教授でありました。民法の家族法が専門でした。これまで書かれた論文をまとめられ、本にされました。『人間尊厳の家族法学』。しかし、その完成を見ることはありませんでした。その本が尾中郁夫・家族法学術賞を受賞され、長男の格さんが代わって挨拶をされました。その挨拶の言葉を先週、送ってこられました。とても素晴らしい言葉でした。父の人間尊厳の家族法学研究は、父の信仰と一つであった。結びでこう語られるのです。
「家族に養われた者が、家族を養うようになり、老いて再び養われるという人間の営み、扶養の法を父は自分の歩みと重ねて研究してきました。このテーマは『神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです』という聖書の教えに通じており、神に愛された者としての人間の尊厳の研究へと発展していきました。
戦後、父は、入学した高校で放課後、近くの教会の牧師が開いていた聖書研究会で『汝らは価をもて買はれたる者なり、さらばその身をもて神の栄光を顕せ』という聖書の言葉を聴きます。松男の父は隻眼(せきがん)だったため村人から差別されていました。しかし、どんな人間もキリストがご自分の命という代価を払って買い取るほど尊い存在なのだというメッセージに触れて父はキリスト者になりました。この信仰が本著の基礎にあり、特に第3部は法の神学と言えましょう。尾中賞受賞によって本書に光が当てられることを願っております」。
神は御子イエス・キリストの命という代価を払って買い取る程までに、私ども一人一人の命は尊い存在であることを明らかにされた。それが主イエス・キリストの十字架の出来事であった。私どもの命が豊かにされるために、御子キリストの命の代償があった。この永遠なる神の生ける御業に触れた者は、今この時を、神のために豊かに生きようとするのです。葬儀を行った4名の方は、一人一人異なった時を生きられた。しかし、全ての方に共通して言えることは、キリストの命の代償という十字架の愛を注がれた命であったのです。
キリストの命の代償という十字架の愛に触れた私どもは、人の目から見れば、無駄に見えるかもしれない小さな取るに足りない業に、励んで行くのです。たとえ明日終わりが来ようと、今日、りんごの木を植えるのです。明日に向かって水面にパンを投げるのです。明日に向かって、いのちの種を蒔き続けるのです。
お祈りいたします。
「私どもが生きる時は、いつも喜びに満ちているわけではありません。むしろ、苦しみ、悲しみに満ちています。しかし、たとえどのような時を生きようと、生ける神の御手が働いているのです。キリストの命の代償という十字架の愛が、時を生きる私どもに注がれているのです。私どもの命はそれ程、尊いのだと告げて下さるのです。主よ、今この時を、神のために豊かに生きる者として下さい。どのような時も、主をほめたたえながら、明日に向かって、いのちの種を蒔く小さな業に喜びをもって励ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
