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「傷ついた葦を折ることなく」

イザヤ書 42章1~9節
マタイによる福音書 12章9~21節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年8月23日

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2026.8.23. 「傷ついた葦を折ることなく」

      イザヤ書42:1~9,マタイ12:9~21


1.①金沢教会は今年、教会創立145周年を迎えました。アメリカの北長老教会から遣わされたトマス・ウィン宣教師、イライザ夫人により、この北陸の地に、福音の種が蒔かれました。ウィン宣教師夫妻の北陸伝道への祈りと志が実を結んだのが、この金沢教会の建設でありました。145年間、この教会で、主の日の礼拝が欠かすことなく捧げられて来ました。それは言い換えれば、主イエス・キリストを信じる受洗者が途絶えることなく与えられて来たことです。神の御業が途絶えることなく、生きて働かれ続けて来たことです。ウィン宣教師が北陸金沢の地に足を踏み入れられたのは、29歳の時です。19年間、北陸伝道のために献身的に伝道されました。北陸の地に、幾つも教会が誕生しました。その後、大阪で伝道され、更に満州に渡り、大連で伝道されました。高齢になり隠退され、祖国に戻られました。しかし、ウィン宣教師の伝道の幻は、北陸伝道にありました。78歳の時、再び来日され、北陸金沢に来られました。ウィン宣教師の最後の礼拝、説教となりましたのは、1931年(昭和6年)2月8日の吹雪の寒い主の日の朝でした。説教前に倒れ、そのまま息を引き取られました。ウィン宣教師の手に握られていた説教原稿に、こう記されてありました。

「なにゆえ、私がこの朝この説教をいたすか、それは私はこの説教を聴いて誰でもイエスを信じ、限りなき生命を受けなさるお方があるならば、どんなにか嬉しかろうと思うからである。私はここにイエスを救い主と信じなさるお方があると信ずる。そのお方にお勧めする。あなた方の今なすべきことはイエスにあなた御自身を捧げ、そして主に救いを祈ることである。主御自身が語られたお言葉の中に『我に従う者は、生命の光を得べし』ということがある。この光を受けた人の心は照らされる。そして限りなき生命に入るのである。

 信じている人はこの肉眼で美しい景色を見るように、心眼で限りなき生命を見ることができる。『生命の光を得べし』とあるが、あなた方はこの生命の光を有しておられるかどうか。何とぞ、ヨハネの言葉をお受け下さい。そして主イエスをお信じなさい。これは私の衷心からの願いである」。

 ウィン宣教師の北陸伝道への祈りと志が、ここにあります。私ども金沢教会は145年間、ウィン宣教師のこの祈りと志を忘れることなく、受け継ぎ、北陸の地で伝道して来ました。

 本日の主の日の礼拝で、ウィン宣教師、イライザ夫人の祈りによって生まれた北陸学院の高校生が洗礼を受けられました。神がここに生きておられることを実感しました。

 本日の主の日の礼拝に、ウィン宣教師の玄孫(やしゃご)が出席されています。玄孫とはウィン宣教師の何代目に当たるのでしょうか。ひ孫の子に当たります。ウィン宣教師の日本伝道のルーツであるこの金沢教会で、礼拝を共に捧げられること、とても嬉しく思います。そして今、私どもは主の御前で、ウィン宣教師夫妻の伝道のスピリットを新たにし、受け継ぎ、北陸伝道に献身したいと心から願っています。

 

この朝、私どもが聴いた御言葉は、安息日、会堂で行われた礼拝で起こった出来事です。主イエスはいつものように、安息日、礼拝を捧げるために、会堂に入られました。そこに片手の萎えた人がいました。恐らく、石工であったのではないかと言われています。石工にとって手は、いのちの手です。石を刻み、石を積み重ね、家を建てる。家族の団らんとなる家を建てる。石工の手はいのちの交わりを創造します。また自らにとっても家族を養う大切な手です。しかし、脳梗塞により、利き腕の手が麻痺してしまう。石工にとって、自らの生きがいと仕事を失う致命傷となりました。心も体も傷を負い、安息日、主の御前に立ち、礼拝を捧げていました。

