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「今日、救いがこの家を訪れた」

エゼキエル18:21~32
ルカ19:1~10

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年12月17日

00:00 / 40:30

1.①今年も後一週間でクリスマスを迎えようとしています。クリスマスを迎えるこの季節、私どもはこの一年間に起きた様々な出来事を想い起こします。世界という家に、教会という家に、そして私ども一人一人の家に、実に様々な出来事が訪れました。実に様々な訪問客が訪れました。喜びの知らせをもたらす訪問客もいます。しかし、中には有り難くない訪問客もいます。来てほしくない訪問客もいるからです。悲しみの知らせをもたらす訪問客、死の知らせをもたらす訪問客もあるからです。私どもの大切な家族を無理矢理連れて行ってしまう死の訪問客が突然、訪ねて来ます。私どもは死の訪問客の前では、どうすることも出来ません。世界という家にも、教会という家にも、私ども一人一人の家にも、悲しみをもたらす訪問客がやって来て、涙に濡れている家は数え切れない程あります。そのような中で、私どもはクリスマスを迎えようとしているのです。クリスマスは一体どのような訪問客が、私どもの家を訪ねて来たのでしょうか。

 

②オランダの画家レンブラントが、「本を読む人」という絵を描いています。レンブラントの母が聖書を開いて読んでいる絵です。開かれた聖書の箇所が、ルカ福音書19章の「ザアカイ物語」であったのです。ある神学者がレンブラントのこの絵を通して、黙想しています。様々なことを思い巡らしています。私どもが何故、本を読むのか。読書は自分を発見するためにあるのです。そのために読書で大切なことは、見ることと聴くことだと言うのです。読書は文字をただ読んで行くのではない。文字を通して、私どもに向かって語りかける声を聴くのです。文字を通して、そこで起きている出来事を見るのです。読書を通して、いつの間にかそこで起きている出来事に巻き込まれてしまうのです。そこで起きている出来事が、将に、私の物語となるのです。聖書はその最たる本です。聖書はその最たる物語であるのです。

 レンブラントの母が開いているザアカイ物語には、激しい動きがあると言います。それはザアカイが木の上に登った、木から急いで降りたという動きではありません。木の上に登ったザアカイに、主イエスが近づいて来られたという動きです。主イエスは上からも下からも、ザアカイに近づいて来られて、呼びかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 私がこの文書を読んで、あれっと思ったことがあります。「主イエスが上からも下からも、ザアカイに近づいて来られた」とあるからです。木の上に登ったザアカイに、主イエスが近づいて来て、下から呼びかけたのです。それなのに、何故、「上からも下からも近づいて来られた」と言うのでしょうか。神の御子であった主イエスは、神の御許を離れ、人間の姿となって、私どもに近づいて来て下さったからです。天におられた主イエスが今、ザアカイよりも低い木の下に立って呼びかけているのです。「ザアカイよ」。この主イエスの呼びかけは、今、私ども一人一人にも呼びかけられているのです。それ故、「ザアカイ」という名前に、私の名前を入れ替えたらよいのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。勝よ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイ物語は、私の物語であるのです。主イエスの訪問によって、私を発見してもらう物語であるのです。

 

2.①私どもの人生の家には、様々な訪問客が訪れました。その中には、忘れられない訪問客もいます。しかし、私どもの人生の家を全く変えてしまった訪問客が訪れます。その御方こそ主イエスであるのです。ザアカイにとって、主イエスの訪問はザアカイの生き方を変えた決定的な出来事となりました。エリコの町の徴税人の頭であったザアカイは、主イエスの訪問を受けて、カイザリアの司教になったと言われています。伝道者の指導者になった。最初の教会を支えた、無くてはならぬ伝道者になった。恐らく、ザアカイは繰り返し、教会員に向かって、求道者に向かって、主イエスの訪問を受けたこの出来事を説教したと思われます。「私に起きた出来事は、あなたにも今日、起こるのですよ。あなたの家にも、主イエスは訪ねて来られたのですと」と、語ったと思われます。それ故、ザアカイという名がこの物語に残されているのです。

