「何ものも神と私たちの愛を引き裂けない」
詩篇44章23~27節、ローマの信徒への手紙8章31~39節
主日礼拝
矢澤美佐子
2025年1月26日
皆さんは、部屋の明かりをつけたままでなくては眠れない夜、というのがあったのではないでしょうか。
昨年の1月1日に能登半島地震が起こり、金沢も強い揺れを感じ、窓ガラスが激しい音を立て、ビルが左右に大きく揺れていました。その時の恐怖を今も鮮明に思い出します。その後も気づけば、明かりをつけっぱなしで朝を迎えた日もあったのではないでしょうか。
私が被災地で出会った人々は、「恐ろしいほどの不気味な地鳴りが、今も耳から離れない」とおっしゃいます。私たちは、被災地のために祈りつづけて参りました。輪島教会の解体工事が進み、今は基礎を残して、ほぼ更地に近い状態になりました。その中でひときわ目を引くのは、屋根にあった十字架です。その十字架は、大切に保存されています。会堂のすぐ隣の洋服店も解体され、大通りからは輪島教会の仮礼拝所が、はっきりと見えるようになり、町の人たちの希望の光となっています。
私は毎月、金沢教会の皆さんの祈りと愛を被災地に運んでおります。富来伝道所で御言葉を語る時も、輪島教会で新藤牧師や被災地の方と祈りを合わる時も、いつも金沢教会の皆さんの祈りと願いも一緒に運び、大切に祈っています。被災地の教会と私たち金沢教会は、まるで一人の人のようになって、キリストと繋がっているのです。一つの所が痛むと、身体全体が痛むように、私たちもその痛みを共に感じ、祈りの手を下げることはありませんでした。
被災地までの道は、今も多くの場所で道路がひび割れ、家屋が崩れたままです。1階部分が押しつぶされ、壊れた車があちこちにあり、震災の恐ろしさが今もなお色濃く残っています。電柱や信号機は大きく傾いたまま、かろうじて使われているのを見ると、まるで時間が止まったかのような静けさを感じます。
私の小さな車は、うねる道路を上下左右に大きく揺れながら進みます。すぐそばに迫る海は、激しい水しぶきをあげ、ガタガタ揺れる小さな車は、今にも海に飛び込んでしまいそうです。目の前に広がる海を見ていると、その場に立ちすくんでいるような気がしてきます。
海に向かって数名の方が、こうべを垂れて祈るように遠くを見つめておられる姿を、何度も目にしました。愛する人を、親しい友を亡くされたことが分かります。
良い時だけでなく、間違った時も一緒にいてくれた人。辛い時に、逃げ場になってくれただけでなく、乗り越える力もあると勇気づけてくれた人。愛する人、親しい友を奪った場所、もう二度と見たくない、近寄りたくないという気持ちを抱えながら、その場所へ何度も足を運び、手を合わせ祈っている姿。
過去の震災でも、同様の光景がいたるところで見られました。
「亡くなった愛する人、親しかった友が、安らかに神様のもとで眠り、守られますように」そう祈っているのかもしれません。しかし、それだけでしょうか。それだけなら、わざわざ辛い場所へ行く必要はないように思います。私たちは、何故、愛する人を、親しかった友を失った場所へ、苦しみが増すと分かっていながら、そこへ行ってしまうのでしょうか。最後の別れとなった場所へ、愛する人と語り合った思い出の場所へ行きたくなる。多くの方が、経験する感情です。
もう一度だけでも会いたい。会いたい。残された私たちの心は、どこまでも、亡くなった愛する人を求めて、理性とは無関係にあてどもなく、世界の果て、宇宙の果てまでも探し回りたくなるのです。愛しい声を、姿を、ぎりぎりのところまで探し求め、見つからない悔しさを私たちは経験しています。会いたい。その果てに、あの場所へ行けば、もしかして会えるかもしれない、そこにいるかもしれない。そして、その場所へ行ってしまうのではないでしょうか。
私たちにとって、大切な人の存在は、この世の次元を超えた重みがあります。1+1が2と決まっていても、大切な人と自分が力を合わせれば、嬉しさの中で、1+1が2以上に、或いは、無限の力や、愛、癒しになっていくのです。そのため、もし大切な人が自分から去ってしまえば、2―1が1ではなく、0、更には無限の悲しみに沈みこんでしまうのです。神様がお与えくださった人との出会い。それは、この世の数字や理性で片付けられない次元を超えた重みを持っています。それが、神様から与えられている「出会い」です。