 主の日の朝、私ども一人一人が様々な思いを抱えながら、主の御前に立ち、礼拝を捧げています。心に傷を負っている方、体に痛みを抱えた方がいます。しかし、主は疲れた者、重荷を負った者は皆、私の許に来なさい、と招いて下さったのです。私どもは心にも体にも傷を抱えたまま、痛みを抱えたまま、主の御前に立ち、礼拝を捧げているのです。

 ところが、片手の萎えた人を、主イエスを訴える道具に使おうとする人々がいました。ファリサイ派の人々、律法学者です。しかも信仰の指導者が、神を礼拝しつつ、礼拝の中で考えたことでした。片手の萎えた人の痛みを共感しようともしない。主イエスを貶めることしか考えない。恐ろしいことです。

 金沢教会のこの会堂は、24年前に献堂されました。説教壇、聖餐卓、洗礼盤を囲む集中方式の礼拝堂です。以前は、説教者と会衆とが対面する講義形式の礼拝堂でした。集中方式の礼拝堂の良さは、神を礼拝しつつ、共に礼拝を捧げている方々の顔を見ることが出来る点です。自分のためだけに礼拝をしているのではなく、傷や痛み、悲しみを抱えた方々のことを心に留めながら、神を礼拝することが出来るからです。礼拝が共同体の礼拝であることが明らかになることです。

 

2.①主を礼拝している片手の萎えた人を、主イエスを訴える道具として用いようとした律法学者たちは、主イエスに問いかけました。

「安息日に人を癒すのは、許されていますか」。

この「許される」という言葉は、神の義しさに適っているという意味です。安息日は神を礼拝することに集中する日です。労働することから解き放たれる日です。人を癒すことも労働と見なされていました。律法学者たちは主イエスに尋ねました。「今、あなたの目の前には、片手の萎えた人がいますね。この人を安息日に癒すことは、神に義しさに適っていますか」。

それに対し、主イエスは答えられた。

「あなたがたのうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちたら、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに優れた者ではないか。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。

「あなたがたのうち誰かが」。主イエスはそのように問いかけます。架空の話ではない。あなたがたのこと、あなたがたの問題なのだ、と問いかけられます。

「あなたがたのうち、誰かが羊を一匹持っていた。掛け替えのない一匹の羊です。家族同然に可愛がっていた一匹の羊です。その一匹の羊が安息日に穴に落ちた。今日は安息日だから労働してはいけない。助けることは出来ない。明日まで待ちなさいと言うだろうか。羊は穴の底から、メーメーと声を上げ、助けを求めている。明日まで待っていたら、狼が来て食べられてしまうかもしれない。愛する一匹の羊であるならば、安息日であっても、羊を穴から引き上げて助けるであろう。人間は羊よりも遙かに優れた者ではないか。片手が萎えて、痛み苦しみ、助けを求めている人を、安息日であっても癒すことは、神の義しさに適っているではないか」。

律法学者にとって、安息日の礼拝の中心に立つのは、律法の言葉です。しかし、主イエスにとって、安息日の礼拝の中心に立つのは、神の生ける御業です。痛み、苦しむ者を癒し、解き放ち、神を賛美する人間となることです。神は安息日だから休まれることはありません。神は安息日でも、人間の救いのために、生きて働かれる神なのです。神の生ける御業は中断することはないのです。

安息日の礼拝で、神は穴に落ち、自分の力では抜け出せず、助けを求めている一匹の羊を救うため、生きて働かれるのです。一匹の羊の痛み、苦しみを見逃さないのです。聴き逃さないのです。御手を伸ばして助け出して下さるのです。