 ザアカイはエリコの町の徴税人の頭でした。今日の言葉で言えば、エリコ税務署長でした。しかし、ザアカイは同じユダヤ人からは嫌われていました。友人がいませんでした。当時、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。自分たちが汗水垂らして働き、納めた税金が自分たちの生活に還元されるのではなく、全てローマ帝国に吸い上げられてします。その税金の徴収係をしていたのがザアカイでした。ザアカイは敵国の手先だとの批判を受けていました。ザアカイは時には税金を多く徴収し、自分の懐に入れた時もあったのです。

 更に、ザアカイは「背が低かった」。背が低いことにコンプレックスを感じていました。誰にもコンプレックスがあります。自分と人とを比べては劣等感を持ちます。私が聖書の中で、最初に親近感を持ったのは、ザアカイでした。ザアカイは背が低かったからです。子ども時代、背が低いことに相当悩みました。もう少し背が高かったら、自分の人生は変わったのではないかとも思いました。劣等感を抱くと、心が頑なになって行きます。柔らかな心で周りの意見が受け入れられなくなります。自分の内へ内へと向かって行き、閉じこもってしまいます。

 ザアカイが改めて背が低いというコンプレックスを感じたのは、主イエスがエリコの町にやって来た時です。主イエスとお会いしようとした時です。主イエスの周りには幾重にも人垣が出来ていました。ザアカイも主イエスを見たいと思いましたが、背が低いので見えませんでした。誰一人として、「ザアカイ、前に行きなさい」と譲ってくれる人はいませんでした。しかし、ザアカイは諦めませんでした。この機会を逃したら、主イエスにお会い出来ないと思った。何としてでも主イエスを見たいと思った。そこでどうしたのでしょうか。いちじく桑の木に登りました。背の低いザアカイは子どもの頃から小回りが利き、木登りが得意であったのかもしれません。いちじく桑の木はいちじくの木とは異なります。高さ10~13メートル、枝も40メートル広がる大木です。私が30年前、エリコの町に行った時、街道沿いにザアカイが登ったと言われるいちじく桑の木がありました。大木でした。あの木にザアカイが登って、主イエスを見ようとしたのだと思い、想像しました。税務署長が木に登る。これは滑稽なことですが、しかしそれだけ、ザアカイが主イエスに会いたかったという現れてもあります。

 

②東京の井草教会の牧師であった小塩力牧師が、待降節にザアカイ物語を説教しています。素敵な説教です。

 主イエスは今日も、私どもに向かって、同じように呼びかけておられる。「急ぎ降りよ、今日汝の家に宿るべし」。しかし、私どもには余りにも突然のことで、主イエスを迎える準備がない。神の御前で暴露される、人間性のオッチョコチョイ、軽率性、無準備が、ザアカイの性格や状況に即して顕わになった。この荒廃したわが魂に、このすすけた心に、この浅ましくも鋭くなった精魂に、救いはいかにして臨むのであるか。心構えが完了してからというならば、百年河清(かせい)を待つに等しい。低い背が長身に、不義に満ちた過去がザアカイの名の通り、義しい人、清純になってからというならば、それは全くの不可能な事態を強いることになろう。主イエスの来臨に触れる時、世界はいつでも、このようなオッチョコチョさ、無準備、取り乱しを露呈しつつ、喜びに溢れて主イエスを迎えるのであろう。

 ザアカイが木に登ったり、木から急いで降りて来たのは、ザカイアのオッチョコチョさが現れたというのです。このような捉え方はとても面白いですね。それは私どもにもあるオッチョコチョさだというのです。「急ぎ降りよ、今日汝の家に宿るべし」。主イエスの突然の訪問に全く準備のない私どもの軽率さが現れたのだというのです。私どもも普段の生活で、突然訪問客が訪れたら、慌てます。部屋は散らかっている。掃除が出来ていない。そのような部屋に訪問客をお連れするわけにはいかない。少し待って下さい。今から片づけます、掃除をしますからと言うでしょう。

 しかし、主イエスの訪問は、私どもの心の部屋を掃除してから、きれいにしてからと言って、待ってもらったら、一生出来ないのです。救い主イエスの到来は、私どもの人生の苦しい時、悲しい時に、僅かばかりよぎればよい存在ではありません。私どもの方で準備がなくても、掃除が出来ていなくても、今日、主イエスが私どもを訪れて、宿って下さる存在なのです。