そして、私たちは、人間の限界を超えたお方、神様が必要なんだ、励ましてくれる友が必要なんだ、ということを痛いほど知らされるのです。良い時だけでなく、間違った時も一緒にいてくれた人。辛い時に、逃げ場になってくれただけでなく、乗り越える力もある、と言ってくれた人。そういう人を亡くし、理性とは無関係に、あてどもなく、世界の果て、宇宙の果てまでも、ぎりぎりのところまで探し求めている私たちを、神様はどこまでも、どこまでも追いかけていて下さるのです。明かりを付けたままでなければ眠れない夜も、神様は、そばにいて、眠らずに守り続けてくださっているのです。
救いを求めて、あてどもなく探す時、その心の痛みを抱えながら、どうぞ教会にいらしてください。ここに慰めがあります。救いがあります。神様がおられます。素晴らしい出会いが教会にあります。
富来伝道所を紹介するホームページに、心打たれた一文がありました。
「2007年の能登半島地震の折に寄せられた復興の祈りと、ご支援によって再建された富来伝道所の会堂が広く豊かに用いられることを祈り、願ってきました。そして、今回の震度6強を観測した地震で、富来伝道所が、破損やダメージを受けつつも、建物は耐え抜くことができました。そして、それは、前回2007年の地震で多くの方々からの支援によって再建された会堂だったからです。今の会堂が、今度は苦しむ人々を助けるための礼拝のために、そして、復興拠点に、慰めの場所に用いられていること、まさに、ここに神様の救いの御業が働いていると告げています」
暗闇の中で光は、より一層まぶしく輝いています。
生きていると試練を経験します。金沢教会の祈祷会での証しを通して、皆様の試練がどんなに大きく辛いものだったか、ということを知りいつも胸が熱くなります。
私たちは生きています。そして、生きていると闇を知るのです。その時、私たちは、本当に光と出会うのです。健康を奪われ、愛する人を奪われ、親しい友を奪われ、命を掛けて来た仕事を奪われ、生きがいを奪われ、そうして初めて、私たちは、それらが持っていた存在の重み、まぶしい光を知ります。光の中にだけあった頃、私たちは、その恩恵を全身に浴びながら、真実の意味を理解していなかったということを経験します。試練の暗闇を経験して、主イエス・キリストはより一層まぶしく輝き、信仰の友の存在の重みは増していきます。
私たちは、誰かに助けてもらわないと生きてはいけない。試練を通して知ってきました。そして、同じように誰かも、この私を、あなたを必要としているのです。あなたが来てくれるのを待っている。そういう人が必ずいます。そんな人はいないと感じている時も、あなたを待っている人は必ずいるのです。
私たちのかたわらには、目には見えないけれど、存在している主イエス・キリストがおられます。主イエスが、教会が、あなたを必要としています。主イエスも、信仰の友も、教会も、あなたが来てくれるのを待っています。あなたが必要なんです。
教会の祈る姿を見た金沢教会の青年が、このようなことを話してくれました。
「祈り合い、助け合う人たちの姿を見て、私も苦しんでいる人を助けるために、医療系の大学へ進むことが、神様からの使命だと感じています。神様に応えて行きたい」。
これからも震災大国の日本は、いくつもの困難を乗り超えて行かなくてはなりません。けれど、きっと光の中で、教会は進み続けると私は希望を持っています。
なぜなら、試練の中で闇を知り、心に痛みを感じたことのある人々が未来を作っていくからです。
祈り合い、助け合う大人たちを見ながら成長した子供たちが、神様を信じ、未来の教会を作っていくのです。
必ず、人の苦しみに深く心を痛め、行動し、愛を行う素敵なキリスト者へと、神様が、成長させてくださるのだと信じています。
私たちは闇を知ったのです。そして、本当の光、イエス・キリストに出会っているのです。主と共になら、教会の友となら、まだ見えない明日でも、希望は輝いてくるのです。
私たちは生きていると、受け入れがたい試練に直面します。そして、拒んできた言葉もあります。自分の生き方や考え方とは違う。しかし、拒んでいた言葉が、緊張を破って、私たちの命の深みを叩くようにして、私たちを生かしていくことが起こります。「こんなことがあっては困る」、「こんなことがあっては困る」けれど、そのようなことが起こるのです。