律法学者の論理から言えば、こう言えるかもしれません。片手の萎えた人の痛み、苦しみは緊急のことではない。明日、安息日が終わってから癒しても、十分に間に合うではないか。しかし、心の傷、体の痛みは明日まで先延ばしにすることは出来ないのです。安息日であっても、今、ここで、癒されることを切望しているのです。

安息日の礼拝で起こる生ける神の御業は、一人の人間の人間回復が起こることです。様々な苦しみから解き放たれて、神を賛美する新しい人間創造が起こることです。今朝の礼拝でも、新しい人間創造、人間回復の出来事が起こりました。神の生ける御業が起こりました。それが高校生の洗礼の出来事であったのです。

主イエスは片手の萎えた人に語られました。「手を伸ばしなさい」。手を伸ばすと、他の手のように真っ直ぐになりました。

 

先週、夏期休暇を与えられまして、昨年に続き、長野県の富士見高原に行って来ました。そこに親友で、隠退した及川信牧師夫妻が住んでいるからです。富士見高原は20度台の涼しい高原です。及川牧師は中渋谷教会を牧会している時、脳梗塞で倒れました。もう牧師として立つことは難しいと思われた。しかし、本人のリハビリの努力と、妻の支えがあり、再び御言葉を語るまでに回復しました。将に、神の生ける奇跡の御業が起こりました。山梨教会で牧会している数年間、再び脳梗塞の発作が起こり、牧師を隠退されました。これまで、何冊も説教集を出版されました。水曜日の聖書黙想・祈祷会で、今、創世記の黙想をしていますが、必ず及川牧師の説教集『天地創造物語』『アダムとエバ物語』『ノアとバベル物語』『アブラハム物語』を目を通します。今は、パソコンで文章を打つことも出来ないとのことです。妻の助けを借りないと、日常生活を送ることも出来ない。しかし、及川牧師が強調されたことがあります。

「不便であっても、不自由であっても、不幸ではない」。

体が麻痺し、自分の力で動けない。不便であっても、不自由であっても、不幸だと思ったことはない。神に生かされている幸いに生きている。今、一番の楽しみは、主の日、近くの富士見高原教会の礼拝に出席することだと言います。礼拝で、神の生ける御言葉、神の生けるいのちの霊を注がれて、信仰の仲間と共に、「アッバ、父よ」と、いのちの呼吸をしながら、神を賛美することが出来る。ああ、神に生かされているのだと実感出来る。それは何よりも幸いだし、喜びである。ここにも、主の日の礼拝で、生ける主イエス・キリストのいのちの御言葉といのちの霊を注がれ、神を賛美する新しい人間創造が起きている。人間回復の出来事が起きている。嬉しいことでした。

 

3.①安息日の礼拝が終わった後、律法学者たちは会堂を出て行く、どのようにして主イエスを殺そうかと相談しました。神を礼拝しながら、主イエスを殺すことを考えていた。これも恐ろしいことです。律法学者が考える義しさと、主イエスが語り、行う神の義しさとがぶつかり合ったからです。これは私どもにも起こることです。神を礼拝しながらも、神の義しさではなく、自分の義しさを貫こうとすることは、私どもにも起こることです。

 安息日の礼拝で、片手の萎えた人を癒され、神の義しさを示された主イエス。マタイ福音書は、預言者イザヤが語ったイザヤ書42章の御言葉が、主イエスにおいて実現したと捉えました。イザヤ書42章の御言葉は、「主の僕の歌」と呼ばれています。やがて現れる主の僕が、主から召しを受けた御言葉です。

「見よ、私の選んだ僕、私の心が喜びとする、私の愛する者を。この僕に私の霊を授け、彼は異邦人に公正を告げる」。

この「公正」という言葉も、神の義しさという意味です。神の義しさを告げるために、主に召され、主の霊を注がれた主の僕を、見よ。

「彼は争わず、叫ばず、その声を大通りで聞く者はいない。公正を勝利に導きまで」。

 再び「公正」という言葉が用いられています。神の義しさが人間の義しさに勝利をするために、主の僕は来られた。

「彼は傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる灯心の火を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置く」。