 

3.①「ザカアイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 主イエスのこの言葉はとても強い思いが込められた言葉です。

「今日は、あなたの家に泊まらなければならない」。あなたの家に泊まることを決めている。あなたの家に泊まることを、神が予約しているという意味です。

クリスマスの知らせを真っ先に羊飼いに伝えた天使の言葉と響き合っています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。

ルカ福音書は、クリスマスの出来事をこのひと言で言い表しました。「救い主は飼い葉桶に宿った」。飼い葉桶とは将に、私どもの罪にまみれた心の部屋です。しかし、その飼い葉桶に、私どもの家に、救い主イエスが宿って下さったのです。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まらなければならない」。神の御計画に促されて、ザアカイは急いで木から降りて来て、喜んで主イエスを迎えました。まさかよりによって、この私の家に主イエスがお泊まりになられるなんて。驚きと喜びが爆発した。それが急いで木から降りてきて、主イエスを迎え入れたという動作を生み出したのです。

 何故、主イエスはザアカイの家に泊まらねばならないと語られたのでしょうか。主イエスはこのような言葉を語られています。

「この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。

 ザアカイもユダヤ人として、信仰の父アブラハムの子です。言い換えれば、アブラハムを召し出した神の懐に生きる存在であった。ところが、ザアカイは神の懐から迷い出た羊、失われた一匹の羊であった。神の懐を見失って、放っておいたら、滅んでしまう。死んでしまう。その失われた一匹の羊ザアカイを捜して救うために、人の子である救い主イエスは来て下さったのです。ザアカイの家を訪ねて、宿って下さったのです。

 

②しかし、主イエスのザアカイの訪問の出来事を、町の人々は喜べなかった。喜びを共有出来なかった。むしろ、皆つぶやいて、不平をもらしたのです。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。

 町の人々はザアカイを罪人と呼んでいます。罪人とは神の救いから遠い存在、神の救いに与れない者です。自分たちこそ主イエスの訪問を受け、宿っていただくにふさわしい義人である。神の救いに与って当然な存在である。にもかかわらず、主イエスはよりによって罪人の家に宿られた。これはおかしいとつぶやき、不平を言った。しかし、彼らもまた、神の救いから遠くにいる罪人であった。主イエスから、「今日、あなたの家に泊まらねばならない。あなたも失われた存在だから」と語りかけてもらわなければならない存在だったのです。

 ザアカイがいたエリコはエルサレムの入口にあります。主イエスはエルサレムに近づいた時、こういう言葉を語られました。13章33節。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。ここにも「自分の道を進まねばならない」という神の御計画を語る強い言葉が語られています。「自分の道」とは十字架の道です。飼い葉桶に宿られた主イエスは、十字架の道を進まれる救い主です。今日も明日も、その次の日も、わたしは十字架の道を進まねばならない。それが神の御決意であるからです。何故、主イエスは今日も昨日も、その次の日も、十字架の道を進まねばならないのでしょうか。自分のいのちを犠牲にしてまで、人の子は失われた者を捜して救うために来たからです。

 

4.①主イエスがザアカイの家を訪れ、宿って下さった。ザアカイは立ち上がって悔い改めます。主イエスに向かって、「主よ」と呼んでいます。町の人々は「あの人」と呼んでいました。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。

 悔い改める。それは主によって方向転換してもらうということです。今まではお金を自分の手に握ることを喜びとしていたザアカイは、お金を貧しい人、だまし取っていた人に献げる喜びに生きると、主に向かって悔い改めています。

黒柳徹子さんが『窓ぎわのトットちゃん』の続編を、42年ぶりに書かれました。思い立った理由は、ウクライナ、ガザで戦争の悲劇が起こり、自らの戦争経験を書き留める必要に迫られたからです。トットちゃんの両親は東京の洗足教会の教会員でした。トットちゃんも子どもの頃から教会学校に通い、クリスマスページェントの想い出を綴っています。時代は戦争へと向かって行きます。父は出征します。そして東京大空襲に遭遇し、その数日後、母と4歳の弟と1歳にならない妹の4人で青森の八戸へ疎開します。見ず知らずのりんご農家の納屋を借り、そこで生活を始めます。