大きな病院にお勤めのキリスト者の女性医師と出会い、素敵な話しを聞きました。
今まで、この方は、仕事に全力投球をしてきました。「誰より優れた医者になりたい」「上司や教授に認められたい」その思いが彼女を支え、勉強にも手を抜かず「出世街道」を駆け上がっていました。そして、成果をあげ表彰される度に、彼女のデスクには豪華な花が届けられました。その花々を見ながら、彼女は「もっと実績を上げ、次は、世界の美しく豪華な花々を巡る旅をしよう」
しかし、親しい友人から言われた言葉に少し驚きます。「本当に美しいものは、すぐ近くにあったりするものよ。仕事の帰りに見つけた、小さな花とか」 その言葉に、一瞬ためらいます。けれど「何を言っているの。今度、旅行へ行く時、一緒に連れて行ってあげるから」
友人の言葉をどこか遠くに置いたまま、その後も、立派な医師を目指して働き続けました。けれど、友人の言葉は、自分でも気づいていない胸の奥で、静かに響いていたのです。
その後も、彼女は、立派な医師を目指してひたすらに働きました。しかし、次第に上手くいかなくなり、苦しみが増していきます。「もしかすると、教授に嫌われているのかもしれない。このままではいけない。何とかしなくては」そのような不安に押し潰されそうになり、彼女の心は、疲れ果てていきました。
ある日のこと、病院の窓から冷たい風が吹き込み、ふと、小さな花の香りが漂ってきたように感じたのです。その瞬間、目を閉じました。しかし、その香りを否定するように、目を開け「違う」と、心の中で言い聞かせたのです。
その後、彼女は一週間だけ、被災地の病院に派遣されることになりました。少しの間なら、とそこに向かうことにしたのです。被災地での現実は、想像以上に厳しいものでした。充分な医療器具も、設備もない場所で、彼女は、自分の無力さを痛感します。これまで順調に実績を上げてこられたのは、実力ではなく、整った設備があったから。これまで簡単だと思っていた治療も、ここでは手に負えず、自分の技術の限界を感じる日々でした。
それでも、彼女は必死に治療を続けました。すると、被災地の人々は、どんなに小さなことにも感謝してくれるのです。彼女ができる限りの治療を施すと、ただそれだけで人々は笑顔になり、心から感謝の言葉をくれたのです。彼女は気づきます。ここでは、充分な設備がなくても、お互いを支え合い、感謝の気持ちを忘れずに生きている。彼女は、深く心を動かされます。
表彰された実績や、豪華な花々、華やかな街を旅しても、ここで見た景色、ここで交わした心のぬくもりは、けっして比べ物にならない、本当の美しさがある。傾いた家の中で、祈る人々。ひび割れた道路の隙間から、優しく咲く、小さな花。「ここが、こんなにも美しくては困る」そう思ったのです。
拒んでいた言葉が、私たちの緊張を破って、私たちの命の奥深くを叩くのです。
そして気づけば、試練の中で、その言葉によって助けられているということに気がつきます。
「こんなことがあっては困る」「こんなことがあっては困る」
これこそが、神様から与えられる、人生最大の恵みです。神様の御言葉に打ち負かされる、屈服させられる、神様の御言葉に従って行く。それは、ただいたずらに苦しいだけのことではありません。世界が、今までと違って美しく見えてくるのです。
「今日もあなたに会えた。それだけで安心です」そんな言葉をかけられ、その医師は、涙が止まらなくなり、全身で応えたくなったのです。こんなにも温かく、優しい世界が広がっているなんて。予定していた一週間を過ぎ、しばらくその地で働き続けることになります。そこには、彼女が、今まで見たことのない美しさがあったからです。
その後、彼女はこう話していました。
「医者として表彰されたこともあったけれど、それは勘違いでした。すべては、神様から与えられたものにすぎませんでした。私は、人を救うつもりでいましたが、それは自分の力ではなく、神様がくださった力を使っていただけでした。これから、もとの病院へ帰っても、当たり前のことに感謝し、『ありがとう』と言い合える場所にしたい。その先に、どれほど美しい世界が広がっていくかを信じていきたい」。そう語られました。
彼女は今も、素晴らしい医師として働かれています。
パウロは、主イエス・キリストを激しく拒んだ人でした。