 ここに注目すべき言葉が語られます。主の僕の使命です。傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心の火を消すこともない。安息日の礼拝で、片手の萎えた人を癒した主イエスと、傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心の火を消すこともない主の僕の姿を、マタイ福音書は重ね合わせました。そして今、主イエスは主の日の礼拝において、私ども一人一人と向き合われるのです。傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心の火を消すことのないように、私どもを新しく生かして下さるために。

 

皆さんはブレース・パスカルという名前を数学の教科書で聞いたことがあると思います。17世紀のフランスの数学者、科学者、思想家、キリスト者です。パスカルの代表的な書物に、『パンセ』という本があります。「黙想録」という意味です。その本の中に、「人間は考える葦である」という言葉が綴られています。イザヤ書42章の御言葉から生まれました。

「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要は無い。ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙は人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が人間よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことはなにもしらない」。

 パスカルは様々な病を身に負い、心も体も傷を負い、痛みを負う日々でした。それ故、39歳で亡くなりました。パスカルは痛みの日々にあって、主に向かって叫んでいます。

「主よ、神よ、おお神よ、苦しいのです。耐えられぬのです。どうして、こんな痛みが与えられるのでしょう。おお、この呻き苦しんでいるわたしは、なんとあわれな者か。あなたをほかにして、わたしはだれに呼びかければよいのですか。だれに救いを求めればいいのですか。神以外のなにもわたしの期待をみたすことはできません」。

そして、十字架の主イエスに、こう呼びかけます。

「わたしの心をあなたのみ心と通じさせ、わたしの苦痛をあなたの苦痛と合わせてください。わたしの苦しみが、あなたの苦しみとなるようにしてください。あなたとひとつにしてください。もはや苦しむのはわたしではなく、わたしの中にあって、救い主なる神よ、あなたが息、あなたが苦しまれるということになるのです」。

 パスカルの死後、パスカルが身に着けていた服の裏地から縫い込まれていた一編の紙が出て来ました。そこにこう記されてありました。パスカルの回心と呼ばれている言葉です。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者や学者の神ではない。確実、確実、直感、よろこび、平安。よろこび、よろこび、よろこびの涙」。

 頭で理解する哲学者、学者の神ではなく、歴史を生きたアブラハム、イサク、ヤコブに現れ、語りかけた神が、今、私にも現れ、語りかけて下さった。安息日の礼拝で、片手の萎えた人と向き合われた主イエスは、私とも向き合って下さった。傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心の火を消すこともない。パスカルは主の日の礼拝で、生ける主イエス・キリストに直面し、回心へと導かれたのです。新しい人間回復を経験したのです。どのような苦しみの中にあっても、主を賛美する信仰に生きたのです。

預言者イザヤが語ったイザヤ書42章の「主の僕の歌」は、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」へと向かいます。私たちの背き、過ち、病、痛みを身代わりとなって負って下さり、屠り場に引かれて行く小羊のように、私どもに代わって死んで下さった苦難の僕。その打たれた傷によって、私どもは癒された。この苦難の僕こそ、十字架に身代わりとなってかけられた主イエスであったのです。

今、主の日の礼拝において、私どもは十字架にかかり、甦られた生ける主イエス・キリストと対面しているのです。生ける主イエス・キリストが私ども一人一人に語りかけるのです。

「わたしは傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心の火を消すこともない」。

 

お祈りいたします。

「今、あなたの御前に立つ私どもには、心にも体にも傷があり、痛みがあります。そのような私どもと向き合って下さる主よ、あなたが十字架で私どもの罪も、傷も、痛みも、病も負って下さったのですね。あなたが十字架で打たれた傷によって、私どもが癒されたのですね。傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心の火を消すことはないと語られました。どうような時も、主の生ける御手の中で、私どもを生かして下さい。主の名をほめたたえさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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