 厳しいその日暮らしの生活が始まります。子育てをしながら、野菜を作り、りんご栽培の手伝いをし、そこで収穫した野菜と魚を八戸港に行き、魚と替える。東京から買い出しに来た人が、帰りの電車までにお米を炊いてほしいということで炊いて上げ、そこにおかずを付けて定食を始めたりする。厳しい生活の日々にあって、皆でやりくりし、手にある僅かな物を分かち合いながら、生きて行く。厳しいその日暮らしでありながら、トットちゃんのお母さんは、明るく前向きで、切羽詰まっても、悲壮感漂うのではなく、主が必ず備えて下さるという主から与えられるゆとりとも言うべきものに生きています。この御言葉を生きています。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。イエスの死をいつも身に纏っているから。土の器の中に、イエスの命が宿っているからです」。

 伝道者パウロは飼い葉桶を土の器と言い換えています。土の器の中に、主イエスの命が宿り、私を生かして下さる。そこから生まれるゆとりです。

 

②ザアカイの家を訪ね、宿った主イエスは、ザアカイに語られました。

「今日、救いがこの家を訪れた」。「今日、救いがこの家に来た」。「今日、救いがこの家で出来事となった」。

 何故、主イエスは、「今日、救いがこの人を訪れた」と言わないで、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのでしょうか。もしかしたら、ザアカイには家族がいたかもしれません。妻がいた。子どもがいた。あるいは父、母がいたかもしれません。主イエスと一緒に食事をしたことでしょう。主イエスがザアカイを訪ねたことは、ザアカイの家族を訪れたことです。ザアカイにもたらされた救いは、家族にももたらされた救いの出来事です。

 「ザアカイ物語」を記しているのは、ルカ福音書だけです。この福音書を記したルカは、伝道者パウロと2度伝道旅行をしています。伝道旅行をしている時に、ルカはパウロ先生に、「ザアカイ物語」を話したことでしょう。パウロ先生はザアカイと自分自身とを重ね合わせながら聴いていたかもしれません。ルカは主イエスの伝道物語である福音書を書いた後、教会の伝道物語である使徒言行録を記しました。そこで強調したことがあります。主イエスの救いは個人の救いに止まらない。家の救い、家族の救いをもたらすことです。

 伝道に行き詰まったパウロは、マケドニア人ルカに懇願され、初めてエーゲ海を渡り、ヨーロッパ大陸に足を踏み入れました。最初の町はフィリピでした。使徒言行録16章11節以下にフィリピ伝道が記されています。しかし、パウロとシラスは牢屋に入れられてしまいます。真夜中、暗闇の中で、しかし、讃美歌を歌い続けた。その讃美歌の歌声が看守の心に響いた。その時、地震が起こった。看守は囚人たちが逃げ出したと思い、剣を抜いて自殺しようとした。その時、パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わあたしたちはここにいる」。看守は尋ねた。「先生方、救われるためにはどうすればよいでしょうか」。二人は答えた。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。この問答は後に、教会と洗礼志願者との信仰問答となりました。

 パウロとシラスは、真夜中であったが、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語りました。看守と家族全員が洗礼を受けた。そして看守はパウロとシラスを家に招き、食事を共にした。神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。将に、「今日、救いがこの家を訪れた」のです。

 クリスマスは主イエスが私どもを訪ねて来て下さった出来事です。死の訪問を受け、涙を流している家にも、死に打ち勝ついのちが訪れたのです。今、家族の救いを望みながら、一人で主の御前に立っている私どもであることも、家に家族を残して来たことも、主イエスは知っておられます。私を目指して来られた主イエスは、私どもの家族にも救いをもたらすために来て下さったのです。「今日、救いがあなたの家に訪れた」と語りかけて下さるのです。

 お祈りいたします。

「主イエスは来て下さいました。失われた私を目指して。急いで降りて来なさい。今日、あなたの家に泊まらなければならないと、語りかけて下さるのです。主イエスを迎えるにふさわしくない家です。乱雑で掃除されていない罪にまみれた家です。しかし、今日、救いがこの家を訪れたと、私どもの家に宿って下さったのです。どうか私どもの家族にも宿って下さい。私どもの友人のあの家にも宿って下さい。悲しみの中でも、主が宿る家として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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