主の御言葉を拒み、自分の考えと合わない者を、片っ端から捉え獄に入れたのです。自分が変わるのではなく、神の方を消しさりたい。そう思ったのです。
聖書には、主イエスが、十字架に付けられる場面が描かれています。
これまでの自分の生き方を変えなければならないようなことを、主イエスは語り、新しい愛の生き方を行っていました。今までの自分の生き方が否定されてしまう。人々にとって、主イエスは、目障りな存在になっていたのです。ですから、人々、つまり、私たちは、主イエス、主の御言葉を目の前から消してしまいたい、殺してしまいたい、そう思うのです。
人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。そして、群集は、自分たちの生き方に乗り込んでくる主イエス・キリスト、神の御言葉を振り払い、投げ捨てるようにして、激しく主イエスを鞭打ちったのです。
主イエスの衣は、はぎ取られ、兵士はムチで主イエスの身体を激しく打ちました。ムチは、うなり、何度も何度も、主イエスの身体を刺し、身体に火がついたように痛みが激しく走ります。
ついに、十字架の上で、主は、両腕を、右と左にのばされ、手のひらに、勢いよく冷たい釘が打ち付けられます。さらに、ひざを曲げられ、足首に3本目の大釘が打ちつけられます。
弟子たちの中には、この主イエスについて行けば、自分の名があがめられる、力を得ると理想を描いた弟子もいました。しかし、今、主イエスは、十字架にかけられ、死んでいこうとされているのです。自分たちの望みと違う。主の愛の言葉は蔑まれ、主の力強い言葉もみすぼらしく投げ捨てられ、殺され、死んでいこうとされている。思い描いていた救い主と違う。弟子たちは一斉に逃げたのです。
そうやって私たちは、主イエスを捨てるのです。しかし、私たちが「こんなもの違う」と拒んで捨てたもの、拒んで捨てた主の御言葉を、神様は、「これこそ全ての人を救う、神の御言葉、イエス・キリスト」とおっしゃるのです。そして、殺してみたら、神の子だった。目の前が真っ白になります。
聖書は、こういう罪の残酷さ、恐ろしさを私たちが持っているということをはっきりと見ています。けれど、聖書は、私たちの罪を暴き出すだけではありません。むしろ、その中で、私たち自身も傷つき、苦しんでいることも知っているのです。私たち自身をも傷つける罪の残酷さ、恐ろしさを打ち負かす、本当に力のある救いを、平安を、主イエスは、私たちに与えようとして下さっています。
主イエスは、ただ理想を語り、慰めを平安を説くだけのものではありません。そうではありません。私たちの争い、嫉み、復讐のまっただ中に平安を作り出そうとして、主イエス自らが、罪の現実の中に命を捨て、私たちを救うために来られたのです。
絵空事ではありません。神の御子が肉をとって来て下さったのです。そして、私たちのこの罪は、神の御子が私たちの代わりに罪を負わなければ解決しない。それほど根が深いのです。
私たち自身も、人から、ののしられ苦しめられる存在として傷ついています。
まず必要なのは、このあざけりを共に受けて下さる主イエスが、今、十字架の上におられるということです。
私たちは、自分一人だけが、あざけられるというのは耐えられない苦しみです。けれど、私たちが理不尽にののしられ、苦しんでいる時、主イエスが、その苦しみの中に、共にいてくださっている。同じ苦しみを味わってくださっている。私たちを最後まで愛し通してくださる、救い主イエス・キリスト。これは、綺麗ごとでありません。残酷な罪の世界の中で、命を犠牲にしても、最後まで、とこしえに変わらない愛で、愛し抜いて下さるのです。
「主イエスよ、自分を救え。十字架から降りるがいい」とののしられます。
しかし、主イエスは、十字架から降りることをなさらない。主イエスは奇跡を行えない、十字架から降りることができない。そう思われたまま耐え忍ばれるのです。ここで降りれば、この世の支配者になれる。ここで見返せば、人々の上に立つことができる。しかし、主イエスは、十字架から降りるわけにはいかないのです。
「天の神よ、どうぞ、彼らをおゆるしください」主イエスは祈られました。
主イエスは、自分を拒み、殺そうとする人々の罪も負い、全ての人の罪を負って十字架についておられるからです。理不尽に苦しめられている人々を救うためにも、同じ理不尽をも味わっておられる。
全ての人の罪、全ての人の苦しみを負って十字架についておられるのです。
主イエスは、人々を見返すこともせず、この世の権威にひれ伏さず、ただ黙って全ての人のあらゆる罪を負われ、十字架の上に居続けてくださいました。まさに、十字架の上で、私たちにほとばしる激しい愛を示してくださったのです。「私ほど、あなたを愛する者は他にはいない」。命を捨てて、私たちを罪の滅びから、死の暗闇から、永遠の命へと救って下さる。
パウロは言います。39節「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。
パウロは、主イエスの御言葉を拒み続けたのです。主を信じる者を獄に入れ、命をも奪ったのです。しかしパウロは、主イエスの十字架のほとばしる激しい愛に打ち砕かれます。
パウロは今日の箇所で、詩編44編を引用し、主を信じられず拒む詩人を説得しています。
「詩人よ、あなたは、誰も助けてくれない。神は、自分を見捨てた。神は何故、沈黙しておられるのか。そう嘆くかもしれない。私もそうだった。けれど、違うんだ。違うんだ。あなたは、見捨てられているのではない。神は、沈黙しているのではない。私たちと、全く同じ苦しみを味わってくださっているんだ。私たちが苦しんでいる時、その隣で、全く同じ苦しみを負ってくださっているんだ」
さらに、クライマックスでこう語ります。
「死も命も、天使も支配する者も、現在のものも未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)
私たちが、この世で立派に生きたからではありません。何か素晴らしい成果を残したからでもありません。神の伝道、救いの御業の足をひっぱっているような私たちです。そうであっても、とこしえに変わらない愛で、私たちを、どこまでも愛し抜いて下さるのです。
私たちは、赦され、神の国に入れられ、救われるのは、主イエスが命を捧げてくださった、この愛のゆえです。私たち一人一人が、神の愛する子だからです。
神の愛は、死をも超えるのです。
東京神学大学の左近淑学長が、在任中に59歳で急逝された時、すぐそばで共に働いておられた大住雄一先生は、その時のことをこのように説教されました。
「左近淑学長が亡くなられた時、多くのことが未完のまま残されました。その未完のものを引き受け、背負わなければならないという責任が、私の前に立ちはだかりました。これによって私が牧している教会もまた、大きな忍耐が必要となり、困難を共に歩まなければなりませんでした。その中で、私は、『神様の御心はどこにあるのだろうか』と問わずにはおれませんでした。
けれども、ある時、『神様の御心は、この出来事の中にもある』と気づかされていきました。
私たちは、納得できないことも多くあります。しかし、その納得できない現実の中でも、神様の御心に屈服させられるようにして分かっていくこともあります。確かに、すべてを理解することはできません。
しかし、死が、神様の御手にあり、死を打ち破って下さっているのであれば、死によって全うできなかったように見える仕事も、神様の御手の中では、決して中断していないのです。決して中断していない。神様の御手の中で、全てが途切れることなく続いており、私たちの理解を超えた、大きな実りが、神のもとにはある、と信じることができるのです」。
そのように説教された大住先生ご自身も、任期途中でこの世を去られました。
この説教は、まさにご自身に向けられたものであり、また今、生きている私たち、すべてのキリスト者への力強い励ましの遺言説教となりました。
私たち金沢教会でも、すでに亡くなった先達と共に、キリストの身体に一つに繋がっています。
生きている者も、死んだ者も、キリストにあって「まるで一人の人のようになって」共に伝道を続けています。
神の御業は、生も、死も、超えていきます。
私たちの目には中断したように見えることも、神様の御手の中でそれは決して中断することはなく、必ず全うされるのです。
「たとえ死であっても、神と私たちの間を引き裂くことはできない」
これは、私たちにとって大きな希望です。私たちは今、復活の命、希望の光の中に立っています。
たとえ私たちが、死を迎えることがあったとしても、その死が、神様と私たちの間を引き裂くことは決してありません。
なぜなら、神様の愛は、死をも超えるからです。